アメリカでの東洋系への差別の暴力と、中国とウイルスとの結びつけ

 アメリカの国内では、東洋系の人たちにたいして暴力がふるわれることがおきているという。

 アメリカ国内のおよそ三分の一の東洋系の人たちが、自分が差別による暴力をふるわれることを恐れている。そうした調査の結果が出ていた。

 東洋系の人たちに暴力がふるわれているのは、アメリカのドナルド・トランプ前大統領が言ったことが引き金の一つになっているという。

 トランプ前大統領は新型コロナウイルス(COVID-19)についてを中国から来たウイルスだとした。中国は東洋の中心となるような大国であり、アメリカとぶつかり合っている。そこから東洋系の人たちがウイルスをもたらしているといったことで、差別がおきているのである。

 中国のウイルスとか、中国の肺炎といったような呼び名で新型コロナウイルスのことを呼ぶ。中国にまつわるウイルスだと呼んでしまうことで、それがひいてはアメリカの国内にいる東洋系の人たちに差別の暴力がふるわれることをうながしてしまう。

 中国にまつわるウイルスなのが新型コロナウイルスだとしてしまうと、間接としてアメリカの国内にいる東洋系の人たちに害がおよぶ。他者に危害がおよぶことになる。加害と被害がおきるなかで、間接に加害の行ないをしてしまうと、それによって被害がおきてしまうことがあるから、それには気をつけたい。

 過去の歴史においては、ナチス・ドイツユダヤ人に差別の暴力をふるったのと同じように、たとえ東洋系だからといって差別の暴力がふるわれないようにしたい。ユダヤ人であるのは何々である(is)ことだが、そこから何々であるべき(ought)を導くのは自然主義の誤びゅうだ。それと同じように、東洋系であることから何々であるべきを導くべきではない。

 世界のさまざまな国においてウイルスの感染が広まっているのは危機がおきていることだ。危機がおきているさいには悪玉化がおきやすい。それが見られたのが歴史においてナチス・ドイツユダヤ人に差別の暴力をふるったことである。

 危機においておきやすいのが悪玉化であり、そのことがかいま見られるのがアメリカでおきている東洋系の人たちへの差別の暴力だ。アメリカの国内において東洋系の人たちは相対的にぜい弱性や可傷性(vulnerability)をもつ。ぜい弱性や可傷性をもつために、悪玉化(scapegoat)されやすい。そのことをうながしたのがトランプ前大統領がウイルスを中国から来たものだとしたことだろう。

 国の中においてどのような人たちがぜい弱性や可傷性をもっているのかがある。どのような人たちが悪玉化されやすいのかがある。少数者や弱者はいざとなったときに悪玉化されやすく、危機のさいに差別の暴力をふるわれやすい。それが見られるのがアメリカにおいて東洋系の人たちに差別の暴力がふるわれていることだ。

 歴史においてナチス・ドイツユダヤ人に差別の暴力をふるったことをふたたびくり返してしまわないようにしたい。そのためには何々であるから何々であるべきを導かないようにして行く。国において危機がおきているのだとしたら、そのなかで悪玉化されやすい少数者や弱者に差別の暴力がふるわれないようにして行く。

 いろいろな情報が流れる中で、その情報の生態系の中において、どのようなものが悪いものとして言われているのかに気をつけたい。たとえ悪いものと言われているものであったとしても、その客体がほんとうに悪いものなのかはわからないことがあるから、そのまま丸ごとうのみにはしないようにしたい。

 ナチス・ドイツにおいては、ユダヤ人を悪いものとして、悪い客体としたわけだが、それは国が危機におちいっている中において悪玉化されやすい者に差別の暴力をふるうことにつながった。そこから言えることは、国の中において悪玉化されやすい少数者や弱者をいかに救うことができるかだろう。

 ナチス・ドイツにおけるユダヤ人に当たるものはいったい何なのかを見て行くようにしたい。そのユダヤ人に当たるものとは、国の中においてぜい弱性や可傷性をもつものであり、悪玉化されやすいものだ。それゆえに、何々が悪いとされる客体があったのだとしても、それは悪玉化されやすいものであることを示しているおそれがあるので、ユダヤ人に差別の暴力をふるったようなことがふたたび行なわれるおそれがおきてくる。

 中国にまつわるウイルスなのだから、中国が悪いとか、東洋系の人たちが悪いとしてしまうと、何々であるから何々であるべきを導く自然主義の誤びゅうにおちいってしまう。そうはならないようにして、そもそも何が悪いのかや、悪いとはどういったことなのかを多少は見て行きたい。

 ウイルスのことはさしあたってわきに置いておけるとすると、悪いことや悪さといったものがあるとすると、それは空虚さや病といったことがあげられる。人々が病んでいたり国が病んでいたりする。そこに悪さがあるのだと見なせる。力(権力)をもった大人たちが悪くなっていて病んでいる。

 国が病んでいるのがあることから、客体としての国が悪いといったことが言えるだろう。それは中国にかぎらずアメリカにも日本にも当てはまることだ。客体としての国のもつ悪さや、国が病んでいることに目を向けることができるから、国の退廃(decadence)に目を向けるようにしてみたい。

 その地域の暴力を独占しているのが国だ。いわばやくざや暴力団に等しいところをもつ。歴史において国が個人のもつ基本の人権(fundamental human rights)の侵害をしたことは多い。そのことがあるから、ウイルスのことはさしあたってわきに置いておけるとすると、たとえ中国であろうともアメリカであろうとも日本であろうとも、いずれにしても国であるからには気をゆるすと個人のもつ人権を侵害しやすい。

