国民(のはしくれ)からすると理解に苦しみ理解しがたいのは日本学術会議よりもむしろ与党である自由民主党とその政権のほうだと見なしたい

 国民から理解されるようであるべきだ。日本学術会議から政権が排除した六人の学者の人たちと会にたいして、与党である自由民主党菅義偉首相はそう言っているという。

 たしかに、菅首相がいうように、税金が使われていることがあるとすると、なるべく国民から理解されるようであることがいるだろう。まったく国民から理解されないようではまずいのはあるかもしれない。

 国民から理解されるかどうかの点でいうと、日本学術会議よりも、与党である自民党のほうが個人としては理解しづらい。国民のはしくれとして言わせてもらえるとすると、自民党の政権のやることや言うことには理解しづらいことが少なくない。いまの菅首相やそのまえの安倍晋三前首相の言っていることはちんぷんかんぷんなことがあり、よく意味がわからないことがある。説明の質と量がともにとぼしい。

 他の人にたいして言うよりも前に、まず自民党の政権がきちんと国民が理解できるような日本語を使うようにするべきだろう。国民がよく理解できないような日本語を政権は使うべきではない。それは日本語の破壊であり、矛盾した言葉の使い方であり、政治においては一番やってはいけないことの一つだ。

 日本語の使い方がひどくずさんなところが自民党の政権にはあるから、そこをまっ先に何とかして改めてほしい。それを改めるようにすることがまず先決であり、他の人のことをどうのこうのと言うのはそのずっとあとの話になる。

 国民にとって何が損になり何が不利益になるのかといえば、政治の権力がでたらめなことを言い、でたらめなことをやることなのではないだろうか。政治の権力がでたらめなことを言ったりやったりすることは、すぐに国民に損になったり不利益になったりはしないかもしれないが、じわじわと国や国民にとって悪くはたらいて行く。ゆでがえる現象のように少しずつゆで上がって行く。気がついたときには国や国民にいろいろな損や不利益がおきていたといったことになる。悲観論で見ればそう見なせる。

 なぜ政権が日本学術会議のことを目の敵にするのかといえば、それは政権にとって利用価値がないからだろう。政権にとって何が重要なことなのかといえば、それは政権が政策をなすさいのやり方から察することができる。

 政権が政策をなすさいには、政権や自民党に益が流れこむようにひもづける。政権や自民党に益が流れこむように誘導する形をとる。そうした形をほぼ必ずといってよいほどに政権は行なう。そうではない形の、ただ純粋に国民のほうを向いて国民のためになるような政策をなそうとすることはほぼないものだろう。そういう動機づけを政権はもっていないのだとかんぐれる。

 政権がただたんに国民のほうを向く動機づけをもっていないだろうことは、そもそも国民の一般は顔が見えづらいものだからだ。だから政権は国民の一般のほうを向いていないだろうことが察せられる。政権がどういったところに顔を向けているのかといえば、政権や自民党にとって益になることをしてくれる特別利益団体などだ。政権のことをそんたくしてくれるたいこ持ちや権力の奴隷がいる。そういったところにしか政権は顔を向けづらいだろう。

 日本学術会議は、政権や自民党に益が流れこむように誘導しづらい。なぜそれがしづらいかといえば、会が質をもっているからだろう。あるていどのまっとうで健全な質を会がもっているからこそ政権や自民党から嫌われるのだと言えなくもない。会が質をもっているために、政権や自民党にとっての益といった量に還元しづらい。量にできる益はお金や票だ。そうした量に還元できない質を会がもっていて、そのことから政権や自民党にとってはうとましい。何とか無くしてしまいたい。

 量の益をよしとするのは量化可能性中心主義だ。これは画一化や同調を強いるものだ。空気を読ませてそんたくさせる。それがきかないのは量に還元することができない質をもつ。あらゆるものを量に還元してしまおうとするのは政治の権力による技術の一元の支配だ。そこに欠けているのは多様性や多元性だろう。

 固有の質を切り落としてしまい、なんでも量に還元して行く。そうすると政治の権力の技術による一元の支配の効率は高まる。効率は高まりはするが適正さを欠く。抑制と均衡(checks and balances)がはたらきづらい。まちがった方向に向かってつっ走って行き、そこに抑制がききづらい。効率が高いだけではなく少しでも適正さによるようにするためには、なんでも量に還元しようとしないで、画一化や同調の圧力を弱めて行く。服従や順応を強いないようにして行く。

 固有の質があってもよいようにして許容する。許容の度合いを高めて行く。そうして行くことがあったらよい。そうして行くことがなければひどく息苦しい非人間的な社会になり、個人の私の自由がなくなり、国家の公ばかりが極端に肥大化する。国家の公がどんどん肥大化していったのは戦前や戦時中の日本の国に見られた。そこに歯止めをかけるようにして、効率性を高めるだけではなくて適正さをとるようにして行くことも必要だ。まちがった方向に向かってつっ走って行くことへの歯止めがいる。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『日本語の二一世紀のために』丸谷才一 山崎正和 『公私 一語の辞典』溝口雄三

アメリカの大統領選挙で不正がおきることの生起確率はどれくらいなのだろうか

 アメリカの大統領選挙で不正が行なわれたのにちがいない。そうした見かたがさまざまな人によってとられている。この見かたには一部の新興宗教が関わっているとの説もとられている。韓国系の新興宗教トランプ大統領のことを強くおしているのだとされている。もしもこれがほんとうだとすると近代の国民国家政教分離の原則に反することだとも見られる。

 アメリカの大統領選挙で不正が行なわれたのだとする見かたを一か〇かや白か黒かの二分法によっては見ないようにしてみたい。できるだけ二分法にはおちいらないようにして見られるとすると、どういった見かたができるだろうか。一つの見かたとしては確率の点から見てみることだろう。選挙で不正が行なわれることがどれくらいの生起確率でおきるのかだ。

