税金をかけるのにふさわしい表現と、見こむことができる利益のちがい―毒が薬に転じること

 愛知県で行なわれた芸術のもよおしでは、昭和天皇を否定するような作品があつかわれた。芸術のもよおしには税金が使われたことから、その税金の使い方はまったくの無駄となるようなことだったと言えるのだろうか。まちがった税金の使い方だったのだろうか。その点についてを利益の大小と期間の長短によって見てみたい。

 いちばん無難なものとしては、当たりさわりのないような、毒にも薬にもならないような表現を行なうことだ。それであればそこに税金が使われていたとしてもとくに批判の声はおきないはずだ。どこにも角が立たない。どこにも波風が立つことがない。それが意味することとしては、利益が小で危険性も小のあり方だ。

 愛知県で開かれた芸術のもよおしでは、表現の不自由展とされる企画が立てられて、その中で昭和天皇を否定する作品があつかわれた。この企画はどちらかといえば守りに入ったものであるよりは攻めているものだ。守りに入っているのではなくて攻めていることが意味することとして、利益が大で危険性も大のあり方になっていることをしめす。

 毒をふくむものが薬に転じることがあり、それをねらった表現は、利益が大で危険性が大のあり方になることがある。危険性が大であるために目をつけられやすい。目をつけられると毒のところがよくないのだとされることになる。毒があるのだとしてもそれが薬に転じるのがくみ入れられず、ただたんに毒のところだけしかないものだと否定に評価づけされてしまう。

 ただたんに毒なだけではなくて、それが薬に転じることをねらう表現は、刺激がつよい。刺激がつよい表現はふさわしくないと見なされることがある。もっと刺激が弱くてさしさわりがないようなものが好まれやすい。刺激が弱いものは日常の平穏さをおびやかすことがない。日常がつつがなく送れるといった保守性を強めるはたらきをもつ。

 刺激が弱くて毒がないものは、毒気が抜かれてしまっているから、ふぬけのようになってしまうかもしれない。毒が薬に転じることがあることが許容されないと、全体がゆでがえる現象のようにじょじょにゆで上がっていってしまう。そうした危なさがおきるおそれがある。全体の参与(commitment)が上昇していってしまう危なさだ。毒がないことによって、全体が同じ方向に向かって進んでいってしまう。抑制と均衡(checks and balances)がはたらかない。

 表現が行なわれる中では、できるだけ毒のある表現も許容されたほうが、表現の自由度が高い。表現の自由度が低いと日本の国のことをよしとする表現しか許されないことになり、毒のある表現が行なわれなくなる。そこで見こむことができなくなるのは、毒のあるものが薬に転じることだ。ただたんに毒があるとされることでそれが排除されてしまう。しばしば毒が必要なことがあることにたいする理解度がきわめて低いあり方だ。

 たとえ法の決まりを破ってでも自分たちの正義をおし進める。それが見られたのが、愛知県知事をやめさせる運動であり、その中で偽造した署名がつくられたという。アルバイトを募集して、偽造した署名を書かせていたとされる。そこに見られるのは、短期の利益を追おうとするあり方だ。

 手ばやく短期の利益さえ手に入れられさえすればそれでよいのだとなると、法の決まりが破られやすい。そうなると長期の利益が損なわれることになる。長期の利益が損なわれないようにするためには、法の決まりを破らないようにして、できるだけそれを守って行く。

 愛知県知事をやめさせる運動の中で法の決まりが破られる不正がおきたうたがいがあることは、短期の利益を得ることの誘惑がはたらいて、その誘引(incentive)にのっかってしまったのがあるかもしれない。公共性がかかわる政治においては、できるだけ短期の利益を得る誘引にあらがい、長期の利益にかなうようにすることが求められる。そうしないと政治において法の決まりが平気で破られることになってしまう。

 短期の利益を追う誘引がはたらくものとして、法の決まりを破ることだけではなくて、日本の国をよしとする愛国の歴史像がある。愛国の歴史像はたとえ短期の利益にはなるのだとしても長期の利益にはなりづらい。長期の視点に立てば愛国の歴史像は否定されることが多い。未来にわたってもうなずくことができるような物語としての通用性が欠けている。できるだけ短期の利益を追おうとする誘引にあらがうようにして、日本の国をよしとする愛国の歴史像に強く染まらないようにしたい。

 参照文献 『無駄学』西成活裕(にしなりかつひろ) 『文学の中の法』長尾龍一現代思想を読む事典』今村仁司編 『組織論』桑田耕太郎 田尾雅夫 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『歴史学ってなんだ?』小田中(おだなか)直樹 『日本国民のための愛国の教科書』将基面貴巳(しょうぎめんたかし) 『なぜ「話」は通じないのか コミュニケーションの不自由論』仲正昌樹(なかまさまさき)

与党である自由民主党の幹部の会議のあり方に欠けている改善や反省や自律性(autonomy)

 政党の幹部たちによる会議を開く。その中に党に属している女性の国会議員にあたらしく参加してもらう。参加してもらう女性の国会議員には、会議がどういったものなのかをわかってもらう。特別に参加する形なので、女性の国会議員には発言の権利は与えられない。与党である自由民主党の幹事長はそうした案を言っていた。

 自民党の幹事長が言っている案は、会議や議論のあり方としてふさわしいものなのだろうか。あたかも上からのお恵みのような形で、女性の国会議員にあたらしく参加をゆるしながら、会議の中で発言をする権利は与えないのは、のぞましいあり方だと言えるのだろうか。

