悪夢のようだったのであれば、いまの政権はぜんぜんすごくはない

 悪夢のようだったのが旧民主党の政権だ。少なくとも、政権の交代によって混乱がおきたのは事実だ。首相はそう言っていた。

 首相はくり返し、悪夢のようだったということを言っているが、改めてみると、悪夢のようだったのであれば、あとは上がるだけなのだから、いまの政権がすごいことにはぜんぜんならない。

 悪夢というのは、それ以上は下がりようがないものなのだから、いわばどん底ということだ。あとは上がるだけなのであって、いまの政権の手がらでも何でもない。旧民主党のことを悪夢のようだったというふうにおとしめるのは、とくに意味があることでも何でもないものだろう。

日本とロシアのそれぞれで、考え方の枠組み(フレームワーク)がちがうので、複雑になっている

 戦争をして、北方領土をとり返す。北方領土を元島民と共におとずれた国会議員はそう言った。

 日本から見たら北方領土は自国の領土ということになるが、ロシアからすればまたちがった見かたになる。そこがむずかしい点だ。日本には日本の考え方の枠組み(フレームワーク)があるが、ロシアにはロシアの考え方の枠組みがまたあるのだ。

 日本が戦争によって北方領土をとり返すということになると、ロシアはそれを黙って見すごさず、ぶつかり合いになったり長く敵対し合ったりすることになりかねない。そうすると日本の国にとっての効用(利益)は低い。帰結として効用は低いだろうし、武力を用いてはならないという決まりを破るのだから、法や手つづきにおいて不適正となるものだ。

 戦争をしてでも北方領土をとり返すというのは武張(ぶば)ったものだ。武張らないようにしてできるだけ力を用いる方向に行かないようにすることが肝心である。そこはあらかじめ禁じられているということで、それによらないような方向で行くことが欠かせない。

 武張って力を用いる方向には行かないようにして、メタ認知をできるだけはたらかせることがいる。メタ認知をはたらかせるさいには、熱と冷のつり合いをとるようにして、順説だけではなく逆説をくみ入れるようにする。科学のゆとりによる溜(た)めをもつようにして、ただ一つの直観や信念だけを強めるのではないように気をつける。

 北方領土は日本の固有の領土だという見解は、一〇〇パーセント正しいとまでは言えないものだろう。日本の国内における建て前としては一〇〇パーセント正しいのだとしても、それがそのまま世界のあらゆるところで通じるものだとまでは言えそうにない。

 ロシアは力によって領土をうばっているのがある。それはまちがったことであるのはたしかだ。それがあるのだから、ロシアは日本のことを批判するのはおかしいという言いぶんはなりたつ。その言いぶんはなりたつのはあるものの、それを言いはじめると、人にうったえる議論に入りこむ。

 人にうったえる議論に入りこんでしまうことになると、修辞や詭弁となる。日本は純粋な被害者だと言えるのかとか、日本の国としての戦前や戦時中におけるさまざまな悪い行ないがあったではないかとかいったことがおきてくる。話がこじれてくる。いたずらな歴史修正主義におちいるのではなくて、日本の過去についてを、日本にとって都合の悪いことまでしっかりとふり返ることがいるようになるのだ。

 ロシアは国として完全な善ということではなくて、悪いところはあるのだし、日本にもまた悪いことがかつてあって、いまもある。そこはお互いさまというところだろう。悪いところの程度のちがいというのがあるから、そこを無視するのはまずいが、ロシアの悪いところは悪いと批判するのはあってよいことだし、日本の悪いところについては自己批判をしたり、他からの批判に開かれていたりすることがのぞましい。他からの批判に(お互いに)開かれているということが民主的であるということだ。

 参照文献 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『逆説の法則』西成活裕 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸

労働組合の効力感や無力感と、それとは別の(労働者にとっての)労働組合の大切さ

 労働組合にたいする印象は必ずしもよいものではない。労働組合が労働者を救うことができているのかと言えば、十分にできているとは見なせないものだろう。

 労働組合が労働のことだけではなくて、ほかの政治の活動を行なうことにたいして、好ましくない目が向けられているのがある。大きな労働組合は数の力をもっているので、政治の活動を行なうことがあるが、人によって色々な政治の立ち場があるので、そのすべてを満足させることはできづらい。

 労働組合は、労働者を救うために、大きな効力感をもっているとは見なせそうにない。無力感があるというのがある。それはあくまでも、具体の現実の労働組合について部分的に言えることではあるかもしれないが、そうだからといって、労働組合の重要さはまた別のものなのではないか。