 もしもアメリカの大統領選挙で一方の候補者にいいように不正が行なわれたのであれば、アメリカの大統領選挙のやり方はそうとうにやわだといったことになる。そこで責められるべきなのは、選挙で不正を行なった当のものだけではなくて、やわな穴をかかえていたアメリカの大統領選挙をになう仕組みのところでもある。

 かりにアメリカの大統領選挙の(日本でいうところの)選挙管理委員会のようなところが、そうとうにしっかりとした意識をもっているのであれば、事後において選挙で不正が行なわれないようにするために、事前においてそうとうに入念な準備をしているはずだ。事前における入念な準備を怠っていたのだとすれば、選挙を管理して運営するところがそうとうにずさんだったり手抜かりがあったりしていることになる。それはその選挙を管理して運営するところのこけんに関わることだ。自分たちの名誉がかかっている。

 アメリカの選挙を管理して運営しているところは、あらかじめ選挙で不正が行なわれるかもしれないことを想定することが十分に可能だ。選挙をやるさいに人はよいものだといった性善説で行なうのではなくて人は悪いことをするものだといった性悪説で行なうことが現実的だ。性悪説に根ざした形で選挙をとり行なうのが現実的であり、それが選挙を管理することに当たるだろう。

 選挙をやるさいにかんたんに不正を行なえるような穴を放ったらかしにしておくとは考えづらい。そうした穴がいくつもあってそれを放ったらかしにしておくのは文明の先進を行く国家であればその国家のこけんに関わってくる。文明の先進を行く国家にあるまじきことがおこってしまったことになる。だからできるかぎり穴をふさぐようにすることが事前において準備されるのではないだろうか。その準備を怠っていたのだとすればそうとうに緊張感がない。創造性がない。

 アメリカは世界の中でも文明の先進を行く国だから、そのアメリカのこけんに関わるような失敗や失態をわざわざ自分たちからみすみすするのだとは考えづらい。アメリカの国家がもっている最新鋭の科学の技術をできるかぎり用いてアメリカの大統領の選挙が行なわれることになる。もしもアメリカがもっている最新鋭の科学の技術を使わないで大統領の選挙をやるのであれば、せっかくアメリカの国がもっている宝のような科学の技術を活用しないで、宝のもち腐れのようなことになってしまう。

 アメリカの大統領選挙でだれが選ばれるのかに世界中から注目が集まるのは、アメリカが世界の中でももっとも優れた国の一つだと目されていることによるだろう。そういったアメリカの国にあって、大統領の選挙でもしも不正が行なわれたことがわかったとなれば、アメリカは駄目な国なのだと思われたとしてもおかしくはない。わざわざアメリカの国が自分たちからアメリカが駄目な国なのだと思われてしまうようなことをやるのだとは言えそうにないから、そこのところについてはそうとうに力を入れてきちんとしたことが行なわれるように整えて行くのでないと、アメリカの国の威光(prestige)が保てない。アメリカの国が自分たちからわざわざアメリカの国の威光を捨てることもないだろう。

 はたしてどれくらいの生起確率がアメリカの大統領の選挙の不正についてあるのかというと、もしもアメリカがまともな(ふつうな)意識をもっているのだとすれば、できうるかぎり選挙で不正がおきる生起確率をゼロに近づけて行くはずだ。選挙で不正がおきる穴をゼロに近づけて行く。選挙で不正を行なえることがそもそも不可能な中で選挙をとり行なう。そもそも選挙で不正を行なうことが不可能にしてしまう。できるかぎり穴をふさぐ努力をする。

 国の長を選ぶ選挙はいちばん信用されていないとならないものだから、その信用が揺らぐことがあると、国の長を選ぶ選挙そのものへの信用が無くなることになってしまう。それはアメリカの国の統合にとってははなはだしいマイナスとなることだろう。

 アメリカの国の統合が関わってくることからすると、アメリカの国の長を選ぶ選挙でもしも不正があったのだとすればそれは選挙そのものへの信用が根底から失われることになるし、選挙を行なうことそのものの前提条件が崩れることをあらわす。そうなってしまうと選挙を行なうことそのものの意味が崩れ去ってしまいかねない。選挙を行なうことそのものへの不信感や、選挙を行なうことそのものにたいする陰謀理論なんかが関わってきてしまいそうだ。

 参照文献 『クリティカルシンキング 入門篇 実践篇』E・B・ゼックミスタ J・E・ジョンソン 宮元博章 道田泰司他訳 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『世界の陰謀論を読み解く』辻隆太朗(りゅうたろう) 『創造力をみがくヒント』伊藤進

アメリカの大統領選挙であったとされる不正とは改めてみるとどういったことなのだろうか―不正と適正のあいだの分類線の揺らぎ

 アメリカの大統領選挙で不正があった。ドナルド・トランプ大統領をはじめとしていろいろな人がそれを言っている。そのことについてをどのように見なすことができるだろうか。

 それぞれの人によっていろいろに見なせることはまちがいないが、一か〇かや白か黒かの二分法で見ないようにしてみたい。二分法で見ないようにできるとすると、不正そのものと適正そのものにはっきりと分けないようにすることができる。そこには微妙さがからんでくる。

 ものごとを対称でとらえられるとすると、トランプ大統領が選挙で負けることになったから選挙で不正があったとうったえるだけでは非対称だ。トランプ大統領が選挙で勝つことになったとしても、選挙で不正があったと言うのでないと対称にならない。どちらにおいても不正があったと言うのでないと対称にはならず、トランプ大統領が負けることになったときにだけ不正があったと言うのは、負けることを受け入れたくないだけなのではないかとかんぐれる。

