差別にあたる

 差別用語を用いるのはいけない。あまりその決まりばかり重んじすぎると、言葉狩りになってしまうのだろうか。そもそも、差別用語を使わないようにするのは、ひとつの規範のようなものなのだろう。その規範とは一般的なものであるため、絶対的とまではいえそうにない。なにが差別用語にあたるのかは、一義では決まらないところもある。

 差別発言だといった批判にたいして、それは言葉狩りだろうと反論する。この反論において用いられる言葉狩りとは、相手にたいするレッテル貼りにあたりそうだ。だから、いたずらにレッテル貼りをするのはどうなのかとして疑問を投げかけることもできる。

 あと、言葉狩りだろうと反論するのは、わら人形論法になっているところもある。なんの生産性もないのが言葉狩りであるからだ。ただ上っ面のところを、重箱の隅をつつくかのようにしてあげつらっているわけである。しかし、それは言葉狩りとして相手にレッテルを貼ることによって、不当におとしめているおそれがいなめない。ただこれは、差別発言への指摘にもいえるものだが。

 いらぬ誤解を与えないために、前もって選択肢のなかからとり除いておく。そうした忖度をはたらかせるのが自主規制にあたりそうだ。ほんらい、差別用語を使わないとは、そうしたものが基本にあるのだろう。どこまで敏感になるのかの線引きは、はっきりしないところがある。そこは、とりまいている社会関係のなかで決まってくるといえそうだ。

 ちょっと的はずれなところがあるかもしれないが、たぶん、不用意に(またはわざと)差別発言をするのは、お笑いでいうボケにあたるのではないか。なので、つっこまれるわけである。これが、もしつっこみがなかったとしたら、ボケに歯止めがかからないおそれがいなめない。なので、つっこみにも一定以上の効用がある。

 とはいえ、見逃されるボケもあるだろうから、公平とはいえない。また、つっこみを入れることの正当性はどこからくるのかといえば、厳密にはよく分からないところがある。おそらく、これは美意識みたいなのが関わっているためだろう。そして、美意識とはいったいに偏っているものである。なので、中立的とはいえないところもある。

 差別用語を使うのと、差別するのとを、分けてとらえたほうがいいのかもしれない。差別するのを、差別用語を使うことに矮小化してはならない、とはいえないだろうか。そのうえで、お互いさまなところがあるから、ゲーム理論でいわれる共貧(囚人のジレンマ)状態にならないようにすべきではあるだろう。どちらも得しないわけだから。