流行語の毒

 保育園落ちた日本死ね。今年の流行語大賞候補に選ばれたものである。この語を選んだのは、歌人俵万智氏によるようだ。審査員としてたずさわっていた。時代を映す言葉としては、たしかに世相を反映している面がある。俵万智氏は、あたかも蜂の一刺しのような毒をもつものだと評していた。

 この言葉の選出については、賛否があることもたしかである。一般の人からのみならず、識者の一部からも疑問の声があがっている。もうちょっと穏やかな言いあらわしができるはずであり、過激にかたむくのはまずいわけである。せめて少し婉曲するなりできるはずだ。

 テレビではちょくちょく、世界で好かれる日本だとか、世界で愛される日本だとかの番組が放映されているのもあるみたいだから、その流れには逆行しているだろう。このように日本をもち上げるようなことをやれば、当たらず障らずであるし、どこの角も立たず、だれの気分も害さない。

 この日本死ねの流行語への選出と、俵万智氏の作品について結びつけるのはどうなのかという気がした。それとこれとはまったく別な問題なのではないかと感じる。同一人物とはいえ、文学の趣味といたずらに結びつけるのはちょっとどうだろう。そもそも日本死ねの言葉をあらわしたのは別の人である。なので、たんに言葉を選んだだけにすぎない。その選択は、偏っていて、かつ権威にもよっているだろうが、政治的自由でもあると思うのだ。

 いくら政治的自由だとはいえ、公の目に触れるのだから、やはり過激な言葉はまずいのではないか。ある特定の方面にだけ目配りをして、その他のところをないがしろにするようでは困る。皆んな言いたいことがあっても多少は腹におさめて我慢しているところがあるのだ。

 たとえ言葉のうえで日本死ねといったところで、言葉にすぎないともいえるから、じっさいに日本が死ぬわけではない。しかし、言霊信仰による呪術性の効果があるかもしれない。それをおそれる深層心理がはたらく。うかつなことは軽々しく口にしないに越したことはないのだ。もっとも、あくまでも非科学だから、口にすれば実現するとはならないだろうけど。口にさえしていなければ、よくないことがおこらないわけでもない。

 世間の空気がどのように流れているかは置いておいて、俵万智氏が毒といったように、そうした頂門の一針のような役はむしろいつでもあったほうがよい。皆んなが一枚岩で突き進んでしまうようだとかえって危ないところがある。

 どうひいき目に見ても、日本死ねは、穏当とはいいがたい。それに、たとえある目的のための手段であるとしても、たんなるガス抜きになりかねないところもある。そうした悪い部分もあるけど、そうでない部分も含まれているのではないか。反感だけではなく、共感もまたなかにはある。
 負の感情ではあるが、それは憤りであり、公にたいする怒りである。このやるせなさからきた憤りや怒りの声をけしからんとするのもわかるが、できれば多少は聞き入れてほしいような気がする。いくら迫力のない言葉をいっても、切実さはたいして伝わらないのだろうし。ときに毒は薬にもなる。

 公にたいする憤りや怒りならまだよいけど、私にたいしてならまずそうだ。私ではなく公へであるなら、権力にたいする監視の意味あいもある。多かれ少なかれ権力は腐敗してゆく。いたずらに現状の不備をただ見守っているわけにはゆかないだろう。できれば何とかしたいところである。

 劇的な言いまわしを使うこともときにはいるけど、聞き捨てならぬとして、あらぬ反応がおきてしまう面もある。その点は難しいものである。政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)なんかがからんできそうだ。先のアメリカ大統領選ではドナルド・トランプ氏が勝利したように、建て前より本音をとる動きもある。

 たとえ本音をとるのだとしても、ほんらいであれば、日本死ねといったことを人に口走らせないですむようになっていればよさそうである。個人的な欲求が阻まれればだれしも攻撃的になりがちだ。しかし、そんなのは、百歩ゆずってかりに心の内で思っていたとしても、口走らなければいいだけじゃないのか。口(言葉)にするのが悪いのだ。そうも反論できる。

 建て前としてはたしかにそういえるけど、個が疎外の感を強くいだいたさいに、どうしても本音を外化してあらわすことも避けがたい。そのうえで、何でもかんでも本音を外にぶちまけていいものではないだろう。その点はなるべくうまくやることがいる。あとは、受けとる側が、できればあまり言葉狩りになりすぎずに、背景にあると思われる本質をふまえるのがいいのだろう。

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