 選挙で不正があったのだとは言っても、じっさいにトランプ大統領はそれなりに支持されていて票を得ているのがあり、そのことをどのように意味づけるのかがはっきりとはしない。選挙の結果はわずかな差の接戦となっているのがあるから、どちらが勝ったとしてもそれほどおかしいことではなく、それをうら返してみればどちらが勝ったとしてもよかったともいえる。乱暴に言うことができるとすると、どちらでもよいのだとも言える。どちらもそれなり以上に支持されている。一人勝ちといったことではないだろう。

 必然性と可能性で見てみられるとすると、トランプ大統領が必然として勝たなければならなかったとは言えないものだろう。勝つ可能性もあり負ける可能性もあった。必然性によれば、トランプ大統領が勝つのが正しくて負けるのはまちがっているが、可能性によれば勝ったとしても負けたとしてもどちらであっても正しいことになる。トランプ大統領が何が何でもどのようなことがあったとしても勝たなければならない必然性はない。

 何が何でもトランプ大統領が勝つのでなければならないとするのは、政治家の個人に焦点を当てすぎだ。政治家の個人にあまりにも強く焦点を当てすぎるのはあまりよいことではない。それがあまりよいことではないのは、個人にはできることの限界がかなりあるからだ。個人はそれほど大したことができるものではなく、あまり上げ底にして過大に評価するのは考えものだ。政治家の個人を不用意に持ち上げすぎるくらいであればその逆に評価をさし引くくらいのほうがよいだろう。政治家との距離を近づけるのではなくて一定より以上の距離を空けたほうが安全だ。汚いところや悪いところが少しもない政治家はまずいそうにない。

 何が不正であり何が適正であるのかは、多義性やあいまいさがある。国の選挙はほんとうにぴったりと適正なものとして行なわれるのだとは言いがたい。ほんとうにまさに正義そのものであればちょうど(just)だが、そういったぴったりと正義そのもの(justice)であることは現実にはおこりづらい。

 理想論としてはちょうどの正義そのものであることがいるのだとしても、現実論としてはそこからずれがおきてくる。制度および実践のずれがおきる。トランプ大統領が言っていることとは別に、どちらにせよ現実論としては選挙のさいには広い意味での不正(汚いこと)は色々に行なわれているのだと見なせる。理想論による完全にきれいな中で行なわれているとは言えそうにない。

 みんなが完全にうなずけるような結果が選挙で出ることはあまりない。ある人たちはうなずけて、ちがう人たちはうなずけない。そう分かれてしまうことが少なくない。選挙が不正か適正かのあいだの分類線はまちがいなく引かれているとはいえず、その分類線は揺らいでいる。不正とはいっても大きな物語にはならずに小さな物語にとどまり、通用性が必ずしもないことがある。逆もまたしかりで、ほんとうにまさに適正そのものだとするのも通用しづらい。

 選挙が行なわれるさいちゅうにはいろいろな汚染された情報が流される。情報の中に意図が入りこむ。作為性や政治性がある。情報政治が行なわれることになる。大衆社会の中で大衆が情報に流されてしまい、適正な判断ができないことがおきてくる。大衆迎合主義(populism)が引きおこる。それを避けることができづらい。

 何がほんとうのことなのかでは対応説と整合説と実用説があるとされるが、トランプ大統領が置かれている文脈からすれば、選挙で不正があったのにちがいないと見なしたくなることはわからないではない。トランプ大統領の個人の気持ちをくみ入れられるとするとそうしたことが言える。これは語用論(pragmatics)で見たさいのものだ。語用論では送り手の置かれている個別の状況や文脈をくみ入れるようにすることが行なわれる。

 語用論で見ればトランプ大統領が選挙で不正があったのにちがいないと見なすことはわからないではないが、実用主義(pragmatism)をもち出せるとすると、あくまでも実用の点から見てみられるとするとトランプ大統領が大統領の地位にとどまりつづけるためにねばりつづけるのは実用にかなわないところがある。不毛な争い合いが引きつづく。

 さしあたってはトランプ大統領が大統領の地位をジョー・バイデン氏にゆずって、そのうえで大統領の選挙の不正についてをうったえて行くのでもよいものだろう。もしも有無を言わさないほどの選挙の不正の客観の証拠(evidence)となるものがあるのであれば、それがあることは揺らがないのだから、そのことはトランプ大統領が大統領の地位にとどまりつづけようが退こうが変わりはない。トランプ大統領が大統領の地位に何が何でもとどまりつづけようとする実用における意味あいはそれほどないのではないだろうか。

 裁判にうったえることをトランプ大統領はさぐっているようだが、たとえ裁判にうったえるのだとしてもそこではっきりとした真相が明らかになるとは言い切れない。裁判は神のような真実を明らかにするところではなく、裁判官は人間だから合理性に限界をもつ。裁判でどのような判決が出たとしてもそれが神のような真実だとは言い切れないし、たった一つの正義だけではなくていろいろな複数の正義があることはいなめない。

 参照文献 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『論理的に考えること』山下正男 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『情報汚染の時代』高田明典(あきのり) 『構造主義がよ~くわかる本』高田明典 『情報政治学講義』高瀬淳一 『社会問題の社会学赤川学 『裁判官の人情お言葉集』長嶺超輝 『本当にわかる論理学』三浦俊彦

アメリカの大統領選挙と、国の政治の権力が一つだけの有限性や希少性や制約と、力(権力)への意志

 アメリカの大統領選挙では、いまだにドナルド・トランプ大統領がねばりつづけている。大統領の地位を手放そうとはしていない。大統領の地位に恋々(れんれん)としている。その中でジョー・バイデン氏は大統領の地位につく準備を着々と進めていっているという。

 アメリカの大統領選挙においておきていることをどのように見なすことができるだろうか。人それぞれによっていろいろな見なし方ができるのにちがいないが、やっかいなこととしては、国の政治の権力者は一つしか認められないことだろう。そこに有限性や希少性や制約がかかっている。もしも二つあってよいとなっていたら、トランプ大統領とバイデン氏の二人が両方とも大統領であってもよい。

