東京五輪の組織委員会の委員長は、失言したことを受けて、集団の長の地位をしりぞくべきなのかそれともとどまりつづけるべきなのか―危機管理の点から見てみたい

 議論の中に女性が参加することはよくないのだと言う。その失言をした森喜朗氏は、集団の長の地位をしりぞくべきなのだろうか。それとも集団の長の地位をしりぞかずにそのままいすわりつづけるべきなのだろうか。それについては人それぞれによってさまざまな見なし方ができるのにちがいない。

 東京五輪組織委員会の委員長の地位に森氏はついているが、その地位にこれから先もどうかいつづけてほしいとする声があがっている。この声にはそれなりの理由があるのだろう。それを頭から全否定するのはまちがっているかもしれないが、それとはまたちがった見かたとして、危機管理の点から見てみたい。

 危機管理の点から見てみられるとすると、そのさいに森氏の失言はひとつの危機だと見なすことがなりたつ。日本の国内だけではなくて海外にも波紋がおきている。森氏の失言から危機が引きおこったのがあり、それを何とかするためには森氏は集団の長の地位をしりぞくべきだろう。

 集団の長が自分で引きおこした危機があり、それを何とかするためには集団の長が地位をしりぞく。そのことは(それをしさえすればそれでよいといった)十分条件とはいえないものだが必要条件となるものだ。それをしたうえで、集団がかかえることになった危機を何とかして行く。一般論としていえばそのような流れによって危機に対応して行くのがふさわしいことだろう。

 引きおこった危機に対応するのかそれともそこから回避するのかの分かれ目がある。この分かれ目がある中で日本の社会の集団はえてして危機から回避しようとするのが目だつ。とりわけそれが目だつのが政治の世界だろう。政治の世界でもとりわけそれが目だつのがいまの与党の自由民主党のふるまいだ。

 森氏は自民党に属していて首相だったのがあるから、自民党のまずさがすけて見えてくるのもある。自民党の集団の危機だとも言えるものだろう。これまでに自民党は自分たちの集団がかかえることになった危機にまともに対応しようとはせずにそこから回避しつづけてきている。それでまんまと逃げおおせているのがある。

 危機にまともに対応せずにそこから回避するのはけしからん。そう言ってしまうだけだとただたんに道徳論としてよくないと言うだけにとどまってしまうかもしれない。それだとあまり効果がないかもしれない。それとは少しちがう見かたとして、きちんと危機に対応して、引きおこした危機にたいして十分な謝罪をすることができれば利点がおきることが見こめる。

 表面においてだけの心にもないなおざりで形式の謝罪をするだけに終わる。そうではなくて、まともに危機に対応していって、ほんとうにふみこんだ謝罪を十分にして行く。きちんと労力をかけてそれらをして行く。そうするようにすればそれをした人や集団が成長することができる。

 危機管理において危機への対応や謝罪をしっかりとすることができればそのことがそれをした人や集団の成長につながって行く。そのことをうら返していえば、きちんと労力をかけてそれらをすることがないと成長することもまた見こみづらい。成長が見られずにその逆に退化していっているところが自民党には集団としてあるのではないだろうか。

 自民党だけにかぎったことではなくて日本の国にもまた成長が見られない。日本が戦前や戦時中になした大きなあやまちや失敗があるが、それをふたたびくり返そうとしているふしがある。それがくり返されてしまうおそれがあるのは、日本の戦前や戦時中といまとが切れていなくて(悪い意味において)連続してしまっているせいだろう。

 交通の点からして、いまとかつてのあいだのいまかつて間で、さまざまにあるかつての負のことがらが忘却されて風化されようとしている。さまざまにあるかつての負のことがらが想起されていない。いくつもの負のことがらのこん跡が消されようとしている。きびしく見なすことができるとすればそう見なせるのがあるとすると、そこを改めることができたら日本の国にとって益になるかもしれない。

 参照文献 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安 大貫功雄(おおぬきいさお)訳 『そんな謝罪では会社が危ない』田中辰巳(たつみ) 『知識ゼロからの謝り方入門』山口明雄(あきお) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『現代思想を読む事典』今村仁司

二〇二一年の東京五輪の組織委員会の委員長による失言と、集団のあり方のまずさ

 議論の参加者の中に女性の数は少ないほうがよい。森喜朗氏はそうしたことを言い、日本の国内だけではなくて海外にまで波紋がおきている。このことについてをどのように見なすことができるだろうか。

 日本の議論のやり方は効率が重んじられていて適正さに欠ける。効率を重んじるためには議論の参加者の中に女性の数が少ないほうがよい。そうなっているさいにそこに欠けてしまっているのが適正さだ。日本の議論のやり方のまずさを改めて行くには、効率を重んじることでよしとするのではなく、適正さを重んじて行くようにしたい。

 森氏が言ったことを集団における不祥事だと見なせるとすると、そこから見えてくることとして日本の社会の集団のあり方のまずさがある。日本の国内だけではなくて海外にまで波紋がおきるようなことをなぜ森氏は言ったのかといえば、その要因の一つとして日本の社会の集団のあり方にまずさがあるからではないだろうか。

 集団において不祥事がおきるのは、外の法の決まりと集団の内のおきてとのあいだにずれがおきていることがある。そのずれによって二重基準(double standard)が引きおこる。ずれを正す役目をになう人が集団の内にいない。ずれを正す役目をになう人が集団の内でけむたがられて排除される。悪魔の代理人(devil's advocate)となる人が集団の内にいない。ずれが正されることがないままに集団がもつ信念がどんどん補強されつづけて行く。

 集団のあり方が不健全なものになってしまうのを防ぐ。そのためには集団が外に開かれるようにして透明性をもつようにしたい。社会関係(public relations)を築くようにして外にたいして説明責任(accountability)を果たして行く。

 集団の内のおきてがまちがっていることがあるから、それが正されるためには集団の外にたいして開かれていることがいる。集団の内のおきてによる正しさが、集団の外から見たらまちがっていることがあるから、それがたえず修正される機会をもつようにして行く。

