捨てる神とひろう神

 自由の観点からいえば、一神教多神教ではどちらがよいのか。一神教では、たったひとりの神さましかいないから、その神さまにもし捨てられたらなすすべがない。いっぽう、多神教であれば、ある神さまにもしそっぽを向かれたとしても、別の神さまがいるのでそこまで心配はなさそうだ。捨てる神あればひろう神ありといわれている。これは、かけがえがないのと、かけがえがあるのとの違いだろう。

 そうしてみると、多神教のほうが自由は多い。しかし、多神教であっても、捨てる神が圧倒的に多数だとしたら、あまり恵まれている環境とはいいづらい。ほとんど逆理想郷(ディストピア)のようになってしまう。打たれ弱い気質であると、ある神さまに捨てられたことへの精神的打撃(へこみよう)が手ひどいものになり、立ち直れなくなるおそれがある。

 一神教であっても、それを本心から信じていれば、自由であるといえるかもしれない。なにせ、たったひとりしか神さまがいないのだから、そのぶん濃度が高い関わりになることがのぞめる。形而上学的なところへの意識もおきやすいといえそうだ。じっさいには、完ぺきな信仰をもつことはできにくいかもしれないが、それでも関わりに時間をかけることで芽ばえる心境もありそうである。

 一神教多神教として、単純に対立させてとらえるのはやや皮相的であり、表面的であるかもしれない。もうちょっとたがいを細分化することもできるのだろう。たとえば、多神教の長所とは、同時に欠点でもある。多くの神さまがいるとなれば、悪くいえば浮気ができるのであり、腰が定まりづらい。ふわふわとした態度になってしまいそうである。

 ごく最近知ったんだけど、多神教における本地垂迹(ほんじすいじゃく)のありかたは画期的だなあと感じた。これは、密教曼荼羅(まんだら)に見られるように、一が多としてあらわれるありかたをとっているものだそうだ。一に集約して統合する方向ではなく、逆に多に解体して分解することで、結果としてまとまるといったものである。

 そうした解体するところへ重きをおくのは、面白い発想がとられている気がする。政治でいえば、地方自治地方分権のようなものだろうか。安倍首相の政権による地方創生ともそう遠くはなさそうである。これらは、いまのところかけ声が先行しているきらいがあるため、まだなんとも評価ができないだろうし、未知なところがいなめない。それでも、閉塞した現状を打開する一手としての期待は、(やりようによっては)まったくないわけではないのだろう。

 それぞれのものには個別性があるとすれば、そうした特徴をうまく生かすのがよさそうである。そうすれば、画一化や平準化の行きすぎをくい止めることができそうだ。しかしじっさいには難しく、どうしても単一の尺度によって良い悪いを判断されてしまう。そのほうが効率はよいが、非効率なものが疎外され、排除されてしまうおそれがいなめない。

 効率性をとるのも悪くはないけど、それだけであれば、たんに労力などの節約をしているにすぎない面がある。逆に、労力などをたまには浪費して、非効率になることもいりそうだ。近未来への目的合理性(将来重視)のみならず、今の時点での価値合理性(現在重視)をとることがあってもよい。そこの 2つの合理性の矛盾をどのようにしてつり合いをとるのかが問題だ。どちらかに極度に偏るようでは、あまり健全とはいえないだろう。

 明日は明日の風が吹く、なんていうことも言われている。たしかに、じっさいに明日になってみれば、思ってもみなかったことがおこる可能性もありえる。明日が無いことすらありえる。これを、翻訳家の柴田元幸氏は、スカーレット・オハラるとして、動詞として用いることができるとしていた。たとえば、ふて寝などである。このありようは、スカーレット・オハラせない外からの(または内からの)圧力にたいして抗うことを意味している。

 そうはいっても、まったく無計画に生きて行くわけにはゆかないだろう。誰にも助けてもらえないおそれもあるから、そういう点では(今の日本では)一神教的な現実のほうがより実際的だ。困ったら誰かが手をさしのべてくれる保証はない。しかし、世界的に見れば、日本は物質的な面でもかなり恵まれた環境にあることはたしかである。あとは、格差を改めて、富や利益の配分(還流)がよりふさわしいように行われることがいりそうである。