 国の政治の権力は、一人の人が権力者として社会の中から排除されることによってなりたつ。上方に排除されることで外に叩き出されて国の政治の権力者となる。国の政治の権力は空虚な中心であり、それが充てんされるさいに権力がさん奪される性格をもつ。そう言われている。

 一つの国はリヴァイアサンだが、その全体の部分として部分勢力であるビヒモスがあるとされる。たとえ一つの国としてなりたっているように見えるのだとしても、それは虚構のようなものであって、その中に部分勢力としてのビヒモスを抱えこんでいる。いっけんすると国の全体がまとまっているようであったとしても、潜在としては部分勢力であるビヒモスがいて、哲学者のテオドール・アドルノ氏が言うように国の全体は非真実となっている。

 国のあり方としては、内乱や内戦で争い合うのと、独裁国家と、立憲主義(憲法主義)の国家との三つがある。学者の木村草太(そうた)氏はそう言っていた。このうちでいまのアメリカは内乱や内戦で争い合うところに転落してしまっているのがあるかもしれない。

 内乱や内戦で争い合うのはいちばん下のもので、それよりもややましなのが独裁国家で、絶対の主権国家だ。一権や一強だ。それよりもましなのが立憲主義の国家で、自由主義(liberalism)で権力の分立がとられて抑制と均衡(checks and balances)による。権力の分立は個人の基本の人権を守るためにある。個人の人権を守るために国の統治機構が分散されてお互いにけん制し合う。日本の憲法では、まず人権論があって、それをなすために統治機構論があるといった流れになっている。

 内乱や内戦で争い合うのは不毛であり、部分勢力であるビヒモスどうしが争い合う。リヴァイアサンとして国の政治の権力者が排除されて外に叩き出されていない。社会状態(civil state)になっていなくて自然状態(戦争状態 natural state)となっている。自然状態では人がもつ自己欺まんの自尊心(vain glory)にかられて万人による万人の闘争がつづく。

 自然状態から社会状態に移るためには、人がもつ自己保存を相対化することがいる。自己保存を相対化するのは西洋の弁証法止揚(しよう aufheben)に当たる。正と反と合で、止揚になることで合にいたる。自己保存を絶対化してしまうと正と反が合にいたりづらい。合にいたらせるためには自己保存を相対化するようにして、味方と敵とがはげしくぶつかり合うことを和らげることがいる。よき歓待や客むかえ(hospitality)が求められる。

 参照文献 『リヴァイアサン長尾龍一憲法という希望』木村草太 『憲法主義 条文には書かれていない本質』南野森(しげる) 内山奈月現代思想を読む事典』今村仁司編 『抗争する人間(ホモ・ポレミクス)』今村仁司 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)

アメリカのドナルド・トランプ大統領が言うように、米大統領選挙で不正はあったのかどうか―主張直撃型議論と無根拠型議論

 アメリカの大統領選挙で、不正が行なわれた。アメリカのドナルド・トランプ大統領はそう言っている。

 トランプ大統領が言っていることについてをどのように見なすことができるだろうか。そこでトランプ大統領がやっていることは主張直撃型議論や無根拠型議論だろう。トランプ大統領は選挙の不正の客観の証拠(evidence)となるものを示していないからである。

 主張直撃型議論や無根拠型議論をやっているのがトランプ大統領だとすると、トランプ大統領の言っていることをそのままうんそうだなとうのみにすることはできづらい。うなずくのではなくてトランプ大統領の言っていることははたしてほんとうなのだろうかと首をかしげてみることがいるだろう。

 アメリカから目を転じて日本の国の政治ではトランプ大統領がやっているようなことがよく行なわれやすい。だから対岸の火事とは言えないものだろう。日本の国の政治では政治の意思決定の過程が示されないことが多く、その過程の透明性がほとんどない。とにかく決まったことなのだからといったことで既成事実化される。既成事実に弱いことが悪用される。

 修辞学の議論の型(topica、topos)の類似からの議論で見てみられるとすると、トランプ大統領が行なっていることと日本の国の政治で行なわれていることとのあいだには類似性がある。そのことを大げさに言ってしまえるとすると、完全に一致しているとか完全に一体だといってもよいかもしれない。

 トランプ大統領のやっていることと日本の国の政治で行なわれていることとのあいだに類似性があるとすると、トランプ大統領のやっていることが悪いことやよくないことであるとするのであれば、日本の国の政治でも悪いことやよくないことが行なわれていることになる。悪さやよくなさにおいておたがいに共通点がある。

 言っていることややっていることの中身がどうかとは別に、言うことの形において主張直撃型議論や無根拠型議論にはならないようにしたい。ただ主張を言い放つだけで終わりにするのではないようにしたい。それだと単段になってしまうが、それを多段になるようにして行く。段を細かくして行くようにして、細かいつながりを見て行く。そこが大ざっぱになってしまい、たった一つの段だけになっていて、その単段によっていることをうのみにしてしまうとまちがうおそれがおきてくる。

 政治の権力者が一つの段だけの単段で主張を言い放っているのだとしても、それをそのままうのみにするのではなくて、多段によってとらえ返すことがあったほうが益になることがある。段をせめて二つより以上くらいにするようにして、段を細かくするようにして、一つひとつの段の確からしさや段どうしのつながりがどうなっているのかを見て行く。

 段の一つひとつの確からしさと段どうしのつながりについてを批判として見て行くようにして行きたい。報道機関がそれを怠ると日本の戦前や戦時中の大本営発表のようになってしまうが、日本の大手の報道機関ではそれがよく行なわれていて手ぬきが目だつ。情報を報じることの効率性は高いが適正さがないがしろになっていたりゆがみがあったりする。商売で利益をあげることの制約条件の中においてできるだけ適正さを高めるために政権への批判性をもつように改めて行くことがいる。

