今と次

 高い内閣支持率を、たんに喜んで満足するのではない。その高い支持率を何にふり向けて、どのように使うのかが肝である。自由民主党石破茂氏は、ラジオ番組のなかでこのように語っていた。ふつう支持率が高ければ、あたかもお墨付きや及第点を与えられたように受けとってしまうものだろう。しかしそうではなく、高い支持率であるあいだに、本質的な国のありかたに踏みこむよい機会とするのがふさわしい。

 すごくざっくりといってしまうと、自由民主党のなかで、主流の人たちが今を見ているのにたいして、石破氏は次を見ているのではないかという気がする。今ではなく、その一歩先(二歩先)にある次をにらむ。円のように今がずっと続いてゆくわけではなく、どこかで潮目が変わりえる。栄枯盛衰ともいう。今を覆っている空気からすると、あまり日の目を見ないような、そうした地味な役目を自分で買って出ているのかもしれない。

 広く全体を見渡すためには、対象と距離をもたないとならないから、いくら党に所属しているとはいえ、べったりとくっついてしまわないのは効果的である。くわえて、石破氏のように、これからどうすべきかとか、どうあるのがよいのかとか、国民にどう告げ知らせるのかといった問題意識を誠実にいだいている人はわりに少ないのではないか。そういった一見すると面倒でわずらわしい問いを避けてしまっているような気がする。

 文豪の夏目漱石は、晩年にたしか則天去私なる語を説いていた。この 4字は石破氏にあてはまるところがありそうだと感じた。少なくとも、そうした心意気のようなものがあるようだ。国家の行くすえとしての連続性と、私よりも公を重んじるのは、儒教的なところもありそうである。この公とは天であり、天とは民でもある、と中国の思想ではとらえられているという。つまり、ほんらいの意味で民を大事にすることにつながる。

 はたして現実にそうなっているのかは置いておくとして、自民党は国民政党なのだから、多様な国民の声をすくい上げてしかるべきだとする意見にはうなずける。国民にはさまざまな声があるのであり、そのなかから都合のよいものだけをすくい上げ、別のものは聞き入れないのでは困る。じっさいにその意見を採用するかどうかはともかく、とりあえずとり上げて虚心に耳を傾けるだけでも(無視するよりかは)いくぶんかはちがうだろう。