目的を達するための手段をとるさいに、必須か任意かがある(任意であれば複数のものをとれる)

 目的を達するための手段をとる。この手段でなければならないということだと、一つの手段が必須となるけど、そうではないのであれば、任意の手段となる。任意の手段ということであれば、選択肢を複数にして、その中からふさわしいものを選ぶことができる。これは手段だけではなくて目的にもまた言えることだ。

 目的を達するための手段がこれしかないということだと、必須となって、垂直思考(単一化)となる。それとはちがい、いくつもとれるということであれば、任意になって、水平思考(多数化)となる。垂直思考と水平思考は、エドワード・デボノ博士によるものだ。

 参照文献 『究極の思考術』木山泰嗣 『正しく考えるために』岩崎武雄 『プロ弁護士の「勝つ技法」』矢部正秋

自主的に判断していると言うわりには、気骨や反骨というものがほとんど感じられない

 国会での野党の議員のふるまいについて、事実とは異なる報じかたを NHK は行なった。野党の議員からそのことを問われて、NHK の専務理事はまともには答えず、内容については十分に吟味して、自主的な編集判断にもとづいて報道しているとくり返し述べた。

 野党の議員を不当におとしめるような報じかたを NHK はしてもよいのだろうか。野党の議員が政権を批判するのは政権にとって都合が悪い。NHK は政権の肩を持ったり忖度をしたりして、編集のしかたで野党の議員が悪いことをしたかのような報じかたをするのはおかしいことである。それにくわえて、(NHK によって悪く報じられた当人である)野党の議員からの質問に NHK の専務理事はまともに答えていないのは、二重によくないことだ。

 NHK が二重によくないありさまであることから見てとれるのは、野党を軽んじて与党をとり立てて(持ち上げて)いることだ。NHK は、いついかなるさいにも、これから先もずっと野党を軽んじて与党をとり立てるつもりなのだろうか。そうであったらおかしいし、そうでなくても(一時的なことであっても)おかしいことである。政権を批判する野党の議員を軽んじることが、NHK にとっては倫理的なあり方であるとでも言うのだろうか。

 NHK が野党のことを軽んじて軽べつすることはふさわしいことではなく、するべきことだとは言えそうにない。野党の議員が政権を批判することで、政権にとって都合が悪いからといって、NHK は政権に加担してしまうのはまずい。

 倫理観においては、NHK は野党のことを軽んじるのではなく、愛と尊敬(尊重)をもつことがいる。与党や政権については、権威を持つからといって言っていることややっていることをうのみにするのではないようにしたい。(NHK が)正しく考えることに努めて、権力チェックを行なうようにする。

 内容について十分に吟味して、自主的な編集判断にもとづいて報じているとのことだが、これはとうていうなずけるものとは言えそうにない。どういう倫理観にもとづいて編集や報道をしているのかを明らかにして言うことがいる。それを示しもせずに、なおかつ専務理事は野党の議員からの質問にまともに答えてもいないのだから、ものごとの内容を十分に吟味して自主的な判断ができているとはとうてい見なしづらい。

 内容を吟味して報道したというふうに過去形にするのではなく、現在形にして、ふり返って報道のあり方を吟味したらどうだろうか。放映したものをしっぱなしにするのではなくて、いまからでも何回でも吟味することは可能なものだろう。吟味したつもりというのではなく、根源(ラディカル)において吟味することができるはずだ。

 参照文献 『「説明責任」とは何か』井之上喬(たかし) 『倫理学を学ぶ人のために』宇都宮芳明 熊野純彦編 『正しく考えるために』岩崎武雄

財務相は、大衆迎合主義(ポピュリズム)のために努力しているようだから、努力をする場所や方向性がまちがっているのではないか(負の問題を発見することに努力してみてはどうだろうか)