 参照文献 『論理表現のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『東大人気教授が教える 思考体力を鍛える』西成活裕(にしなりかつひろ) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)

日本においてアメリカの大統領選挙が大きくとり上げられることと、日本からアメリカへの関心の一方的な交通の流れ

 アメリカの大統領選挙では、新しい大統領にアメリカの民主党ジョー・バイデン氏がつくことがほぼ決まったようだ。選挙のもようが日本の報道機関では大きくとり上げられていた。日本の国の政治はそっちのけといったところがないではない。ふだんでも日本の国の政治のことは報道機関の中であまりきちんと批判的にとり上げられているとは言えそうにない。

 日本の国内ではアメリカの現職の大統領であるドナルド・トランプ大統領に入れこんでいる人が少なくない。トランプ大統領の呼びかけであるアメリカをふたたび偉大な国にする(Make America great again)に呼応している日本人の人たちがいる。トランプ大統領を強く支持して応援している。

 日本の国内でアメリカの大統領選挙が報道機関で大きくとり上げられることや、日本の国内にアメリカのトランプ大統領を強く支持する人たちがそれなりにいることについてをどのように見なすことができるだろうか。

 日本は日本でアメリカはアメリカといったことではなくて、日本からアメリカへの関心の単交通がある。単交通とは交通において一方向の流れのものである。日本からアメリカへの関心の交通はあるが、アメリカから日本への交通はあまりない。

 日本ではアメリカの大統領選挙に大きな関心が払われるが、そのいっぽうでアメリカでは日本の首相がだれになるのかへの関心はほとんど払われないだろう。なので関心が単交通になっていて非対称になっている。

 日本とアメリカとでは関心が単交通になっていて、日本においては日本とアメリカがくっついている。日本が単独であるのではなくて、そこにはアメリカとくっついていてつながり合っている部分がある。このくっついている部分があるのは、戦後において日本とアメリカとでお互いに国どうしが談合し合って日本の国をつくり上げていったことが関わっているととらえられる。

 戦後において日本とアメリカがお互いに合作をし合って日本の戦後の体制がつくり上げられた。それを悪くいえばゆ着である。戦前や戦時中の日本の天皇制は意図的に温存されて戦後に引きつづいている。アメリカは日本を占領支配するさいに日本の天皇制を温存してそれを利用(活用)した。アメリカとソヴィエト連邦とで東西の冷戦がおきていて、日本はアメリカの西側の自由主義の中に引き入れられた。

 天皇制は戦前や戦時中において絶対的に権威化や神聖化されて日本の国を破滅にみちびく主となるもととなった。いまの天皇は国民の象徴だが戦前や戦時中の天皇は超越化されていた。臣民(しんみん)である国民は中心で超越の他者(hetero)である天皇によって駆動されていた。天皇の臣民だったのが国民だから、他者である天皇に駆動されることはあっても、自分から自発として駆動する自由はない。

 日本の人たちの中にアメリカのトランプ大統領のことを強く支持する人たちがいるのは、それぞれの人の自由だから悪いことだとはいえず、それぞれの人たちの自由に任されていることがらではある。その中で日本の国をとび越えて他国の大統領であるトランプ大統領のことを強く支持するのは、それが国家主義(nationalism)による超自我の虚焦点となっているからだろう。個人がもつ超自我が虚焦点であるアメリカのトランプ大統領に照射や投影される。

 精神分析学者のジグムンド・フロイト氏は、国家や国家主義についてこう言っているという。国家や国家主義とはそれぞれの人がもつ超自我が投影される虚焦点となるところだとしている。超自我とは自我の上位にあるものであり、自我にたいしてこうせよといった命令を下すものだとされる。

 人がまだ小さいころに、社会の中にあるこうするべきだとする決まりや何がよくて何が駄目なことなのかの線引きがすりこまれて内面化される。社会の決まりやよし悪しの線引きが内面化されながら人は社会化されて大人に成長して行く。それによって人はものごとを見分けることができるようになり、感じ分けや行ない分けや語り分けができる社会的な主体として形づくられる。感じ分けや行ない分けや語り分けは感性と行動と言語であり、学者の篠原資明(しのはらもとあき)氏による。感じ分けなどの分けは差異をあらわしている。

 国家主義によって国家をよしとすることが人の心の中にまで入りこむ。そのさいに日本とアメリカは単交通になっていて、日本からアメリカへといった関心の流れがあり、アメリカのトランプ大統領を強く支持する日本人がおきてくる。その逆はあまり見られない。日本の国をよしとしたりアメリカの国をよしとしたりする中でトランプ大統領を強く支持することがおきて、国が権威主義によって権威化されることになる。国からの呼びかけをすなおに聞く自発の服従の主体が形づくられる。

 参照文献 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明 『戦後日本は戦争をしてきた』姜尚中(かんさんじゅん) 小森陽一リヴァイアサン長尾龍一 『権威と権力 いうことをきかせる原理・きく原理』なだいなだ 『村上春樹柴田元幸のもうひとつのアメリカ』三浦雅士(まさし) 『現代思想を読む事典』今村仁司

アメリカの大統領選挙で不正があったのかどうか―認知のゆがみのおそれがある

 おまえは首だ。英語でそれを You are fired というらしい。アメリカのドナルド・トランプ大統領はかつて大統領になる前にテレビ番組の司会者をつとめていてその中の決め文句としておまえは首だとほかの人に向かって言っていたそうだ。それがいまでは自分が大統領の地位を首になることがほぼ確かなことになっている。わたしは首だといったことで、I am fired といったところだろうか。

