欲がないのは本当か

 それほど欲があるほうではない。ことわざでは、大欲は無欲に似たりなんていうのもあるみたいだ。固有名詞を出すのもあれなんだけど、ときどき、このように、欲のある質(たち)ではないと自分のことを呈示する人がいるのを目にする。そういう人にかぎって、社会でけっこううまくいっていて成功していたりするのだ。端的にいうと、金回りがそんなに悪いのでもなさそうなのである。不思議でならない。

 そんなに欲がないと言っているわりには、けっこういい暮らしをしているように見うけられる。ただこれは、かなり受けとるこちら側の嫉妬が入りこんでしまっているところがある。隣の芝生は青く見えるものである。そうした妬みはあるんだけど、なんとなく腑に落ちない。そもそも、欲がどれくらいあるのかの客観的なものさしがない。定量化できないものだから、欲がないと言っても、大ありだと言っても、どちらにせよ正しいのだろう。極端にいえば、欲がなければ生きてはいないわけだし。

 もともと欲がないのがかえって奏功して、物質的に豊かになりやすいところがあるのかな。欲しがらないからこそ与えられるといったようなふうである。そういう部分もあるのだろう。逆に、何かをしつように欲しがって手に入れようとすることがあだになることもなくはない。そうした例はそれなりに多いのではないかという気がする。

 キリスト教の聖書には、たしかこんな文言があった。求めよ、されば得られん。いっぽう、仏教の禅では、このようなものがあるそうだ。求心(ぐしん)やむところすなわち無事なり。それぞれで逆のことを言っていることになるが、はたしてどちらが正しいのだろうか。これらはどちらも、宗教に関わることがらにたいして述べているので、現実的な利益がどうこうの話ではないのだろうけど。

 あんまりがつがつと欲しがるのだと、ちょっと見た目にはしたないところがある。だからそういうところでは多少の抑えがきけばよさそうだ。ゆとりがあればそうした配慮ははたらくだろうが、背に腹はかえられないといったせっぱ詰まった状況であれば、そんなゆとりはとても持てそうにない。ものにもよるし、人にもよるだろうけど、いつも抑えがきくわけではなさそうである。

 欲があんまりないと言っている人が、けっこう豊かな暮らしをしていたとする。それは、物質および経済的にそれなりに豊かだから欲があんまりなくなった可能性がある。いわばブルジョアジーなありかたである。それにくわえて、そもそも欲があまりないのだから、どう転んだとしてもそれなりに満足する自分なりの生き方を見いだせるのかもしれない。ちょっとうらやましい。

 物質や経済の面でたとえ個人的に豊かでなかったとしても、じゅうぶんに幸せになることができるのだ。ようは工夫しだいだし、考えかたしだいである。そういう見かたもある。そうかなとうなずける部分もなくはないが、正直なところ完全には賛同しがたいのである。それってやっぱりブルジョアゆえの発想なんじゃないかと、ついつい下衆の勘ぐりがはたらいてしまう。

 育ちの影響もあるのかな。もともと育ちがそれほど貧しいわけではなければ、がつがつすることもない。あとはその人のもつ個性にもよりそうだ。くわえて、とりまかれている社会状況の面も無視できない。どうしても不安を感じざるをえないような社会の状況であれば、そこで安心することもできないだろう。個性のちがいで、そうしたなかでも安住してうまくやってゆける人もいるのだろうけど。

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