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金銭の自由

 貨幣は鋳造された自由である。文豪のドストエフスキーの言ったことだそうだ。それにつづいて、こうできるかもしれない。一国の政府はその国の貨幣(紙幣)を鋳造しているのだから、政府は自由である。無限に借金をすることができる、なんていう極論ももてなくはない。

 一国の政府ははたして自由なのだろうかと疑うことができる。というのも、現実に自由であるよりも、むしろ自由であるべきだとする当為(ゾルレン)が入りこんでくることがありえるからだ。自由な存在(ザイン)だとは必ずしも言い切れそうにない。

 じっさい、もしまったくの自由であるのなら、国民から税金をとることはいらないだろう。税金をとっているのであれば、その税収から国の運営の資金を(すべてではないにせよ)まかなっているわけであり、また国民へ社会福祉などとして富を還流(リターン)していることになる。

 新自由主義社会民主主義かのちがいもありそうだ。前者であれば小さな政府がのぞましいわけであり、後者であれば大きな政府がのぞましい。同じ自由とはいえ、後者の大きな政府だと、無限に借金ができる説を政府がとることに建て前ができる。しかし、それで社会の活力が上がるのかは確実とはいえず、むしろお上への依存体質や無気力さを招いてしまうおそれも指摘されている。

 財政の規律や均衡を守るべしとするのは、政府の自由をいちじるしく損なう。けしからんことである。ほんらい自由であるべきなのに、邪魔をしているわけだ。財政の規律や均衡とはたがや桎梏(しっこく)であり、そのたがや桎梏をとり外そうとする誘因がはたらく。そうすると、制限はなくなって自由度は飛躍的に高まるだろうが、いっぽうで社会の持続性(サスティナビリティ)が維持できるのかは定かではない。自由の代償があるように思える。

 自由になるのに代償などなく、そんなものをもち出すのはおどしにすぎない、ともできるかもしれない。ただ、もともと資本主義とはキリスト教プロテスタントがもつ禁欲さをもとにして発展したとする説もあるみたいだから、その点も無視することはできないだろう。資本主義とは終わりなき動態であるとされる。もしたがの外れた自由が得られれば、動きが止まってしまうことになり、それは資本主義の死を意味するのではないか。

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