 できるかぎり立憲主義(constitutionalism)によるようにして、国に個人の人権を侵害させないようにして、国の権力が暴走しないように歯止めをかけるようにして、抑制と均衡(checks and balances)をかけるようにして行かなければならない。個人が尊重されるようにして、ちがいをもっている個人に差別の暴力がふるわれないようにして行きたい。たとえ東洋系であったとしても、個人として尊重されることがいり、それぞれの個人そのものが目的としてあつかわれるようにしたい。

 参照文献 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『フェイクニュースを科学する 拡散するデマ、陰謀論プロパガンダのしくみ』笹原和俊 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『日本国民のための愛国の教科書』将基面貴巳(しょうぎめんたかし) 『憲法主義 条文には書かれていない本質』南野森(しげる) 内山奈月 『「他者」の起源(the origin of others) ノーベル賞作家のハーバード連続講演録』トニ・モリスン 荒このみ訳

これまでに選手は大会に向けてがんばってきたのだから、五輪はひらくべきなのか

 予定されているとおりに東京都で五輪をひらくべきなのだろうか。その点については、五輪がもっている機能と構造を明らかにする。どのような状況において五輪を開こうとしているのかを見て行く。それらを見て行くようにしたい。

 これまで五輪に出るためにがんばってきた選手のためにも、五輪はひらくべきだといった声が言われている。与党である自由民主党の政権は、新型コロナウイルス(COVID-19)に人類がうち勝ったあかしとして五輪をひらくと言っている。また世界の人類が団結するあかしとして五輪をひらくと言っている。

 プラスとマイナスとゼロがあるとして、五輪のもよおしがもっている含意はそれらのうちのどれに当たるのだろうか。五輪のもよおしにプラスの含意をこめることが政権によって行なわれている。政権がやっているように明らかにプラスの含意をこめられるのかといえばそうとは言えそうにない。マイナスのところが少なからずある。

 五輪がプラスの含意をもつのかどうかでは、もしも日本の東京都で五輪をひらかなくてすむのであったとしたらといった仮定をとることがなりたつ。いまの状況の中で日本の東京都で五輪をひらかなければならないのと、ひらかないですむのとを比べてみたら、ひらかないですむほうがプラスだっただろう。ひらかなければならないからやっかいなことになっているのだ。いまの状況においては五輪をひらかなければならないのは見かたによってはマイナスに当たることだろう。

 どのような機能と構造を五輪のもよおしが持っていて、どのような状況の中でそれを開こうとしているのか。それがあるのを見てみられるとすると、ウイルスの感染が広まっている状況の中で五輪のもよおしを開こうとしているのがあり、その具体の状況のところに重みをもたせられる。

 ふつうの状況のときであれば五輪にプラスの含意をもたせることはなりたつものだろう。ふつうのときであればプラスの含意をもたせたとしても状況とそぐわなくなることはおきない。ふつうのときであればそうだが、ふつうではないことになっていて、ウイルスの感染が社会の中で広がっているのがある。その中で五輪のもよおしにプラスの含意をもたせることは難しくなっているのだ。マイナスの含意がとれるのである。

 いろいろな状況と相関するものとして五輪があるのだととらえられる。どのような状況であったとしても五輪をひらくべきだとは言えないだろう。ふつうの状況のときもあれば、そうではない状況のときもある。いろいろな状況のちがいによって五輪のもよおしがもつ含意や意味あいは変わってこざるをえない。

 日本の国の中の状況と、国の外の世界の状況とがある。日本の国の中の状況だけではなくて、国の外の世界の状況がどのようになっているのかを見て行くことも欠かせない。日本は国の中に目が行きがちであり、国の外の世界がどうなっているのかに目が行きづらく、外にうといと言われているのがある。日本の国の外へ目が行きづらい。島国であることがわざわいしている。

 日本の国は自民族中心主義(ethnocentrism)のところがある。日本の国が中心化されているのだ。じっさいには日本の国は世界の中心ではなくて極東(far east)にあるのにすぎない。日本の国は世界の中心にあるのではなくて極東の島国であるのにすぎないことがわかっていない政治家は少なくない。たとえば、日本の国について、世界の真ん中で咲きほこれと言う政治家がいるのにそれが見てとれる。

 内向きになりすぎず、日本の国の外の状況がどうなっているのかにもきちんと目を向けるようにしたい。日本の国の中の状況もよくわかっていなくて、日本の国の外の状況もよくわかっていない(つまり国の内外のことがろくによくわかっていない)のが現実の日本の国のありようだろう。

 五輪のもよおしを X であると言えるとすると、それをひらくことになる具体の状況は Y だとできる。どのような状況つまり Y であったとしても、五輪のもよおしである X のもつ含意や意味あいは不変であるとは言えそうにない。さまざまな状況つまり Y のちがいによって、五輪のもよおしである X がプラスになったりマイナスになったりする。X は X として単体であるよりは、Y に相関していて、Y しだいのところがある。どういった状況つまり Y なのかをきちんと見て行くことが欠かせない。

 たとえどのような状況であったとしても、だれにとっても五輪のもよおしがプラスの含意を持つのだとは言えそうにない。ある状況のときにおいて、そしてだれかにとっては五輪のもよおしはプラスの含意をもつだろうが、そのことをすべての状況やすべての人に当てはまるものだとして全体化することはできづらい。脱全体化されるべきだろう。

 社会のなかにはいろいろな遠近法(perspective)をもった人たちがいるから、ある人にはプラスでも別の人にはマイナスになることがあるし、プラスでもマイナスでもないこともあり、それぞれでちがいがある。とりわけそのことにたいして強い動機づけ(incentive)がおきる人もいれば、動機づけがおきない人もいて、それはそれぞれの人が置かれている具体の状況がちがうからだ。みんながまったく同じ一つの状況に置かれているのではない。

