選択はベターか否か

 他に選択肢がない。他はまるで駄目で、選択肢のなかに入れることができないのだから、今の担い手でよしとする。いわば消去法になるわけだ。このさい、他はまるで駄目だ、のところに重きをおけば、積極的な消去法になる。他を駄目出しすることによる消去法だ。

 今の担い手がすごくよいわけではないけど、他はまるでよくないので、問題外である。そうして選ばれた今の担い手を、最良であるベストとはできないだろう。これは誰しもきっとうなずけるところだ。では、良としてベターと見なすことはできるかというと、それもまたできないのではないか。せいぜい、可であるノーマルくらいなものだろう。

 下手をすると、不良であるバッドに当たることもふまえないとならない。いちばんひどい最悪であるワーストまでしてしまうと行きすぎにあたるおそれがある。ただ、もしかするとどれもが最悪ぞろいであり、そのなかできん差でわずかにちがいがあるにすぎない可能性も否定はできない。

 今の担い手をもし良であるベターと見なせるとすれば、他の選択肢についてことさら駄目出しして叩くことはとくにいらないと思うのだ。いらないとしても、習慣になっていることがありえる。必要はないのだけど、とりあえず他を駄目出ししたり叩いたりしてしまうこともあるかもしれない。

 今の担い手はあくまで(最良とはいえないまでも)良であり、そのこととは独立して、他の選択肢のいたらなさやどうしようもなさを叩いているのだ。こうした見かたもとれなくはないが、ちょっと無理があるような気がする。良ではなく、せいぜいが可で、もっといえば不良であるから、そのうっぷんを他の選択肢を叩くことによって晴らしていると見るのが当たっていそうだ。

 ほんとうなら、最良としたい。あるいはせめて良としたい。最低でも可とはしたいものだ。しかしそうしたいところが(いろいろな理由があって)確実にはゆきづらいために、認知の不協和がおきてくる。その不協和を解消せんがために、駄目出しや叩くのが他の選択肢に向かいがちになるふしがあるのかも。

 かりにそういう気持ちのからくりがあるとしたって、今選ばれているものを良と見てもいいじゃないか。いったいそれの何が悪いのだ。それぞれの好き好きの問題にすぎない。ある人が現実を良として見ても必ずしもまちがいではないだろう。それに、今の担い手に横やりを入れて邪魔してくるものを叩くのは、けしからんからそうしているにすぎない。

 志向性の問題はありそうだ。どちらに方向性が向いているかのちがいである。今の現実を良とするのなら、その良のよいところに意識の方向が向いているのがふさわしい。しかし、他の選択肢の悪いところに方向が向いているのだとすると、そこに志向性がはたらいていることになる。

 もっぱら消去法の消去(排斥)のところに精が出ているようだと、その手つづきで残ったものを良とすることはできづらいような気がする。というのも、残ったものは自分で自立する力がないために、他をとり除くことがいるといえそうだからだ。いわば他を叩くことが、自分の存続のための必要条件のようなものとなる。