 表現をするにはなるべくよいことを言う。そうしないと支持率が上がらない。努力して色々とよいことを探して言っている。財務相はそう言っていた。

 プレゼンテーションにおいては、よいところを言うのは当たり前だから、政権が自分たちのよいところを言うのはおかしなことではない。よいところを言ってもよい。こうした意見が言われている。これには必ずしもうなずくことができそうにない。

 民間の人が行なうプレゼンテーションと、政権が行なう説明は、はたして類似したものと見なせるのだろうか。私と公というちがいがあるから差異があるのであって、類似したものと見なすのには待ったをかけたい。ちがうものであれば、同じあり方ではないほうがよいことがある。

 政権がよい成果を出したということを言うのは、まずよい成果をほんとうに出しているのかに疑問符がつく。それにくわえて、かりによい成果が出ているのだとしても、それが政権の手(実力)によるものだということがいぶかしい。

 政権の手がらにするのであれば、政権とよい成果とのあいだにはっきりとした因果関係がないとならないが、客観の因果関係が成り立っているとは見なしづらい。客観の因果関係というのは誤解やとりちがえをすることが少なくないもので、はっきりとは分かりづらいものだ。それがあると言うのは、そうとうに政権による認知の歪みが大きくはたらいているはずだ。

 かりに政権の手によってよい成果が出ているのだとしても、それをさも自分たちの手がらだとしてほこることはふさわしいことなのだろうか。ことわざでは、能あるたかは爪を隠すと言う。爪を思いきり出していることがもうひとつ信用ならない。その爪は疑わしい。権力者が自分たちで自分たちのことをよく定義(性格)づけするのは権力の乱用だ。権力者による情報管制や情報操作の疑いはぬぐい切れない。

 かりに自分たちの手によってよい成果が出ているのだとしても、それを自分たちからあまり言わないで、後世の人たちの評価にゆだねるようにする、というのならまだわかる。そうではなくて、いま政権をになっている自分たちが、いまよい評価を得ることがいるのだというのは、功を焦っているように見うけられる。功を得ることを焦るのは失敗のもとだ。

 首相は旧民主党のことを悪夢だとして低く価値づけしているが、いまの時代において、じっさいより以上に高く価値づけされてしまっているものは少なくない。その筆頭がいまの首相による政権やいまの与党なのではないだろうか。過大評価(オーバーレイト)だということだ。

 価値というのは客観(絶対)ではなく主観(相対)によるものだから、こういう価値だと一方的に決めつけてしまってはいけないだろう。さまざまに見られるのはたしかだが、じっさいより以上に上げ底にされているものは少ないとは言えず、いまの政権は自分たちで自分たちを上げ底にしていることを隠していないのが、財務相の言うことからうかがえる。

 評価というのはなかなか難しいもので、過小評価(アンダーレイト)されているということが、かえって過大評価になってしまうのがある。逆説がはたらく。人間は承認を求めてやまないのがあるのは否定することができそうにない。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『科学的とはどういうことか』板倉聖宣 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『頭のよくなる新聞の読み方』正慶孝 『THE SCRAP 懐かしの一九八〇年代』村上春樹

橋をかけられれば外交となるが、それをする気がなく、できていないので、非外交というふうに一部においてなっている

 外交とはいえ、いまの日本のあり方は一部において非外交になってしまっているのではないか。大衆迎合主義(ポピュリズム)によって与党の政治家が国民をあおったりたきつけたりしている。

 外交ではなく一部において非外交になっているのは、大きな文句が幅を利かせてしまっていることに見られる。大きな文句とは勇ましさによるものだ。それに歯止めをかける小さな文句が大切だ。小さな文句はかき消されてしまっている。

 美智子皇后はこう言っている。単純さではなく、複雑さに耐えなければならない。ちがう考え方があることを受けとめて、橋をかけることがいる。このことを、いまの与党の政治家やいまの首相による政権は重く受けとめてほしいものだ。

 非外交とはならず、外交を行なうためには、日本は正しいということで凝り固まるのはのぞましくない。日本は正しいということを相対化して、日本を批判してくる国とのあいだに、橋をかけられればよい。たんに日本は正しいとするのは単純なものであって、複雑さに耐えていることにはならない。