 全体の最適(global optimal)であるよりも部分の最適(local optimal)にならざるをえないのがある。五輪をひらくにせよひらかないにせよ、部分の最適にならざるをえず、客観の合理性であるのではなくて主観の合理性にとどまる。かりに五輪をひらくにせよそこに客観の合理性があるとは言いがたく、どこからどう見ても非の打ちどころがないほどにまったくもって正しいことだとは言えないものだろう。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)

日本で五輪を開くべきかどうかと、日本の国にはたらく外からの外圧

 国際オリンピック委員会(IOC)は、すでに五輪を開くことを決めている。与党の自由民主党菅義偉首相は会見の中でそう言っていた。首相が会見の中で言っていることはどのようなことを意味するのだろうか。

 五輪のことについてを IOC に丸投げしている。そのように首相の発言からは見える。これは日本がすでに決まったことである既成事実に弱いことを示している。それにくわえて日本の政治の無責任の体制があらわれている。さらに、日本をとり巻く他国や世界からの外圧によって日本の政治が決められていることをしめす。

 日本の政権と IOC との関係や、日本の政権とアメリカの国との関係がある。これらの関係は日本にはたらく外からの外圧だと言える。日本の政権は外からの外圧によって動かされるところがあり、他者によって駆動されている。外からはたらく外圧にはさからえない。自律(autonomy)ではなくて他律(heteronomy)になっていると言えるだろう。

 日本の首相がアメリカに行ったさいに、日本とアメリカはお互いに一致したといったことがいくつも言われていた。この一致についてをとり上げてみると、日本とアメリカとでいろいろと一致しているとされるように、日本と IOC とでいろいろと一致しているといえるのだろうか。一致であるよりもその反対に不一致の点がいろいろにあるものだろう。

 日本の政権は、他国であるアメリカに動かされたり、IOC に動かされたりといったようになってしまっている。日本の外からくる外圧によって日本の国が動かされているのを、一致しているのだと言う。日本の外からくる外圧が主(main)で、日本の政権は従(sub)になっていて、そのことを一致としている。そう見られるのがありそうだ。

 いろいろなものに依存してしまっているのが日本の政治のありようであり、依存するものの一つに当たるのが日本の外からくる外圧だ。困ったことになったら日本の外にある外圧であるアメリカに頼ろうとしてしまう。日本の国が自分たちで何とかしようとしない。自分たちで駆動しようとしない。IOC が決めたことだからといったことで、IOC のせいにする。日本の国ではなくて他のもののせいにする。そこから日本の国の無責任の体制がおきることになる。

 日本がアメリカと一致していることが多いのは、たんに日本がアメリカに依存しているからにすぎず、日本が外からの外圧に弱いことをしめす。そのあり方を改めるためには、日本とアメリカとでどこが一致していないのかの不一致をいろいろに明らかにして行きたい。

 日本の国内でいえば、政権と反対勢力(opposition)とのあいだで、一致していない不一致ばかりではなくて、どこがお互いに一致しているのかを明らかにして行く。それが行なわれていない。お互いに折り合うことが行なえていないのである。政治では、お互いに対立し合うだけではなくて、お互いに協調し合うことが欠かせないのがあり、政権と反対勢力とのあいだでの協調が欠けている。信頼し合えていない。協調が欠けていて対立だけになってしまっているのはおもに政権をになう与党である自民党に責任がある。

 日本の国外や国内において、どういったものがお互いに一致し合っていて、どういったものが不一致になっているのかをはっきりとさせて行く。それが行なわれればのぞましい。一致していることばかりをいろいろに言うことが害になることがあるし、不一致のところばかりをいろいろに言うことが害になることもある。

 政治では対立だけではなくて協調することがいるから、対立ばかりではまずいし、協調ばかりでもまずい。不一致のところばかりを言うのは対立をあおることになりすぎる。一致しているところばかりを言うのは協調をあおることになりすぎて、ほんとうは対立つまり政治があることを隠ぺいすることになるからまずい。どこがお互いに対立し合っているのかを明らかにして行き、政治化をうながすべきだろう。

 参照文献 『政治の見方』岩崎正洋 西岡晋(すすむ) 山本達也 『絶対幸福主義』浅田次郎 『現代政治理論』川崎修、杉田敦編 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『静かに「政治」の話を続けよう』岡田憲治(けんじ) 『どうする! 依存大国ニッポン 三五歳くらいまでの政治リテラシー養成講座』森川友義(とものり) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや)

ミャンマーの軍事政権と、国の権力の本当さとにせものさ―にせものの表象の共同幻想である国とその権力

 ミャンマーでは軍事政権が国の権力をにぎっている。われわれこそが本当の国の権力者なのだと軍事政権は言っている。

 これまでに軍事政権はミャンマーの中で七〇〇人を超える国民を殺している。そのなかで軍事政権はミャンマーのほんとうの権力者に当たるものではないといった見かたが投げかけられている。民主の手つづきによって選ばれたのが軍事政権ではないから、ほんとうの国の権力者に当たるのではない。

 軍事政権がいまのところ国の権力をにぎっている。そのなかで民主主義をよしとする集団が形づくられている。アウン・サン・スー・チー氏らを含む。民主主義によるものこそがほんとうの国の権力者に当たるものだとする動きがおきている。この二つがある中で、はたしてどちらが国の権力としてよりふさわしいものなのだろうか。

 軍事政権と民主主義の集団の二つがあるとして、この二つがもつ共通点とはいったい何だろうか。共通点があるとして、それはそもそも国の権力は何らかの形でさん奪されるものであるのがある。よりろこつな形でそれがあらわれているのが軍事政権だと言えるだろう。それよりもおだやかな形で権力をさん奪するのが民主主義によるものだ。

