読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ふさわしい弁護

 被害者よりも、加害者を大事にするのはおかしい。逆であるべきだ。心情としては、理解できる話である。たしかに、被害者よりも加害者のほうを大事にしてしまうようでは、あべこべだといわざるをえない。

 なぜ、加害者のほうを大事にしてしまうのか。それは、弁護士の人がお金になるからそうするのだ。そのような意見もある。しかし、これは疑問を投げかけざるをえない。聞くところによると、加害者を担当する国選弁護士は、そんなに商売としてはうまみはなく、むしろ損するくらいだという。だから、引く手あまたなわけではないそうだ。

 ほんらい、加害者よりも被害者のほうを大事にすべきである。もし譲歩するにしても、せめて両者を均等くらいにするのならまだわからなくもない。それでも、納得がゆかないことはたしかである。これは、なぜ不つり合いになるのかといえば、たぶん、分業によっているからだろう。担当がちがうので、それぞれの言い分をふまえて裁くと、ちょうど(just)のところが世間の感覚とややずれるのではないか。

 加害者は罰せられればよいのであり、弁護されるのはおかしい。そのうえで、なぜ弁護されるのかといえば、ひとつにはそれはえん罪のおそれがあるからだろう。誰にでもえん罪の当事者になる可能性がある。そのため、もしえん罪であって、不当に罰せられようとしているのなら、といった想定をすることがいる。

 そうしてみると、被害者を最大限にまでかばい、加害者を最大限にまで罰するのは、ひとつの義(正義)ではあるが、唯一とはいえそうにない。加害者を、えん罪の当事者(の可能性)として見るのもまた、義であるのではないか。被害者の立場に立てば、どうしても認めたくはないことが多いにしても。

 人格形成責任論といって、加害者だけではなく、それをとりまく社会や経済にも責任があるとする見かたもあるそうだ。だからといって、社会や経済にそのすべての責任をあてはめるのはまちがいだろう。

 悪は実体ではない。儒教性善説によればそういえるらしい。そこからすると、悪人もまた実体ではないだろう。ただ、性善説によらず、性悪説で見ることもできる。たとえ悪が実体ではないとしても、それで被害者の心情が必ずしも晴れるわけではない。人の性(さが)をどのように見なすかは難しいところである。

 加害者をかばうのは、やましいところが自分にあるからだ。そういった勘ぐりもできる。それでもあえてかばえるとすれば、そもそも社会のなかで犯行が生まれてしまう前に、何らかの形で芽を摘んでおくことがのぞましい。そんな手間をなぜわざわざかけなければならないのかと批判されるかもしれない。いまより厳罰化するだけでも抑止力になることがのぞめる。

 ただ、厳罰化してしまうと、個人の自由の総量が、社会のなかで減るおそれがある。犯罪が減れば個人の自由が増えるではないか、ともいえるけど、厳罰化して犯罪が減る保証はないのではないだろうか。少なくとも、絶対の確証はないのかなと感じる。すなわち、厳罰化と、(犯罪の減少である)抑止の達成とは、因果があるとは必ずしもいえない。

 厳罰化とはいわず、適罰化といったほうがふさわしいのだろうか。それならば、やることに意義があるといえそうだ。もちろん、どれくらいが適切な罰かといったことはなかなかはっきりとはできづらい。人によっては、厳しすぎるとなったり、または甘すぎるとなったりする。あまり甘すぎると、犯罪を抑止する力がなくなってしまうことはたしかといえそうだ。

 もし個人が国家(機関)に目をつけられたとしたら、猫ににらまれたねずみに等しい。もちろん、窮鼠猫を噛むといったことがないわけではない。ただ、国家のしつようさや粘り強さは、生半可なものではなく、それこそ個人を追い詰めようと思ったらどこまででもできてしまう。それで不幸な目にあった過去の無実の先人はけっして少なくはないだろう。

 そうしてみると、たんに反感や道徳の点で見てしまうのは、いっけん正当なようでもあり、じっさいに正当な部分もあるだろうけど、もうちょっと角度を変えて多角的に見てゆくこともできなくはない。治安がひどく悪ければ、ことは急を要するかもしれないが、そこはできれば労力をさいて見たほうがいいと思うのだ。ただ、あんまり賛同は得られない(むしろ反感を買うかもしれない)意見かもしれないけど。

広告を非表示にする