 文学のカーニバル理論では殺される王の主題があるとされる。王殺しだ。哲学者のミハイル・バフチン氏による。王となった者は戴冠(たいかん)されることで王になるが、それがあとで奪冠されることになる。戴冠と奪冠の運動だ。これは季節でいうと冬と春(夏)の循環だ。冬の王がいすわりつづけているのが追い落とされて、冬の王が殺されて春がやって来る。

 民主主義においてはじっさいに冬の王の頭をかち割るわけには行かない。頭をかち割るのではあまりにもぶっそうで野蛮だ。頭をかち割るかわりに数を割る。数で決着をつける。思想家のエリアス・カネッティ氏は、民主主義は頭をかち割るのではなくてそのかわりに数を割るものだと言っている。そこで決着をつけるとはいってもあくまでもさしあたってのものであり、決着がついたことを絶対化することはできないものである。どういうふうに決着したとしてもそこにはたまたまそうなったのだといった風向きなどによる偶有性があることはまぬがれづらい。

 トランプ大統領がだれにとっても冬の王に当たるとは言い切れず、それなり以上に支持されているのはあるが、トランプ大統領は自分が大統領選挙で大統領の地位にとどまりつづけられない結果が出ているために、選挙は不正だと言っている。トランプ大統領が言うように選挙で不正が行なわれているのだろうか。

 選挙で不正が行なわれているかどうかは、たとえトランプ大統領がしきりにそう言っているのだとしてもあくまでも仮説の域を出そうにはない。トランプ大統領は政治の権力者であり、権力者が言っていることはそれすなわち最終の結論とは言えないものである。仮説にとどまるものだからそれがしっかりと検証されることが必要だ。

 認知のゆがみがあることをくみ入れられるとすると、トランプ大統領はそうとうな認知のゆがみを持っていることがおしはかれる。そこから選挙で不正が行なわれたのにちがいないとする見かたがおきてきているのだろう。その見かたには肯定性の認知のゆがみがはたらいているおそれがあり、その確証の認知のゆがみを相対化するようにして、その見かたと反対の見かたもまた見て行くようにしたほうがつり合いをとりやすい。

 具体の発言を一般化して見られるとすると、トランプ大統領が言っていることは、一般的にどのような大統領であったとしてもそれを言うことがなりたつ。ある任意の大統領が大統領選挙で自分に不都合な結果が出たさいに選挙で不正が行なわれたのにちがいないと言うことがなりたつ。トランプ大統領にかぎらずどのような大統領であったとしてもそれを言うことができるだろう。

 トランプ大統領であれば大統領選挙で不正があったのだと言うことが許されて、たとえば左派の大統領であればそれを言うことが許されないといったことだとかたよったあつかいになり、自由主義(liberalism)における普遍化できない差別がおきていることをあらわす。普遍化できない差別がおきないようにするためには、任意の大統領においてあつかいが等しくならないとならず、トランプ大統領だけを特別あつかいしてはならないだろう。

 最終の結論となるものではなくてあくまでも仮説にすぎないことを言っているのがトランプ大統領の言っていることだから、現実そのものをとらえているのだとは言えそうにない。選挙の結果にたいして主観の意味づけや解釈が行なわれている。その主観の意味づけや解釈がまちがっていてゆがんでいることがあるから、まちがいなくアメリカの大統領選挙でトランプ大統領が言っているように不正が行なわれたのにちがいないと見なすことはできづらいだろう。トランプ大統領がまちがった主観の意味づけや解釈をしているおそれが少なからずある。トランプ大統領の主観の意味空間は置いておくとして、事実空間として選挙で不正が行なわれたかどうかは確かな客観の証拠(evidence)が求められる。

 参照文献 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫丸谷才一を読む』湯川豊 『考える技術』大前研一 『超常現象をなぜ信じるのか 思い込みを生む「体験」のあやうさ』菊池聡(さとる) 『超常現象の心理学 人はなぜオカルトにひかれるのか』菊池聡 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『空間と人間 文明と生活の底にあるもの』中埜肇(なかのはじむ)

日本学術会議のことで、政権に求められること―浅さではなくて深さがいるが、深さが足りていない

 日本学術会議にまずいところがある。与党である自由民主党菅義偉首相による政権が会についてをそう見なす。もしも政権が会についてそう見なすのであれば、そのさいにどういったことが必要になってくるだろうか。

 会についてかりに政権がまずいところがあるのだと見なすのであれば、そこで必要になってくるのは、政権が会に介入することによって政権にとって都合の悪い学者を会からてっとり早く排除することにあるのだとは言えそうにない。

 どういったところに会のまずさがあるのかの原因を探って行く。民間の自動車会社のトヨタ自動車で行なわれているような、なぜの問いかけを何回もくり返し投げかけて問いかけて行く。政権がなすべきことはそれなのがある。

 何をなすべきではないのかといえば、政権がやっているような、会が既得権益だとか閉鎖的だとか多様性がないとかといった一面性による主観の決めつけだろう。そのように決めつけてしまうと、何であるか(what)を見ることにはなるが、なぜであるか(why)を見ることにはつながりづらい。

 何であるか(what)のところの表面の現象のところで政権は会についてをとり上げてしまっている。それだとかりに会にまずいところがあるのだとしても本当の解決にはつながりづらい。本当にまずいところを解決して行くには、何であるか(what)のところの表面の現象のところに手を打つのだと意味がない。政権はその意味がないことをやっていて、効果がない浅いところで手を打ってしまっているのはいなめない。

 何であるか(what)のところの表面の浅い現象のところではなくて、そこからさらにどんどん深くまで見て行く。なぜなのか(why)のところをどんどん深くまで見て行くようにする。その深さがぜんぜん足りていないでひどく浅いのが政権のありさまだろう。

 深さがぜんぜん足りていないことによって、浅いままにとどまっていて、危機管理において危機に対応していってものごとを体系としてとり上げることが行なわれていない。危機から回避してしまっている。体系としてさまざまにありえる要因を分析することができていない。