 もう一つの共通点としては、軍事政権と民主主義の集団は、ともに表象(representation)である点だ。どちらも国民そのもの(presentation)ではない。軍事政権は国民そのものではないから、ほんとうの国の権力に当たるものだとは言えそうにない。それと同じように、たとえ民主主義の集団であったとしても、国民そのものではないから、ほんとうの国の権力と言い切ることはできづらい。あくまでも表象にとどまっているのだ。ほんとうのとか真のと言ってしまうと大衆迎合主義(populism)にかたむく。

 一か〇かや白か黒かの二分法では割り切りづらい。それがあるために、軍事政権こそがほんとうの国の権力だとは言えないし、民主主義の集団こそがほんとうの国の権力だとも言い切れないだろう。どちらもが表象にすぎないものだから、完全に国民の全体を代表することはできない。民主主義によって多数派を形づくって与党になったとしても、その与党は政党(political party)だから、全体ではなくて部分(part)を代表するのにとどまる。

 どちらがほんとうに国の権力と言えるのかでは、ほんとうのものとにせものとのあいだの分類線は揺らぐ。たとえ民主主義の集団だとしても、ほんとうの国の権力とは言い切れず、にせのところがあるのはいなめない。にせのところがあるのは、自分の目で一つひとつのことを確かめることができず、報道などで環境が形づくられるのがあるためだ。あるがままの自然の環境であるよりは、人工の疑似環境になっているのである。人為の構築性がある。

 国の権力をにぎるかぎりは表象にならざるをえず、国民そのものと完全に一体だとは言えそうにない。国民そのものとのあいだにずれがあるのを隠ぺいしたとしても、ずれがあることは否定することができない。

 修辞学の議論の型(topica、topos)の比較からの議論で見てみられるとすると、どちらも表象にすぎず、ほんとうであるよりはにせものである点において、軍事政権と民主主義の集団は類似性をもつ。そのなかで、どちらがより形式の合理性をもつのかといえば、民主の手つづきをふんでいるかどうかにおいて、その手つづきをふんでいるものである民主主義により優位性があるだろう。

 絶対論に持ちこんでしまうと、一か〇かや白か黒かの二分法になってしまう。もともと絶対論による二分法にはなじまないのが民主主義であり、相対論によるものである。相対論で見てみると、相対的により形式の合理性があるのは民主主義の手つづきをふんでいるものであり、頭をじかにかち割るのではなくて数を割ることによる。

 比較からの議論によって見たさいには、軍事政権と民主主義の集団の二つに類似性があるからこそその二つを比べることがなりたつ。二つを比べてみたさいに、軍事政権が言っていることとはちがい、民主主義の手つづきをふむことのほうにより形式の合理性からいって優位性がある。軍事政権のほうが劣位にあるのである。優位か劣位かは絶対のものではなくてあくまでも相対的なちがいにすぎない。どちらも表象にすぎない点では共通点があり、にせものといえばにせものだ。二つを比較してみるとそう言うことが言えそうだ。

 参照文献 『民主主義という不思議な仕組み』佐々木毅(たけし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『抗争する人間(ホモ・ポレミクス)』今村仁司 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優 井戸まさえ

PCR 検査は益になるのか害になるのかと、科学のゆとりの欠如

 ウイルスの PCR 検査を行なう。検査を行なうことは益になると言われるのと、害があると言われるのとがあった。検査に害があると言われるのには、検査をすることによって日本の医療は崩壊するのだと言われていた。

 PCR 検査をすることが益になるのかそれとも害になるのかがあったなかで、そこでいることは何だったのだろうか。そこで欠けてしまっていたこととは何だったのだろうか。それは科学のゆとりだったのではないだろうか。

 科学のゆとりが欠けていたことによって、変なかたちで政治化することになった。政治化してしまうのは、いろいろなものをひっくるめてものごとを総合化して見ようとすることによる。そこに欠けているのは部分を切り分けた形での分析である。

 科学のゆとりが欠けていることによって、ものごとを腑分(ふわ)けすることが行なわれない。ものごとを腑分けしないで、あれもこれもといったような色々なものを含めた形でものごとを見なす。あれもありこれもありといったことで、それらがごちゃ混ぜになって混ざり合ったなかで、政治における結論となるものが出される。その結論が出されるいきさつには、いろいろなことが関わっていて、しがらみみたいなものが色々にまとわりついているのである。

 いろいろな論点がある中で、それらの論点を分けておく。いろいろに論点を混ぜ合わせてしまわないで、一つひとつを切り分けておいて、一つひとつの論点についてを見て行く。それをするためには科学のゆとりがいるが、それが欠けていた。科学のゆとりが欠けていたために、PCR 検査についてと、医療崩壊についてとが、同じ線の上にあるものとしてとり上げられた。

 PCR 検査が益になるのかそれとも害になるのかを見て行くさいには、あくまでもその論点だけを見て行くようにして、それとはちがう医療崩壊などの論点はとりあえず別のところに置いておく。そうしておいたほうが、ほかの論点に影響されないで見て行ける。

 核心と周辺の二つがあるとして、PCR 検査についての核心のところだけではなくて、その周辺のものも含めてしまうと、見なし方が政治化して総合化してしまう。いろいろな論点が混ざりこんでしまう。それを避けるようにして、核心と周辺の二つを切り分けて、周辺はとりあえずわきに置いてしまって捨象する。核心のところだけを見て行く。核心のところを見て行って、PCR 検査がどのような機能をもち、どのような構造なのかを見て行けばすっきりとする。