 まちがったおきてが集団の内でとられていると、そのおきてを守りつづけていればそれでよいことにはなりづらい。集団の外とのあいだにずれがおきてしまうことから、集団の中でよしとされている人であったとしても、集団の外から見ればまたちがった見かたがなりたつ。

 交通の点でいえるとすると、集団の内と外とは反交通になっているところがある。集団の内と外とを分けて、外を排除する。選ばれた人しか集団の内には入れないし、集団の内でさらに上に立つ人が選ばれる。そのさいに反交通になっていることがあだにはたらいてしまい、集団の外から見たらおかしいと見なせる人が集団の内で上に立ってしまう。そうした現象がおきてくる。悪貨は良貨を駆逐するといったようなグレシャムの法則ピーターの法則がはたらく。

 集団の内にいたら気づかないことではあるが、集団の外から見たらおかしな人が集団の内で選ばれて上に立つ現象がおきる。この現象がおきるのは集団の内と外とのあいだで機会費用(opportunity cost)が高まっていることによる。集団の内でおかしな人が選ばれて上に立っているのならその人をすぐに見切ればよいが、それができない。すぐに見切ったほうが合理性があるが、それができずにこの人しかいないといったことになり、視野が狭窄することによって機会費用がどんどん高まって行く。

 森氏が言ったことを集団における不祥事だと見なせるとすると、それは森氏の個人のまずさだけにとどまらず、日本の社会がかかえている構造の問題だと見なすことがなりたつ。構造の問題として見られるとすれば、個別からはなれて一般化した形から、日本の社会の中の集団のあり方のまずさや、議論のやり方のまずさがあることをとり上げられる。それらがあるのだとすると、集団のあり方を正していったり議論のやり方を正していったりすることが行なわれればよい。そのことを具体的にいえるとすれば、森氏が長をつとめている東京五輪組織委員会の集団のあり方を正すようにして、そこでの議論のやり方を正すことがいる。

 参照文献 『個人を幸福にしない日本の組織』太田肇(はじめ) 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『入門 パブリック・リレーションズ』井之上喬 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』山岸俊男

東京五輪の組織委員会の委員長のよくない発言が日本の国内だけではなくて海外でもとり上げられている

 議論に参加する女性の数が多くなると、議論をする時間がよけいに長びく。女性は競争心が強いから、一人の女性が発言をすると、ほかの女性もそれに負けじと発言を行なう。そうしたことがあるから議論に参加する女性の数は多くないほうがよい。森喜朗氏はそう言ったという。森氏は二〇二一年の東京五輪組織委員会の委員長をつとめている。

 森氏が言ったことは日本の国内だけではなくて広く海外にまで波紋がおきている。森氏がたずさわる五輪の理念に反したことを森氏が言ったことからふさわしくないとする声がおきている。

 森氏が女性について言ったことにはどのようなまずさがあるだろうか。そこには何々である(is)から何々であるべき(ought)を導く自然主義の誤びゅうが見うけられる。それにくわえて自由主義(liberalism)において普遍化の可能性の試しをしてみたさいに普遍化できない差別がおきてしまう。

 女性であることから、その事実をもってして、競争心が強いので他の女性に負けじと争い合うとはいえそうにない。ひと口に女性といっても、性には肉体の性(sex)と文化の性(gender)の二つがあるとされる。文化の性では女性らしさや男性らしさがあるとされるが、どの人がどれくらいの女性らしさをもっているのかは人それぞれでちがう。それぞれの人が持っているらしさの度合いはまちまちだ。

 性において女性と男性とはお互いに関係し合う。関係主義では関係の第一次性が言われている。女性がいなければ男性はいないのがあるから、お互いに依存し合う間がらにあると言えるものだろう。かならずしもはっきりと女性と男性とのあいだにきっちりとした線を引きづらくなっていて、そのあいだの分類線が揺らいでいるのがある。女性そのものや男性そのものとして、それらを本質をもった実体としてしたて上げたり基礎づけたりすることはできづらい。本質主義によらないのだとすれば本質に先だつ実存性を実存である個人はかかえる。

 女性か男性かは何々であるの事実に当たるものだ。その何々であるの事実をもってしてそこから何々であるべきの価値を導かないようにしたい。何々であるの事実から何々であるべきの価値を導いてしまうと、女性か男性かの事実が何々であるべきの価値を含意することになってしまう。

 国の中の人口が一億人いるとすればその中の半分が女性だ。およそ五〇〇〇万人くらいいることになるから、その量をくみ入れるようにしたい。五〇〇〇万人の量のすべてがまったく同じ質をもっているとは言いがたい。それぞれの人がそれぞれによってちがっているのがあるから、五〇〇〇万人の量の中にはさまざまな質があるはずだ。

 自分で選んだのではないのが性のちがいだから、そのちがいをもってして何々であるべきの価値を決めつけてしまうと普遍化できない差別がおきることになる。普遍化の可能性の試しをしてみるとすると、自分で選んだのではない性のちがいから価値を決めつけるのは普遍化することができない。

 女性と男性の平等は五輪の理念になっているもので、その理念は倫理にかなっているものだろう。倫理にかなっている五輪の理念に反することを森氏が言ったのであれば、森氏が言ったことは倫理的ではないことになる。倫理的ではないことになるのは、自由主義において普遍化の可能性の試しをしてみたさいに、普遍化することができない差別に当たることによる。社会の中でそれなり以上に高い地位についているのであれば、あるていど以上の倫理性が求められる。

 性のちがいには女性か男性かの二つの範ちゅうが大きくはあるが、どの範ちゅうに属するのかは何々であるの事実のことがらだ。その範ちゅうについてと価値についてを分けて見るようにしたい。範ちゅうについてと価値についてを結びつけてしまうと、どの範ちゅうに属しているのかによって価値が決められてしまうことになる。同じ範ちゅうの中であったとしてもいろいろな価値があるからたった一つの価値をもつのではないだろう。できるだけ範ちゅうと価値を結びつけてしまわずに切り分けてみるようにしたい。

