殺人的ストレス

 キラーストレスの名づけはいいなと感じた。たんなるストレスはよく知られているけど、そこにキラーの語が頭につくと、なにか抜き差しならないふうになるようである。のっぴきならない。ストレスの負の作用がより強調されてくる。

 NHK で特集されたもののようで、その番組はじっさいには見たことがない。なんでも、ストレスに対処する方法であるとされるコーピングをやるとよいらしい。このストレス・コーピングでは、いろんなやり方をとることができるようである。うまくゆけばいいだろうけど、この対処法であるコーピングが逆にさらにストレスになったりすることはないのかな。

 対処がひどく難しいストレスもなかにはあるのではないかという気がする。すべてが聞きわけのよいストレスではないだろう。得体の知れないものに、あたかも真綿で首を絞められつづけるようなものである。生きるうえではえてしてそうした不気味な闇のようなものにしつように苛まれてしまうことも、人によってはあるのだろう。そういうものもまた、キラーストレスの一種であるということができそうだ。

 人とは別に、国なんかにおいても、キラーストレスはあるのかな。そうした負の作用に強くさらされていたとしても、暴発せずに、うまく対処するすべであるコーピングをとらなければならない。とはいえ、国が受けるストレスなど二の次であり、そのもとに生きて暮らしている人たちの、国からの圧迫がもしあるとすれば、そちらのほうがよほど問題だ。

 すべての人ではないわけだけど、なぜしばしばキラーストレスにさらされなければならないのだろうか。なんでそんなものがあるのだろうかといったところが疑問だ。仏教でいえば、生は苦であり、まだわれわれは解脱や悟りを開いてはいない(だろう)から、仕方がないといえばそういえそうだ。しかし仏教をとくに信仰していないものからすれば、すんなりとその説明を受け入れるわけにはゆかない。

 キラーストレスとはいえ、それは造語もしくは新語であり、それありきで見なすのがややずれているのだ。たんにストレスとして見ればよい。ストレスであれば、両面価値的であるため、それが刺激になってかえってよく働くこともなくはない。よしんば絶対(絶命)の状況になったとしても、それをなんとか乗り越えることが大切なのだ。不安定であったほうがむしろ生命力は活性化する。そのように肯定的に受けとめることもできる。

 たしかに、キラーストレスとはよくいってもせいぜい今の段階では仮説どまりとはいえそうだ。ただ、その仮説を定立することはとくにまちがっているわけではないし、それを頭ごなしに否認することもない。いささか悲観的にはなってしまうが、そうした現実の面もあることを認めなければならない。感受性のちがいによるせいもあり、不都合を受け流しやすい人だけでなく、受けとりやすい人も少なくないと見ることができる。

 やや偽善に響くきらいはあるかもしれないが、ついうかつに他者にたいしてキラーストレスをおよぼす一員となっているところがあるのではないか。それが自己保存の意味であり、そのはたらきによる他者破壊への転化となる。これは対人間にかぎらず、自然にたいしてなどにもあてはまりそうだ。自然を破壊することで人間は生きているふしがある。人間にたいしてであれば、意図してのこともあれば、そうではなく無作為による構造的暴力ともなる。

 社会のなかで、キラーストレスに苛まれ苦しむ人が多ければ、それはよいありようとはいえそうにない。最小不幸社会とのかけ声は、元民主党菅直人首相が在任中にいっていたことだが、これは消極的な功利主義にあたるそうだ。このありかたが妥当か不当か、現実的かそれとも非現実的かは置いておくとして、社会のなかでの効用を減らさないためにも、自他にキラーストレスがおよぶことから避けたり逃げたりする権利や自由は、等しくあるべきではないかという気がする。