 プラスとマイナスとゼロがあるとして、ものごとを見て行くさいには、プラスとマイナスの中間にあるゼロの中立のところで見て行くことが大切だ。PCR 検査についてを見て行くさいには、プラスやマイナスによりすぎずにゼロの中立のところから見て行ければよかった。

 PCR 検査には害があって、それをすると医療崩壊がおきるとするのは、PCR 検査そのものであるよりは、どちらかといえば医療崩壊がマイナスを含意していた。医療崩壊がマイナスの含意をもつことに引っぱられて、PCR 検査のとらえ方がマイナスにゆがんだ。ゼロの中立から離れていった。そう見なせるのがあるかもしれない。

 一か〇かや白か黒かの二分法では割り切れないのがあるとすると、プラスにもマイナスにもよりすぎず、ゼロの中立のところから PCR 検査についてを見て行ければよかった。プラスの仮説を絶対化するのでもなくて、マイナスの仮説を絶対化するのでもない。絶対論によるのではなくて仮説による相対論によっていたほうがよかった。

 PCR 検査には害があって、それをすると医療崩壊がおきるとするのは、PCR 検査を黒だとする仮説であり、絶対論によっているところがある。まちがいなく PCR 検査は黒だから、検査をしないほうがよいのだとは言えそうにない。白と黒のあいだの灰色のところを見て行くようにしたい。

 具体論と抽象論を分けて見てみられるとすると、抽象論においてはこう言えるだろう。もしもそれが益にはたらくような検査であるのならば、それは行なわれたほうがよい。理想論といえる全体の最適(global optimal)にはたとえならないのだとしても、部分の最適(local optimal)にはなるのであれば、その検査は行なわれてもよいものだろう。

 じかに具体論によって、PCR 検査がプラスなのかマイナスなのかを見るのではなくて、抽象論によるようにして、益になるような検査をとり上げてみる。益になる検査であればそれが行なわれたほうがよいのがあるから、まずその大前提となる価値観をはっきりとさせておく。

 はたして抽象論による大前提となる価値観に、具体論として PCR 検査が当てはまるのかどうかを見て行く。判断のものさしをしめす。そこでは意見が分かれるだろうが、かりに、それなりには PCR 検査は益になるのだと言えるとすると、やらないよりは少しはましだといったことで、どちらかといえばやったほうがよいものに PCR 検査は当たるのだと見なせる。

 いきなり具体論によって PCR 検査はプラスかマイナスかを見るのではなくて、いったん抽象論によるようにして、なおかつ医療崩壊などのほかの論点を混ぜこまないようにする。できるだけプラスやマイナスの含意によらないようにして、なるべくゼロの中立によるようにする。それで大前提の価値観をとり、判断のものさしをしめし、当てはめを行なう。そのように順を追って段階をふんで PCR 検査が益になるのか害になるのかを見て行ければよかったのがあるかもしれない。

 順を追って段階をふんで行かずに、科学のゆとりが欠けた中で、PCR 検査がプラスかマイナスかを見てしまうと、プラスやマイナスの含意が強くこめられてしまうことになりやすい。いったんプラスやマイナスの含意がこめられてしまうと、そこからゼロの中立にもどすことはできづらく、認知がゆがんだままになりがちだから気をつけたい。プラスと見るにせよマイナスと見るにせよ、いったん肯定性(確証)の認知のゆがみがはたらくと、その信念がどんどん補強されてしまい、修正がききづらいことがしばしばある。

 参照文献 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)

いまの現実に合っていなくて、現実に追いついていないのが憲法だから、変えることがいるのか

 日本の憲法がある。憲法第二次世界大戦が終わったすぐあとにつくられたものだ。それから時間がたっているので、憲法はいまの現実には合っていない。いまの現実に追いついていない。変えるべきものだ。与党である自由民主党菅義偉首相はそう言っている。

 菅首相が言うように、日本の憲法はいまの現実に合っていないのだろうか。いまの現実に追いついていないものが憲法なのだろうか。いまの現実に合っていない憲法を変えることがいるのだろうか。

 追いつき追い越せ(catch up)で言えるとすると、戦後において日本の社会は西洋の社会にあるていどは追いついたとされる。だいたい一九七〇年代の終わりくらいまでかかり、一九八〇年くらいにはあるていど追いつくことができた。いろいろな点から見られるのがあるから、いちがいに日本の社会が西洋に追いついたとは言い切れないが、一つの視点としてはとれるところがないではない。

 社会のありようとはちがい、憲法と現実とでは、憲法に現実が追いついたとは言えそうにない。憲法と現実とは距離があり、それが埋められていない。憲法に現実が追いついて、現実がそれを追い越したのだとはとうてい言えないものだろう。

 哲学の新カント学派の方法二元論で言われるように、事実と価値を分けて見てみたい。そのさい、現実は事実に当てはまる。憲法は価値に当てはまる。また、事実として憲法があることと、その憲法がどのような価値を持っているのかに分けて見てみることがなりたつ。

 現実は事実に当たるものであり、現実からは価値は出てはこない。現実がどのようであったとしても、そこから価値を切り離せるのがある。たとえば、現実に戦争が行なわれているからといって、それそのものをもってして価値が導けるものではないだろう。戦争がよくないものだとするのは、価値の点からものごとを見ることである。

 現実に人権の侵害が行なわれているのがあるが、そのことをもってして、それそのものに価値があるとは言えそうにない。人権の侵害がよくないことなのは価値の点から見たさいに言えることだ。現実に人権の侵害が行なわれているからといって、現実に合っていない憲法を変えようとはならないものだろう。

