道徳をもつべき

 政治家は道徳家ではない。たしかに、そうなのかもしれない。もし道徳家であれば、人を押しのけてまでも上に立とうとはしないはずである。むしろ、人に譲るくらいなものだろう。それに、政治家を道徳家と見なしてしまうと、悪いことはしないとする前提に立ってしまう。これはよくないことである。むしろ、疑ってかかるくらいでないと、裏で不正が横行するおそれがいなめない。

 政治家を道徳家と見なしてしまうと、政治家によけいな心理の負担がかかってしまうこともありえる。人間であれば、多少は(害がないのなら)はめをはずすことがあってもよいし、ときには間違うこともある。いったいに、しゃべることをなりわいとする人は、堅物な性格ではつとまりづらく、どこか遊び心をもっていないとならないといわれる。

 そうはいっても、政治家は道徳家ではない、ときっぱりと言い切られると、何となく気持ちがもやっとするような気もする。これはなぜなのだろうか。ひとつには、東アジアにおける儒教の影響があるといえるそうである。儒教では、人の上に立つ者は、道徳的であらねばならないとされているようだ。なので、そこからの期待がかかっていると見ることができる。

 政治家は道徳家であるべきなのは、徳治主義といわれるものだろう。君主のすぐれた徳によって治めるありようである。それとはちがい、むしろ時には逆に悪徳になるくらいでないとうまくゆかないとするのが、マキャベリにおける現実主義にあたるのだろう。これは、お高く止まった理想的な徳のありかたを揶揄したものであるそうだ。

 少なくとも、政治家は聖人ではないとはいえそうだ。おそらく、ふつうの人とそれほど隔たったものではない。人々の代表なわけだから、(よい面も悪い面も)人々のありようを反映していると見ることができる。

 公人は、税金によって賄われているものだから、その点についての自覚をもつことがいる。それを道徳と呼ぶこともできなくはない。あとは、権力で人を強いることができるのも公人だから、それが濫用されないようにきちんと見はるのもいるだろう。

 道徳の語のおよぶ範囲を、拡大してしまうこともできる。あんまり拡大しすぎてしまうのは、よけいな圧をかけることにつながるので、だれも得をしないかもしれない。道徳をへたに押しつけすぎると、上げ底になるから、実態と大きくかけ離れる。そこに本質はないわけだから、あまり特別視しすぎるのもよくないのかもしれない。