赤字は増えつづけ

 国の借金は国民一人あたり 800万円以上もある。この額においては、そもそも国民一人あたりで割るのはどうなのかといった計算の疑問もある。また、借金ではなく国民の資産なのだという人もいる。もしそうなのだとしたら、どこでそのお金をじっさいに引き出すことができるのだろうか。それとも、そういうリッチな気分でいろといったことなのかな。

 全体では 1000兆円を超える赤字を国はもってしまっているわけである。こうした赤字の額を告げるのでは、いたずらに国民へ危機意識をあおるのでよくない。そうしたところもあるが、では逆に赤字の額をまったく言わないのなら、知らしむべからずのようになりかねない面もある。

 国民一人あたりの赤字の額をたとえ知らされたからといって、では何をしたらよいのかはよくわからない。減るどころか増えてゆく一方であり、それは使うべきところに使われず、無駄遣いがされていることを暗示している。そうなると、あきらめの気持ちか、積極的には怒りの気持ちが芽ばえてもおかしくはない。

 ほんとうは赤字ではなく資産なのだとか、もしくはかりに赤字でもそこまで危機をあおるべきではないともできる。しかし、この見なし方には問題点があることも指摘できる。危機の意識がなければ現状を変えようとする力も出てはこない。いや、現状のままでいいんだともできそうだが、そうなると今ある悪い箇所を隠ぺいすることにつながるので、それはまずいと感じる。

 たまった赤字である借金を国はちゃんと返せるのか。残念ながら、答えはノーである。またはノーにかぎりなく近い。その理由は、そもそも国が自分の借金を返そうとはしないからである。正確には、返そうとはしてこなかったわけである。だから大きい額になってしまって今があるわけだ。一般的には、お金を返そうとする気のない人にひとたび開き直られるとなすすべがない。

 これもまた一般的にだけど、借金を多くせおうことでかえって踏んばりがきくこともある。馬力が高まったり、発条(ばね)になったりする。火事場の馬鹿力のようなものだろう。なかには、借金の額と器の大きさは正比例するといった意見もある。とすると、日本はどれだけ器の巨大な国なのだろう。世界にも比肩するものがなさそうだ。

 国がもつ、利益の体系と、象徴の体系が、うまくはたらいていないせいがありそうだ。利益の配分で、公平さを欠いたり、弱者をしいたげるようだと、社会的活力は維持できづらい。象徴においては、国民を説得することに失敗しているのではないだろうか。そのため、政治不信が根づよい。その反動の(政権与党にたいする)政治過信もあるかもしれない。

 ちゃんと生の現実に近いことを、国民にたいして告げ知らせてくれたらいいのになという気がする。今はこうであり、これからはこうなるだろう、だからこうしてください(こうします)、などである。英語の助動詞でいえば、しなければならないである must や、すべきである should や、できることである can などがかりに分かっているのなら、すじ道も見えやすくなりそうだ。

 こうした発想は、どちらかといえば線のあり方だろう。しかしそうではなく円のようなふうになっているような気がする。今の時点に焦点が向いている。そうした今を重んじるのでも、よいといえばよいのかもしれない。どのみちなるようにしかならないとも開き直れる。そのうえで、知っていさえすれば防げることもあるし、備えられることもあるのだから、それができないとすれば少々もったいない。

 情報がつまびらかであれば、それをもとに判断することもできなくはないわけである。合意がつくれるかどうかはわからないが、議論の前提は整うだろう。もっとも、ことわざでは、嘘は日本の宝といったものもあるそうだし、表向きをごまかすのがすべて悪いとはいわない。夢をもつのもいるだろう。ただ、いずれそこから覚めて、メッキがはがれる時がくるのだとしたら、その覚悟はしておかないとならないのだろうか。覚悟だけもっていても何にもならないかもしれないけど。

 線のあり方をとるのだとしても、先のことがどうなるのかをたしかに予見するのはきわめて難しいのかもしれない。いろんな見方があって輻輳(ふくそう)する。もしそうだとすれば、円によるあり方にも一理あるのだろう。先のことをほぼ確実に見通せるといったような単純なように世界はなってはいなさそうだ。せいぜいが瞬間芸のように、近いことがどうなるのかを知ろうとできるくらいか。