 日本は正しいということで単純化すると、教条(ドグマ)主義や合理主義におちいる。それを避けるようにして、経験主義や修正主義によるほうがどちらかというと無難だ。

 日本を批判してくる国よりも、日本のほうが正しいのだというのは、あまりあてにはならない。日本は正しいというのは、状況や文脈によってぜんぜんちがってくる。一貫性がないので違和感をいだかざるをえない。日本の国内で、いまの政権や高級な役人がでたらめやごまかしをしていることの、どこに正しさがあるというのだろうか。これがひとたび目先が転じて、日本のことを批判してくる国のことになると、状況(文脈)が変わるせいか、日本は正しいのだとなってしまうのが個人的には不思議だ。

 自衛隊において、大事なこととして、正早安楽(せいそうあんらく)というのがあるのだという。いまの政権や高級な役人は、これがいちじるしく欠けてしまっているのではないだろうか。すべての土台となるのが正だが、正ではなく誤で、誤でなおかつ早いことがあるからたちが悪い。税金を無駄に使っているので安ではなく高になっている。無駄に労力や費用を用いているので楽ではなく苦になっている。楽ではなく苦だという点では、国民の少なからずがおそらくはそうだろう。

 参照文献 『橋をかける 子供時代の読書の思い出』美智子 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅 『自衛隊に学ぶメモ術』平野隆之 松尾喬(たかし) 『科学的とはどういうことか』板倉聖宣 『できる大人はこう考える』高瀬淳一

入国管理局による、施設の中にいる外国の人にたいする消極的義務の違反

 入国管理局では、体調不良の外国人を、病院に行かせていないのだという。体調がよくない外国の人がいるのなら、病院に行かせて治療を受けることが必要だ。

 ちがう話に置き換えられるとすると、目の前に池があって、そこで人がおぼれかけているときに、そこを通りかかった人(入国管理局)は、池でおぼれかけている人(外国の人)を助けることがいるかどうかがある。

 まったく同じこととして見られるかどうかはわからないが、入国管理局は、池の目の前を通りかかっていて、十分に助けられる力があるのにも関わらず、池でおぼれかけている人(外国の人)をそのままにしているのに等しいところがある。

 施設の中に外国の人を入れているのだから、入国管理局には、外国の人にたいする生存の権利を引きうける責任がある。国家をまたいだ責任だ。入国管理局およびいまの首相による政権はその責任を果たしているとは言えそうにない。

 入国管理局には、施設の中にいる外国の人がもつ生存の権利をうばうことは許されるものではないのだから、それをうばうのは加害の行為だ。加害の行為をなすのは消極の義務に反している。消極の義務とは、他者に加害の行為をなしてはならないというものだ。

 入国管理局には、自分たちの正義があって、それにもとづいて動いているのかもしれない。その正義は国家主義によるものだろう。国家主義は国民を人間として、それ以外の非人間を生み出す。非人間とされる人を生み出すことによって非人道の行為に結びつく。

 非人間の非人道のあつかいを受けるのは、特定の外国の人にのみ当てはまることではなく、日本の社会の中において、人間を非人間のようにあつかうことがまん延してしまっていることが察せられる。このもとには国家主義がある。国家主義によって、太い分断線が引かれているのだ。

 参照文献 『貧困の倫理学馬渕浩二ナショナリズムカニバリズム」(「現代思想」一九九一年二月号)今村仁司

原子力発電の是非について、たんに是として終わりにするのではなく、是と非を比べて争点化することを試みたい

 感情的な人との議論には意味がない。日本経済団体連合会の会長は、原子力発電についてそう述べている。感情的に原発に反対をする人たちとの議論には意味がないというのだ。

 感情的に原発に反対をする人たちと議論することに意味がないと見なすのは、適した定義(性格)づけだとは言いがたい。ふさわしくない箱(ボックス)思考による分類だ。

 感情的になるのは重要なことがらであればある程度はやむをえないものだし、原発に賛成だろうと反対だろうと、いずれにせよ話に熱が入ればどちらにも当てはまることだ。まったく感情的になっていないか、それとも感情的になっているかといった〇か一かで見ないで、度合いのちがいとして見ることがいる。

