もんじゅと神話

 もんじゅ廃炉を政府が正式に決めたそうだ。原子力発電における燃料棒に当たるものが、高速増殖炉もんじゅでは六角形をしているらしい。その六角形の燃料がお互いに支えあっていて、一つ取り出すと全体が崩れてしまう。なので一つ取り出すのに、いちいち模型と差しかえながらやらないとならないそうだ。

 そのうえ、原発だと燃料棒は水に浸けられているが、もんじゅではナトリウムが使われている。ナトリウムは空気や水に触れると爆発してしまうため、あつかいがとても難しい。密封しながらやることがいる。さらに、水は透明だけどナトリウムは不透明なため中身が見えない。作業は困難を要する。

 動かすのに失敗したうえに、さらに廃炉にも成功する保証がない。今までに前例がないのだということだ。これほど技術的に難しいものになぜ挑戦したのだろうか。そして、いったい誰が責任をとるべきなのだろう。責任者はいないのかな。

 福井県の西川一誠知事は政府の決定について、素直に従うのではなくごねているとも見られている。県としてもこれから先の計画もあるだろうし、思わくもあるのだろう。それとは別にして、西川知事の言うことにも一理あるのではないかという気がする。政府の決定は拙速であり、また国としての反省が十分に示されていないとしている。なのでとうてい決定を受け入れられない。これはもっともなところがあるのではないか。

 失敗したのだからしようがない、やめましょう、では、反省が十分になされたとは言いがたい。ここは怒ってもいいところなのではないかという気がするのである。少なくないお金が今までに使われてきたのもある。廃炉の費用をふくめ、総事業費は 1兆 4000億円におよぶ。今では埋没費用になってしまったわけだ。なので気にしてもしかたがないといえば言えそうだが、何とももったいないところもある。1兆といえば安い金額ではない。うやむやにするよりは、せめて何か今後への教訓を得るべきではないのだろうか。

 実用化されて成功できればよかったのだろうけど、そうではないのだから、もんじゅではなく、不動明王のような厳しい怒りの目にさらされることもいる。どこが甘かったのかを温情抜きでふまえる。ただそうは言っても、いったいその目をどこに向ければよいのかはよく分からないところもある。福井県知事は継続をのぞんでいるのだから、そこから推察すると、政府と県とのなあなあの関わりもこれまでにあったことが想像されるところがある。

 その点をふまえると、遅きに失したのはあるとはいえ、政府の決断を肯定的に見るべきなのかな。文殊菩薩は仏さまではあるが、原発安全神話のように、ひとつの神話が夢に終わったということだろう。