いまの政権の首相や財務相などに見られる、結果が出さえすればよいという偏り

 動機は私は問わない。問題は結果を出してもらわないといけない。その結果が大事なんだ。いくら動機が正しくても、何百万人もの人を殺してしまったヒトラーは動機が正しくても駄目だ。

 いまの政権の財務相は、こう発言をした。この発言をよくないものだとしているのがアメリカの副大統領であるという。アメリカの副大統領は、日本の首相とは会うが、財務相とは会おうとはせず、日米経済対話が開かれないままになっているという。財務相の過去の発言が足かせになっていると見られている。

 ヒトラーは何百万もの人を殺したのは結果に当たるが、結果が悪かったことをもってしてのみヒトラーが悪いとされているのではない。結果も悪いが、それと同じかそれ以上に動機が悪い。動機がすごく悪いというのは無視できないところだ。

 財務相が言うように、動機はどうでもよくて、結果だけが大事なのだという結果主義は、ふさわしいものなのだろうか。この結果主義をよしとするのであれば、それには批判を投げかけたい。

 結果主義では、結果がよいのだからよいのだ、というふうになる。結果がよいのや結果が出たことを前提条件にしているものだが、これは絶対にまちがいのない確かなものとは必ずしも言いがたい。一つのものごとは、一つだけではなくて色々な角度からの視点をとれるのがある。

 結果だけをよしとする結果主義は偏りがある。つり合いをとるためには、結果だけをよしとするのではなく、動機と結果を両方とも見ないとならない。結果がよいからといって、動機を含めてすべてを丸ごと合理化することはできづらい。

 財務相がとっている結果主義とは逆に、動機こそが大事なのだとするのが成り立つ。これはこれで偏りがあるものではあるが、まちがっているとは必ずしもできないものだ。

 結果主義では、結果が出ればすべてを丸くおさめてしまうし、結果が出なければ動機を重んじなくなりかねない。結果に左右されてしまう。結果のいかんによらずに、動機をそれそのものとして重んじるのが義務論である。

 たとえば、具体のできごととして、人を傷つけるつもりはなかったのに、ついうっかり人を傷つけてしまったとすると、動機は悪くはないが結果は悪い。動機論で見れば悪くはないが、結果論で見れば悪いことだ。

 人に迷惑をかけようとして、迷惑をかけることをもくろんだが、じっさいにはあてが外れてまったく迷惑はかからなかった。これは動機は悪いが結果はよい(悪くない)。動機論で見れば悪いが、結果論で見ればよいものだ。

 結果主義では結果だけをとるものだが、そうするのではなくて、動機と結果をともにとり上げるようにして、二つのどちらか一方だけにならないようにしたほうがよい。

 財務相は、話の中で、せっかく動機と結果を持ち出しているのだから、場合分けをしてみるのはどうだろうか。もっとものぞましいのは、動機も結果も共によいものだろう。もっとも悪いのは、動機と結果が共に悪いものだ。動機がよくて結果が悪いのや、動機が悪くて結果がよいのは、必ずしもよい(または悪い)ことだとは限らない。

 結果というのを見るとすると、結果が出たからよいとは限らないし、結果が出ていないから悪いとも言い切れそうにない。結果が出たからよいとは限らないのは、たまたま結果が出ているだけにすぎないことがあるし、何によっているのかでちがってくる。結果は出ているが質は低いことがある。

 結果が出ていないから悪いとは言い切れないのは、たとえ結果が出ていないのだとしても、それはその時点を見ての話にすぎず、過程としてとらえればまだ先につづいているのがある。過程であれば、その時点をそこまで重んじて見る必要はない。質がよいのであれば、結果が出ていなくても価値は高い。

 簡便法(ヒューリスティック)として、結果が出たと見なしているだけなのだとすれば、それは思いちがいのおそれが小さくない。よくよく改めて見てみるようにしなければならない。どういう状況の中で、どういう動機によって、どういうことをして、どういった結果が出たのかというふうに見られるから、色々なものをくみ入れて受けとるようにできる。

大国と対等にわたり合える日本という中華思想とは別に、世界の中で極東の小さな島国だという現実は無視できそうにない

 なぜアメリカのドナルド・トランプ大統領は、日本のことを皮肉るのか。トランプ大統領は、記者会見において、日本の記者にこう言っている。安倍首相によろしくと言っておいてください、彼は自動車関税の脅威を楽しんでいることでしょう(Say hello to Shinzo. He probably enjoys the threat of tariffs on his cars.)。英語力がないのでもしかしたら訳がまちがえているかもしれないが。

 国内では外交の安倍と自称しているものの、国外ではアメリカのトランプ大統領やそのほかの大国の首脳から、安倍首相が一目置かれているとは見なしづらい。それは首相の能力の不十分さによるものとばかりは言えず、日本という国が世界の中で高い威光(プレスティッジ)をもっているとは言えないことによるものと見られる。

 世界地図で見れば、日本は極東にある小さな島国だ。地球儀を俯瞰する外交だとかいうことで、いくら外交であちこちに飛び回ったとしても、日本の置かれているありようがとりたてて目ざましく変化することはのぞみづらい。何ごとにおいても身のたけとか分をわきまえるというのがあるから、世界の中心に日本がおどり出ようといった非現実の尊大なことはしないほうがよいのではないか。

