仮定として、日本とロシアのやり取りが失敗することはあるから、必ず成功するとは言えそうにない(どうしても失敗できないとなると、やり取りにおいて、かえって悪循環や泥沼にはまることもある)

 日本とロシアとの関係をのぞましいものにする。ロシアから日本に北方領土を返してもらう。平和条約を結ぶ。これまでにおいて日本ではできなかったことをやるつもりだ。いまの首相は決意としてそうしたことを言う。

 首相は、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領と何回も会っている。それでお互いの首脳どうしの信頼関係ができ上がっているのだと言う。これをもってして、ロシアから日本が北方領土を返してもらうことをのぞむことはできるのだろうか。

 一つには、日本とロシアとのやり取りを、交渉として見られる。交渉として見れば、日本がいくら強い意気ごみをもっていたとしても、それによってものごとが決まるのだとは言いがたい。日本だけでは決まらず、ロシアがどうかというのが関わってくる。決定権が日本だけにはなく、ロシアにもまたある。ここが、日本だけによる意思決定とはちがう点だろう。

 日本とロシアのどちらに弱味があるのかというのは見逃しづらい。どちらに弱味があって、どちらに強味があるのかは無視できないところだ。どうしてもロシアから日本が北方領土を返してもらいたいのだとすると、日本は前向きだがロシアは前向きではない(後ろ向きだ)ということになることがある。

 前向きであるというのは、日本がロシアにお願い(要求)する立ち場になるので、日本が弱味をもっていると見なせる。逆にロシアは日本からお願い(要求)されるということで、強味をもっていると見なすことができる。ロシアは日本からのお願いを受け入れるのではなくて断ることができるのが強味だ。日本からのお願いを断っても(現状維持になるので)ロシアには痛手にはならない。

 相手を満足させられるものを持っている方が有利になる。ロシアは日本を満足させられる、北方領土の返還の切り札をもつ。この切り札は、ほんらいは日本の領土だったものなので、日本に返す義務をもつものなのは確かだ。

 満足させられるものを持つという点で言うと、ロシアが持っている、北方領土の返還の切り札に肩を並べるくらいのものを、日本は持っているのだろうか。それを持っていないと厳しいのではないだろうか。

 正しさという点で言えば、もとは日本の領土だったのだから、ロシアは日本に北方領土を返すのみならず、千島列島の全体を日本に返すのがふさわしいと一つには見なせる。この正しさをロシアに分かってもらうためには、たんに日本とロシアの首脳どうしがお互いに何回も会って信頼関係があるというのでは頼りない。

 首脳どうしの信頼関係に頼るのではなくて(それで片づくのならそれでもよいが)、それとは別に、そうとうな知識や情報によって、高い説得性をもってして、いかに日本がロシアから北方領土を返してもらうのがいるのかというのを、客観として立証することがいる。それに加えて、交渉をうまく行なうために、日本が弱味をもたず、ロシアが強味をもたないようにことを進めて行かないとならない。

 首脳どうしの(何回も会っていることによる)信頼関係というのとは別に、日本とロシアの信頼関係ということでいうと、お互いの価値がすり合っていないと信頼し合うのは難しくなる。お互いの価値がずれているのであれば、信頼し合っているとは言いがたい。日本の国の中や、外において、いまの首相による政権が、信頼してもよい相手なのかどうかということが問われている。信頼できない相手だと見なされることになれば、溝や隔たりができることになる。

いまの首相による政権を言うさいに個人としては違和感を感じるのがある

 日本の憲政史上において、最長の政権になる。いまの首相による政権はそうなるかもしれないという。この言い方において、憲政ということが言われているのがとても引っかかるところだ。

 いまの首相による政権において、憲政というのはしっくりくるものではなく、似合わないものと言ってもよいものではないだろうか。いまの首相による政権に、憲政ということをできれば言ってほしくない。それをおとしめたりぶち壊したりしているように見うけられるからだ。守ろうとしているようには見なしづらい。