 そもそもの話としては、わざわざ男性と女性を区別した形で、その中で女性の国会議員にあたらしく参加をしてもらうことを行おうとすることは、もともとの会議のあり方がおかしいことをあらわしているものだろう。もともとが男性と女性とが分けへだてがなくなっていて、平等なあり方になっているのが理想論としてはのぞましい。その理想論のあり方から大きく隔たっているのが現実論としてあるのだとすると、そこに会議のあり方のまずさを見なければならないだろう。

 もともとの会議のあり方にまずさがあるのであれば、それは理想論と現実論とのあいだに大きな隔たりが開いているのをあらわす。そのあいだにある大きな開きを少しでも小さくして行くことがのぞまれる。その大きな開きをそのまま温存させてしまうことになるのが、自民党の幹事長が言っている案だろう。おかしいあり方に順応させようとしている。

 自民党の幹事長が言っている案とはちがい、こういう案はどうだろうか。会議のあり方に理想論と現実論とのあいだで大きな隔たりが開いてしまっているのをくみ入れるようにして、それを少しでも小さくして行く。それを少しでも小さくして行くためには、あり方のおかしさをすすんで見つけて行かなければならない。

 民間の自動車会社のトヨタ自動車で行なわれているように、改善を行なって行く。もしもいっけんすると問題が見つからないようであれば、それが見つかるまでしぶとく探して行く。当たり前のことだとはしないようにして、大中小のいろいろにある問題をねばり強く見つけるようにして行く。問題がなにも見つからないのがよいことなのではなくて、それがいくつも見つかることがよいことなのである。

 まったく何の問題もないのであれば、改善することはいらない。自民党の会議のあり方でそうしたことはまずありえないだろうから、理想論と現実論とのあいだに大きな開きがあるのにちがいない。そのあいだに大きな開きがあるのにもかかわらず、それがあたかも無いかのようによそおう。虚偽意識のはたらきである。

 虚偽意識によってものごとを進めてしまうと、自民党の悪いあり方が改善される見こみは立たない。いつまでも悪いあり方が引きつづく。虚偽意識によることでそうなってしまうのがあるから、悪いところを見えなくさせるためにかぶされているフタのおおい(cover)をとり外すことがいる。

 自民党の会議のあり方のまずさを見つけ出してくれる役割をになう人に会議に参加してもらう。内部においてそれが当たり前のことだとなっていると、そのあり方に埋没してしまう。そこから脱するためには、どこにまずいところがあるのかを見つけ出してくれる役割をになう外部の人に参加してもらう。

 政党の中で中心化されているのが自民党の幹部だから、その幹部を脱中心化して行く。日ごろは中心化されている幹部を脱中心化するようにして、日ごろにおいてたまりつづけている汚れやうみを吐き出すことを試みる。中心化されている幹部がいままでにためつづけた汚れやうみを外に吐き出す。そのためには日ごろにおいて排除されていてわきに追いやられている人を中心化して活躍してもらう。

 いろいろな汚れやうみがたまりつづけていて、その量がぼう大なものになっているのがいまの自民党だろう。もはや自分たちで自分たちをきれいにする自浄の作用を失ってひさしい。その自浄の作用がとっくに失われていることをあらわすのが、自民党の幹事長が打ち出した案には見うけられる。

 もしも自民党が自分たちで自浄の作用をほんの少しであったとしても持っているのであれば、日ごろにおいて党の中で中心化されている幹部を脱中心化するようなことを行なうはずだ。その逆に幹部がいつまでも中心化されるようにして中心に居すわりつづけようとしているように映る。これでは自民党の中にあるぼう大な量にのぼる汚れやうみを外に吐き出す見こみが立ちづらい。いつまでも汚れやうみを内部に抱えつづけることになる。虚偽意識が改まる見こみが立つことをのぞめない。見えなくさせて隠すためにかぶされているフタのおおいを引っぺがして悪いところを見つけ出す役をになう人が活躍することがのぞまれる。

 参照文献 『トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人 『情報生産者になる』上野千鶴子寺山修司の世界』風馬の会編 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編

愛知県知事をやめさせる正しい目的のためであれば不正な手段を用いてもよいのか―目的と手段の組みのふさわしさ

 愛知県知事をやめさせる運動の中で不正が行なわれたうたがいがおきている。アルバイトをやとって偽造した署名を書いていた。それが報じられている中で、よい目的のためであればよくない手段を用いることは許されることなのだろうか。それが許容されるのだろうか。その点についてを目的と手段の組みと、実質論と形式論によって見てみたい。

 たとえよい目的のためであったとしても、よくない手段を用いるのはよしとはしづらい。それをよしとはしづらいのは、現実においてはどういった手段をとることができるのかについて制約がかかっているのがある。その制約の中でとれる手段をとったほうが安全性は高い。制約の外に出てしまおうとすると法の決まりを破ることになるから、適していない手段をとることになる。

 愛知県知事をやめさせようとするのは、目的として客観で完ぺきによいことだとは言いがたい。目的として客観で完ぺきによいものだとはしたて上げたり基礎づけたりはできづらいから、できるだけ相対化しておきたい。目的を絶対化してしまうと、それが自己目的化してしまい、視野がせばまって狭窄することがおきかねない。

 もしかしたらそれほど正しくはないことを目的にしてしまっているおそれがあるから、それをくみ入れるようにして、目的をなすための手段についてはできるだけ現実の制約の中でとれるものをとるようにしたい。制約の外に出たとしてもとにかくなにがなんでも目的を達するのが正しいのだとなってくると、手段の自己目的化がおきてきかねない。目的と手段が転倒する。集団として不祥事がおきることのもとになる。

 実質論として愛知県知事をやめさせるのが正しいのかどうかは、だれがどう見てもまちがいなく正しいことかどうかは定かではない。独立して実質において愛知県知事をやめさせることが正しいかどうかは定かではないのがあるから、形式論において形式の手つづきを守るようにして行く。