 いまの現実に合っていないのや、現実に追いついていないことをよくないのだと見なす。そのことを大前提の価値観とするのはむずかしい。そもそもの話としては、憲法よりも現実のほうが先に走っているのであれば、現実が理想であり、憲法が現実である、といった変な話になってしまう。

 現実が優で、憲法は劣だとするのは、とらえちがいになっているところがある。現実が劣で、憲法が優だと見ることは十分にできることだ。そう見なすことができるのは、憲法は価値に当たることであり、理想論に当たるのがあるからだ。

 どの時点で憲法がつくられたかの点では、戦争がおきたすぐあとに憲法をつくったからこそすぐれたものができたと見なせるのがある。戦争の経験がまだ生々しくて風化していない時点だから、理性として反省ができやすい。戦争のような大きな暴力によって、まさに自分が死ぬといった死の恐怖がないかぎり、人間はなかなか理性の反省ができないものだから、いついかなるさいにもそれができるのではない。

 たとえどの時点において憲法をつくるのであったとしても、その時点におけるすぐれた専門の知が生かされるのがあるから、古いときにつくられた法だからといってそれが劣っているとは言い切れそうにない。すぐれた古典の数は少なくはないように、古いときのほうが(相対的に)人々の頭がよかったおそれはある。または逆に、どのような時代であったとしても人々は多かれ少なかれ愚かだとも言えるかもしれない。人類の歴史は戦争の歴史であり、戦争は愚かなものだと言えるだろう。

 かくあるとかくあるべきの点では、かくある(is)に当たるのが現実であり、かくあるべき(ought)に当たるのが憲法だろう。かくあるものなのが現実だとは言えても、それをかくあるべきなのだとは必ずしも言えそうにない。もしも、かくあるものである事実を、かくあるべきなのだと言えるのであれば、そのことは憲法についてもまた言えることになる。いまのかくある憲法についてを、事実としてかくあることから、かくあるべきものだと見なすことができる。

 事実の点から見てみられるとすると、かくある現実と、かくある憲法とがある。事実であるかくあるの点だけからは、それがとんでもなく悪いとは言い切れないし、とんでもなくよいとも言い切れそうにない。事実としての現実は、あくまでもかくあるものとしては受け入れることができるのと同じように、事実としての効力をもっている憲法は、あくまでもかくあるものとしては受け入れることがなりたつ。

 自然主義の点から見てみられるとすると、かくある事実としての現実があることをもってして、かくあるべき現実なのだとは言い切れそうにない。かくあることから、かくあるべきを導いてしまうと、誤びゅうになるのがある。かくある現実から、かくあるべき現実とするのであれば、かくある憲法から、かくあるべき憲法だとも言えることになる。かくある事実としての憲法から、かくあるべきではない憲法だとは、かならずしも言うことはできないだろう。

 現実や憲法がどうあるべきなのかは、人それぞれによって色々に言えることだから、さまざまなことが言われるのがのぞましく、開かれたなかでさまざまな論点について自由な論争が行なわれたほうがよいのはたしかである。いまの日本の憲法はだれがどう見ても最高の価値をもつものだとは言えないから、価値の絶対論では見られず、価値の相対論によるのがふさわしいものだろう。

 参照文献 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦 『知のモラル』小林康夫 船曳建夫(ふなびきたけお) 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『考えあう技術 教育と社会を哲学する』苅谷剛彦(かりやたけひこ) 西研

ウイルスの感染に対応することにかいま見られる、日本の政治の無責任の体制

 ウイルスの感染にかかわる国の大臣が何人もいる。厚生労働大臣がいて、新型コロナ対策担当大臣がいて、ワクチン担当大臣がいる。こんなに何人もウイルスの感染にかかわる大臣がいることは、いったい何を意味しているのだろうか。それは日本の政治の無責任の体制があらわれ出ているのだと見られる。責任の所在をあいまいにしているのである。

 何人も大臣がいて、まとまりに欠ける。それぞれがばらばらになっているふしがある。ことわざでいう船頭多くして船山にのぼるだとツイッターのツイートでは言われていた。英語のことわざでは、料理人が多すぎるとスープをだめにする(Too many cooks spoil the broth.)と言われるのがある。だれが上(leader)に当たるのかがわからないのがあり、みんなの仕事はだれの仕事でもない(Everybody's business is nobody's business.)になっているのもある。

 ウイルスの感染が増えている大阪府では、府知事が国に緊急事態宣言を出すことを求めるという。国は府知事の求めを受けて、宣言を出すかどうかを決める。このあり方は改めて見るとおかしいものに映る。しろうととしてはそのように見なせるのがある。

 なぜ都道府県の知事が国に宣言を出すことを求めるのだろうか。わざわざ知事が国に宣言を求めるのではなくて、国が宣言を出すかどうかをじかに決めるべきだろう。知事からの求めがあって、その求めを受けて国が宣言を出すかどうかを決めるのは、国が責任を回避したいからだろう。国が自分たちで責任を負おうとしていない。無責任の体制なのがあらわれ出ている。

 大阪府や東京都などの都道府県のあり方を国は見ているはずだから、認知はしているはずだ。認知しているのであれば、よいとか悪いとかいったことを評価できるはずである。評価できるのがあることから、どういうことをせよ(またはするな)といったことを指令できるはずだ。国が主体として認知と評価と指令をできるはずだけど、それを避けていて、国が責任を負うことから逃げている。

 国のあり方は、総合で俯瞰(ふかん)によるのか、それとも断片で分析によるのかがはっきりとしていない。しばしば政権は総合で俯瞰の点からものごとを決めるといったことを言っているが、すべての国民に益になるようなことをつねに的確にできているとは言いがたい。

