国が無くなるとすれば

 もし日本が、誰かにのっとられたらどうなるか。そういう心配ができる。近隣の(あるいは遠方の)国からきた人が、日本の中枢をのっとり、支配してしまう。これはさん奪されることをさす。もし無防備なありようをしているとすれば、このような事態はまったくおきないとはいえない。無防備ではなく、たとえしっかりとした備えがあったとしても、完全に防ぎきれるものでもないだろう。

 完全に防ぎきれるものではないにせよ、だからといってただ指をくわえて、手をこまねいているだけでは駄目である。少しでも心理の不安を解消しようとしなければならない。備えあれば憂いなしともいわれている。

 かりに、日本の国がなくなったとすると、それは極論になる。そのうえで、そうした極限のことが想定できるとすると、日本の国が(比喩的に)死ぬことになる。この消滅としての死は、人称において、第二人称もしくは第三人称のどれかにあてはまる。日本の国と自分とを同一とすれば、第一人称にもあてはまるだろう。

 日本の国が死ぬとして、それを第三人称にあてはめることもできる。そうではなく、第二人称(あなた)にあてはめるとすると、距離がぐっと近づく。そして、第二人称であれば、たとえ死がおきたとしても、自分の内面で記憶としてずっと残りつづけることがのぞめる。その記憶が残るのを頼りにすることができる。記憶は燃料だと作家の村上春樹氏はいう。燃料であるためにかえってあだになることもあるが。

 記憶とは頼りない一面をもつ。なので、かりに記憶に残ったとしても、それでひと安心できるとは言いがたい。いちばん肝心なのは、物理的に、領土や文化や国民などがきちんと保たれることにある。それなくしては、何をよすがにしてよいのか分からない。触知可能なものがあってこそ、安心できるのだ。

 ありものとして日本の国をとらえるのに、多少の待ったをかけることもできるだろう。国とは、想像の共同体、もしくは共同幻想ともいわれている。なので、国とはほんらい、なにか手で触れられるようなものではない点において、存在しないともできる。とはいえ、存在するともいえる。そこで、あると無いの二つを掛け合わせて、成るとする式をあてはめることができるだろう。

 この式によって、日本は成る、とすることができそうだ。どのように成ってゆくのかは定かではないが、変化しつづけながら、よくも悪くも動いてゆく。そういうふうに見なすことができる。このさい、先の極論においての、日本が死ぬようなことになったとすると、そのように成ったとして受けとめるしかない。どう成るのかはじっさいには確実には見通せない。

 かりに最悪の事態がおこったとして、それをすんなりと受け入れられるとはかぎらない。どうしても認めがたく、拒んでしまうとしても不自然ではないだろう。周りの状況にただ流されてゆくだけでは、主体的とはいいがたい。いっぽう、人間はある程度は環境に適合するところが大きく、慣れる動物だともいわれる。

 仕立てあげられた日本とは、構築されていることをさす。いろいろな構築の仕方ができそうだ。ふだん、自明としているありかたがあるとしても、それを一度カッコに入れるようにすることができる。たまにはそのようにして、相対化することも有益かもしれない。

 出生についてはどうだろうか。神話としては、日本は万世一系であり、古来より連綿と天皇制が続いてきた国とされる。そうした歴史観もあるが、いちおうそれは皇国史観(靖国史観)として一歩引いて見ることにしたい。史実であるより伝承に近い。どのみち、どこが出発点かと見なすのには、多かれ少なかれ神話のかかわるところといえる。

 たとえば、科学による宇宙の始まりを説くビッグバンは、140億年くらい前におこったとされるが、これは有力とはいえ、解釈のひとつだろう。そのように、あるものの出生には謎があるとされる。秘密がある。これは、われわれの生についてもあてはまるのであり、誰しも生まれてきた瞬間をこと細かく覚えているわけではない。

 始まりにおける秘密をどう説くかについては、好みがかかわってくるところがある。何が表され、何が隠されるのかは、その体系にふさわしいかどうかの点で選ばれる。遠近法が形づくられるわけだ。固有の焦点ができあがる。もし焦点を結ばずに解体するようであれば、それがもとあった秘密であり謎であるとできそうだ。

 たとえ神話がかかわってくるとはいえ、それはひとまず置いておいて、国としての連続性を守ってゆくのがもっとも大切なことだともできる。しかし、そもそも連続性など本当にあったのだろうかと疑うことができなくもない。過去や未来とは、現在にとっての他者ではないのか。そうして見ることもできるだろう。

 他者であったとしても、国の名前は保たれるのだから、連続性があると見なせはしないか。とすれば、そこに価値を見いだしたとしても不思議ではない。連続して続いてゆくからこそ安心できるわけである。その点への配慮もなくてはならない。車の運転のように、あるていど視点を遠くに置いたほうが安定するので、あまり刹那の利害に気をうばわれないようにするのもいるだろう。