 法の決まりを守るようにして、それを破らないようにしたほうが、形式論において形式の手つづきをふめているのをあらわすから、それをふむことができていたほうが実質を支えられる。形式の手つづきに抜かりがあって、法の決まりを破っているのであれば、形式のところに弱さがあることはいなめない。形式のところに弱さがあるのであれば、それによって実質を支えることができていないので、実質の正しさが心もとなくなってくる。

 いたずらに現実の制約の外に出ようとするのではなくて、制約の中においてとれる手段をとるようにして、それによって目的を達するようにして行く。そのほうがいっけんするともたもたしているようでいてじっさいにはかえって速いかもしれない。

 ことわざではいそがば回れ(haste makes waste)と言われるのがあるから、科学のゆとりをもつようにして、制約の中でとれる手段をとりながら、少しずつ歩みを進めて行く。てっとり早くやろうとすることによって、制約の外に出ようとすると、局所の最適化のわなにはまってしまい、理想といえる大局の最適から離れていってしまう。大局の最適から離れてしまうと、いったい何のために何をやっているのかがわからなくなってくる。

 目的と手段の組みのそれぞれについてをいまいちど改めて点検してみて、目的合理性があるのかどうかをそのつど立ち止まって見てみることがあれば、とんでもなく非合理なことをすることを少しは防ぎやすい。これこそがまさしく正しい目的なのだといった合理主義があまりにも行きすぎると教義(dogma、assumption)と化してしまうから、それを修正する機会があったらとちゅうで信念のゆがみを直しやすい。

 参照文献 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『正しく考えるために』岩崎武雄 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『科学的とはどういうことか』板倉聖宣(きよのぶ)

愛知県知事をやめさせる運動の中でおきた不正と、その不正の行為にたいする反応

 愛知県の県知事をやめさせる。県知事をやめさせる運動の中で署名が集められたが、そこに不正があったうたがいがある。不正が行なわれたうたがいがある中で、署名の数をごまかすためにアルバイトが雇われていたのだという。アルバイトが署名をごまかすことにたずさわり、そう指令されていたのだという。

 愛知県知事をやめさせる運動の中で不正が行なわれたうたがいがあることを、行為と反応の組みで見られるとするとどういったことが言えるだろうか。不正の行為のうたがいがあることにたいする反応としては、それが弱いところがあるのが見うけられる。愛国による運動だからだろうか。日本の国のことをよしとすることにかかわる運動だから見かたが甘くなっている。内集団ひいきの認知のゆがみがはたらいているかもしれない。

 善と悪の図式でいうと、愛知県知事をやめさせたいのがある中で、そこで位置づけられる愛知県知事はどちらかといえば悪であり、やめさせようとするほうは善だ。愛知県知事がなした行ないにたいするひとつの反応として、それは不正だといった反応がおきて、愛知県知事をやめさせる運動が行なわれることになった。

 許容できる範囲を超えていることを愛知県知事がやったとすることから、愛知県知事をやめさせる運動が行なわれた。それは愛知県知事が行なった行ないにたいするひとつの反応のしかただ。その反応のしかたはさまざまにある反応のしかたの中のひとつであるのにすぎない。

 善に当たるのが愛知県知事をやめさせる運動をになう人たちだ。その自分たちの自己認識があるとして、あまりにもその善が強くなりすぎてしまうと、自由主義(liberalism)における法の決まりを守るような正義よりも、自分たちがよしとする善のほうをより重んじてしまう。正よりも善だといったことになり、自由主義が損なわれることになる。正よりも善だとなることから、かくあるべきの善による純粋な動機によってつっ走ることがおきてくる。

 自由主義をきちんと守るようにして、正を善よりも優先させておく。人それぞれによってさまざまな善があるから、それらの善がいろいろにあることを許容するようにして行く。たったひとつの善だけをよしとはしないようにして行く。そうしたほうがやや安全性は高い。

 正を善よりも優先させるようにして、自由主義によって見るのであれば、愛知県知事の行ないにたいする反応としてさまざまなものがあることが認められる。さまざまな反応をとることができるのがあることからすると、愛知県知事の行ないについてを絶対の悪だとまではできない。許容することができないほどの客観の悪だとまでは言いがたい。完全な悪だとしてしたて上げたり基礎づけたりはできづらい。そう見なすことにつなげられるところがある。

 哲学の新カント学派による方法二元論によって見てみられるとすると、事実(is)と価値(ought)を分けることがなりたつ。愛知県知事が行なった行ないと、愛知県知事をやめさせようとした運動の中で行なわれた不正とは、どちらもが事実としては行為だ。事実としては行為に当たる中で、自由主義においては、法の決まりを破っているかどうかがひとつの確認の点になってくる。

 自由主義においては他者に危害を加えるのでないかぎりはそれぞれの人は自由に行為を行える。他者に危害を加えることは、法の決まりに反することが多く、具体の義務に違反していることになる。

 たとえどのような反応が愛知県知事の行ないにたいしておきたのだとしても、その行ないが具体の義務に違反しているとまではいえないのであれば、許容できないほどの客観の悪とまでは言い切れそうにない。

 分かれ目となってくるのは法で決められている決まりを守っているかどうかであり、それを守っていなくて破ったのなら具体の義務に違反したことになる。具体の義務に違反するような行為を行なったのであれば、その行為は事実としては罪に当たる。

 事実としては罪に当たる行為が行なわれたとして、その中でいることは、知の誠実さをもつようにすることではないだろうか。価値についてはさしあたっては置いておいて、事実の解明にできるだけ全力をつくす。あくまでも事実についてはきちんと認めて行く原則をとって行く。知の誠実さが欠けていて、不誠実になってしまうと、たとえそれが事実であったとしてもその事実を認めないようになってしまう。あくまでも善や正義をなしたのだと言いつづけることになる。