 たんに政権についているだけで、日本の憲政の中に位置づけられるという見かたはできるだろう。形だけをとればそうだけど、中身(内容)を見れば、いまの首相による政権は、憲政として、議会政治を豊かなものにしてはいない。貧しいものにしてしまっていると見るしかない。憲法を守るという立憲主義をないがしろにしているのもある。

 国会において、いまの首相による政権は、ご飯論法や信号無視話法を多く用いている。質問にまともに答えない。それで平気でいるしまつである。与党である自由民主党は、いまの首相による政権にたいして批判をするどころか、そのていたらくの背中を押している。ちょっと大げさかもしれないが、独裁や専制とは言えても、中身が憲政とは(とてもではないが)言えないのではないだろうか。

批判は消極のものだが、その消極の中における積極性(マイナスの中のプラス)をもつのが中にはある

 ある表現にたいして、批判を行なう。そうして批判をするくらいなら、(批判する対象である)表現を上回るようなものを自分であらわせばよい。批判を投げかけるくらいなら、自分で表現したらよいというのだ。

 たしかに、批判を投げかけるのではなくて、自分でよりよいものをあらわすのがよいというのは行なわれてよいものである。とはいえ、批判を投げかけるくらいなら、自分で表現をしたり、自分でものごとを改める行動をじかに行なったりするほうがよいのかといえば、必ずしもそうとは見なせそうにない。

 批判をするくらいなら、自分でよりよい表現をしたり、自分で行動をしたりするほうがよいというのは、前提条件としてそこまで確かなものとは言いがたい。批判というものの中には、その範ちゅう(集合)において、さまざまな価値を持つものがある。なので、批判ということを前提条件にして、すべてをひとまとめにして、それをするよりも自分で表現をしたり行動をしたりするほうがよい、とはいちがいには言えなくなってくる。

 私のことがらであれば、批判を受けとめなくてもよいことがあるけど、公のことがらであれば、批判を受けとめることがあったほうが有益だ。公のことがらにおいて、批判が投げかけられていても、それを受けとめることが不十分になっている現状がある。もっと批判が受けとめられて、それをとり入れるようにすれば、世の中が多少は改まることが見こめる。

 私のことがらは置いておくとして、公のことがらにおいてはとくに、批判を行なうのは自由なのがある。自由主義の文脈においてはそうだと見なせる。そのさい、批判とは言っても、たんなるあげ足とりだったり言いがかりだったりするのであれば、そこまでまともにとりあわなくてもよいものだろう。批判がまったく当たっていないとすれば、それもまたそこまで重んじなくてもよいものである。

 批判がなぜ投げかけられるのかといえば、何かよいところがあるからだとは言えそうにない。よいところがある(すべてがよいところである)のであれば批判を投げかけることはいらないのであって、悪いところがあるからこそそれを行なう。たとえ部分的にではあっても悪いところがあるから批判を投げかける。何らかの論拠(根拠)があって批判を投げかけるのであれば、たんなるあげ足とりや言いがかりとは必ずしも見なせそうにない。

 ほんのささいな小さな悪いところを見つけ出して、重箱の隅をつつくようにしてそこを批判するのであれば、それはあまりのぞましいことではないかもしれない。しかし、ほかによいところがあって、部分的に悪いところがあるとしても、その悪いところに批判を投げかけることに、それなりの必要性があるのであれば、批判は(ものによっては)許容されることがあってよいものだろう。

 すべてが丸ごと悪いというのではないとしても、全体のうちの部分であったとして、その部分(一つまたは複数)の悪いわけがあって、それで批判を投げかける。その必要性がそれなりに高い(低くない)のであれば、許容されて、受けとめられるほうが、(私のことがらは置いておいて)公のことがらにおいてはよい方にはたらく。逆に言うと、それがいまの首相による政権において行なわれていなくて、受けとめがほとんどなされていない。一方的な働きかけだけが虚偽意識(イデオロギー)として行なわれているために、世の中が多少はよくなることさえもできづらくなっている。