 よくない発言を森氏がしたこととそれへの森氏による謝罪(らしきもの)からうかがえることとしては、日本の社会の中で性のちがいによる階層(class)の格差が固定化されてしまっているのがあげられる。性のちがいによる階層の格差が日本の社会にはあり、それが固定化されてしまっているのだとすると、それを改めて行くようにしたい。それを改めて行く動機づけがいちじるしく低いことが森氏の発言とそれへの森氏による謝罪(らしきもの)からは読みとれる。これは森氏のことだけではなくて、日本の社会にもまた言えることである。階層の格差を改めて行く動機づけがいちじるしく低くて、格差が温存されてしまっているのが現状だろう。そこが改まるようになればよい。

 参照文献 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『社会階層 豊かさの中の不平等』原純輔(じゅんすけ) 盛山(せいやま)和夫 『ぼくたちの倫理学教室』E・トゥーゲンハット A・M・ビクーニャ C・ロペス 鈴木崇夫(たかお)訳 『女ざかり』丸谷才一

陰謀理論の広がりと、倫理としての悪の遍在性―善人と悪人にかならずしもきれいに分けづらいところがある

 なぜ社会の中で陰謀理論をよしとする人が少なからずおきてくるのだろうか。それについてはさまざまな要因があるのにちがいない。

 すべてが悪いものではないのはあるだろうが、その中で社会に害をもたらすような陰謀理論がよしとされることによって、社会が悪い方向に向かっていってしまう。悪いできごとが引きおこされてしまい、犠牲となる人がおきてくる。

 学者のエーリッヒ・フロム氏は個人にだけではなくて社会においても生の欲動(eros)と死の欲動(thanatos)の二つがあるとしている。そのうちで社会において死の欲動が高まることによって悪いことが引きおこされてしまう。社会が悪い方向に向かって行く。

 社会の中で安心と安全や正義と公正や自由が十分にあれば生の欲動が保たれる。それらが損なわれると死の欲動が高まって行く。社会の中で死の欲動が高まって行くと最悪では戦争が引きおこされることになる。

 社会の中で死の欲動が高まることによって戦争が引きおこることになる。それにいたる中で、そこにいたるまでのあいだに行なわれることとして監視社会化と格差の拡大と個性の否定があるとされる。これらのことが行なわれることによって平和が損なわれやすくなり、戦争がおきやすくなって行く。

 個人において死の欲動が高まると不健康な自己決定が行なわれることになる。自分を自分で否定して死ぬことを選んでしまうことがある。社会においてもそれと似たようなことがおきると言える。社会が自分たちで自分たちを否定するような不健康な集団の決定を行なう。

 経済においては市場原理によりすぎると格差が広がって行く。不平等さがおきて差別がおきてそれが固定化してしまう。市場原理によりすぎるとそうなるのがあるから、それを改めるようにして贈与原理によって行く。市場原理がきつくなりすぎるのを改めるようにして、社会が不健康な自己決定におちいるのを防いで行く。

 資本主義の市場原理が巻きおこしてしまっているいろいろな悪があるとすると、それらをとり上げるようにしてみたい。格差が広がることは一つの悪だが、それだけではなくて自然の環境の破壊や自然の資源の浪費もまたある。いろいろな倫理における悪があるから、それらをくみ入れられるとすると、まったくもって善人だと言い切れる人はいづらい。

 グローバル化によって市場原理が世界をおおっているのがあるから、その中に個人は避けがたく巻きこまれてしまう。そのことをくみ入れられるとすると、陰謀理論の外にこぼれ落ちている倫理の悪はいろいろにある。陰謀理論がとり落としている倫理の悪がいろいろにあるから、陰謀理論の中で善人だとされている人がいるのだとしても、客観としてそうであるのだとは言いがたい。善人だとされていても倫理としての悪を含みもつ。ただ道を歩いているだけでも土の中の虫などの小さい生きものを踏み殺してしまっている。

 一つだけではなくていろいろな倫理の悪があることをくみ入れられるとすると、それぞれの人がもっている色々な不正義の感覚が自由におもてに表出されるようになればよい。不正義にはいろいろなものがあるのだから、陰謀理論がすくい取れていないものがさまざまにあるはずだ。どの不正義がより重みを持つのかは人それぞれの見かたによってちがってくるから、いろいろな見かたがなりたつ。

 まったく非の打ちどころがないほどの善人はいづらいのがあり、多かれ少なかれ倫理としての悪をなしてしまっている。それがあることをくみ入れられるとすると、陰謀理論の中で善人と悪人をはっきりと分けられるのとはちがい、現実においては基本としてみなが倫理としての悪をなしている。そのていどのちがいによっている。グローバル化の中で市場原理にみなが巻きこまれてしまっているから避けがたくそうなってしまうのがある。

 善と悪や正義と不正義のあいだの分類線が揺らいでいる。はっきりときれいに二つに分けづらい。陰謀理論の中でははっきりときれいに二つに分けられるのだとしてもその外では分けづらいのがあるから、中では善人でも外では何らかの倫理としての悪をなしているうたがいが濃い。

 価値が反対のものに当たる善と悪や正義と不正義はそれぞれが客観のものだとは言いがたく主観によっている。正の価値と負の価値とは客観に定まるのではなくて主観によっていて、絶対とはいえず相対性による。価値は相対性によっているのがあるからちがう価値をもつ弱者や少数者にたいして贈与原理によって承認していって配分をして行く。承認の正義と配分の正義をおこなって行く。社会をよくしていって健康な集団の決定が行なわれるためにはそれらがあることがいるのだと見なしたい。

 参照文献 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん) 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『事例でみる 生活困窮者』一般社団法人社会的包摂サポートセンター編 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『正義 思考のフロンティア』大川正彦 『現代思想の基礎理論』今村仁司 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『世界の陰謀論を読み解く』辻隆太朗(りゅうたろう) 『悪と暴力の倫理学熊野純彦、麻生博之編 『憲法が変わっても戦争にならない?』高橋哲哉斎藤貴男編著

悪いできごとはすべて陰謀のしわざだと言うことができるのか

 自国を愛することによる行動はつねに正しい。まちがうことはない。不正がおきたのだとしてもそれはつねに敵となる相手の陰謀であるのにほかならない。敵となる相手が陰謀によって愛国者であるわれわれをおとしめようとしている。そのように見なすことにまずいところはないのだろうか。そこに見てとれるのは原因と結果の線(linear)による物語だろう。