 価値についてはいろいろな見なし方ができるから、行為にたいしてはいろいろな反応がおきることになるが、その中で知の誠実さをもつようにして、事実を認めて行く原則をとって行く。事実は事実なのだから、それと価値とはとりあえずは切り分けるようにして、遵法精神(compliance)をもつようにすることが、公共性がかかわる政治においてはとりわけ重要になってくる。自由主義からするとそう見られるのがありそうだ。

 参照文献 『日本の刑罰は重いか軽いか』王雲海(おううんかい) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『考える技術』大前研一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『知のモラル』小林康夫 船曳建夫(ふなびきたけお) 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修

親米か、反米か―アメリカの国がもつよいところと悪いところの二面性

 アメリカの国をよしとするか、それともそうしないか。親米かそれとも反米かである。このさい、親米であるとして、アメリカの国がもつよいところを学んで真似をするのか、それとも悪いところを学んで真似をするのかがある。

 日本の国は、基本として親米とはいっても、従米といったほうがよいところがある。その中でアメリカのよいところを学んで真似をするといったことであるよりも、むしろ悪いところを学んで真似をしてしまっている。そういうようなところがあるのではないだろうか。

 アメリカの国にはよいところもあるし悪いところもあるのだとすると、よいところから学んで真似をするようにしたい。悪いところは学ばないようにして真似をしないようにしたい。日本の国はこれとは逆になっているふしがある。よいところは学ばずに真似をせず、悪いところを学んで真似をする。ざんねんなあり方だ。

 いまの日本の国は自民族中心主義(ethnocentrism)のところが強くなっていて、かつてのような欧米に追いつき追い越せ(catch up)といったことすらなくなってしまっている。日本の国はすごいんだといったようなことで満足してしまっているのがある。

 日本の国はすごいんだといったことで満足するのではなくて、日本の国に足りないところや欠けているところを見て行く。比較と分析をして行って、日本の国の劣っているところと他の国のすぐれているところを見ていって、他の国のすぐれているところを日本の国にどんどんとり入れて行く。それで日本の国のあり方をいまよりも少しであったとしてもよいから少しずつよいようにして行きたい。

 欧米にはすでにとっくのとうに追いついていて、それと肩を並べているのが日本の国であり、日本の国はすごい。胸を張ってそう言うことがいえるのかといえばそれはできづらい。自信をもってそう言うことはできづらいのがあるのはいなめない。

 きびしく見れば日本の国は局所の最適化のわなにはまっていて、理想といえる大局の最適からへだたっている。それがあるのだとして、そこを改めて行きたい。日本の国はすごいとしているだけだと局所の最適化のわなにはまりつづけることになり、そこから脱する見こみは立ちづらい。ほかの国のもつよいところを見ていって、そこから学んで真似をして行く。日本の国の中にそれをどんどんとり入れて行く。それとは逆にほかの国のもつ悪いところを学んで真似をしないようにしたい。

 参照文献 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利

自国の人権の侵害にたいして声をあげて改善を求めるべきか、それとも他国のそれに声をあげて改善を求めるべきか―どちらのほうをより優先するべきか

 人権の侵害にたいして声をあげる。人を救う。それを日本の国内と国の外とに分けて見たさいにどういったことが言えるだろうか。

 日本の国内であれば日本の国に人を救う責任がある。日本の国の外であれば人を救うじかの責任は日本の国には必ずしもないかもしれない。

 責任が自国にある中で、人権の侵害がおきていることにたいして声をあげるのは、あんがいむずかしいところがある。自国で責任を引きうけなければならないためである。そのいっぽうで責任が自国にはなく他国にある中で声をあげることはできやすいことがある。それができやすいのは責任が自国にふりかからないためである。

 自国が責任を引きうける形で声をあげることはむずかしい。それとはちがって自国で責任を引きうけない形で声をあげるのはそれほどむずかしくないことがある。そのちがいがおきるのは、むずかしいことはより自国の義務の度合いが高く、易しいことは自国の義務の度合いが低いのによる。

 義務には消極の義務と積極の義務があり、これは完全義務と不完全義務である。完全義務はそれをしなければならないとされることだ。それをしなかったら義務に違反することになる。不完全義務はなるべくまたはできることであれば努力せよといった努力義務だ。いちおうの見なし方としては、消極の義務が第一に重んじられなければならない。日本の国の中ですべての人の人権が守られているかどうかがこれに当たるものだから、重要さの度合いが高い。

 人権は普遍性によるものだから、ひとつの国の中にしばられるものではない。だからすべての国のすべての個人の人権が守られることがいる。日本の国の中にいる個人の人権が守られていればそれでよいといったことはいえないから、他の国の個人の人権が守られているかどうかは重要な点だ。

 遠近法(perspective)で見てしまうと、日本の国の中のことは日本の国に責任があることだから、それが第一に重んじられることになる。それが第一にあって、そのつぎに日本の国の外のことがとり上げられることになる。

 遠近法によって見てしまうと自民族中心主義(ethnocentrism)になってしまうところがあるが、それにおちいるのを避けるためには、ひとつには脱中心化が行なわれなければならない。遠近法の遠と近を逆転させて、遠を近にして近を遠にして行く。それをなすことはよき歓待や客むかえ(hospitality)をすることだ。おもてなしである。

 日本の国の中で人権が侵害されていることにたいして声をあげることだけではなくて、日本の国の外でそれがおきていることに声をあげて行かなければならない。そう言われるのがあるが、そのさいには日本人だからといって日本人についてを特権化しないようにして、日本人についてを脱中心化することが欠かせない。自民族中心主義にならないようにして行く。それをするつもりがほんとうにあるのかが問われることになる。

