祝日の挨拶

 アメリカでは、クリスマスの時期をハッピーホリデーズと呼んでいるそうだ。これは、さまざまな宗教を信じる人がいることをおもんばかってのものであるという。クリスマスとだけ呼んだのでは、キリスト教が前に出てしまい、ほかの宗教への配慮に欠けるわけだ。

 これは、政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)からきているものだという。いくら他の宗教とのかね合いがあるとはいえ、さすがに無難すぎる呼び名のような気もする。といっても、とくに個人的には駄目だと否定したいわけではない。たぶん、商売の面もほんの少しはからんでいるのだろう。色んなところに角が立たないほうが、気分の盛り上がりにうかつに水をささないですむ。商業的にいえば利益を損なうおそれが少ない。

 クリスマスからハッピーホリデーへのあいさつの変わり方は、文化から文明への移り行きを示しているのだろうか。その移行は、ずっと以前からおきているものではあるだろうけど、完全にどちらかに行きつくものではないのかもしれない。そして、グローバル化などの、文明的なところへの偏りがおきすぎていることから、文化へとまた戻ろうとする揺れ戻しがおこっているふしがありそうだ。

 文化とは、文明とはちがい、純化の傾きをもつ。固有性といったものである。その純粋なるものへの回帰みたいなのが動きとして出てきている。そういったあり方は、角が立つおそれがあるために、表向きではいましめられる。その表向きのいましめが、政治的正しさとしていわれているものに当てはまるのかもしれない。

 いったいに文化とは輸出できにくいソフトの部分をさし、文明とは輸出できるハードの物質面をいうそうだ。とすると、文化と文明とは、どちらかを取るといったトレード・オフの関わりにあるとは必ずしもいえないのだろう。あくまでもおおまかな傾向としては、物質の豊かさを追い求めるふしはいなめない。そのぶん、文化が失われている。しかし、それをとり戻そうとするさいに、へんな憧憬が入りこみ、都合よくねつ造されるおそれが否定できない。

 政治的正しさは啓蒙的である。いっぽう、そうしたものをうるさく思い、遠ざけようとすると、神秘的な志向がおきてきそうだ。この神秘的な志向は、感情とか意思を重んじるものといえそうである。啓蒙を理とすると、神秘は気だろうか。

 科学の発達した時代に、いまさら神秘的なものをもち出すのは、あまりにも唐突で軽率であるかもしれない。しかし、たとえば国民国家における主権をとりあげてみても、それを正当づけるものははっきりとは見いだしづらい。なにか神秘的な、非科学に近い神話であるとか血縁であるとかいう象徴をもち出すしかなくなるのではないか。われらと、外部であるかれらを分け、排斥する。

 政治的正しさとは、かくあるべきありようをよしとしたものだろう。そのかくあるべきといったものが行きすぎてしまうと、反動が形づくられてしまうことになるわけだろうか。少なくとも、その正しさには、まさにしかるべきものだとされていた時点から、経済学でいわれる限界効用逓減(ていげん)の法則がはたらくのかもしれない。または、乱雑さ(エントロピー)が増えてゆく。いわば、形骸化するのである。

 政治的正しさをとりつづけるのだとしても、その掲げられた普遍から、取りこぼされてしまうところが出てくるのだろうか。疎外がおきてしまう。矛盾が生じる。そこをどうするのかの問題が生じてきそうだ。正しさとはいっても、それは仮説にすぎないと見立てることもできるだろう。であるなら、その仮説を打ち壊すべきときもくる。

 いや、果たしてそうだろうか。土台から決まりごとをひっくり返してしまうようだと、ルサンチマンだといわざるをえない。なにも精算主義的にすべてを無かったことにする必要はないだろう。かりに陳腐な決まり文句なのだとしても、世に流通しているかぎりは意味と力がある。それに、何でもありとなって、万人が不毛に争いあう自然状態のようになってもまずい。
 そのうえで、時代が動いてゆくのにしたがって、中身をふたたびふさわしいように改めるなどするのがいいのかもしれない。具体的に改めるのではないにしても、再検討の機会くらいはあってもよいといえそうだ。