危険と死を選ぶ

 生きるか死ぬかであれば、いつも死のおそれのほうを選ぶ。より危険な道をとるようにする。画家の岡本太郎氏は、いつもそのような自分のなかの基準によって生きていたそうである。安全な道をとらないで、死ととなり合わせのような、不安定さをとる。そのことで、かえって生が活性化され、力をわき立たせてくれるわけだ。

 じっさいにそうした部分はまちがいなくあったのだろうけど、誇張が入っているのではないかという気もした。インタビューとか文とかのなかで、言葉でそうした内容が言われているため、事実なのかそれとも執行(パフォーマティブ)なのかが判然としづらい。

 ほんとうに死に直面する道だとか、破滅につながる道を選ぶのだとすれば、なぜ死や破滅を避けられるのかが引っかかる点である。死や破滅につながる道をとりつつ、それと同時に死や破滅を避けているわけだろうか。そうだとすると、かなり器用なことをやっていることになる。もしそうした器用さをもたない不器用な人なら、それこそ真に危ないことになってしまいそうだ。

 自己保存の作用がはたらいているから、いくら危ない道を選ぼうとも、人はそう簡単には死ぬことはない。そのような部分もあるのかもしれない。そのほかに、幼少時の親からの愛などが、やがて安全基地(セキュア・ベース)のようなものとしてはたらく。心のなかにではあれ、何らかのよりどころがあるからこそ、危険な道をとることができる。

 岡本太郎氏がどういうふうにして日々を生きていたのかをもし目の当たりにすれば、とても発言の内容について疑うようなことはできないこともありえる。言行一致していたわけである。そうであるとしても、生存者バイアスがかかっていたことはありえそうだ。命あっての物種ともいうし、そこは岡本太郎氏もきっと否定するところではなかったのだろう。現状にあぐらをかくのではなく、ふだん見過ごしがちな生の本来性のようなものをふまえるのがよいということだろうか。