 労働組合はおしなべて役に立たないのだと一般化するのは、ふさわしいこととは言えないのがある。労働組合に力がないのであれば、それは労働者にとって益にはならないことなのだから、労働者が少しでもむくわれるようにするためには、労働組合が力をもつようにすることがいる。そのためには、労働組合(ユニオン)の大切さやその意味あいというのを見直すようにして、十分に結成されたり活用されたりすることがのぞましい。ちなみに、労働組合は、最低二人以上の人がいればつくれるそうだ。

 参照文献 『図説 労働の論点』高橋祐吉 鷲谷徹 赤堀正成 兵頭淳史編

紛争の解決の手段として戦争(武力の行使)は適したものとは言いがたい

 北方領土は戦争でとり返せ。戦争でとり返すしかない。北方領土におとずれた国会議員はそう言ったという。いっしょに北方領土をおとずれた元島民にたいして、戦争をしてとり戻すことに賛成か反対かをたずねたり、戦争をしてとり返すしかないのではないかと迫ったりした。

 たしかに、北方領土はロシアが実効支配しているし、北方領土にはロシアの住民が住んでいて、ロシアにたいする帰属意識をもっているということだから、そうそうたやすく日本に返ってくることはないだろう。

 北方領土は戦争のさいに、日本が敗戦したときにロシアにうばわれたのはあるが、それだからといって、戦争でうばわれたものを戦争でとり返すという発想にはうなずけない。戦争でうばわれたとはいっても、日本は単純な被害者とは言いがたい。その戦争というのは、日本が対外的に他国に拡張して行く帝国主義による侵略戦争だったからだ。

 日本は侵略戦争をしたと言うと、自虐史観だとされるのはあるかもしれない。戦争がどうだったのかというのは、色々な史観によって見られるのはあるかもしれない。戦争にまでいたった流れとしては、日本の軍部や国粋主義の勢力の暴走がある。それを止められなくて戦争にいたったのだ。穏当派だった政治家や権力者は生ぬるいということで、軍人や国粋主義者によって殺害される事件などがおきた。

 国会議員は、戦争をして北方領土をとり戻すことに前向きなようだが、かりの話として、戦争ということであれば、まずまっ先に戦争をすることを決めた国会議員が戦地に行くべきだ。権力に近い国会議員が戦争をすることを決めるのだから、自分たちで戦地に行って、自分たちだけで戦う。

 戦争をしてまでも北方領土をとり返すことが、割りに合うのかや、本末転倒にならないのかを、冷静に見て行かないとならない。戦争をするということになれば、割りに合わなくなったり、本末転倒になったりするおそれがはなはだしく高い。

 戦争というのは武力を用いることだから、十分な理由もなくそれを振るってもよいということにはならない。基本としては武力を用いることは禁じられている。専守防衛などの例外的なときにだけ抑制的に武力を用いるのが許されているだけだから、領土をとり返すために武力を用いるのは手段としてとれないものだ。

 北方領土の領土問題では、日本とロシアのあいだに紛争がおきている。この紛争を何とかすることが、日本にとって何よりも優先度の高いことだとまでは言えないのだから、ほかのことを色々とくみ入れるようにして視野を広くしないとならない。領土についての紛争の争点を何とかするようにして、民主的な解決の道を探ることがのぞましい。

 参照文献 『一三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『「本末転倒」には騙されるな 「ウソの構造」を見抜く法』池田清彦 『二〇世紀を一緒に歩いてみないか』村上義雄

集団への帰属における、画一化とコモディティ化

 みんなが同じあり方になる。一つにまとまる。画一化(コモディティ化)だ。

 画一化すると同質の者どうしの集まりになる。お互いに分身のようになって差がなくなる。

 コモディティ化しないようにして、差をつけるようにするには、反や非や脱をとれるようにするのはどうだろうか。日本人ということであれば、反日本人(反日売国)のあり方をとらせないのではなくて、それがあってもよいというふうにする。そうすれば、日本人の全体がコモディティ化するのを避けられる。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司

憲法における押しつけと普遍(押しつけではないことと特殊)

 いまの憲法は押しつけだ。だから変えることがいるのだ。そう言われているのがある。

 憲法がつくられた過程で押しつけだった(かどうか)というのとは別に、憲法の内容の押しつけというのがある。内容の押しつけというのは、普遍であるということだ。

 普遍であるものは、押しつけのところがある。なので、憲法の内容が普遍によっているのであれば、押しつけだと受けとれるものになる。

 押しつけではない憲法にするために、憲法を変えるというのは、普遍であるものを特殊にしてしまう危なさがある。特殊なものには普遍さが欠けているので、押しつけではないのだとしても、価値としては難がある。