 原因と結果の線による物語は現実そのものだとは言い切れそうにない。現実にたいしての一つの見なし方ではあるが、そこにはこうなったらこうなるだろうとかこうなったらこうなるのにちがいないといった二つのものごとの結びつけがある。結びつけられた二つのことはもとはそれぞれが別個のことがらなのがある。じつは結びついていないことがあるから気をつけたい。原因と結果の因果性についてをまちがってかんちがいしてしまうことがあるとされる。

 陰謀理論をたやすく持ち出してしまうと、それによってものごとの説明はできてしまうのはあるが、それは原因と結果の線による物語を当てはめることになる。その物語と現実とのあいだに隔たりがおきることがある。

 不正となることがおきたのだとして、その現象がどのような原因(cause)によって引きおこされた結果(result)なのかを見て行く。そのさいに結果から原因をさかのぼって見て行くことになる。おきた結果となる現象にたいして原因を探って行くさいにいることとして、民間のトヨタ自動車で行なわれている、なぜの問いかけをくり返し問いかけて行く手だてがある。

 おきた結果となる現象の表面だけを見ていても原因はわかりづらい。原因を探って行くさいにはなぜの問いかけをくり返し問いかけるようにしていって、さまざまな要因をとり上げて行く。さまざまにある要因をもれなくだぶりなく見て行く。MECE(相互性 mutually、重複しない exclusive、全体性 collectively、漏れなし exhaustive)である。

 おきたことについてを陰謀のしわざだとすることはてっとり早いものではあるが、MECE によってもれなくだぶりなくさまざまな要因をすべてくまなく見て行くことにはならないものである。一つの原因と結果の線による物語を当てはめてすませてしまうのではなくて、その物語をとることによって切り捨てられて捨象されてしまうことを色々にとり上げて行きたい。

 原因と結果の線による物語は編集されていて取捨選択されたものだ。物語の中にはひろわれているものがある一方で切り捨てられているものがある。切り捨てられているものの中に大切なことがあることがあるから、切り捨てられているものに目を向けるようにして行きたい。

 不正となることがおきたさいにその危機に対応するのかそこから回避しようとするのかが分かれ目となる。いたずらに陰謀を持ち出すのは危機から回避しようとすることに当たる。危機にまともに対応しようとすることにはなりづらい。

 情報の技術が高度に発達しているいまの世の中の状況をくみ入れられるとすると、陰謀を持ち出すことによって危機から回避することができるように見えるとしても、じっさいにはそれはできづらい。危機から回避することができづらいのがあるから、危機にまともに対応していったほうがわりに合う。そう言うこともなりたつ。

 情報の技術が高度に発達している中で、いっけんすると本当のことだと思えるような嘘が流れてしまう。本当のことだと受けとれるくらいの嘘がまかり通ってしまうのはあるが、そのいっぽうで嘘がかんたんにわかってしまうのもまたある。嘘がばれやすいところもまたあるから、危機から回避しようとしてもそれをしづらいところがある。

 修辞学の議論の型(topica、topos)の因果関係からの議論によって見てみられるとすると、一つの原因と結果の線による物語だけで現実を説明しつくせるのだとは言い切れそうにない。陰謀が原因となって悪いことが行なわれたとする物語では、その二つを線によって結びつけて物語にしている。その結びつけがふさわしくないことがある。

 陰謀が原因になって必ず悪いことが行なわれるとは言い切れそうにない。その物語がいついかなるさいにも必ず当てはまるのだとしてしまうと、原因と結果が循環する循環論法になってしまいかねない。悪いことが行なわれたとして、そのことを陰謀だと呼んでいるのにすぎないことになる。

 原因と結果の線による物語についてをいろいろに見られるとすると、陰謀が原因にならなくても悪いことが行なわれることはしばしばある。いついかなるさいにも陰謀が原因になって悪いことが行なわれるとはいえそうにない。陰謀とはちがうことが原因になって悪いことが行なわれることはいくらでもあることだろう。

 まちがいなく原因と結果の線による物語がなりたっているとは言い切れないから、原因と結果との結びつきをほどいてみることがなりたつ。原因と結果の線による結びつきがなりたっているかどうかを見るさいにはそうとうな労力がかかるから、そのことを客観に証明するためにはほかのいろいろな点についてを十分に見て行かないとならない。

 陰謀だけが十分原因となってその結果として悪いことが行なわれるのではなくて、一つの結果となる現象にたいしてはいろいろな必要となる原因がかかわっていることがある。いろいろな必要となる原因があって一つの結果となる現象がおきることがあるから、そうであるとするとそれらのいろいろな必要となる原因のどれかが欠けていれば結果となる現象はおきない。

 いろいろな意味あいを意味してしまうのが陰謀の言い方にはあるとすると、それが具体として何をさし示しているのかがはっきりとはしない。修辞学では多義またはあいまいさの虚偽があるとされていて、一義ではなくていろいろな意味あいをもつような多義性やあいまいさがあると形式として虚偽になるのがある。陰謀とはいってもそこにぼんやりとしていてばく然としたところがあるとすると、現実から離れた虚偽の物語になってしまいかねない。そこに気をつけておきたい。あらかじめ一方的に決めつける形ではなくできるだけ中立な形でそれが具体として何をさし示すのかを特定化して明確にして行きたい。

 参照文献 『世界の陰謀論を読み解く』辻隆太朗(りゅうたろう) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『「ロンリ」の授業』NHK「ロンリのちから」制作班 野矢茂樹(のやしげき)監修 『「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれないサイエンス』戸田山和久 『クリティカル進化(シンカー)論 「OL 進化論」で学ぶ思考の技法』道田泰司 宮元博章 『トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安 大貫功雄(おおぬきいさお)訳

アメリカの新大統領とまえの大統領との共通点と相違点

 新しくアメリカの大統領がジョー・バイデン氏になったらアメリカの国は終わる。まえのアメリカの大統領だったドナルド・トランプ氏が大統領についているのでないとまずい。そう言われているのがあった。

