取り戻す

 アメリカでは、新しい大統領が選ばれた。なぜドナルド・トランプ氏が選ばれ、ヒラリー・クリントン氏が敗れたのか。そこにはさまざまな要因がありえるのだろう。そのうえで、おそらくトランプ氏のほうが、よりアメリカをとり戻せると人が期待したからではないか。いや、それよりも、ヒラリー氏ではアメリカをとり戻せはしない、むしろ失ってしまう。そういう危惧があったのかもしれない。

 自国民第一主義とは、主体の回復ととらえられそうだ。アメリカをひとつの主体として見ると、それが今はばらばらになってしまっている。そのような現状認識がもたれていることがありえる。べつにばらばらだったとしてもいいではないか。多神教として見ればそうかもしれない。しかし、一神教からすると、そうであってはまずい。

 いまアメリカで失われているのは、統制であり、効力感である。これは、維持力であるそうだ。国として見たら、この維持力(sustaining power)が損なわれてしまうのはまずい。何とかそれを手に入れなければならない。そうした思いが、いわば強迫的な観念となる。ひとつの教義(ドグマ)として重みをもつ。

 自信を失い、無力感にさいなまれる。そうしたありようを改めるには、求心力をもつのがよいのだろう。意志をもち、現状を変えようとする。いまのありかたを否定するわけである。ばらばらの、遠心のありかたをよくないものとして見なす。

 自己尊厳をもつためには、自己解放がなされなければならない。この自分の解放を妨げているものをとり除く。とり除くとは、攻撃(口撃)することをもふくむ。何よりも、まず主体性を回復させることが優先されるために、他者への配慮などといった悠長なことは言ってはいられない。

 アメリカの思想として、このような構造の担い手となるのが、トランプ氏といえるのではないか。このアメリカに特有の思想とは、評論家の最所フミ氏が指摘しているものである。そしてこのアメリカの思想は、なにもアメリカに限定されるものではなく、世界にまで広くおよぶものであることはほぼまちがいがなさそうだ。

 いかに国の主体性が損なわれているか。尊厳が傷ついているか。統制がなくなり、無力感にさいなまれているか。そしてそこから脱するのを何よりも重んじる。そうした教義を明確に打ち出し、また強迫的な観念をより有効にあおり立てる。その点において、輪郭の明確さと、成員をまきこむ力が強かったのがトランプ氏であり、逆に弱かったのがヒラリー氏だったのかもしれない。

 たとえ成員をまきこむ力が強かったとしても、それによって正しさが保証されるわけではない。全体は虚偽である。これは哲学者のテオドール・アドルノの言ったことであるそうだ。また、解釈学的循環構造といったものもある。部分を見れば全体が定まらず、全体を見れば部分が定まらない。そうしたものだという。

 ばらばらになり、まとまりが欠け、国の主体性が損なわれているとしよう。そうしたありようは、おしなべて否定的なものだろうか。必ずしもそうとはいえないだろう。もし頭ごなしに否定してかかるのであれば、二元論におちいっているといわざるをえない。混沌は(新しい)秩序のはじまりでもある。革新は正統ではなく、異端がその担い手になるともいえるそうだ。