 批判というのは、手つづきとか過程によるものであるのがある。批判の手つづきや過程を経ないのであれば、効率はよいものの、適正なあり方にならないことがある。途中である、手つづきや過程において、他から投げかけられる批判を受けとめず、それを聞き入れるのをすっ飛ばして、ものごとを一方的におし進めて行く。それでうまく行くこともまったく無いでは無いかもしれない。

 可能性としては、ものごとを一方的におし進めることで、うまく行くこともまったく無いでは無いかもしれないが、効率を重んじてしまっているために、適正さを欠くことになりやすい。無批判というのは確証(肯定)だが、それにたいする反証(否定)としての批判がとられたほうが、認知の歪みを改めることになりやすいから有益だ。色んな声があるという点では、批判を受けとめられたほうが、修正的にものごとを進めて行けるし、必要なさいに待ったをかけやすい。

負の国家主義と、国家主義の負の面

 負の国家主義(ナショナリズム)がある。外部に敵をつくって、内部でまとまろうとするものだという。国家主義に負のもの(負の国家主義)があるというよりは、国家主義には正と負の二つの面があるということができそうだ。

 国家主義の負の面と、友敵理論が組み合わさることで、友(味方)と敵との分断線が引かれてしまう。外部に敵をつくるというよりは、国家の内部において、友と敵とのあいだに分断線が引かれる。そのまずさがある。

 わかりやすいものでは、国家主義の負の面として、国民と非国民を分けるものがある。これは戦前や戦時中においてとられたものだ。国民にそぐわない者を非国民とする。友と敵として国家主義による分断線を引いているのだ。

 国家主義には負の面だけではなくて、正の面もあるから、何から何まで駄目だということは言えそうにない。国家をなくせということで、無政府主義(アナーキズム)をとることは、現実としては難しい。国家には正の面もあるが、近代における大きな物語(共同幻想)としての国家がうまく行きづらくなっていて、立ち行かなくなってきているのはいなめない。

 近代における大きな物語としての国家がうまく行きづらくなっているのは、労働(労働という大きな物語)においてのものがある。労働では、貧困におちいる労働者(ワーキングプア)の人たちが多くおきてきている。ほんらい、近代の国家や社会において、貧困におちいる労働者はいてはならないものだが、そうであるのにも関わらず、いまの世の中ではそれが数多くおきてしまっている。新しい貧困(ニュー・プア)と格差がおきているのだ。これは、社会学者のジグムント・バウマン氏が言っていることだという。

 国家主義がもつ負の面を抑えるようにするためには、集団への帰属(アイデンティティ)だけではなくて、そこから距離をとって離れるものである個性(パーソナリティ)も許されるような、寛容さがあることがのぞましい。何々への自由である積極的自由だけではなくて、何々からの自由である消極的自由がないがしろにされないようにしたい。いまの日本では、同化圧力(ピア・プレッシャー)による集団への帰属や、積極的自由が重みを持ってしまっていて、個性や消極的自由への寛容さがそこなわれていると見うけられる。

 参照文献 (アイデンティティとパーソナリティについて)『半日の客 一夜の友』丸谷才一 山崎正和ナショナリズムカニバリズム」(「現代思想」一九九一年二月号)今村仁司

県民投票を行なうことへの批判として、二者択一は乱暴だというのはどうなのだろうか(乱暴だという見かたもできるが、選択肢が増えると意思が分散されてしまうのがある)

 沖縄県で県民投票が行なわれるという。沖縄県アメリカの軍事基地を移転する是非を問うものだ。この県民投票では、沖縄県の一部の市で、県民投票を拒否する動きが出ている。およそ三割の県内の有権者が投票できないことになるという。