 総合で俯瞰の点から政権がものごとをなすのだとはいっても、じっさいにはかなり限定的なあり方になっているし、まちがったことを言ったりやったりしていることは少なくないだろう。そうかといって、ものごとを切り分けてその一つひとつをしっかりと分析してそれにもとづいて発言や行動することができているのかといえばそれができていない。できもしないのに総合化しようとしているのである。与党とはいっても、政党(political party)はあくまでも部分(part)の代表にすぎないのがあり、総合や俯瞰の点には立ちづらい。

 参照文献 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優 井戸まさえ 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ)

中国の内政に干渉することは悪いことなのか

 内政について干渉するな。中国の政治を外から批判することについて、中国はそのように言っている。

 中国が言うように、中国の内政に干渉することはいけないことなのだろうか。その点について、含意と文化相対主義(cultural relativism)によって見てみたい。

 中国で政治が行なわれているからといって、その内政がまちがいなく善政であるとは言い切れそうにない。悪政が行なわれているおそれを否定することはできづらい。

 たしかに、中国が言うように、内政に干渉することはよくないのがあるのにしても、その干渉がよくないことかそれともよいことかは、状況しだいである。状況によっては内政に干渉することはよいことがある。状況のちがいをくみ入れないで、いついかなるさいにも外から内の政治に干渉するのが悪いことを含意するとは言えないものだろう。

 とんでもない悪政が内政として行なわれているのであれば、その内政に干渉することはよいことだろう。そのさいには、むしろ内政に干渉しないことのほうが悪いとも言える。内政に干渉しないからといってそれがよいことなのだとは言い切れそうにない。

 文化相対主義では、どのような文化であったとしてもそれぞれがそれぞれによいものだとされて、いろいろな文化のあり方が認められる。そのさいにそれが悪くはたらくことがある。いろいろな文化のあり方があってよいのだとはいっても、そのようにいろいろなものをよしとしてしまうと、とんでもなく悪いものもよしとしてしまうことがおきてくる。

 文化についての相対主義を政治におきかえてみると、どのような政治であったとしてもよいのだとするのはまずい。ある国のなかで内政が行なわれているのであれば、それをもってして無条件でよしとしてしまうわけには行きづらい。それだと文化相対主義と同じようなまずさがおきてくる。

 外から見てまずいものが、内からはよいとはなりづらい。外から見たものが、内から見たらその実質ががらっと変わるのではないから、内における実質が絶対化されるのではない。

 内において行なわれる政治である内政は、それが実質としてまちがいなくよいものだとしたて上げたり基礎づけたりはできないものである。内政とは、ただたんに内において政治が行なわれることを意味するものにすぎないから、それが認められることがいるのだとはいっても、よいことが行なわれる保証にはならないものである。

 どのような文化であったとしても、文化でありさえすればそれはよいものだとは言い切れないのと同じように、内政においても、国の内で政治が行なわれていさえすればそれがよいものだとは言えそうにない。なかには悪い文化があるのと同じように、なかには悪い内政があるのだから、それは内または外から批判されるべきである。

 状況によっては内政で悪いことが行なわれることがあり、内政への干渉がよくはたらくことがある。内政に干渉しないことが悪くはたらくことがある。内と外とのあいだに絶対の確固とした線引きを引くことはできづらい。内と外との断絶ではなくて、内と外との相互性や相互の流通や交通が大切になってくる。内と外とが断絶するのは交通では反交通だが、そうではなくて互いにやり取りをし合う双交通がのぞましい。純粋な内のまとまりはありえず、その純粋さは幻想のものにとどまる。

 内と外とが断絶する反交通だと、集団主義が強まってしまい、集団の中のしばりが強まるおそれがある。反交通にならないようにして、集団主義による集団の中のしばりを弱める。内と外とが双交通になって互いにやり取りをし合うようにして行く。集団としての国が絶対化されないために、内集団と外集団が互いに双交通によってやり取りをし合い、内集団の中のしばりが和らいだほうが、内集団の中の個人が自由に生きて行きやすくなることが見こめる。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『一冊でわかる 政治哲学 a very short introduction』デイヴィッド・ミラー 山岡龍一、森達也訳 『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房 『個人を幸福にしない日本の組織』太田肇(はじめ) 『「日本人」という、うそ 武士道精神は日本を復活させるか』山岸俊男

日本が自分たちでワクチンをすぐにつくれないのはなぜなのか―日本の政治の創造性のなさ

 日本は自分たちでワクチンをつくれない。それは日本が軍事研究を禁じているせいだ。日本学術会議がそれを禁じているようでは、日本は自分たちでワクチンをすぐにつくれるものではない。テレビ番組の出演者はそう言っていた。

 テレビ番組の出演者が言うように、日本が自分たちでワクチンをすぐにつくれないのは、軍事研究を禁じているためであり、日本学術会議のせいなのだろうか。

 テレビ番組の出演者が言っていることとはちがい、ワクチンを自分たちですぐにつくれないことのもとになっているのをちがう点にあるのだと見なしたい。その点とは日本の政治の創造性のなさだ。創造性のなさは、天皇制からくる人命の軽視と、自己責任を強いる新自由主義(neoliberalism)が関わっている。新自由主義は、日本の国の財政の苦しさにもよる。

 たしかに、テレビ番組の出演者が言うように、日本では軍事研究が禁じられてきたのがあり、日本学術会議がそうしたあり方をとってきたのはあるかもしれない。そのことと、日本が自分たちでワクチンをすぐにつくれないのとは、じかに関わりがあることなのかどうかはうたがわしい。

 どのようにしたら日本が自分たちでワクチンをすぐにつくれるようになるのかがある。自分たちですぐにワクチンをつくるようにするための必要となる条件があり、その条件がそろいさえすれば、すぐにワクチンをつくれるのがある。