 原発について議論することは有益であって、賛成か反対かを争点化するべきである。原発に賛成して、それでよしとすることで終わりにするのではなくて、賛成と反対によって対立点をつくることがいる。

 原発に賛成するにしても、原発がもっている否定の契機があることはいなめない。不都合な部分である否定の契機を隠ぺいしたり抹消したりするのはふさわしいことだとは言いがたい。何ごとにおいても利点と欠点があるのだから、利点だけということはないので、利点だけがあるとしたて上げないようにして、欠点を見ることは欠かせない。

 白か黒かで割り切れるとは言いがたく、純粋に白だとは言えないのが現実だ。白と黒が入り混じっているあり方として見ることができるので、白の中に黒を見て、黒の中に白を見られる。

 原発に賛成するか、それとも反対するかは、どちらかだけが正しいとは言えそうになく、状況によって変わってくるものだろう。原発を動かすのにさまざまな費用がかかるとすれば、大きな費用にたいしてそこまでの利益がないのであれば割りに合うものではない。日本は地震国であって、地震がひん発すれば原発の安全性は揺らいてくる心配がある。原発の安全性や利点を教条(ドグマ)化したり権威化したりするのには待ったをかけたい。

 参照文献 『「六〇分」図解トレーニング ロジカル・シンキング』茂木秀昭 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香 『トランスモダンの作法』今村仁司他 『大地震は近づいているか』溝上恵

いまの首相による政権やいまの与党に見られる、雑音(ノイズ)の発信(乱雑さであるエントロピーの発信)

 雑音(ノイズ)の表現の自由というのはあるのだろうか。ふつう、表現の自由といえば、何らかの意味のあることをやり取りするものだ。意味のあるやり取りをしているところに、雑音の表現の自由だということで雑音が入りこんできたら、意味のあるやり取りは台無しになる。無意味になる。

 国会では、首相の答弁は内容がすかすかなことが少なくない。質問されたこととかみ合っていないことが多い。これは、首相の言うことが雑音に近くなっていることをあらわす。雑音に近いために、意味のあるやり取りが行なわれなくなっている。

 ほんらいであれば、国会において、意味のあるやり取りが行なわれるのであることがいる。理想論としてはそれがすべてであるのでないとならない。おべっかとか、愛想を言うのとか、お世辞を言うのとかといった、権力にこびを売ることは、意味があるやり取りとは言いがたいものであって、できるだけ行なわれないことが必要だ。

 首相が雑音に近いことを言うことに見られるのは、いまの政権やいまの与党が虚偽意識(イデオロギー)になっていることだ。話し合いや説明責任(アカウンタビリティ)を果たすことが欠けていて、独話や同じ質の者どうしの会話にとどまっている。

 雑音とは意思疎通のやり取りをさまたげるものであって、これをとり除かないことには意思疎通のやり取りはできないが、とり除くのではなく用いてしまっているのがいまの政権やいまの与党だろう。意味のある意思疎通のやり取りの拒絶ということが、いまの政権やいまの与党には見られる。他から忠告や批判を投げかけられても、自分たちで雑音を発信して、それによって自分たちの耳に入らないようにかき消して、つき進んでいる。

 立ち場を変えて見てみると、いまの政権やいまの与党にとって見れば、自分たちを批判してくるものこそが雑音であるのにほかならない。官房長官の記者会見でいうと、東京新聞の記者は、長官にとってはうとましいものであって、長官にとっての雑音だ。雑音であるがゆえに長官は記者を排除しようとしている。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想のキイ・ワード』今村仁司 『あなたの人生が変わる対話術』泉谷閑示(いずみやかんじ)