 県民投票をこばむ市長の中で、県民投票が二者択一であることから、県民投票そのものを行なうべきではないとする言い分が言われている。これについてはちょっと賛同できづらいものだ。

 県民投票というのは一つの政治の意思決定をするものなのだから、二つの選択肢による二者択一は合理的なものだろう。選択肢が三つや四つに増えるとかえってよくないというのがあるそうなので、乱暴なものとは言えそうにない。

 社会によるものごとを決めるさいには、選択肢を二つにするのが安全であるという。選択肢が二つよりも増えて、三つ以上になると理論として問題がおきてくる。単純投票で決めるときには、なるべく選択肢を二つにするのがのぞましいとされる。

 県民の意思を示す機会になるので、個人としては、県民投票をこばまないようにして、県内のすべての有権者が投票できるようになるほうがよいと見なせる。国政で直接民主主義(国民投票)を行なうと危険性があるようだが、地方の政治ではそこまで危険性は高くはないだろう。国家を揺るがすようなことになるとは見なしづらい。

 国政において直接民主主義(国民投票)を行なうと、いまイギリスが欧州連合(EU)からの離脱でもめているように、危険性がおきることがあるという。大衆迎合主義(ポピュリズム)におちいることがある。人民投票(プレビシット)となって、強い指導者などへの人気投票におちいる。それが危ぶまれるので、国政においては行なうのは必ずしもよいとは言い切れないそうだ。

 参照文献 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸 『現代倫理学入門』加藤尚武

悪いたくらみを持っているにちがいないといったような、動機論の忖度をできるだけとらないようにして、開かれたあり方をもってして、韓国と日本のあいだにあるもめごとを何とかすることができれば、建設的な方向に進むことが見こめる

 いまの韓国の大統領は、北朝鮮のことしか見ていない。南と北を統一することで歴史に名を残したいだけだ。日本と韓国が敵対しているくらいのほうが、韓国としてはやりやすいのだろう。いまの韓国の大統領がいるうちは、日本と韓国は仲よくなることは難しい。テレビ番組においてお笑い芸人の人はそう言っていた。

 韓国は北朝鮮と南北統一を目ざしているのはあるかもしれない。それについて、日本が他人ごとのように言うのはどうなのだろうか。歴史の文脈で言うと、韓国と北朝鮮が分かれたのは、日本にもその責任があるのはたしかだ。かつて日本は朝鮮半島を植民地にしていたのがある。戦争のときには、南の韓国には日本の大本営がいて、北朝鮮には関東軍がいた。その線がいまでも引きつづいている。

 日本が朝鮮半島を植民地として支配していたさいに、日本のやり方を朝鮮半島の人々にたいして押しつけた。同化政策をとった。日本語を使わせたり、日本の名前を名のらせたりした。

 日本が朝鮮半島を植民地として支配していたさいに、朝鮮半島の人々がもっていた自分たちの言葉や名前を使わせなくさせたのは、同一性(アイデンティティ)や存在理由(レーゾンデートル)の破壊である。日本人が、日本語や日本の名前を使えなくなって、韓国語や韓国の名前を使わせられるようなものだろう。

 韓国は日本と敵対しているぐらいがやりやすいというのは、韓国にたいする動機論の忖度だ。韓国が日本と敵対しようと思っているのかはわからないし、敵対しているのがよいと思っているのかもわからない。決めつけることはできないものだ。

 韓国と日本のあいだでぶつかり合いがおきているのについて、それを何とかするさいに、韓国の大統領がどういう人かというのはそこまで重みのあることではないだろう。

 いまの韓国の大統領は、日本にたいして、過去に謙虚になるべきだと言っているが、だからといって、日本とぶつかり合うのをよしとしているとは言えそうにない。むしろ、いまの韓国の大統領は、もの分かりのよい方だということもあるので、そうであるとすれば、韓国と日本とがぶつかり合うのを何とかするための好機とも見なせる。

