偏りがおきる

 できるだけ公正な内容を報道しないとならない。中身が偏っていてはまずいので、均等になるように努める。あくまでも理念としてはそういうふうにいえるのだろう。しかし現実には、なかなか偏りのない中身にすることはできづらい面がありそうだ。

 なぜ偏るのかというと、経済的な事情があるのがあげられそうである。あれもこれもといろいろとり上げるようだと、切りがない。資源の制約があるため、何かを切り捨てることがいる。

 内容をつくるのには、素材がいる。その素材を探すのにも費用がかかる。ただではない。時間のしめ切りもあるだろうから、手近なところから見つけてきて、ある程度の質のもので満足するのが現実的なのだろう。

 たとえば、消費税の増税でも、増税するべしとするか、または逆に減税するべし、あるいはそのまま維持するべし、といったように意見が入り乱れがちだ。これをそのまま内容にして流すのであれば、折衷主義のようになるおそれがいなめない。まちがいのおそれは低いが、広く浅くといったあんばいである。

 ふつう、善の側と、悪の側といったように、分けて見なしがちなきらいもある。これは、送り手のみならず、受け手にもその強い傾きがあるのではないか。なんとなくそうして分かれていたほうが安心することはたしかだ。しかし、このように分けてしまうと、善の側の言い分と、悪の側の言い分とを、公平に内容にするわけにはゆかない。非対称になる。

 そうしてみると、公平さとは対称さであり、対称さとは虚構なのではないか。ただ、これは少し言いすぎたかもしれない。対称さはひとつの美としても、それは抽象的だとはいえるかな。扱いにおいては対称さが崩れ、どちらかにしるしがつく。人間の性としては、善も悪もないようにしてものを見ることはできづらい。そうした対照の表象(イメージ)はどうしても入りこんでしまう。

 内容を公平にせよとするのは、報道機関にたいして、判断(ジャッジ)するなと言っていることにもなりそうだ。その判断とは、おもに主観によるものをさす。しかし、そうして判断しないのであれば、そもそも報道する動機もおきてはこないのではないか。もちろん、主観はよくなく、客観ができるだけのぞましいところはあるだろう。しかし、主観による思い入れまでよくないとするのには疑問が残る。

 人間がする営みとして、どうしても、ものを認知して、それを判断して、さらに評価する、とした流れをもっているといえそうである。その一つらなりは組み合わさっているものだと思うのだ。なにか認知をすれば判断がおきるし、判断すれば評価をしてしまう。外に形として表すさいには、そうした事情がはたらく。

 かりにそうした人の営みの内情があるとしても、だからといって免罪符や言い訳になるものなのか。決まりは決まりであり、守らないとならないものであるのはまちがいない。とくに社会的に影響力があるのであれば、なおさら気をつけるべきだ。人をまちがってそそのかすことにもつながりかねない。

 その点については、存在(ザイン)と当為(ゾルレン)のあいだの溝があるのかもしれない。かくあるありようと、かくあるべきありようとがずれている。かりに、わかっちゃいるけどやめられない、といったふうにして、存在のほうを重んじてみることもできる。そのさい、当為は軽んじることになる。

 いや、当為である、かくあるべきとするところは、どうあってもないがしろにしてはならない。そこがなし崩しになると、全体の秩序がおかしくなりかねない。統制がきかなくなる。そうした点において、たしかに秩序は大事といえばいえそうだ。しかし、あまりそこに重きをおきすぎると、厳格主義にかたむく。くわえて、社会のなかの許容量が低まるようになる。

 許容量というのは、おとがめ無しとするように、あるていど大目に見るものである。その量が大きければものごとをわりと大目に見られるが、もし小さければ、許される幅が狭くなるわけだ。画一化され、平準化される。そうではなく、幅が広くて、いろいろ多様なものがあるのがよいと個人的には感じるが、空論かもしれない。好みもあるので、人それぞれなところがあるだろう。