 政権が何かまずいことがあるさいにそれを何とかして行くうえで、浅いところに手を打ってもしかたがない。浅いやり方だと深いところにある核となる要因を見つけられていないことになるから、ほんとうに意味のあることが行なわれづらい。政権が何かをやるさいに求められるのは、浅いところに手を打つことではなくて、深いところにある核の要因を見つけていってそこにたいして手を打つ。それをしなければならないが、それには政権に創造性があることが欠かせない。

 政権には創造性がいちじるしく欠けているために、政権はかりに何かをやっているのだとしても浅いところに手を打つことしかできていないのだろう。政権が会について見なした一面的な見なし方の主観による会が何であるか(what)をこえ出るようにして、そこからなぜなのか(why)に行くことが行なわれていない。浅いところから深いところへ行くことが行なわれず、浅いままにとどまっている。

 主観による一面的な見なし方になってしまってるのが政権の会についての見なし方だとすると、その政権による見なし方は上からの演繹による安定性はあるかもしれないが広い通用性があるとは言えそうにない。政治の時の権力が上からこうだとすることによって演繹による上からの安定性はおきるのだとしても、そこに広い通用性があるとはいえず、通用のしなさが目だつ。

 学者の仲正昌樹(なかまさまさき)氏によると、物語には安定性と通用性の矛盾や両立のできづらさがあるとされる。閉じた上からの演繹の安定性をとるか、開かれた不安定性をとるかのちがいがある。物語があまりにも安定性によりすぎると教義や教条(dogma、assumption)と化す。閉じた上からの演繹の安定性に強くよってしまうと、神話による神話作用がまかり通るようになる。官僚主義の無びゅう性による神話をとらないようにして、まちがいを含みうる可びゅう性による開かれた不安定性を引きうけることが政権には求められる。

 参照文献 『考える技術』大前研一 『「Why型思考」が仕事を変える 鋭いアウトプットを出せる人の「頭の使い方」』細谷功(ほそやいさお) 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安 大貫功雄(おおぬきいさお)訳 『知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ』苅谷剛彦(かりやたけひこ) 『なぜ「話」は通じないのか コミュニケーションの不自由論』仲正昌樹 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人

力と自由と、アメリカの大統領選挙

 力と自由がある。そのことについて芸術家のレオナルド・ダ・ヴィンチ氏はこう言ったという。力は強制によって生まれ、自由によって死す。

 力と自由がある中で、力によっているのがアメリカのドナルド・トランプ大統領だと見られる。アメリカは国として力の宗教によっていると言われていて、その力によるのを象徴しているのがトランプ大統領だ。力によって選挙に勝つことに依存しすぎている。勝つことにこだわりすぎている。負けることを認めようとはしない。そこに欠けているのは科学のゆとりだ。

 アメリカの国は競争社会であり、勝つことと負けることとの対照の差がある。勝つことの裏には負けることがある。その差が大きく開いていることで経済の格差がおきていて階層の差がおきている。階層の差が固定化されてしまい、力を得る者と、力を得られないで失う者との差がおきる。力を得られないで失う者は自己責任だとされて、うちひしがれることになり、アルコール依存症などの精神の病がおきてくる。

 競争で勝ち負けを争うことにおいてやっかいなことは何か。それについて作家のジョージ・オーウェル氏はこう言っている。そこでやっかいなことは、誰かが勝たなければならないことだ。政治においては競争が行なわれることはよいものの、それが行なわれたら行なわれたで、よからぬ者が上に立ってしまうことがないではない。そこにはたらいてしまうのは学者のローレンス・J・ピーター氏によるピーターの法則や悪貨は良貨を駆逐するグレシャムの法則だ。

 国の全体がたとえいっけんすると表面としては充実しているように見えるのだとしても、その表面の力の充実のかげには力を得られないで失う者が少なからずいて、そこからうつろな響きがおきてくる。そのうつろな響きをすくい上げることがいる。そこに国の全体の病理が反映されていて象徴化されている。国がもつ空虚さであり、もっとよりつっこんでいえば国がもつ悪や退廃(decadence)の面だろう。

 力(might)よりも自由や正しさ(right)をとるようにして行きたい。民主主義において政治の権力を絶対化しすぎると力によるようになり権威主義専制主義(despotism)に横すべりしやすい。専制だと法による法治ではなく人による人治がとられることになる。多数者の専制がおきると少数者が許容や承認されなくなるのでまずい。

 いかにして力を絶対化させずにそれを和らげて行くのかがいる。それによって力よりも自由や正しさをより高めて行くようにして、自由主義(liberalism)が守られるようにして行く。

 力をよしとして力によりすぎてしまうと抑制と均衡(checks and balances)がはたらかなくなり、一強や一権のあり方になって行く。力が高まることで効率性は高くなるが適正さが損なわれてしまう。まちがった方向に向かって進んでいってしまう。それを防いで行くためには、権力を分立させて分散させるようにして、力を分散させて行く。力を一つのところに集めて一強や一権にするのではなくて、いろいろな自由な言説を許すようにする。

 いろいろに自由な言説を言うことが許されなくて、たった一つの言説だけがよしとされるのだと、自由が死ぬことになってしまい、力が一つのところに集まって行きやすい。そうなってしまうと国がまちがったことを行なうことがおきてくる。

 自由とはいってもいろいろな意味あいをもっているので多義性またはあいまいさがあることはいなめない。その中で自由を高めるためにできることとして抑制と均衡をはたらかせて一つのところに力が集まりすぎないようにすることがあげられる。力を分散させるようにしてお互いに力どうしがけん制し合い監視し合うようにして、政治の時の権力が抜きん出て突出した力を持ちすぎないようにして行きたい。