 韓国の大統領がどういう人かということよりは、むしろ日本がやる気を持ってのぞむかどうかによるのがある。いまのところ、日本はさしたるやる気を持ってはいなくて、やる気を見せているとは言えそうにない。日本はそこまでのやる気を持ってはいないし、力を入れてとり組もうとはしていないのだから、韓国の大統領がどういう人であっても、たやすく片づくことではないだろう。

 韓国と日本とのあいだにぶつかり合いがあるのを何とかするためには、日本の報道機関などが、日本の政府や省庁の言っていることをただ垂れ流すだけなのではまずい。日本の政府や省庁が言っていることは、たんなる仮説であって、結論とは言いがたい。

 たとえ日本に都合が悪いことであっても、いまおきていることや、過去の歴史のことについて、謙虚になって、事実であるのならそこから顔をそむけずに向かい合うことができるのでないと、ものごとが何とかなることはのぞみづらい。韓国の大統領が、ちょっと日本に厳しいことを言ったくらいで、仲よくなるのは難しいとしてしまうのでは、韓国を悪玉化することで終わりになってしまう。

 韓国を悪玉化するのは、韓国に原因を当てはめることだが、そうではなくて、日本に原因を当てはめるのがいる。それが足りていないのは確かなことだろう。韓国にだけではなくて、日本にも原因を当てはめるようにして、たとえ日本にとって都合の悪い事実であっても、なるべくそれを認めるようにすることができれば、もめごとの解決の歩みを進めることができる。

 参照文献 『朝鮮語のすすめ 日本語からの視点』渡辺吉金容(きるよん) 鈴木孝夫

本の成功と失敗(たくさん本が売れたという量としては成功かもしれないが、質としては、まちがいがいくつもあって、緊張が高いという点で、失敗していると見られる)

 本を出す。そのさいに、事前において、できるだけ緊張(テンション)を減らすようにする。この減らすのは、編集や校正において行なわれるものだろう。編集や校正の中で、まちがいを見つけて行って、緊張を減らす。それで完成品までもって行く。

 ふつうの本であれば、完成品になってから売られるので、売った事後において緊張が高いということはあまりない。編集や校正を経て、完成品になってから売られているので、緊張がほとんど無いものになっている。

 売る前の事前における編集や校正がずさんであれば、緊張が高いまま本が売られることになる。本を売った事後において、本の緊張が高いままとなっているので、そこを批判されることになる。事後において少なからぬ批判がおきるのは、本の緊張が高いことをあらわす。

 緊張が高い本というのは基本としてあってはならないのだから、すぐに売るのをやめるのならおきる害は少ない。しかし、緊張が高いままにそれ以後も売りつづけるのであれば、緊張が高い本が人手にわたることになる。理想としては、緊張がまったくないか、ほんの少しの本が人手に行きわたらないとならない。理想と現実がかけ離れていれば、問題がおきていることをあらわす。

 緊張が高いままに本を売って、それを売りつづける中で、途中でその緊張を少しは減らして行く。本の内容のまちがいを修正する。おもて立って、みんなにわかるように修正するのならまだしも、こそこそと陰に隠れて修正するのであれば、緊張が減ることにはなりづらい。

 緊張が高いままに本を売って、それで批判がおきたのであれば、そもそも何で緊張が高いままなのにもかかわらず本として売ってしまったのかを改めて見ることがいる。緊張が高いというのは、まちがいがいくつもあることだから、まちがいがいくつもあるような本を売ったのはなぜなのかを改めて見るようにしたい。

 すでに売った本の中にまちがいがいくつもあるという現象にたいして、場当たり的にまちがいを少しずつ直すのであれば、表面の現象に手を打っていることにしかなっていない。表面の現象ではなくて、原因にまでさかのぼって、そこを見るようにしないと、本質の手だてを打つことにはならない。

