社会主義なき資本主義

 経済成長をむやみに追い求めるべきではない。経済成長はフローであり、経済力はストックであるとすると、経済成長があまりなくても経済力は大きいというのが日本ではこれまでおきていたところがあるという。

 資本主義においては拡大再生産として、経済成長を追い求めるのがふつうだから、それをやめるべきだとするのは資本主義の否定にあたる。もしそのように否定するのであれば、それに取って代わるような別のありかたを証明しなければならない。かつて資本主義の代わりだった社会主義は、けっきょく失敗したわけだし、地獄を見たではないか。そうした意見を見かけた。

 社会主義がけっきょくは失敗して地獄を見たのだから、資本主義が肯定される。その点について、何となく腑に落ちないような気がする。というのも、そこから資本主義の肯定に結びつけるのは必ずしもふさわしいとは思えないからである。自然主義の誤びゅうにあたりそうだ。

 そもそも、資本主義がまがりなりにもまっとうと言えたのは、敵である社会主義が存続していたからではないのか。その敵である社会主義がもはやいなくなってしまった今、資本主義の一辺倒のようになってしまっている。この一色または一強のありかた自体があまり健全であるとは言いがたい。

 さらに、敵がいなくなった資本主義は、グローバル化も加わり、暴走してしまうおそれがある。歯止めがかかりづらい。何ごとにおいても好敵手がいたほうが、対立点もつくれるわけだし、都合がよいものだろう。自分たちの自己証明もできやすいと思うのだ。

 社会主義では、マルクス主義による発展史観によって、客観の建て前があったとされる。それはキリスト教における最後の審判のような、線的な発想によっていたところがありそうだ。しかし底ぬけに柔軟な資本の論理による資本主義だと、あたかも宙に浮かぶ巨大な風船のようなところがある。ただふわふわと浮かんでいるだけなのではないか。それがいつ針が刺さるなどして破裂してもおかしくはない。

 そうした危うさというのは、効率性の追求によっているところから来ているふしがありそうだ。たとえば商品の流通なんかでは、商売の事情で、なるべくお店に在庫をもたないようにするほうが都合がよい。そうしたありかたは、いざとなって物流がひとたび止まれば、たちどころにもろさや弱さをあらわにする。消費者は負の情報にあおられて、たやすく混乱をきたす。

 かりに社会主義近代主義(モダニズム)によっているとすると、高度資本主義はポストモダニズムのようなものだろうか。繁栄を目ざすのもいいのだけど、あまりにそれが行きすぎてしまうと、自由や解放の反動がおきかねない。揺れ戻しとして、保守化する動きが出てくる。

 資本主義の一辺倒と、格差の深刻化は、相関しているところがあるのではないか。このさいの格差とは、客観的というよりは、むしろ主観的で心理的なものをさす。勝ち組と負け組の差のようなものである。それをこれからの経済成長で解決するとして希望をもつのにはいささか無理があるような気がする。ちょっと楽観に傾いていそうだ。

 資本主義に取って代わるなにか別のものを新たに打ち立てるのはむずかしい。しかし、そうした対案や青写真が生み出せないからといって、この道しかないと言ってしまうのだと、抑圧的になってしまいそうだ。少なくとも、ありかたを根底から取り替えるような抜本的な世直しはできなくとも、立て直しの改革はできれば急いだほうがよい気がする。