危機と改革

 危機を叫びながら改革をいうのはおかしい。ほんらい、改革には危機をいうことはいらない。いらないにもかかわらず危機をいうのには、まやかしがあることが多いといえる。経済学者の高橋洋一氏のツイートを見たら、このような言及がされていた。改革をやるのならただやればよく、そこに説得力を増そうとする手段として危機をもってくるのは駄目だ、といっているわけだろう。

 高橋氏のこの言及をふまえると、元大阪市長であった橋下徹氏が手がけた大阪改革や大阪都構想はまちがいだったとなってくるのではないかと感じた。もともと、大阪の財政がきわめて悪くなっていたところに、これではいけないとして立ち上がったのが橋下氏であったためである。

 この橋下氏のなした(なそうとした)ことへの是非は、人によってちがうかもしれない。財政ひとつをとってみても、そこに危機を見るか見ないかは、あまりはっきりとはしないところがあることはたしかである。なぜかといえば、数字の額が大きすぎるためだろう。いまいち実感がもちづらいところがある。

 その、実感がもちづらいところをどう見るかのちがいがあげられる。あえてしっかりと目を向けて律してゆこうとするのか、それとも逆に、いい加減またはあいまいにごまかしてうやむやにしてしまうこともできなくはないだろう。

 態度の決定ができづらいのには、社会的矛盾がかかわっているからだろう。つまり、財政でいえば、赤字を減らしてゆくのがよいとしても、いや、赤字を増やしてもいいんだ、ともできてしまうわけである。赤字を増やすことへの誘因がけっして弱くはないせいだといえる。今まで大丈夫だったのだから、これからも、といった希望的観測による期待がはたらく。

 もしかりに、ほぼまったく財政の破綻の心配がいらないとしよう。それなら、安心だといえるのだろうか。むしろ逆に、いっけん破綻しないようだからこそ、かえって危ないのだといえはしないか。なぜかといえば、まちがったことをやり続けてしまうおそれがあるためである。むちゃくちゃなふうにやっていても、それに歯止めがかからない。

 憲法改正なんかについても、高橋氏の先の言及をもち出すことができないかと感じる。ここには、まちがいなく危機の意識が関わっているとできそうだからだ。そして、改革に危機をいうのはまやかしが多いのだから、いたずらに周りからの(または国内の)脅威をあおることは避けたほうがよいだろう。

 じっさいのところ、危機をもち出すなといわれても、ある人が危機を感じたり、それが他に伝染するのは多少はやむをえないところもある。そもそも、危機感なくしてだれが改革や変革をやろうとするだろうか。重い腰をふつうは上げたがらないものではないかという気がする。また、危機意識は必ずしも悪いものではない。ある点では、ものを認識するのに欠かせないきっかけだろう。

 危機が認識のきっかけになりうるとしても、認識を導く利害関心といわれるものもあるそうだ。利害といった要素がからんできて、それが一致していないと、摩擦が激しくおきる。これを折り合わせて合意をつくるのは、対立が深いと簡単ではない。

 すくなくとも、いくら危機ではないとはいえ、もしじっさいに危機であったら、といった仮想(シミュレーション)の見地に立つことは不毛ではないといえる。むしろ率先してやるべきだ。よって、頭ごなしに危機であるおそれを否定または否認するべきではないと思うのだ。もっとも、心理による仮想をじっさいの事実ととりちがえることには注意しないとならない。
 それと同時に、いたずらに危機をあおり立てるのもまた問題だ。あまりにそうしてあおり立ててしまうと、ともするとひどく幼稚にならざるをえない。大人として、つり合いのある冷静さをできれば最低限はもつこともいりそうである。