家庭の崩壊

 思い出に残る食事という題の本があった。これは 2003年に出された、巨大掲示板の 2ちゃんねるの投稿をまとめたものだった。ふつうの人の思い出に残った食事がつづられているので、記録(ドキュメント)として面白いものである。

 人間は人の間というように、誰かといっしょに食事をとるのが特徴なんだなあとあらためて思いいたった。気の合う人たちといっしょに食べることで、さらに気が通じ合うようになる。食事もおいしくなる。あまり気まずい思いをしつつ食事をとっても楽しいものではない。

 出版された当時からいまでは十数年のときが経っているうえに、思い出なわけだから、それをつづった時点より数年から数十年まえにさかのぼることになる。すべての人なわけではなかったんだけど、意外と目立ったのが、家庭の人間関係の不和であった。どちらかの親が急に家を出ていってそのごもずっと家に帰ってこない例なんかがいくつかあったのである。

 親もそうだけど、とくに子どもの目線に立ったら、家庭の人間関係のいざこざは心苦しいものだ。皆んなけっこうつらい思いをして生きてきているんだなあという気がした。そんなふうに薄っぺらな感想をいうのでは、他人ごとのようで、皮相的に見ていることになってしまっているかもしれないが。

 日本の社会では、予想以上に家庭の崩壊が内部において進んでしまっているのではないか。こんなありふれた指摘をしたところで、陳腐に響いてしまうかもしれない。ただ、ふつうの人の否定的な家庭の体験がつづられたのを見ると、なんとなく厭世的というか、退廃的な気分にならざるをえないところがある。

 あらためて見ると、家庭の人間関係は、他人と他人との付き合いなわけであり、うまくゆかないほうがむしろ自然なのかもしれない。うまくいったらラッキーなくらいである。すべての家庭の人間関係がぎくしゃくしたり壊れてしまうわけでもないから、差があるといえるだろう。

 もともと、女権主義(フェミニズム)の文脈においては、家庭のなかでの弱者である女性の権利がないがしろにされていることについて問題にされていたことがあったそうだ。そこが盲点となる。そうした海外などでの過去の動きもあるし、そもそも家庭や家族の語は外来語(漢語)であるとされる。そういった海の外から来た概念と、元からあったものとのずれの点も無視できないところだろう。

 たんに家庭を大事にしてゆこう、などとするかけ声を唱えただけでは、とても解決はできそうにない。かといって、経済の貧困が原因として、物質的に豊かになればすべて丸くおさまるとするのでは、あまりに安直な気がしなくもない。何かよい処方箋のようなものがあればさいわいであるが、少なくとも経済的に貧困な世帯なんかが減ればよいのだろう。今のところ、(株価はともかくとして)経済は閉塞してゆきづまってしまっているような気がするんだけど、それが打開されればよい。