カジノの位置づけ

 すべての面積のなかのたった 5%にすぎない。ほんのわずかの面積しか占めないのだから、カジノがあっても危険は大きくない。それをさも大ごとのようにして騒ぎたてるのは大衆迎合にあたる。統合型リゾート(IR)整備推進法において、そのような意見が、前大阪市長橋下徹氏からいわれている。

 たしかに、全体のうちでたった 5%しか占めないのであれば、比重は小さい。中心というよりは、あくまでも要素のひとつであり、相対化される。いろいろあるなかでの一つの呼び物のようなものなのだろう。

 カジノをとりたてて絶対化して見るのはまちがいになりかねない。面積からいえば、カジノは図というよりは地にあたるだろう。いっぽうで見のがしてはならないのは、この図と地のありようは反転させることができる点だ。つまり、図ではなく地であるカジノは、見かたを変えれば図とすることもできる。

 面積比からすればカジノは後景化すべきだが、それを前景化して見るのがまちがいとは言い切れない。問題がおきそうなのであれば、焦点化して見ることがいる。ことわざでは、山椒は小粒でもぴりりと辛いだとか、一寸の虫にも五分の魂とかともいう。

 ことわざの当てはめかたがちょっとまちがっているかもしれないが、心配ないのなら心配ないのだと、しっかりと国民を合理的に説得するべきだという気がする。それをしないのなら怠慢だといわざるをえないし、そこを報道機関が危惧してとりざたしても必ずしも大衆迎合だとはいえない。心配がたんに杞憂に終わればよい話だろう。

 政治家がうまく説明できづらいところを、報道機関が上手にすくいとって、きちんと客観的にことを明らかにするのがのぞましい。たんに心配をあおるだけでは必ずしも生産的だとはいえない。そういう点では、大衆迎合の批判は当たっているところがある。下衆の勘ぐりのようなところがある。

 全体に占める面積比が小さいのだからあるていどは抑制がかかっている。それにくわえて、賭博大国ともいわれている現状について、その被害者となってしまっている人を救えるような手を打つことがいりそうだ。そうした方向性が進むのであれば、雨降って地固まるのようなことがのぞめる。