首都機能を移転することと、うみがたまりつづけること

 いまの首相による政権には、うみがたまっている。政権だけではなく、与党である自由民主党にもまた、うみがたまっている。それのみならず、日本における政治の中枢である、東京都の永田町や霞が関にもまた、うみがたまっているのではないか。

 政治の中枢である永田町や霞が関にうみがたまっているのを何とかするために、首都機能を移転する手がある。逆に言うと、これが行なわれていないことによって、うみがたまったままになってしまう。

 首都機能を移転させることが、どこからどう見てもまちがいなく正しいことだとは言えないかもしれない。完ぺきに正しくはないかもしれないが、いままでにたまったうみを外に出すためには有効性があるというのがある。

 たんなる手段にすぎないのが首都機能を移転させることだ。手段の目的化になるのには気をつけないとならない。質の低い政治家(政治屋)や役人が多くならないで少なくなって、政治においてこれまでにたまったうみや汚れが出せる手だてがとれれば、日本の社会や国をよくすることに益になる。このさい、温故知新主義によって、十分にこれまでをふり返る温故と、これからのあり方を色々と探って行く知新を行なうのは欠かせない。

 中期や長期のことを見すえて行なわないとならないのが、首都機能を移転させることだが、これが行なわれないのは、いまの首相による政権やいまの与党が自分たちの短期の利益に走っているためだろう。中期や長期の視点がいちじるしく欠けてしまっているのだ。いまにおいてどうこうなるというものではなくて、たとえいまにおいて利益になるのではなくても、長い中期や長期の視点においてという発想がとられていそうにない。

 あくまでも主観による見かたにすぎないものではあるが、このままいまの政権やいまの与党や政治の中枢である永田町や霞が関に、うみがたまりつづけたままでいてよいのだろうか。それでよい社会や国のあり方にしようとするのは、そうとうに無理のあることのような気がしてならない。

 いままでにためにためつづけてきたうみをしっかりと外に出すようにして、それができたうえで、よい社会や国のあり方にするためにものごとをおこなって行くのが、ふさわしいすじ道であって、それを抜きにしたままではものごとがうまく行くものとは見なしづらい。

 参照文献 『私の文章修行 生涯学習ノート』神田真秋 『歴史という教養』片山杜秀

原子力発電の安全性についての政府や役人の説明は、信用することはできづらい

 東日本大震災で、原子力発電所の事故がおきた。放射能が外に出て、被害がおきた。その被害をあまりにも大げさに言うと、風評被害になりかねない。風評被害になってしまうのはまずいが、このことにおいて思いおこされるのは、戦時中に原子爆弾が投下されたさいの政府による国民への告げ知らせだ。

 戦時中に日本に原爆が投下されたときに、政府はその害を小さく見積もった。原爆の害を、やけどほどのものだと国民に告げ知らせた。じっさいにおきた害は、やけどですむものと見なすのはとんでもないことであって、とてつもない地獄のような被害がおきたことはまちがいない。それもそのはずで、原爆は地獄の兵器とされる。

 原爆が日本に落とされたあとに、敗戦となって、アメリカによる占領となったが、アメリカは日本を占領する中で、原爆の被害を隠ぺいした。自分たちが日本に原爆を落としたのだから、その被害をできるだけ小さいものにしたかったのだ。核兵器を開発するさいに都合が悪い。アメリカは原爆についての日本での報道を規制して、調査をさせないようにした。

 アメリカは、日本に原爆を落としたのに加えて、その被害を隠ぺいするという、二重の悪いことをしたし、日本の政府はそれに加担した(加担しつづけている)。世界で唯一の被爆国なのだから、世界から核兵器をなくしたり、少しでも軍備を縮小させたりする動きをとっていないのがおかしい。この点についてはほかにもさまざまな声があるかもしれないが。

