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差別発言の裏

 アメリカのトランプ次期大統領の差別発言は、たんなる放言ではない。そこには意図があるというのだ。無差別テロへの対策のためであるという。そして、トランプ氏の差別発言と、(かつて問題となった)フランスのシャルリー・エブド紙の風刺の表現とは、いっしょのものである。

 前大阪市長橋下徹氏は、朝日新聞社のインタビューのなかで、このように述べていた。この指摘はたしかにそのとおりだなあと感じた。トランプ氏の差別発言と、シャルリー・エブドの風刺の表現は、少なくとも遠くはない。くくりとしては、低級と高級とすることもできなくはないが、そうした高踏的な見かたはすべての人に通ずるものでもないだろう。

 その点については賛同はできたんだけど、橋下氏はインテリにたいして、しばしば嫌悪の感をもちすぎなのではないかという気もする。そこまでインテリを嫌うこともないのではないか。

 というのも、シャルリー・エブドの風刺の表現は、たんなる知識人の戯れであり、なんの意図もないのだというが、そんなことはないだろう。そこにはトランプ氏と同じように、イスラム過激派の原理主義にたいする批評精神があったと思うのだ。だからこそ、イスラム過激派の人たちの怒りに触れ、不幸にも襲撃されてしまったのではないだろうか。

 また、その襲撃をうけて、私はシャルリー・エブドだとする擁護の動きが広がった。フランス国内だけでなく、世界的にそうした連帯の気持ちが一時的に共有されたわけである。これはなにも、風刺の表現について(表現者に)なんの非もなかったとしていたのではないだろう。報復として、物理的に襲撃する手段に打って出たことにたいする、過激派への批判が含まれていると見ないとならない。

 トランプ氏や、氏に賛同する人たちが、そこまで馬鹿なのではないとしても、だからといってインテリやその支持者の人たちもそこまで馬鹿ではないのかなという気もする(たまにはへまもするだろうが)。そこは橋下氏の手にかかると、どちらも同じくらい下品になってしまうようだ。その点については、うなずけるところがなくもない。人間とは、一皮むけば、だれでも多かれ少なかれ下劣なものかもしれない。ただ、その一皮のところに文化があるのだろうけど。

 すべての人が、裏の面ではしょせんは下劣にすぎないとするのは、性急に一般化しすぎでもある。決めつけてしまっているところがいなめない。そういう見かたをとるのは、その人がたんに下劣な人間だからにすぎないのだともできるだろう。

 マズローの欲求 5段階説でいわれるように、いちばん基本とされるような衣食住の欲が満たされていることが大切だ。それが満たされていないのであれば、多少は下劣だと言われようとも、建て前ではなく本心や本音の叫びをあげることもいる。ことわざでは、恒産なくして恒心なしともいわれているから、そこは無視できない。

 人間観についてどういったものをよしとするのかは人によるところがある。そのうえで、あまり低俗と高尚みたいなふうにはっきりと分けてしまうのも若干の無理がありそうだ。ことわざでいう、親しき仲にも礼儀ありとするような、儒教的な礼の精神も多少はあるとよさそうである。くわえて、人は(意外と)見かけによらないものであるから、ときにはその人がもっている属性などの予断(先入見)を排して、虚心になることもあればのぞましい。

 人間の歴史は、単純から複雑さへ進み、また単純さに戻るとする説がある。とすると、経済のグローバル化なんかは複雑さに当たりそうだから、それにたいする揺り戻しの動きとして、単純さへとまた回帰しようとしている。そのように見ることができるだろうか。

 文明における科学技術などの発達は、一度できあがると、それ以前には戻りづらくなる。なので、かつての牧歌的な単純さにたやすく戻れるとするのはまちがいだろう。いまの複雑さを、経営での多角化と見なすことができれば、これまであまりに手を広げすぎたために、広げた風呂敷をたたもうとするのはありえる。それが保守化の流れとなってあらわれているのかもしれない。

 有名なオッカムの剃刀の説によれば、同じことを言うのであれば、できるだけ単純であるもののほうがよいとしている。経済の原則としても、浪費するよりは少なく節約できたほうが効率がよい。手を広げて多角的にやるよりかは、できるだけ少なく集約しているのがのぞましいわけだ。

 そのように冗長さを避けて、数をしぼるのをよしとするのだと、利点だけではなく欠点もおきてくる。まず、同語反復的になりがちだ。たとえば、アメリカであれば、アメリカはアメリカ人のための国だ、とすると、一見わかりやすいが、よく見ると情報量が少ない。そこでは、アメリカ人とは言わずもがなとなっている。しかしそれは、あらためて見ると空無(虚無)であるおそれがある。

 オッカムの剃刀のようにして、できるだけ節約して数を少なくしてゆくのもよいが、それとは別に、あえて複雑にして見たほうがよい面もいなめない。一つのことを、いくつかに分節化するわけである。そうしたほうが、うかつな誤びゅうを避けやすいところがある。

 分節化してものを分けてとらえてしまうと、あとで収集がつかなくなるおそれもいなめない。であるのなら、はじめから一つのものとしてまとめて見なしたほうが楽ではないのか。たしかにそのほうが手間はかからないが、むりやりなところもある。白か黒かだけであれば、二元論で離散的(デジタル)だが、じっさいにはその中間の灰色などの連続(アナログ)なありようをしているかもしれない。

 離散的であれば、記号は 2つだけでもすむが、そうではなく連続しているのなら、2つだけでは足りない。それでもむりをすれば、大きな 2つくらいのくくりに収めることもできる。だいたい、大きな 2つくらいのくくりに収めたほうが、分かりやすいし、二元論であるから頭にすっと入ってくるところがある。

 色でいうと、原色は単一なので訴える衝撃度がある。赤なら赤、といったように。いっぽう中間色のように、いくつかの色が混ざっていると、訴える力は弱くなりがちだ。はたして現実はどうなのかといえば、これは一色で塗られているよりかは、玉虫色のように、見る人や立ち位置によって変わるものだろう。なのでできるだけ多角的に見たほうがいいのかもしれない。

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