 バイデン氏が新しくアメリカの大統領につくことになったが、それによってアメリカの国は終わってしまうのだろうか。トランプ氏がアメリカの大統領ではなくなったことによってアメリカの国はまずいことになってしまうのだろうか。それについてを共通点と相違点と、価値のちがいによって見てみたい。

 新しくアメリカの大統領についたバイデン氏とまえの大統領だったトランプ氏との二人を比べて見られるとすると、そこには共通点と相違点を見いだせるだろう。そのさいにアメリカにとって他国に当たる中国にたいする姿勢ではバイデン氏とトランプ氏とでお互いに共通点がありそうだ。

 トランプ氏は中国にたいしてきびしい姿勢をとっていたが、バイデン氏もまたそのあり方を基本としては引きつぐのがあるようである。方向性としては中国にたいしてきびしいかまえを崩すことはない。そうしたのがあるようだから、トランプ氏とはうって変わってバイデン氏が中国にたいして(中国が行なっている悪いところにたいして)目をつぶるといったことはなさそうだ。

 アメリカの政治は二大政党制によっているのがあり、二大政党はたがいにまったくちがうものどうしにはなりづらい。そう言われるのがあり、二大政党はたがいに似たようなものになって行くのだという。そこから二つの政党のあいだに共通点ができ上がることになる。あらゆることについてが何もかもすべてちがっているのではないから、たがいに完ぺきにわかり合うことができずに不信感を持ち合うのではないだろう。

 もしも二大政党が互いにあらゆるところが何もかもすべてちがっているのであれば、そもそもの話としてお互いに比べ合うことがなりたちづらい。お互いに比べ合えるのは、似たところがあるからである。似たところがあるうえで、その中でちがいがあることによって比べ合える。まったく質がちがっているものどうしだったら比べ合う意味がない。たがいに接点がなかったり次元がちがっていたりすると比べ合えないしぶつかり合えない。ちがいを持っていてぶつかり合っているものどうしであったとしても部分や要素としては共通性をもつ。そうしたことがあり、そこからたがいに相互作用がはたらく。

 おたがいのあいだに相互作用がはたらくのがあるとすると、いっけんするとたがいの政党どうしがはげしくぶつかり合っているようであったとしても、じっさいには重なり合うところもある。共通点もまたある。価値がまったく正反対とはいえなくて、価値を共有し合うところが部分的にはある。じつはそんなにちがい合っているのではないといったことがあり、小さいちがいが針小棒大のようになり強調されすぎてしまう。それぞれのもつちがいをカッコに入れて、うんと引いた大局のところから見てみればそれぞれは互いに同じようなものとして映る。

 対立がなければ政治はないのがあるから、お互いの政党どうしが争い合うのは避けづらい。お互いに争い合うのはあるものの、協調し合うところもまたなければならない。おたがいのあいだに相互作用がはたらくことをくみ入れるようにして、協調し合うところがあるようにしないとただ対立し合うばかりになってしまいかねない。

 社会がきちんと営まれるためにはたがいの対立が激化しすぎないことがいる。対立が激化しすぎると社会契約論でいわれる自然状態(natural state)において万人の万人にたいする闘争に終わりがこない。それを社会状態(civil state)にするためには対立し合うものどうしがどこかで折り合いをつけて弁証法において止揚(aufheben)しなければならない。正と反を合にして行く。

 はげしい対立になりすぎることによって自然状態が引きつづく。戦争状態が引きつづく。そうなると社会にとっては損や害がおきることになるから、それを避けるようにしたい。人間は虚栄心によってつき動かされてしまうところがあり、それに歯止めがかかりづらいのがあるとされる。自分が死ぬおそれがおきるところまで行きつかないと理性の反省ができづらい。思想家のトマス・ホッブズ氏はそれを言っているのがあり、そこに気をつけるようにしたい。あまり虚栄心の感情によってつっ走りすぎないようにして、できるかぎり科学のゆとりをもつようにすることが大切だ。

 参照文献 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『心理学って役に立つんですか?』伊藤進 『現代政治理論』川崎修、杉田敦編 『スター・ワーズ 星新一の名言一六〇選』江坂遊(えさかゆう)

(国家を批判するような)毒としての表現の許容性の度合い―民主主義において悪魔の代理人(devil's advocate)がいることの有用性

 愛知県の県知事をやめさせる。その運動で署名が集められていたが、集まった署名のうちの八割超が不正だったとされている。この署名の不正はあらためてみると民主主義の信頼性を損なわせるのがあるから軽んじてよいことではないところがある。

 八割超の署名の不正があったことがわかったことについてをどのように見なすことができるだろうか。人それぞれによっていろいろな見なし方ができるのにちがいない。その中でかくあるべきの当為(sollen)とかくあるの実在(sein)の点からすると、純粋な当為によってつっ走って行こうとしたために大量の署名の不正がおきることになったのがあるかもしれない。

 当為と実在のどちらの方によって立つのかがある。当為によって立ってしまうと、純粋な正しさによるといったことになる危なさがつきまとう。それでまちがった方向に向かってつっ走っていってしまう。これが現実におきたのが戦前や戦時中の日本の国だ。

 できるだけ効率よくやって行こうとする。それと親和性があるのが当為によって立つあり方だ。そこから危なさがおきるのがあり、純粋な正しさによる教義(dogma、assumption)によってしまうおそれがある。ものごとを見なすさいのゆがみを正す機会をもてず、信念が補強されつづける。

 なにが正しいことなのかといったさいには、かくあるべきの当為による純粋な正しさをすぐに持ち出してしまうとまちがうことがある。それを持ち出すのではなくて、法で決められている決まりを守るようにして、適正さによるようにして行く。そうしたほうがどちらかといえば安全だ。

 法の決まりによる適正さによることがないがしろになると民主主義の信頼性を損ねることがおきかねない。かくあるべきの当為によりすぎるのに待ったをかけるようにして、かくあるの実在においてさまざまな声が世の中にはあることをくみ入れるようにしつつ、ものごとを進めて行く。