 自国に責任がおよばない形で、他国が責任を引きうけることになることにたいして声をあげるのは、他国を責めることになる。他国がやっている悪いことにたいして声をあげてそれを責めることは大切なことではあるが、その目先を転じてみて、自国がやっているさまざまな悪いことについても見て行かなければならないだろう。自国がやっているさまざまな悪いことについてを見て行くほうが作業としてはきびしいことになることが多い。作業としてきびしいことになりやすいのは、内集団ひいきの認知のゆがみがはたらくのがあるからだ。

 他国の汚点は自国の汚点でもあるといえるのがあるとすると、自国がかかえているさまざまな汚点を見ていってそれらを改めて行く。それをして行くことは、ひいては他国の汚点を見ていってそれを改めて行くことに間接にはつながって行くことなのではないだろうか。それらは必ずしも切り離されたまったく別々のことがらだとは言えそうにない。

 消極の義務の範囲をどこまで広げて行くべきなのかがある中で、その範囲を他国にまで広く広げて行くべきなのだとするのであれば、それは倫理にかなう見かたではあるだろう。それをなすさいにいることとしては、自民族中心主義で日本の国のことを第一にしているのを改めて行く。自国のことを絶対化や特権化しないで相対化して脱中心化をして行く。よき歓待や客むかえによるおもてなしをして行く。そういったことをすることが必要になってくるから、それらをして行くことができたらよい。

 参照文献 『貧困の倫理学馬渕浩二 「排除と差別 正義の倫理に向けて」(「部落解放」No.四三五 一九九八年三月)今村仁司現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修

失言をしたことがよくないのか、それとも報じるさいの切りとり方がよくないのか

 森喜朗氏が言ったことを、報道機関はおかしな切りとり方で報じている。森氏が言ったことの全文を受けとるのならば意味あいはまたちがってくる。ツイッターのツイートではそう言われていた。

 女性が参加者として参加している議論は時間がよけいに長びくと言ったのが森氏だ。それが日本の国の中だけではなくて海外にまで波紋を生んだことをうけて森氏は東京五輪組織委員会の委員長の地位をしりぞくことになった。

 ツイートで言われているように、森氏が言ったことをを切りとった形で報道で報じることはまちがったことなのだろうか。それについてを、切りとったものがいろいろにある中のいくつかにまちがいがあることと、そもそもの話として切りとることでおきてくるまちがいに切り分けて見てみたい。

 そもそもの話として言われたことを切りとって報じてはならないとはいえそうにない。切りとることによってもとのものが変形してしまうのはあるが、それをする必要性があるから許容されてもよいものだろう。それが許容されないのだとするともとのものをそのままぜんぶ報じないとならないから、受けとる方としてもよけいに労力がかかることになる。

 あらゆることについて、言われたことを切りとって報じてはいけないとはいえないから、それをみんながうなずけるような大前提とすることはできづらい。もしもそれを大前提とするのであれば、あらゆることについて言われたことを切りとってはならないことになるから、はなはだしく非効率になる。

 言われたことについてだけではなくて、広い意味ではいろいろなものごとを報道で報じることは一種の切りとりだと見なせそうだ。ものごとを報道で報じることができるのは、もとのものを切りとることが可能であることをあらわす。ものごとを切りとることによって核となる意味あいのようなところをとり出す。うまくすればそれが可能だ。

 ものごとを切りとることそのものがだめだといったことではなくて、それよりもむしろ価値や枠組みが合わないことで信頼し合うことがなりたたなくなることが重みをもつ。そう言うことが言えそうだ。

 おたがいに信頼し合えていて枠組みが合っている者どうしなのであれば、ものごとを切りとることが許容されるはずだ。ものごとの切りとり方の息が合う。おたがいに気が合う。たとえものごとについて変な切りとり方をしているのだとしても、おたがいに信頼し合っているのであればぶつかり合うことはない。

 いろいろに切りとられることの中に、変な切りとられ方があるのだとすると、それが印つきになる。有徴化(marked)される。変ではない切りとり方のものは無徴化されることになる。変ではない切りとり方のものであったとしても、そこに何もまずいところがないとは言い切れそうにない。見かたによってはまずいところがあるおそれがあるし、完ぺきに適正だとはいえず、何かを犠牲にしているおそれがある。

 ひとつの仮説としてとれそうなのは、もとのものに何らかのまずいところがたとえ部分的にせよあることから、それが切りとられてとり上げられることになる。それでとり沙汰されることになる。もとのものがまったく何のまずいところを含んでいないのであれば、それが批判されるかたちで切りとられることは原則論としてはあまりないことなのではないだろうか。

 無いことについてをじかに証明することはできないから、それを間接に証明することができるのだとすると、もとのものがまったく何もまずいところを含んでいないのだとすると、それは原則論としてはたいていは受け流されることになる。とり上げられない。批判されるかたちで切りとられて報じられることはおきることがあまりない。

 自然科学のような厳密な正確さによる因果関係では言うことはできないが、こういうときにはこうなりやすいといった型(pattern)として言えるとすると、まったく何の少しのいわれもないのにもかかわらず、それがまずいことなのだといったことで切りとられて報じられることはあまりおきづらい。もとのものがたとえほんの少しではあったとしても何らかのまずいところを含んでいて、それが火となって煙が立つ。

 おおよその型としては、もとのものに含まれるまずいことを知らしめるために切りとられることになる。それがひどくなるともとのものに含まれるまずいところをひどく誇張することもあるだろう。誇張しすぎることはよくないことではあるが、そうかといってあらゆることが必要以上に誇張されているとはかぎらない。