 たとえ押しつけであるのだとしても、それが普遍によるのなら、必ずしも悪いものだとは言えそうにない。もともと普遍のものには押しつけであるのがあるからだ。

 ここでいう普遍というのは、絶対的にということではなくて、程度によるものだ。絶対的に普遍だとか、絶対的に特殊だとかは言えず、相対的な上位と下位といったようなものである。超越であるというのではなくて、世俗的な点から、個人の権利や自由を保障したり、より多くの人の満足(効用)が得られやすくしたりするのには合理性がある。

 参照文献 『寺山修司の世界』風馬の会編

消費税を上げると景気が悪くなることと、駆けこみ需要やそのごの反動減などによる差し引きや落差

 消費税を上げると景気が悪くなる。はたしてそう言えるのか。そこには、とらえちがいがはたらいていると見られるのがあるのだという。『平成の経済』小峰隆夫による。この本の書評が毎日新聞の記事に出ていて、そこで触れられていた。

 消費税を上げるということになると、駆けこみ需要がおきる。消費税が上がる前に買っておこうということで、消費者が駆けこむ。それで需要がおきる。消費税が上がったあとにはその反動がくる。

 駆けこみ需要と、そのあとの反動減とで、差し引きとなるが、それらをくみ入れると、一見すると消費税を上げることによって景気が悪くなったように見うけられる。景気が悪くなったように見えるのを、よく見てみると、必ずしもそうであるとは言い切れないのがあるという。

 消費税を上げると景気が悪くなるという意見は、まちがっているとは言い切れないのがあるので、それを否定するものではないが、絶対的に正しいとは断定できそうにない。駆けこみ需要や、その反動減や、差し引きや落差などをくみ入れて、改めて見直すことがあってよいものだろう。そういった付随することがおきるのが、ちょっと面白いことだなというのがある。

 消費税を上げることで付随することがおきるのを、面白いなどと言うのは、はなはだ不謹慎なことに響くのはあるかもしれない。不謹慎かつ無責任だというのはあるかもしれないが、もしとらえちがいになっているのだとしたら、そこを言うのはあってもよいものだろう。いずれにせよ、説得性は必ずしもないかもしれないが、消費税を上げるのをまちがいなく悪いのだとしたり、まちがいなくよいのだとしたりしたいわけではない。

国の借金と、貨幣のはたらきと構造

 国はいくら借金をしても大丈夫だと言われる。それとはちがい、国の借金を減らさないとまずいとも言われる。

 なぜ国は借金をすることができるのか。それは、国には徴税権があるからだという。国は国民から税金(や社会保険料)をとり立てられるので、借金ができるのだ。

 国には貨幣(通貨や紙幣)を発行する権利があるので、そこから国は借金ができるのだということも言われている。ここでいう貨幣というのは、ごく当たり前に使われているものだが、改めて見るとよくわからないものだ。

 貨幣というのは堂々めぐりの道具であって、自己言及性がある。貨幣とは何かをとらえるさいに、貨幣そのものを抜きにしてはとらえづらい。貨幣は使用されることによって貨幣となるのだ。

 ふつうは貨幣と言えば経済によるお金を思い浮かべる。これは狭義によるものだ。貨幣とは経済によるお金に限られず、もっと広くとらえることがなりたつ。広義で見られるのだ。広く言うところの貨幣からすると、経済のお金の貨幣は、その部分集合となるものだ。

 経済でいうと、貨幣であるお金は等価交換だ。ほかの商品からは排除されている。貨幣はふだんはおもてに出てこず、交換の仲立ちをするのにとどまる。秩序を縁の下で支えているのだ。

 世の中が平穏なときは貨幣はおもてに出てはこないが、何かことがおきると貨幣はおもてにおどり出てくる。このさい、貨幣ということで何がさし示されているのかというと、それは経済のお金には限らず、日ごろに日の目を見ず、のけ者や日陰者とされているものをさしている。

 世の中の秩序が崩れて、ものごとの区別がはっきりとしなくなってくると、混沌がおきてくる。混沌とすることによって、たまった汚れなどの負の要素を吐き出して、新しいあり方に更新することをうながす。その役を引きうけるのが貨幣なのだ。

 秩序が崩れて、混沌がおきて、新しいあり方に更新されるというのは、文学で言われるカーニバル理論をからめて言ったものだ。カーニバル理論とは、素人の言うことだからまちがっているかもしれないが、季節のめぐりになぞらえられる。冬から春(または夏)へと移る。いやな冬の王を打ち倒して、よろこばしい春や夏を復活させる。冬の王にたいする戴冠(たいかん)と奪冠だ。殺される王(冬の王)の主題がとられる。ケ(日常)とハレ(非日常)とも言えるだろうか。