 売った本の中にいくつもまちがいがあるのは、その本の緊張が高いことだが、その表面の現象にたいして手を打つだけでは十分ではない。しかもその手を打つのがおもて立ってではなくて陰でこそこそ行なわれるのはいただけない。そういった手を打つのは、補正しているようでいて、かえって不正(まちがい)を補強していることになりかねない。

 本の話とはちがってしまうが、制度なんかでも、その制度がつくられた趣旨がおかしいのであれば、その制度がかかえるまずさにたいして、表面の現象を手直しするのでは十分ではない。その制度のかかえるまずさを何とかするために、表面の現象に手を打つのではなくて、その制度の根本の趣旨にまで立ち返って、根本から見直すことがいる。もし制度の根本の趣旨がおかしいのであれば、浅いところにある表面の現象に手を打っても、焼け石に水になりかねない。

アイドルグループを運営する関係者の言うことは、(できごとにたいする)仮説ではあっても結論とまではまだ言えないものだろう

 アイドルグループのメンバーが暴行を受けたとされる。これについて、アイドルグループを運営する関係者は、暴行がおきたことを否定しているという。

 暴行を受けたことを訴えるメンバーのことを、運営する関係者は、少し精神的に問題がある人間だとして、狂言や妄想として見なすことをうながす。報道機関はそれを受けて、抑制的な報じ方をしていると言う。

 できごとの正確なところはわからないが、アイドルグループのメンバーにたいして暴行が行なわれたのだとすると、このできごとはゆるがせにはできないことだ。個(メンバー)が暴行を受けたのは、その個が暴力を受けたことをあらわすので、あってよいことではない。そのままにすると個が被害を受けたままになって、不つり合いになってしまう。

 アイドルグループを運営する関係者は、暴行を受けたと訴えるメンバーのことを、少し精神的に問題があると言っているという。関係者がこう言っていることはうのみにはできづらいことだ。本当にこのメンバーが少し精神的におかしくて、狂言や妄想を言っているという具体の証拠がないと、確かなこととして受け入れるのは難しい。

 集団と個の図式において、集団が内向きになることによって、個が不当なあつかいを受けるとしたら、よくないことである。集団主義がとられることで、個が不当にあつかわれることがないようにしたい。集団の和のほうが大事だとして、個人が犠牲になるとしたら、その集団では不正がおきてしまいかねない。

 集団の中で、個人の人権が侵害されるようなことがおきたのだとしたら、うやむやにするのではなくて、きちんと対応するのがいる。暴行を受けたと訴えるメンバーが、少し精神的におかしいとするのは、それが本当のことではないとしたら、それそのものがメンバーの人格を傷つけるものとも受けとれる。

原子力発電への信頼(コミットメント)と不信(ディタッチメント)

 原子力発電にたよるのをやめる。そこから脱する。政治の左派か右派かは関係のないことだ。小泉純一郎元首相はそう言っている。

 原発によるのか、それともよらないようにするのか。公共政策としてどちらがのぞましいのだろうか。これは条件によってちがってくるものだろう。条件つきで原発によるのがよいとできるだろうし、原発によらないのがよいともできる。

 原発によるのがよいというのでは、原発を動かすのをやめると人が死ぬというのがある。原発で発電する電力がなくなったら、それによって死ぬ人が出てくるというのだ。たしかにそういったおそれはあるのかもしれない。

 原発を動かすのをよしとする。原発の危険性はほとんどない。安全神話がこれまでにとられてきたが、それが揺らいでいるのがある。原発安全神話というのは、原発に未知なところはないというものだが、それには無理があって、原発に未知なところがあるとするのが一つには成り立つ。

 原発に未知のところがないのであれば、確実なものとできるけど、そうではなくて不確実なところがおきてきている。不確実なところへの備えが足りていない。かりに原発にたよるのをよしとするにしても、原発にたよることに緊張がおきているのがある。その緊張を解消することは欠かせない。緊張を解消するのは、批判に答えることである。