 かくあるの実在にはさまざまな声があり、人それぞれによっていろいろな遠近法(perspective)をもつ。人それぞれによってちがいがある(several men,several minds)のがあるから、それをもとにしつつ、その中で共に価値を共有し合える信頼性をつくりあげて行く。それを少しずつやっていったほうが危なさは少ない。

 一般論でいえるとすると、ものごとの実質の正しさは、とちゅうの過程の形式の手つづきと相関するところがある。とちゅうの過程の手つづきにしっかりと力を入れてじっくりとやって行けば適正さによりやすい。そのためにはかくあるの実在にはさまざまな声があることをくみ入れるようにして行く。そこを抜きにして、かくあるべしの当為だけによって効率性を高めるだけだとじかに実質の正しさをとることになるから適正さが欠けることがある。

 集めた署名の中に八割超の不正があったことからうかがえるのは、とちゅうの過程の手つづきがずさんだったおそれが高いことだ。実質の正しさはそれと相関するのがあるから、実質の正しさにもうたがいがおきてくる。少なくともだれがどう見てもまちがいなく正しいといった客観の正しさだとはいえそうにない。かくあるべしの当為による純粋な正しさによっているのだと完全にしたて上げたり基礎づけたりはできづらい。

 目標の数にはとどかずに結果として県知事をやめさせるのに失敗することと、集めた署名の中に大量の不正があることがわかったこととは、同じことだとはいえそうにない。適正さによっていて結果としてざんねんながら目標を達せられないのと、たとえ不適正さによってでも勝とうとするのとでは行動の質がちがう。

 たとえ不適正さによってでも勝とうとするのは、とちゅうの過程の手つづきをないがしろにしているから、その実質の正しさにすくなからぬ疑問符がつく。実質の正しさに疑問符がつくのがあるから、そこから言えることとして、手段にはまちがいがあったが目ざすところはまったくもって非の打ちどころがないほどに正しいのだといった見かたはなりたちづらい。一〇〇パーセントの完全な正しさによっているとは言いがたいだろう。

 手段において不正があったのは、そこに不純さがあったことがありえるから、動機論からしてまったくもって純粋で正しいのだとは言えないのがある。不純な動機や意図がからんでいたことから不正がおきた見こみがある。結果論(帰結主義)からしても民主主義の信頼性を損ねてしまうことになるから社会の中の価値がおとしめられたところがある。すくなくともとちゅうの過程の手つづきの適正さはあったほうがよかったのがあり、それがあったとしたらまだ救いはあっただろう。

 自由主義(liberalism)においては他者に危害を加えないかぎりはそれぞれの人の自己決定の権利にまかされているのがあるから、できるだけそれぞれの人の自己決定の権利にまかされたほうが社会の中の全体の効用(満足)の量は高まる。結果論における帰結主義(功利主義)からするとそう言えるのがあり、それにくわえて法の決まりをできるだけ守るようにして効率性によりすぎずに適正さによるようにして行きたい。

 自由主義では個人にたいして最低限の守るべき決まりを義務づけるものだから、それ以上のことはそれぞれの個人の自由な見なし方にまかされている。個人が守るべき決まりの水準の線を上に上げて行ってしまうと社会の中の全体の効用の量が下がってしまいかねない。国家が個人にたいしてこれをするなあれをするなとかこれをしろあれをしろといったいろいろな要求をつきつけすぎると上から力で強制されることからそれぞれの個人の効用が下がる。

 社会の中の効用の量はなるべく多いほうがよいのが世俗の点からするとあるから、個人が守るべき決まりの水準の線を上げすぎないようにしたい。国家主義(nationalism)によって国家の公が肥大化して行くと個人の私が上から押さえつけられて個人が守るべき決まりの水準の線が上に上がって行く。そうすると社会の中の効用の量が下がることになり、個人が幸福になりづらくなるおそれがある。

 参照文献 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『ぼくたちの倫理学教室』E・トゥーゲンハット A・M・ビクーニャ C・ロペス 鈴木崇夫(たかお)訳 『公私 一語の辞典』溝口雄三現代思想を読む事典』今村仁司編 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『社会問題の社会学赤川学 『正義 思考のフロンティア』大川正彦

生活保護の制度があればすべての困っている人が救われることになるのか

 さいごの受け皿として生活保護の制度があるからこのままでかまわない。自由民主党菅義偉首相は国会でそのように答えていた。新型コロナウイルス(COVID-19)の感染が社会の中に広がる中で生活に困る人がおきてきている。国民が生活に困ったとしても生活保護があるのだからそれを受ければよいのだという。菅首相はそう言っているがそれでよいのだろうか。

 生活保護の制度は制度としての正義として十分なはたらきをもっているのだろうか。社会の中のすべての個人がみな平等に自分にたいする尊厳を持つことにつながっているのだろうか。少数者や弱者の尊厳がうばわれるような不正義がおきているのであれば自由主義(liberalism)の点からするとまずい。

 個人が生きている中でどん底に落ちることになる。そのさいに受けることになるのが生活保護だろう。どん底に落ちていってしまうさいのその傾きの角度のゆるさときつさがある。もしも個人がためとなるようなお金や人間関係などをたくさん持っていればどん底に落ちて行くまでの傾きの角度はゆるい。個人がためを持っていなければ傾きの角度はきつい。すぐにどん底まで落ちていってしまう。

 どん底に落ちていってしまってからではなくてその過程において、人それぞれによって持っているための量や質がちがう。そこに格差がおきてしまっている。社会の中に包摂されやすい人と社会から排除されやすい人とのちがいがおきてくる。社会から排除されやすいぜい弱性(vulnerability)をかかえている人を救う手だてが十分にとられていない。社会から排除されたのならその人が悪いといった自己責任になってしまっている。

 社会から排除されてどん底に落ちていってしまったらその人が悪いことになって自己責任になるのだろうか。そうとは言えないのがあり、生活にいる衣食住を手に入れられなくなるのは相対的はく奪(relative deprivation)がかかわってくる。ほんらい個人が生活にいる衣食住を手に入れられるはずのところを、個人からうばってしまっているのだ。その責任は個人にではなくて社会のほうにあると言えるだろう。