 口からじかにものを言うことはむずかしいのがあるから、口言葉はわざわいを生むことがときにおきがちだ。それにくらべて文字を書くことによって言葉をあらわすのは相対的には安全性がやや高い。文字を書くことで言葉をあらわすのであれば、とちゅうで自分で気がついて修正することができることがある。それに比べて口言葉においてはそのときのその場の文脈の中で口から発せられた言葉をあとになってとり消すことは困難だ。

 口言葉で話すことは、自分の思想(thought)ととっさのひと言によってなりたつ。自分の思想がふいに外にあらわれ出てしまうことがあるから、そうすると自分がどのような思想を抱いているのかが外に知られてしまう。自分がもっている思想がもしもまちがったものであるのならそのまちがいが明らかになることになる。そういったきびしさがあると言えるだろう。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『語彙力を鍛える 量と質を高める訓練』石黒圭 『やりなおし基礎英語』山崎紀美子 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦

政治においてどのような声をあげるべきかと、声をあげることの自由―かくあるべき声と、かくある声

 日本の国内で、女性の権利が侵害されていることについて声をあげる。それに声をあげるのであれば、中国で行なわれているウイグルの人たちにたいする人権の侵害や、北朝鮮が日本人を拉致したことについても声をあげよ。ツイッターのツイートではそう言われていた。

 ツイートで言われているように、日本の国内で女性の権利が侵害されていることに声をあげるのであれば、中国のウイグルのことや北朝鮮の拉致のことにも声をあげないとならないのだろうか。

 公共性の点でいえるとすると、日本の国内で女性の権利が侵害されていることは、それが明らかになればうまくすれば報道でとり上げられやすい。とり上げる値うちがあることがらだ。日本の国内でおきたことであれば、日本の国内の報道でとり上げられやすいのがあり、それは日本の国内の公共性に関わることがらだからだろう。

 日本の国の中でもっと中国のウイグルのことや北朝鮮の拉致のことに声をあげることが行なわれるようにするためには、日本の国の公共性においてそのことが話題として日ごろからくり返しとり上げられていないとならない。日本の国内のことがらよりも、中国のウイグルのことや北朝鮮の拉致のことがより優先されて報道で報じられるようであれば、そこに人々の関心が向かいやすくなるから、声があげられやすくなるだろう。

 日本の国の中のことがらであればうまくすればそこに関心が向けられやすい。日本の国の外のことがらはどうしても疎遠な外部になりやすい。たとえ日本の国の中のことがらであったとしても、関心が向けられるべきところにそれが向けられずに疎遠な外部になってしまっていたり当たり前のことだとされたりしていることがらは少なくないのがある。

 日本の国の中であろうとその外であろうと、関心が向けられるべきところにそれが向けられるようにする。声があげられるべきところにそれがあげられるようにする。そうして行くためには、ただたんに声をあげるべきだとするのとは別に、疎遠な外部になってしまっていたり当たり前だとされていたりするのがあるのならそれらを改めるようにして行く。そうなっている要因を探り、その要因にたいして手を打って行く。そうして行くことが有効だろう。

 政治において声をあげることはとても大切なことだ。声をあげることは一つの手段だが、その手段を用いることが許されているのかどうかがある。中国や北朝鮮では人々が政治の声をあげる手段が許されていないのがあるから、それが許されるようになることがいる。

 中国や北朝鮮では自由主義(liberalism)がとられていない。独裁主義になっている。人々が政治の自由をもつことが許されていない。政治において声をあげる必要性が高いのだとしても、それが中国や北朝鮮の国内では許容されていないから、声をあげることができない。そこから、自由主義の大切さが浮かび上がってくる。

 どのような声をあげることが政治においてよいことなのかや、どのような声をあげることが政治においてよくないことなのかがある。それを国が上から一方的に決めつけてしまう。たった一つの声だけが正しいのだとして、それを人々に上から力によって無理やりに押しつける。中国や北朝鮮はそうなってしまっているのがある。

 手段として声をあげることが政治において許されるのが自由主義のあり方だ。手段として人々がさまざまな声を政治においてあげるさいに、そのことについてを哲学の新カント学派による方法二元論によって見てみられる。方法二元論では事実(is)と価値(ought)を分けるのがある。

 事実と価値を分けて見られるとすると、政治において声をあげるさいに、声をあげたことの事実があるのだとしても、それがどのような価値をもっているのかはいちがいには決めつけられそうにない。価値はいちがいには決めつけられないものであり、絶対のものではなくて相対性による。相対性によるものなのがあるから、さまざまな声があげられることがいることになる。

 価値が絶対のものになっているのだと、たった一つの声だけが正しいことになる。政治においてどういう声をあげることがよいのかや、どういう声をあげるのがよくないことなのかが一方的に上から力で無理やりに押しつけられることになる。そこに欠けているのが自由である。自由主義によって人々がさまざまに声をあげることがさまたげられる。

 政治において手段としてあげられた声の中でどういうことが言われているのかは価値が関わってくる。価値には相対性があるから、事実として声があげられたとはいえるにしても、それがどういう価値をもっているのかはいちがいには決めつけられないところがある。

 中国や北朝鮮の国の政治は独裁主義になっているから、それが改まるようにして、人々が自由に政治において声をあげられるようになればよい。政治においてどのようなことが人々によって言われるのかよりいぜんに、そもそも政治において人々が声をあげることが許されていないのがあり、価値が絶対化されてしまっている。他からの批判を許さないようになってしまっている。それが改まることが大切だ。

 政治において声があげられてその中でどのようなことが言われているのかよりもいぜんに、そもそも政治において自由に声をあげることが許されていない。中国や北朝鮮ではそうなっているが、そのことは日本の国にとって他人ごとや対岸の火事とは言い切れないものだろう。