 原発を動かすのをやめれば、人が死ぬことになるというのはあるのかもしれないが、そうかといって、これまで原発を動かしつづけてきたという既成事実をもってしてよしとしてしまってよいものだろうか。

 原発が危険かどうかや、安全かどうかというのは、専門の話ではあるだろうけど、固定したものではなくて、参照点を色々と動かせるものだとすると、すごく危険というのからすごく安全というのまで、色々な見かたをとることができる。

 原発の危険性はあまりなく、安全だ、というのは、自明なこととしてしまってよいのだろうか。その自明性の厚い殻を破ってみることができる。もし原発が本当に危険性があまりなくて安全で有益そのものなのであれば、安全性について疑問視をしたところで、安全性が根底から揺らぐものではないだろう。

 専門によるのではなくて素人によるのにすぎないものではあるが、原発の危険性はあまりなくて安全だというのについて、それを疑問視するのを、勉強が足りていないといった欠如モデルで見るのではなく、反欠如モデルによることも必要だ。原発の安全性というのが教条(ドグマ)化や権威化しているのだとすれば、それは危険なことだ。

 演繹として、原発は危険ではなく安全だから、まちがいなくそれにたよりつづけたほうがよい、とは言えそうにない。演繹であれば絶対論となるが、帰納として相対論によるものとするほうが現実的である。帰納の相対論であれば、原発は危険ではなくまちがいなく安全だとは言えず、原発が抱える不都合なところや負のところを見ることがいる。

 原発の危険性はあまりなくて安全だというのは仮説であって、その仮説がどこまで信ぴょう性のあるものなのかは慎重に見て行かないとならない。確証(肯定)だけではなくて反証(否定)でも見ることがいる。

テレビ番組のホームドラマと現実(虚構と現実)

 テレビ番組のホームドラマでは、現実そのものがあらわされるのではない。これは何もホームドラマに限ったことではない。虚構ではないノン・フィクションであっても、ホームドラマと同じだ。現実そのものがあらわされているのではなく、多かれ少なかれ脚色されている。

 テレビのホームドラマでは、省略や誇張や飛躍や戯画(ぎが)化が用いられる。これらは嘘とはちがうものだ。ホームドラマを面白くするためにはなくてはならないものだから、これらをなくしてしまったら面白くないドラマになってしまう。作家の向田邦子氏は『女の人差し指』においてそう言っていた。

 いまの世の中では、さまざまな情報において、省略や誇張や飛躍や戯画化が好まれるようになっている。それらによっている情報のほうが好まれやすい。受けがよい。

 テレビのホームドラマでは、省略や誇張や飛躍や戯画化がとられることで、現実から離れたものになる。現実にはありえないものになるが、その代わりに面白くなる。視聴者は、ホームドラマにたいして、そんなことは現実にはありえないことではないか、と文句を言う。

 現実とホームドラマが、図と地の関係にあるとして、その図と地が反転することになって、現実が虚構のようになる。視聴者は、ホームドラマにたいして、そんなこと現実にはありえないではないか、と文句を言っていたのが、それとは逆に、現実にはありえないようなことが現実のこととして好まれるようになる。文句を言うのではなくて、逆に受け入れられる(歓迎される)のだ。

 昔よりもより退化したとは必ずしも言い切れないかもしれないが、現実と虚構の境い目が分かりづらくなっているのはあるかもしれない。大きな物語が成り立ちづらくなっている。

 ホームドラマで行なわれているように、現実の情報は、省略や誇張や飛躍や戯画化にまみれている、と言ってしまうと、やや誇張になってしまうのはある。玉と石が混ざっているが、中には正確な情報があるのはまちがいがない。現実をあらわすさいには、現実そのものからさし引かれて、次元や意味が縮む。複雑すぎてしまうのを避ける。テレビのホームドラマにそれが見られるように、現実をあらわす情報でもまたそれがとられる。