 与党である自民党新自由主義(neoliberalism)による市場原理をよしとしているところが大きい。新自由主義の市場原理から出てくることになるのが自己責任論だ。そこに抜け落ちてしまうことになるのが贈与原理だ。日本の社会では個人にたいする贈与原理が手うすなところがあることはいなめない。

 戦後の日本では自民党が与党であることが長かったが、そのさいには自民党がとくに何かやらなくてもそれなりに世の中が上手く回っていた。世の中の経済が右肩上がりだったからである。教育と家庭と会社の三つが放っておいてもうまく回って流れていた。この三つの歯車が回りづらくなっていて、それぞれにまずさがおきているのがあるとすると、それらをそのまま放ったらかしておいて、市場原理にまかせるだけでうまく行くのかははなはだ疑問だ。

 教育と家庭と会社の三つをそのままに放ったらかしておけば自然にうまく行くのだとはいえそうにない。それにくわえて三つの中の家庭についてをとり上げてみると、自民党がもつ保守(反動)の家父長制の家族観にはまずさがある。家父長制の家族観では現実論として家庭をよくするのに有効性があるとはいえそうにない。家庭の中の一人ひとりの個人を幸福にすることのさまたげになるのが家父長制の家族観だろう。個人主義の点からするとそう言える。

 個人にたいする贈与原理がしっかりととられるようにして、生活にいる基本の衣食住の必要(basic needs)が満たされるようにして行く。理想論としてはそうなっていることがいるが、現実論においては市場原理に重きが置かれすぎているのがある。市場原理によりさえすればすべてが上手く回って行くのだといったようになっている。

 よりよい生を個人が送って行くためにいるのが社会福祉(Social Welfare)だから、個人が生を送る(fare)ことが少しでもよりよく(well)なって行くようにすることがいる。ことわざでは衣食足りて礼節を知るといわれるのがある。基本の衣食住さえも個人が手に入れられないのであれば最低限の尊厳すらもてなくなる。そうすると社会の全体の空気が悪くなり、社会に悪い作用をおよぼす。社会の中がぎすぎすしてきてうるおいがいちじるしく欠けてきて生きて行きやすい住みよいあり方ではなくなってくる。

 すべての個人がよりよい生を送って行ける社会福祉のあり方が理想論としてあるとすると、きびしく見ればそこからあまりにも隔たりがおきてしまっているのが現実の社会保障の制度なのではないだろうか。現実論においては制度としての正義が十分ではなくて欠けてしまっている。だから菅首相が言うように生活保護があればよいとするのではなくて、それがあるからそれで十分条件になっているのだとは見なさないようにしてみたい。

 これまでの制度が疲労をおこしていていろいろな不備や穴が空いてしまっている。硬直化していて柔軟性に欠ける。それをそのままに放ったらかしにしておいて市場原理によってうまく行くのだとするのには疑問を感じざるをえない。

 市場原理を重んじることでこと足りるとする。それによりさえすればうまく行くのだとする。そのことになぜ疑問を感じるのかといえば、それぞれの個人が持っているための量や質にちがいがありすぎて不平等になってしまっているのがあるからだ。

 どん底まで落ちて行きづらくて傾斜の角度がゆるい人とそれがきつい人とのちがいがある。傾斜の角度がきつい人はその人が悪くて自己責任だとされてしまう。じっさいには自己責任ではなくて、社会が個人を排除しているのがある。ほんとうは個人が得られるはずの基本の衣食住にたいする相対的はく奪がおきている。市場原理を埋め合わせておぎなう個人にたいする贈与原理が手うすすぎることにまずさがあるのだと見なしたい。

 参照文献 『反貧困 「すべり台社会」からの脱出』湯浅誠 『ここがおかしい日本の社会保障山田昌弘 『大貧困社会』駒村康平(こまむらこうへい) 『社会福祉とは何か』大久保秀子 一番ヶ瀬(いちばんがせ)康子監修 『日本を変える「知」 「二一世紀の教養」を身につける』芹沢一也(せりざわかずや) 荻上チキ編 飯田泰之 鈴木謙介 橋本努 本田由紀 吉田徹 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『一三歳からの法学部入門』荘司雅彦 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『現代思想の基礎理論』今村仁司

アメリカの国や大統領が流す情報は信頼することができるものなのか―国や大統領による情報統制と国民の心脳が操作されること

 アメリカの大統領選挙は盗まれた。不正があった。まえのアメリカの大統領だったドナルド・トランプ氏はそう言っていた。トランプ氏が言っていることは当たっていることなのだろうか。それについてを見るさいに民主主義と情報の点から見てみたい。

 民主主義と情報の点から見てみられるとするとアメリカの大統領選挙についてをどのように見なすことができるだろうか。民主主義においてよい情報のあり方とは情報が民主化されていることだ。情報が国民に開かれている。

 国民の知る権利が満たされるようにさまざまな情報が流通していることがいる。さまざまな情報が国民に広く知らされていないと、政治において喜劇かもしくは悲劇の序章かまたはその両方が引きおこることになる。国民の自己統治と自己実現のためには、国民は情報によって武装することがいる。アメリカの大統領だったジェームズ・マディソン氏はそう言ったという。

 マディソン氏が言ったようなよい情報のあり方とはちがい、悪い情報のあり方とはいったい何だろうか。それは情報統制が行なわれることだ。これは戦前や戦時中の日本の国において行なわれたことだ。戦前や戦時中の日本の国では大本営発表が行なわれた。国にとって都合が悪い言論がきびしくとりしまられていた。国民にほんとうのことが知らされなかったのである。国民が適した判断をすることがいちじるしくさまたげられた。

 国によって情報統制が行なわれてしまう。それがおきることは可能性としてあることであり、国民の心脳が操作されることになる。アメリカではこれまでに国によって国民の心脳を操作することが行なわれてきていて、アメリカが戦争をするさいにアメリカはよいことをしているといった情報の操作が行なわれてきた。ほんとうの戦争のありさまが赤裸々に報道されているのだとは言いがたい。アメリカの国を美化した物語がつくられて流される。