 日本の国にとって中国や北朝鮮は他人ごとや対岸の火事とは言い切れないのは、日本の国において自由主義が損なわれているのがあるためだ。政治において人々が声をあげるのは一つの手段だが、その手段を用いることそのものがよしとされていないところがある。その手段を用いることそのものがよくないことなのだとされているところがある。価値が絶対化されているのがあり、日本の国のことをよしとすることだけが正しいことなのだとする愛国の動きがある。

 中国や北朝鮮では人々が政治において自由に声をあげることが許されていないから排他のあり方だ。人々が政治において手段として声をあげることができづらい。それを改めるためには自由主義をなすことがいる。中国や北朝鮮とはちがい日本では自由主義ができているのかといえばそうとうに心もとない。

 日本では中国や北朝鮮ほどには排他のあり方にはなっていないが、排他の方向性に進んで行きそうな国家主義(nationalism)の動きがあることはいなめない。人々に政治において自由に声をあげる手段そのものを用いさせないようにする動きだ。政治において人々が声をあげたさいにそこでどういうことが言われているのかよりいぜんに、手段として人々が声をあげるのを自由に用いられるのでないと、排他のあり方になってしまう。それは自由主義における包摂性が損なわれたあり方だ。

 まずは自由主義において包摂性があるようにして、排他のあり方を改めるようにして行く。国家主義によって価値が絶対化されてしまっているのを改めて行く。価値の相対性によるようにする。国が上からたった一つだけの正しい声を力で無理やりに押しつけないようにする。いろいろにちがいがある声を政治において人々が自由に言えるようにして、手段として人々が声をあげることが政治において自由に用いられるようにすることが大切ではないだろうか。

 参照文献 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治(けんじ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『宗教多元主義を学ぶ人のために』間瀬啓允(ひろまさ)編 『知のモラル』小林康夫 船曳建夫(ふなびきたけお) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『公共性 思考のフロンティア』齋藤純一 『情報生産者になる』上野千鶴子

二〇二一年の東京五輪をどうするのかと、日本の国の政治に欠けているおそれがある科学性―科学の知識と科学の思考法

 二〇二一年の東京五輪を行なうかどうかを決める。どのように行なうかを決める。それらはあくまでも科学性によってなされるべきだ。アメリカのジョー・バイデン大統領はそうしたことを言っていた。バイデン大統領は自分の政権のことを科学性による政権だと言っていた。このさいの科学性とはいったいどのようなことなのだろうか。

 科学性は大きく分けて科学の知識と科学の思考法とに分けられるという。この二つは車の両輪としてはたらく。東京五輪についてを科学性によって決めて行くのは、科学の知識にもとづくようにするべきなのもさることながら、科学の思考法によることが大切だろう。

 科学のゆとりをもつようにして、科学の思考法によってものごとをあつかって行く。科学の思考法では、すぐにものごとを決めつけずに、わからないことについてはいったん棚上げにしておく。わかっていないことは何かを見るようにして行く。仮説としてものごとをとらえるようにして、複数の仮説をとるようにして、完全に正しいものと完全にまちがったものといった二分法によらないようにする。たとえ正しいとされている権威化された仮説であったとしてもそれを丸ごとうのみにはせずに、いちおう疑うようにしてみる。仮説を絶対化せずになるべく相対化しておく。一体化しないようにして距離をとるようにして対象化するようにつとめる。

 むずかしいことがらであるのならそれを一まとめでまるごととらえてとり組むのではなくて分けてみることが益になることがある。困難は分割せよと言われるのがある。要素に分解をしてみたり、内にもやもやとしていることを外にあらわしてみて外化させたりして切り分けてみる。それで問題を整理してみる。分析の思考によって一つのことを分けた形でものごとをとらえるようにして、分けられた一つひとつについてをそれぞれにとり上げていったほうがむずかしいことがらがかんたん化しやすい。

 日本の与党である自由民主党菅義偉首相が言っているように、あくまでも新型コロナウイルス(COVID-19)に打ち勝って、そのあかしとして東京五輪を行なうことにするのだと、まちがいなく勝つことによることになる。まちがいなく勝つはずだとするのだと、そこに確証や肯定性の認知のゆがみによる信念がおきてくる。まちがいなく神風がふく。そういった見なし方になる。

 勝つのはまちがいがないとしてしまうと、負けることが切り捨てられて捨象されてしまう。勝つのは成功であり、負けるのは失敗だ。ものごとがまちがいなく成功するとは限らずに失敗することもまたあるから、可能性として負けることや失敗することをくみ入れておいたほうが科学性によりやすい。

 時系列で見てみられるとすると、現在から未来へ向かう時間の流れの中で、未来においてたしかに勝って成功するのだとは言い切れそうにない。必然性の次元によって見るのだとすれば、未来においてたしかに勝って成功するのだと言い切れるかもしれない。それを可能性の次元から見てみられるとすれば、負けて失敗することもまたあるはずだ。

 時系列において過去のことを見てみられるとすると、日本の戦前や戦時中においては、まちがいなく日本の国は戦争に勝つのだと言われていた。日本の国が負けることなどあるはずがないとされていて、それを言うことがきびしく禁じられていた。上から言論が統制されていたのである。日本は神の国であり神州不滅(しんしゅうふめつ)なのだから日本の国が負けるはずがない。そこにいちじるしく欠けていたのは科学性だろう。日本の国はまちがいなく勝つのだといった非科学性による神風の神話によっていた。

 過去における日本の国がおかした大きなあやまちをふり返って見られるとすると、そこに欠けていたのは科学性である。それが日本の国の習い性のようになっているところがあり、科学の知識はそれなりに広まっているのはあるにしても、そのいっぽうで科学の思考法はないがしろにされがちだ。