 国は一つの集団だが、その集団が全体をくまなくおおうようだと全体主義におちいってしまう。それを防ぐためには国の集団が個人を大きく支配してしまわないようにしたい。そこに求められるのは国の集団が個人にへたに干渉や介入しない消極の自由(何々からの自由)だ。国家の公が肥大化して個人の私を押さえつけると個人の自由が失われる。

 たとえ国家の公が大きな力をもつのだとしても、個人の私が押さえつけられて個人の私の自由が失われては意味がない。肝心なことは個人の私がいかに大きな自由をもてるかにあるだろう。個人の私の自由の幅(capability)を大きくして行く。国家の公は個人の私の自由の幅が大きくなることをうながしてそれを支えるためにあるのだと見なしたい。

 現実の日本の国は個人の私の自由を大きくして行くのと逆のことをしていて、それぞれの個人の私の自由の幅を広げようとせずにせばめてしまっている。みな平等に自由なのではなくてそれぞれの不平等さによる階層の格差がおきているのを放ったらかしにしてしまっていることは否定することができづらい。機会(形式)および結果(実質)の不平等さがあることはまぬがれないから、それが正されて改まることがいる。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『ヘンでいい。 「心の病」の患者学』斎藤学(さとる) 栗原誠子 『個人を幸福にしない日本の組織』太田肇(はじめ) 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん) 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『知のトップランナー 一四九人の美しいセオリー』ジョン・ブロックマン長谷川眞理子

日本学術会議の人の選び方と、多様性と多元性―政権には(理想の)多元性がいちじるしく欠けている

 多様性は大事だが、それと似たようなものとして多元性がある。与党である自由民主党菅義偉首相は、日本学術会議には多様性がないと言っているが、そのことについて多元性を持ち出してみることができる。それを持ち出してみられるとすると、どういったことが言えるだろうか。

 多様性が会には欠けているのだと菅首相は言いつつ、多元性を損なわせてしまっている。なぜ多元性を損なわせてしまっているのかといえば、政権が会について排他的なことをしているためである。政権にとって気に食わない学者を会の中からとり除こうとした。

 理想論と現実論で見てみられるとすると、もともと会のあり方は理想といえる多元性のあり方になっているのだとは言えそうにない。理想といえるあり方にはなっていなくて、せいぜいが包括のあり方にとどまっていた。会の中に政権にとって気に食わない学者がいたのだとしても、お目こぼしのようなかたちでしぶしぶ認められていた。このお目こぼしでしぶしぶ認めることすらもこばみ、排他的なことを行なったのが政権だ。

 もともと理想といえる多元性のあり方ではなくて、せいぜいが包括のあり方にとどまっていたのが、さらにより悪化して排他的な方向に進んでいってしまっている。その方向に進むことをうながしているのが政権の排他の行ないだろう。

 政権が会にたいして行なっている排他の行ないを改めて、せめてもともとの包括のあり方にもどす。それでそこからさらによりよくして行くために理想の多元性のあり方になるようにして行く。よりよいあり方にして行くためには、政権がやっていることや言っていることが正しいのだとする官僚主義の無びゅう性によるのではなくて、まちがいを含んでいるものだとする可びゅう性のあり方にすることがいる。人間は合理性に限界をもつ。

 どのようにしたら理想の多元性のあり方になるのかを探るうえで、排除(exclusion)と包摂(inclusion)の二つの方向性があげられる。この二つの方向性のうちで、政権が排除の行ないをしてしまうと理想の多元性から遠ざかって行く。政権による味方と敵の友敵理論の図式がもち出される。味方と敵とに分けて、そのあいだに分断線を引く。そうした遠近法(perspective)がもち出される。

 排除と包摂の二つの方向性がある中で、政権がやっていることは排除を強めることであり、それによって政権の虚偽意識がどんどん強まっている。その強まりを少しでも弱めて行くためには、排除ではなくて包摂をして行く。政権がもつ遠近法で政権にとって遠いものを遠ざけて近いものを近づけるのだと、政権による排除の行ないが行なわれるだけになる。

 排除が行なわれて政権の虚偽意識がどんどん強まって行く。そこには理想の多元性による抑制と均衡(checks and balances)がはたらいていない。それがはたらいていないがゆえにまちがった方向に進んでいってしまいやすい。効率性は高いが適正さがなくなって行く。政権の虚偽意識がどんどん強まって行かないようにするために理想の多元性による抑制と均衡をはたらかせるようにしたい。そうしないと国の全体がどんどんまちがった方向に進んでいってしまいかねない。

 より包摂をうながして行き、理想の多元性のあり方に近づいて行くためには、政権がもつ遠近法を逆転させることが求められる。遠いものを遠ざけて近いものを近づけるだけではなくて、それを逆転させるようにして、遠いものを近づけて行く。これはよき歓待や客むかえ(hospitality)だ。

 政権は会の中に多様性が欠けていて、多様性が大事だと言いながら、理想の多元性からどんどん遠ざかってしまっていて、しぶしぶ認める包括ですらなく、それすらも壊されてしまい、排他のあり方になっていっている。理想の多元性のあり方を目ざして行くために、いったんもともとの包括のあり方にもどすべきであり、そこからさらに多元性によってまっとうな議論をし合うことが行なわれるようにして行きたい。いまは政治における議論が死んでしまっているが、そのもとは政権が排他の行ないをしていることにあり、政治の多元性(ポリアーキー polyarchy)から遠ざかっていることから来ているのだと見なしたい。

 参照文献 『宗教多元主義を学ぶ人のために』間瀬啓允(ひろまさ)編 『現代思想を読む事典』今村仁司編 「排除と差別 正義の倫理に向けて」(「部落解放」No.四三五 一九九八年三月)今村仁司 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『政治学川出良枝(かわでよしえ) 谷口将紀(まさき)編