 経済において、お金を持っている量の多い少ないで言うと、お金持ちと貧乏人がいるわけだが、このちがいは平等という点からすると欺まんである。このちがいが固定化されるのではなくて、ちがいがなくなったり反転したりするさいに、(交換の仲立ちとなることなどによって)日ごろは排除されて辺境にある貨幣のはたらきが関わってくる。

 参照文献 『高校生のための経済学入門』小塩隆士(おしおたかし) 『数学的思考の技術 不確実な世界を見通すヒント』小島寛之(ひろゆき) 『貨幣とは何だろうか』今村仁司寺山修司の世界』風馬の会編 『忠臣藏とは何か』丸谷才一 『見わたせば柳さくら』丸谷才一 山崎正和

国の借金における、まずいか大丈夫かによる弁証法

 国の借金は増えつづけている。合計で一一〇三兆円にのぼるというふうに報じられている。国民一人あたりでは八七四万円となっている。

 国の借金が一〇〇〇兆円を超えようが、まったく何の問題もないことなのだから、何かまずいことであるかのように報じるのはおかしいという声は少なくない。国民一人あたりで割るのはおかしいというのも言われている。

 国の借金は一〇〇〇兆円を超えているが、これをとらえるさいに、借金というものについて、利点と欠点や、肯定と否定や、作用と反作用(副作用)や、表と裏といった二つのことを、つき合わせて見るのはどうだろうか。二面性があるということだ。

 欠点ぬきで利点だけがあるというものは考えづらい。国が借金をすることに利点があるのであれば、それにまつわる欠点があるはずだ。

 国が借金をするのは、欠点はなくて利点だけがあるのだ、ということは、一つの意見としては言えるかもしれない。そう言えるのはあるかもしれないが、それはたんに肯定だけをとっていて、否定をとっていないだけかもしれない。表だけをとっていて、裏をとっていないのだ。

 たんにまずいとか、たんに大丈夫だとするのは、それぞれにおいての論拠(理由づけ)となるものがある。もし、それぞれの論拠を強めるだけなのであれば、たんにまずいとか、たんに大丈夫だといったことが強まるだけで、お互いに平行線のままだ。

 論拠を強めるのではなくて、反対となるものとのあいだに折り合いをつけられればよい。たんにまずいというのや、たんに大丈夫だというのは、それぞれがお互いの考え方の枠組み(フレームワーク)によってなりたつ。その考え方の枠組みが、どちらか一方だけが絶対的に正しいのであれば絶対論だ。それとはちがい、それぞれがそれなりに正しいとか、ある条件のもとでは限定的に正しいというのであれば、相対論だ。

 大きな物語はなりたたず、小さな物語しかなりたたない。それをくみ入れれば、国の借金はたんにまずいとか、たんに大丈夫だというのを、絶対的に基礎づけすることはできづらい。断定するのではなくて、まずいだろうとか、大丈夫だろう、といったことにとどまる。

 参照文献 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅 『国債暴落』高田創 住友謙一

車化社会(モータリゼーション)と自動車事故と物象化

 車が人をひく事故が、ニュースであいついで報じられている。もし車にひかれる事故に巻きこまれたらと思うとぞっとしてくる。

 車が人をひく事故というのは一つのできごとだ。このできごとは、それがおきたあとになってそのできごとの大きさを受けとれるものだ。事後性がある。おきる前とおきたあとでは、それに巻きこまれた人の生が激変することになる。偶然によるもので、暴力的だ。

 いまの社会は車化(モータリゼーション)が進んでいる。車が社会の中に組みこまれている。車を売ったり買ったり使ったりしないと経済が立ち行かないとさえ言える。人間の生はそれに影響を避けがたくこうむる。車化社会であることによって、人間の生が物象化されるのだ。死ととなり合わせになっているのだ。

 人間を傷つけるような自動車の事故が起きる確率は、一説には宝くじの一等が当たるくらいのものだとされる。確率として言えば、そこまで大きなものとは言えそうにない。頻ぱんにおきるものではなくて、めったにはおきないとは言っても、社会の大きな問題であることはまちがいがない。他人ごととしてであれば、確率だけですむけど、自分ごととすれば、それで割り切れるものではない。

 自動車を運転するさいには、危ないことがおきたらそれを避けることがいる。避けるさいには、減速してから回避するという順番がある。回避よりも、ブレーキなどで減速することのほうを先にする。これは元F一レーシングドライバー中嶋悟氏が言っていたことだ。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司