 戦時中や戦後において見られる、原爆の被害についてを小さく見なすことは、原発の被害についてもまた当てはまらないだろうか。まったく同じことだと見なすのはまちがいだろうが、原発には安全神話がとられていたし、いまだに安全神話を復活させようというもくろみはなくなっていない。それには待ったをかけてみたい。

 放射能の危なさとして、人間の体にある肉や骨をかんたんに貫通してしまうことがあるという。放射能は骨を貫通してしまうので、骨の中にある骨髄の造血機能がやられてしまい、人体にいちじるしい害を与える。目であれば白内障などを引きおこし、さまざまながんにかかりやすくなる。安全神話への疑問符と放射能の害に気をつけて気をつけすぎることはないだろう。

 参照文献 『新版 一九四五年八月六日 ヒロシマは語りつづける』伊東壮(たけし)

政府の見解は仮説にとどまるものであって、最終の結論とは言えず、黒い(まちがった)仮説であることがある

 官房長官の記者会見は、政府の見解を伝える場だ。官房長官はそう言っている。ここで言われる政府の見解というのは、あくまでも仮説であって、最終の結論となるものだとは言えそうにない。

 政府が自分たちの意図を、見解としてそのまま伝えているという保証はまったくない。その保証はまったくないので、政府が見解として言っていることの逆が、政府の意図であることがある。つまり政府が見解として言っていることは嘘やでたらめであって、その逆が正しいことがある。表と裏が大きくずれていることがあって、その最たるものが戦時中の大本営発表だ。

 記者会見で政府の見解を伝えるのであれば、他からの批判を受け入れる形であることがいる。反証(否定)に開かれていることが大切だ。こういう証拠があるから、こういう政府の見解なのだというふうに、具体の証拠を示すのでないと、疑わざるをえない。

 たしかに、官房長官の記者会見においては、記者からの質問に答える苦労が長官にはあるのだろう。長官が質問に答える仕事は、一人でこなすために、要求(リクエスト)が多く、処理が大変なものだろう。大変なことではあるだろうが、だからといって政権のことを忖度するわけには行かない。

 ジーグムント・フロイト精神分析学では、超自我と自己と欲動があると言われる。自己には、超自我からの要求と欲動からの要求がつきつけられる。自己はそれらの要求をうまく処理することがいる。超自我からの要求は、かくあるべきというものだ。官房長官であれば、記者からさまざまな質問をつのって、それにきちんと答えるべきであって、それができるのが理想だ。能力が高くないとできないことではあるが。

 忖度をせず、空気を読まないことで、批判をすることがなりたつ。その気質をそなえた数少ない人物が、東京新聞の記者だ。権力に忖度をしたり空気を読んだりするようでいては、批判の質問を投げかけづらい。

 東京新聞の記者は、出る杭であることから、打たれてしまっている(悪玉化されている)ように見うけられる。こうなってしまっているのは、いまの政権やいまの与党が、他からの声を受けとめることができていなくて、自分たちが一方的に働きかけるだけになっているのがあるためだ。説明責任(アカウンタビリティ)が足りていないのだ。

 何が大切なのかというと、記者会見において、官房長官の気苦労をねぎらうことだとは言えそうにない。政府の見解をそのままうのみにして受け入れることだとも言えそうにない。政府が言っていることをただ垂れ流すことだとも言いがたい。

 本当のことは何かということをさぐって行き、国民の知る権利を満たすことが大切だ。そのためには、たんに一方的に政府の見解を会見で言うだけではあまりに不十分だ。問答のやり取りを行なうことがいる。かみ合う形での問いかけて答えるという問答のやり取りを経ないことには、政府は自分たちの危機となるうみや緊張(テンション)をいつまでも抱えつづけることになるだろう。

 参照文献 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『考える技術』大前研一 『反論が苦手な人の議論トレーニング』吉岡友治 「求道(フィロ=ソフィア)と智慧(仏智)の関係 驚くことの意味について」今村仁司 『疑う力 ビジネスに生かす「IMV 分析」』西成活裕 『「説明責任」とは何か』井之上喬(たかし)