 国にとって都合がよいように国民をしたがわせるさいに行なわれるのが情報統制であり、これによって国民の心脳が操作される。これまでにすでにそれが行なわれてきているのがあり、そのことについてをうたがうことができる。戦争などのさいにいぜんからそれが行なわれてきているのである。

 国がなす情報統制をうたがうことができるのがあるから、そのことをくみ入れられるとすると、アメリカの大統領選挙では、右と左のどちらの陣営にたいしても国民の心脳を操作しようとしているうたがいを持てる。右と左の陣営がある中で、右の陣営はまったく国民の心脳を操作しようとはせず、何もつつみ隠さない。それとはちがい左の陣営は国民の心脳を操作しようとたくらむ。そういった見かたはなりたちづらい。右の陣営もまた国民の心脳を操作しようとしているうたがいが濃いからだ。

 右の陣営にも左の陣営にもどちらにも気を抜くことができないのだとすると、そこでいることになるのは悪い情報のあり方を改めて行くことではないだろうか。国が情報統制をすることがないようにして、情報を民主化して行く。

 アメリカはすぐれたところをもっている国ではあるが、まだまだ情報の民主化が理想といえるほどにはできているとは言い切れず、国は情報操作をしているところがあり、国民の心脳が操作されている。それが見られたのがアメリカの大統領選挙の流れの中でアメリカの連邦議会の議事堂に乱入する犯罪がおきたできごとだろう。この犯罪がおきたのは、国(トランプ氏)が国民の心脳を操作していて、情報統制をしていることが大きいように察せられる。

 アメリカの大統領選挙の流れの中でアメリカの連邦議会の議事堂に乱入する犯罪がおきたのは、マディソン氏の言うところの悲劇そのものまたはその序章に当たることだと見られる。それがおきてしまったのは、情報が十分に民主化されていないのが悪くはたらいた。国(トランプ氏)によって情報統制がされてしまっていて、国民の心脳が操作されている。それが改まるようにして情報が民主化されるようにしないと、大小の悲劇がおきることを防げないかもしれない。

 参照文献 『頭のよくなる新聞の読み方 こうすれば情報で稼げる』正慶(しょうけい)孝 『情報政治学講義』高瀬淳一 『心脳コントロール社会』小森陽一

アメリカで新大統領がついたことと、新旧の権力の交代

 アメリカの大統領が新しくジョー・バイデン氏に変わった。このことをどのように評価することができるだろうか。どのように評価することができるのかは人それぞれによっていろいろにできるのにちがいない。その中で政党間競争(Party Competition)の点から見てみられるとすると、古い権力から新しい権力に権力を移すことのむずかしさがあるかもしれない。

 権力が長くつづくと権力が腐敗して行く。腐敗しない権力はない。そう言われるのがある。それを防ぐための仕組みなのが民主主義だと言えるのがあるだろう。だから民主主義において古い権力から新しい権力に権力が移ることはいちおうはよいことだと見なせるのがある。民主主義の中で政党間競争ができていることをしめす。独裁主義で一党だけしか許されていなかったら自由な選択による権力の交代はなりたたない。

 ジョン・アクトン卿はこう言ったという。権力は腐敗する性格をもつ。絶対の権力は絶対に腐敗する。上の地位にいるからといってその者を権威化したり神聖化したりするのはまちがいだ。

 古い権力から新しい権力に権力が移るさいに血が流れることがある。理想論としては血が流れないで古い権力から新しい権力に権力が移ることがのぞましい。それがのぞましいのはあるものの、現実論としては血が流れてしまったり古い権力がいつまでも居すわりつづけてしまったりする。 

 いつまでも古い権力が居すわりつづけると悪くはたらく。そうしたことがあるから、古い権力が長くつづいたほうがよいのだとは言い切れそうにない。古い権力が長くつづくことの欠点としては、権力が長くつづくと権力が腐敗して行くのがある。腐敗しない権力はないから、多かれ少なかれ腐敗がおきる。政党間競争がさまたげられつづけてしまう。

 得をしたか損をしたかでいえるとすると、古い権力から新しい権力に権力が移ることはそのどちらに当たるのだろうか。古い権力をよしとする人からすれば損をしたと受けとれるのにちがいない。それを一歩ほど引いて見られるとすると、いっけんすると損をしたようであったとしても必ずしもそうではないかもしれない。全体として見るとそれなりに得をしたところもある。全体が絶対に大きな損をしたのだとは言い切れそうにない。それなりに得をした見こみもある。

 仕事をする場でいえるとすると、いまの職場にいつづけるべきかそれとも新しい職場に移るべきかがある。これはかんたんに答えが出ない問題だ。いまの職場にいつづけようとすることはもしかしたら学習性無気力(learned helplessness)によるかもしれないから、新しい職場に移ったほうがよりよくなる見こみはまったくゼロとはいえそうにない。無責任なことは言うことはできないが、可能性としてはそれがある。

 理想論として古い権力がいつまでもとどまりつづけることが誰にとってもまちがいなくよいことだとは言いがたいのがある。そこには欠点があるのはいなめない。きちんと政党間競争がはたらくようにして、権力の腐敗を防ぐ。血が流れない形で古い権力から新しい権力に移す。それも一つの理想論による形だと言えるだろう。

 現実のアメリカでは連邦議会の議事堂に乱入する犯罪がおきて血が流れてしまったのがある。これは現実論において政治がかかえている難しさを示していることだとも見なせるのがある。現実論における政治にはときとして血なまぐささがつきまとう。政治の殺人で政治家などが排除されることが歴史においてしばしばおきている。それは人間がもつ暴力性によっている。野生の動物とはちがい人間は本能が壊れているために幻想による観念にたよるところがあり、それによって危ないことになることがある。戦争が引きおこされるのはそれによっているのがあり、共同幻想の負のはたらきだ。

 参照文献 『政治学入門』内田満(みつる) 『デモクラシーは、仁義である』岡田憲治(けんじ) 『どうする! 依存大国ニッポン 三五歳くらいまでの政治リテラシー養成講座』森川友義(とものり) 『政治的殺人 テロリズムの周辺』長尾龍一 『唯幻論物語』岸田秀 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)