すする音

 麺類をすする音がうるさい。外国の人にはそう感じられるようだ。これをヌードル・ハラスメント(ヌーハラ)と呼ぶ。たしかに、麺をずるずるとすするのは、周りにたいしてこれみよがしなところもなくはない。不快に思ったとしても不思議ではなさそうだ。

 まったく音をたてないように食べるのでは味気ないところもある。味に変わりはないとはいえ、五感を通じて楽しむところもある。そのうちのひとつが駄目だとされると、何か欠けているようなふうにも感じられる。

 麺だけではなく、お茶なんかでも、すすって飲んだりするなと思いあたる。湯のみ茶碗に入れた熱いお茶は、あまり無音では飲まないものだろう。この延長で、料理のスープを音をたてて飲んでしまうと、マナーに反してしまう。

 日本では、邦楽においてはサワリとよばれる雑音が使われるそうだ。嫌われてとり除かれるべき雑音が、逆に演奏のなかでとり入れられてうまく活かされている。これが西洋だと、音楽で使われる楽音と、そうではない雑音とがきっちりと分けられるのだという。楽音とは、いわば抽象的な美しさをもつものとされる。

 そうしたところから、西洋の人の耳だと、雑音がよりきわ立ってとらえられると察せられる。いっぽう日本人の耳には、雑音が必ずしも否定すべきものではなく、むしろ快になりえる。そうした事情がはたらく。

 麺をすする音とは、日本人の身体性に根ざしたものといえるのだろうか。とはいえ、同じ日本人でも、なかには不快に思う人も少なくはないかもしれない。落としどころとしては、すする音をなくさなくてもよいだろうけど、音量を下げ気味にするのがよいのではないか。お互いゆずり合うといったあんばいである。ただこれでは、双方が納得するとはゆきづらいだろうけど。

 麺をすする音が不快にならない人にとっては、そのすする音に身体がのれるのである。だから雑音とはとくに見なさない。いっぽう、不快だと感じる人においては、その音に身体がのれないから、無いほうがよい雑音と感じられる。そうしたちがいがありそうだ。