 日本が軍事研究を認めるようにすることは、自分たちでワクチンをすぐにつくれるようになるための十分条件とは言えそうにない。軍事研究を認めるようにするかどうかは、それがあるときでないとできないといった必要十分条件とはいえそうにないし、それがあればよいといった十分条件とも言えそうにない。必要条件のなかの一つに当たるものだとも言えそうにない。

 自分たちでワクチンをすぐにつくるために必要となる条件において、創造性が関わってくる。創造性には動機づけ(motivation)と技術(skill)と資源(resource)の三つの点がある。

 そもそも日本の政治にはワクチンを自分たちでつくろうとする動機づけがきわめて低かった。その必要性を認識していなかった。動機づけが低いために創造性が低かったのである。

 ワクチンを自分たちでつくることの動機づけが低いのは、天皇制からくる人命の軽視もかかわる。天皇制では国民は臣民(しんみん)と見なされて、天皇のための手段や道具にすぎないものとされる。いざとなったら天皇のために国民の命を捨てさせる。そのあり方がいまにおいてもとられていて、国民の生命が個人として十分に尊重されていない。

 日本の国の財政はきわめて苦しいのがあり、ぼう大な赤字をかかえている。首が回らなくなっているのだ。国民の一人ひとりの生命を救うために自分たちでワクチンをつくろうとすることに国のもつ資源である税金をかけたり、そこに政治の労力をかけたりすることが行なわれなかった。

 かぎりある政治の資源をなにに使うかにおいて、ワクチンを自分たちでつくることはその上位に来るものではなかった。それは国の政治で権力をもつ政治家が、個人としての国民の一人ひとりの生命の質に関心を思っていないからである。天皇制に見られるように、いざとなったら国のために国民は命を捨てるべきだとしているのである。あくまでも日本の国が大切なのであり、個人としての国民が大切なのではない。

 日本の国の政治は創造性が落ちてしまっているのがあり、それは日本学術会議のせいとは言えないだろう。もとからそれほど高くはない創造性が、ますます落ちてしまっている。劣化していて、退廃(decadence)がおきている。

 歴史の点から見てみられるとすれば、日本の国がしっかりと過去の歴史をかえりみて、日本の国の負の歴史をしっかりと見て行こうとしていないのがある。日本の国の負の歴史をしっかりと見て行こうとしないかぎり、日本の政治の創造性は高まらないのではないだろうか。天皇制において国民の生命を軽視することが引きつづいてしまう。

 参照文献 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『十三歳からの教育勅語 国民に何をもたらしたのか』岩本努 漫画 たけしまさよ 『論理パラドクス 論証力を磨く九九問』三浦俊彦

処理水の海洋への放出が正しいことなのかどうかと、それについての説明の能力

 飲んでも安全な水だ。だから海洋に放出してもまずいことはない。放射性物質トリチウムなどが含まれる処理水について、与党である自由民主党麻生太郎財務相は講演会のなかでそうしたことを言ったという。

 麻生財務相が言っているように、飲んでも大丈夫なほどのものなのだから、処理水を海洋に放出してもかまわないのだろうか。そこにまったく何らまずいところはないのだろうか。

 麻生財務相が言っていることは、まったく事実に反するとは言い切れないかもしれないが、事実そのものだとも言い切れそうにない。麻生財務相の言っていることは行為遂行(performative)の発言に当たるものだと言える。事実確認(constative)の発言だとは言えそうにない。

 なぜ事実確認ではなくて行為遂行の発言だと言えるのかといえば、じっさいに麻生財務相が処理水を飲んでみて、それが飲めるほどに安全なものであることを証明していないからである。言った本人である麻生財務相が処理水を日常において常飲していて、安全性を証明してくれるのでないとならない。そうでないと、飲めるほどに安全だと言いつつ、じっさいには飲まないと言ったことになる。安全であるとは言い切れないから飲まないのである。

 処理水を海洋に放出することにおいて問われるのは信頼だと言えそうだ。日本の政治に信頼があるかどうかが問われる。そのさいに信頼を得るためにいることは言葉政治だ。それなり以上の高度な言葉政治が求められる。説明責任(accountability)を果たすことだ。

 あまりにも軽々しいことを言ったのが麻生財務相なのがある。言っている言葉が軽い。言葉に重みがない。きびしく見られるとすればそう言えるのがある。そこに見られるのは言葉政治の力の欠如だろう。その力が欠けているのできびしく見れば失言の形になったと言える。

 日本の政治がほかの国から信頼されていないのであれば、それは日本の政治にまずさがあるのだと言える。ほかの国のせいにするのではなくて、日本の政治にまずさがあることを見るようにしてみたい。

 日本の国の中では内向きのいいかげんなことでも通じるのがあるが、日本の国の外にはそれは通じづらい。日本の政治に言葉政治の力が無いことがあらわになる。日本の国の中であればそれをごまかしやすいが、国の外ではごまかしづらい。

 客観の情報を発信する力の無さがあり、日本の国の中ではその力の無さをごまかしやすい。国の外ではごまかしづらい。国の中に向けても国の外に向けても客観の情報を発信する力が弱いのが日本の政治にはある。きびしく見ればそう言えるのがあり、信頼を得ることができていない。そのもとにあるのは、与党である自民党が言葉をないがしろにしていて、日本語を壊しているからだろう。政治においてもっとも大事なものの一つに当たるのが言葉の使い方であり、そこが与党である自民党はとりわけずさんなのがあるから、できるだけ改めるようにしてもらいたい。

 参照文献 『武器としての〈言葉政治〉 不利益分配時代の政治手法』高瀬淳一 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『日本語の二一世紀のために』丸谷才一 山崎正和