退位の聖断

 なぜ天皇陛下は退位(譲位)をのぞむのか。そこには、天皇の存在理由(レーゾン・デートル)が関わっているのだという。積極的な国民とのふれあいを大事にしているため、そうした交流ができるように、体調などがいつも万全でなければならない。年齢などの要因で、もし少しでもその務めに支障があるようなら、天皇であるべきではない。ひとつの美学である。

 いついかなる時でも、どのような状態であろうとも、天皇天皇でありつづけてほしい。そうした意見もあるのだろう。それとは少しちがい、当事者である天皇陛下は、いわば実存による心境を投げかけていると見ることができそうだ。あくまでも生身の人間であり、神ではないのだから、実存的な面をもち、そこからくる苦悩もあると見ないとならない。

 天皇陛下の内心をうかがい知ることはできない。なので、あくまでも忖度するのができるくらいなのだろう。そのうえで、天皇制の中心における当事者として、これまでの経験による知見や、これから先のことなどを、総合的にとらえたうえでのお言葉だったということができそうだ。そこには決して浅くはない過程を経た意思決定があったと見なせる。

 評論家の片山杜秀氏による、平成のご聖断とトランプ現象と題する記事があった。そこでは、天皇陛下のお言葉には、合理主義がかいま見られるとしている。しかし、そうした合理性や世俗性をとり入れてしまうと、天皇制は維持できづらいのではないかと疑問を呈している。天皇制には神秘や霊威がその核にあり、それを払しょくするのではまずいわけだ。

 そうしてみると、天皇制のなかにおいて、合理性と神秘性のあいだに矛盾がおきていることになりそうだ。あるいは、近代よりの内在的な合理性にたいして、いまの天皇陛下によって新しい外からの高次の合理性が吹きこまれようとしているともできそうである。

 個人的には、いくら天皇制の核にあるとはいえ、神秘や霊威などを素朴にもち出すのはちょっとどうなのかなという気もする。これだけ科学が高度に発達した時代に、そうした目に見えない霊力のようなものが通用するとはどうも思いづらい。もちろん、そうした目に見えないものを頭から否定するつもりはないのだけど、前提に出されると、ちょっとついて行けないところがあるのも(個人的には)正直なところである。

 神秘や霊威がそんなにいけないことなのか。そう問えるところもある。少なくとも、そうしたものが国家主義と結びつくと危ないかなという気はする。なので、その点にたいする抑えはあったほうがよいだろう。

 いっぽうで、そもそも何らかの価値とは、目に見えるものではないところもあるとされる。そこから、たとえば経済におけるお金なんかでも、完全に合理的な産物とはいいがたいようだ。お金は日ごろ慣れ親しんで使っているものだけど、紙幣なんかを見れば、もとをただせばたんなる紙くずにすぎない。物神性(フェティシズム)が宿っているのだ。

 天皇陛下にたいする不敬についても、何がそれにあてはまるのかが、あらためて見るとよくわからない。ふつうに見たら、天皇陛下の口から発せられた(とされる)お言葉を、文字通りに受けとり尊重するのが、敬うことにあたるだろう。天皇陛下の意思を最大限に尊び、実現できるように力を尽くす。それが大事である。

 しかし、天皇陛下の意思よりも、天皇制を重んじてしまうこともおきてくる。これは不敬なのかどうかといえば、一概には決めつけられそうにない。結果として天皇制をより重んじて、天皇陛下の意思を多少軽んじてしまうことになったとする。それはあくまでも個人としての面を多少軽んじたのであり、役割としての天皇を軽んじているのではけっしてない。そう言うこともできるだろう。

 天皇制の核には、古来よりの神秘さや霊威がある。しかし、科学の見地からすれば、そうしたものはまやかしにすぎないのではないか。ただ、まやかしとしてばっさりと切って捨ててしまうのは乱暴である。とはいえ、天皇制とはひとつの制度であり、それを絶対化するのはもろ手を上げては賛同できない。

 なぜ無条件には賛同できないかというと、いまの天皇陛下にかりにおごそかな神秘さや霊威があるとしよう。それらは、天皇だからあるとするのだと、では天皇でなければ(退位したら)それらは立ちどころに無くなってしまうことになりはしないか。それはちょっとおかしいような気がする。

 天皇陛下は、もし退位したら、ただの人になってしまうのだろうか。この見方にはちょっと疑問がある。そうではなく、制度によらずに、人として後光(アウラ)があるべきだと思うのだ。もちろん、ふつうとはちがう特別な人の次元の話ではない。そうではなくて、制度にはめこんでしまうことで、物象化するのは暴力ではないのかと感じるのである。その暴力からの浄化(退位)は、できるかぎり円満になされることをのぞむ。

 そうしてみると、制度をこれからも存続させてゆくために、あるていどは合理化や世俗化をされることがいるのではないかとできそうだ。ただこれについては、大きく革新せずにそのままでもよいのだとする意見もあるだろうし、それが間違っているわけではない。いずれにせよ、うやむやにならず、しかるべき落としどころが見つけ出せればさいわいである。