読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

押しつけられているところに自由はあるのか

 押しつけられたものはよいものではない。はたしてそう言えるのだろうか。他から押しつけられたものはすべからく否定するべきなのかな。そこは疑問の余地がありそうだ。押しつけられたものかどうかというのは経緯や過程の面であり、それとは別にして、中身がどうなのかがいちばん肝心なところだともいえる。

 押しつけられたから駄目で、押しつけられていないのがよい、とは必ずしもいえそうにない。いっけん、押しつけられたものには自由がなく、不自由なようにも思える。しかし、それは早合点している可能性がある。ようは、主体性の問題だともいえそうだからである。

 押しつけられたものであっても、それをあらためて主体的に選ぶことはできると思うのだ。そうすれば、それほど自由が侵害されることはなく、不自由におちいることもない。あまり運命とか宿命というのは好きなものではないんだけど、かりにそういうのが自分にのしかかってきたとしても、それを自分でうまく受け入れることができれば、それが自分の力量になるところはある。

 こう言ってしまうと、他に押しつけてしまうことをうかつに肯定するおそれがあるから、それはまずいかもしれない。他が押しつけてくる力をはねのけようとするのはまちがっているわけではないし、その権利はあってしかるべきである。嫌がらせにたいして、否の意思であるノーをはっきり言わなければ、相手が気づかないままでいることもある。

 もし、他から押しつけられることがすべからく悪いものであるとしてしまうと、一般化してしまうことになりはしないかという気がする。特に悪いものではないと肯定して見なしている人も、なかにはいるかもしれない。そういう人は、(押しつけられたものに)洗脳されたりそそのかされているだけだと見なすこともできるが、そう見てしまうと虚偽意識だといっていることになる。あまり生産的な見かただとはいえないだろう。

 たとえ他から何かを押しつけられているのだとしても、そのなかでうまく工夫して主体性を発揮せよ、といいたいわけではない。それだと、置かれた場所で咲きなさい、といったふうになるし、そういう意見は個人的にはあまり好きではない。いま自分がおかれている外部の環境にはたらきかけたり、自分が別のところに動いて移ったりするほうがよい場合も少なくない。

 他から押しつけられたものを、何とかしてはねのけようとする意思をもつ。それと同じように、他から何かを押しつけられているとして、それがただたんに受動的にそのもとにある人にはたらくとは必ずしもかぎらないという気がするのである。気の持ちようということもあるし、好みというのもある。主観的な満足度や効用がちがうせいだろう。

 だから、他から何かを押しつけられていたとしても、そこに自由がないとはすぐには言い切れない。人によるところがある。こうして問題を相対化してしまうと、反発を食うかもしれない。まちがった現状をそのまま放置することにもつながる。この点については、社会的な矛盾もありえる。人によって抱いている思わくがちがうところからくるものである。

広告を非表示にする