 科学の知識はそれなりに人々に行きわたっているのがあるのだとしても、それとはちがい科学の思考法のほうは軽んじられてしまっている。車の両輪の両方がともにそろっていない。そのことがあるのだとすると、それがもとになって日本の国の政治において失敗が引きおこることのもとになることがある。そこに気をつけるようにしたい。アメリカのバイデン大統領が言ったことをそのようなこととして受けとることもできるだろう。

 参照文献 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『論理的に考えること』山下正男 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『「ロンリ」の授業』NHK「ロンリのちから」制作班 野矢茂樹(のやしげき)監修

東京五輪の組織委員会の委員長による失言と、日本の国の政治において欠けている討議の倫理

 議論の参加者の中に女性が多くいると議論の時間が長びく。森喜朗氏はそうしたことを言った。この失言についてを、性別の点だけではなくてそのほかの点から見たらどのように見なすことができるだろうか。性別の点と合わせて、そのほかの点として討議の倫理(diskurs ethik)をあげられる。

 討議の倫理は哲学者のユルゲン・ハーバーマス氏による。日本の政治では討議の倫理がいちじるしく欠けていることが多い。それがあらわれ出ているのが、東京五輪組織委員会の委員長をつとめる森氏による失言だろう。

 日本の政治の中で行なわれている議論では、討議の倫理が欠けていることが目だち、退廃がおきている。権力をになう政治家が説明責任(accountability)を果たさないことが少なくなく、競争性と包摂性による自由民主主義(liberal democracy)が壊されている。

 社会の中にあるいろいろな声をすくい上げるのでないと、自由民主主義における包摂性がなくなり、排除が進む。議論の参加者の中で男性だけがよしとされるようなことになってしまう。それは排斥のあり方だろう。

 あからさまな排斥によるのではなくて、しぶしぶ参加をゆるすのだと、包括によるのにとどまり、多元性によるのだとはいえそうにない。かたちだけ参加をゆるすのだと、消極のあり方にとどまっていて、参加をゆるしてやっているといったことになりかねない。それだと包括にとどまっているから、もっと積極のものである多元性を目ざしたい。

 多元性によって積極にいろいろな者どうしがやり取りをし合うのでないと、自由主義における抑制と均衡(checks and balances)がはたらきづらい。抑制と均衡がはたらかないと集団がまちがった方向に向かってつっ走っていってしまいやすい。それが見られたのが戦前や戦時中の日本の国だ。

 日本の政治で権力をになう政治家が行なう説明は、えてして質と量がともにおそまつなことが多い。それは一〇〇パーセント政治家だけの責任とは言い切れないが、政治家の説明の質と量がおそまつなことが多いのは、討議の倫理が欠けていることが大きい。倫理性が失われているのがある。

 政治家が行なう質疑応答では、聞かれたこととはちがうことを答えるすれちがい答弁がしばしば行なわれている。すれちがい答弁が平気で許されてしまうと議論がなりたたなくなる。議論を行なう意味がなくなってしまうから、できるだけかみ合う答弁が行なわれるようにして、権力をになう政治家が倫理性をもつようにするべきである。

 議論がなりたっていないのや、議論の水準がきわめて低いことが日本の政治では目につく。公共のことがらである政治においては理想論としてはほんらいはもっと議論の水準が高くなければならないけど、現実論としてはうそやきべんや強弁がまかり通ってしまっている。議論の水準を少しでも高めて行こうといった目的意識や問題意識が見られない。

 経済が右肩上がりや上り調子ではなくて、日本の国の財政はきわめてきびしい。国の財政は赤字だらけで首が回らない。高齢者の方の数が増えて行き、子どもの数は減って行く。少子化が改まる見こみはうすい。その中で日本の政治において求められるのは言葉による政治だろう。そのいちばん必要となる言葉による政治の力が、日本の権力をになう政治家にはいちばん欠けている。森氏の失言からはそれを見てとることもできる。

 民主主義においては多数派による専制がおきる危なさがあるから、それがおきないようにするために、異性や少数派や弱者を承認して行く。異性や少数派や弱者に配分をして行く。議論をするさいには、異性や少数者や弱者に承認と配分をして行き、しぶしぶながら参加をゆるすといった消極によるのではなくて、より積極にお互いのやり取りを行ないそれが活発になるようにうながす。

 はじめから議論の中に異性や少数派や弱者の参加をゆるさない排斥でもなく、そうかといってしぶしぶながらお目こぼしのようなかたちで参加を認める包括でもなくて、積極に多元性があるようにして行きたい。日本の政治において欠けてしまっている討議の倫理を少しでももつようにして行き、多元性によるようにして行きたいものである。それで日本の社会において進んでしまっているように見うけられる排除を少しでも食い止めるようにして、異性や少数派や弱者が社会の中で排除されないようにしたい。

 多元性が失われたままだと、抑制と均衡がはたらかないから、戦前や戦時中の日本の国のようにまちがった方向に向かってつっ走っていってしまうおそれが高い。理想論としては多元性によるようにして抑制と均衡をはたらかせたいのがあるが、現実論としては一強や(三権分立ではなくて)一権になってしまっているのがあるから、かつての日本の国がしでかした大きなあやまちがふたたびくり返される見こみは小さくはないだろう。

 参照文献 『二一世紀の倫理』笠松幸一、和田和行編著 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『宗教多元主義を学ぶ人のために』間瀬啓允(ひろまさ)編 『武器としての〈言葉政治〉 不利益分配時代の政治手法』高瀬淳一 『言葉が足りないとサルになる 現代ニッポンと言語力』岡田憲治(けんじ) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)