 先の戦前や戦時中には、世界の中で極東にある小さな島国であるのにもかかわらず、まちがった中華思想をもつことにより、世界(東洋)の中心におどり出ようという出すぎた真似をして日本は大きな失敗をおかした。それを省みることは有益なことだ。あくまでも極東の小さな島国であることをわきまえるようにして、身のほどをわきまえるようにするのが無難だ。

 大国と下手にわたり合おうとしても、大国のほうではいとも簡単に見すかすことができてしまうものだろう。もしそれをするのであれば、たんに大国に追従するのではなく、まちがっているところはまちがっていると言うようにしてほしい。日米の関係において、地位協定のおかしさを改めるのようにするのは重要度が高く有意義だ。国外とは別に、国内ががたがたなのを立て直すようにして、内実のある国内のあり方になるようにしたほうが、日本の国を保つために益にはたらく。いまの首相にはそうしたことはほとんどまったくと言ってよいほどのぞめるものではないものだが。

消費税の税率は、八パーセントという中途半端なものよりは、一〇パーセントのほうが、切りがよいという点では利点がある

 消費税が八パーセントから一〇パーセントに引き上げられる。引き上げられることはうれしくはないが、一〇パーセントになれば切りがよいので支払う額がわかりやすくなる。

 軽減税率をとり入れて複数税率にするのであれば、一〇パーセントと(現行の)八パーセントにするのではなく、たとえば一〇パーセントと五パーセントといったように、切りのよいものを組み合わせるほうがわずらわしくない。

 現行の八パーセントのように切りのよくないものだと、支払う額を計算するのにわずらわしいし、一円玉の小銭が溜まってしまいやすい。切りがよいもののほうが経済性が高いのではないか。

外国人にたいする労働の制度に見うけられる、制度の不正義と実践の不正義

 最低賃金を下まわる時給で働かされる。一時間に二〇〇円や三〇〇円しかお金が支払われないという。やらされる仕事は、前もって聞かされていたこととはちがい、じっさいには原子力発電所の近くの除染作業をさせられる。隷属の不当な労働を苦にした失踪者は数千人にのぼるという。

 外国人技能実習制度では、そうしたことがおきているという。この制度のもとでのすべての外国人に当てはまるのかはわからない。すべてとは言えないにしても、この制度のおかしさは、憲法で保障された生存権や、労働における法の決まりがないがしろになっているところにあるだろう。

 制度のもとで、働かされる外国人が、いちじるしい搾取や抑圧をこうむるのは不正義だ。この不正義は、外国人を目的としてではなく手段としてあつかうことによっている。手段として物であるかのようにあつかう。日本という国の政治や経済における理性が退廃している。理性が道具化している。これがおきないようにするように改めることがいる。

 最低賃金を下まわる額で働かせたり、前もって言われていたこととはちがうことである除染作業などをやらせたりするのは、法に反することだろう。最低賃金の額はそもそも低めなのはあるが、何のために最低賃金の決まりがあるかといえば、それを下まわる額での労働をさせないようにするためにとられている。前もってこれをやると言われたことがあれば、そのほかのことはやらないでもよいのであることもいる。

 制度を通して外国から日本にやって来た人にかぎらず、国内の人においても、働くことの法の決まり(ワークルール)が守られないと、決まりがあることの意味がない。最低賃金や、前もって言われていることのほかはやらせないのは、必須のものだから、これをないがしろにするのが外国人技能実習制度なのだとすれば、この制度そのものが不正義である。制度の不正義があるし、この制度にのっかるのであれば、実践の不正義をしていることにもなる。

 外からやって来た人を含めて、働く人のすべてに十分な権利がとれるようにするのでないと、もともとが不利な立ち場に置かれやすいのが改められない。十分に権利がとれるようにするためには、外からやってきた人を含めて、すべての働く人を例外なく包摂する、憲法や労働の法の決まりが守られることがいる。決まりが守られることによって、すべての働く人がまっとう(ディーセント)なあり方になり、まっとうな生を送れるようになるように、政権や政治は早急に動いてもらいたいものだ。いまのところ現実はそうはなっていないで、逆の方向に動いているようだ。

印象操作を負(マイナス)と正(プラス)のものに分けて見ると、負よりも正のほうがより害が大きい(政治の権力や国においては)

 印象操作をするな。それをするのはけしからん。テレビ番組に出演したさいに、首相は、質問を投げかける者にそう言っていた。何か首相がさも悪いことをしたかのように誘いこむような質問を投げかけるのを首相はよしとはしない。首相によるこの態度は、器の大きい人物のものとは言えない。

 印象操作をするな、と首相はテレビに出演したさいに言っていた。これを改めて見ることができるとすれば、かりに印象操作をするなということなのであれば、負ではなく正においてそれは当てはまるととらえられる。

 負ではなく正の印象操作をするな、と言えるのではないか。正の印象操作をするなというのは、ほめるなということだ。よいしょしたり持ち上げたりするなというのをあらわす。

 負ではなく正の印象操作こそが、むしろしないほうがのぞましいものだろう。正の印象操作の害の大きさに比べれば、負の印象操作はさして悪いものではない。ことわざでは、火のないところに煙は立たないと言われるのがあるのをくみ入れると、政治の権力者にたいしては、批判として見るのは基本として有益である。

 負よりも正の印象操作のほうがなぜ害が大きいかというと、ほめたり持ち上げたりすると、外発の動機づけがとられてしまうからだ。外発の動機づけは報酬を与えるのなどによるものだ。これは政治において国民のみんなのためになるような目標を達することのさまたげになる。時の権力者を腐らせる(スポイルさせる)ことをうながす。

 国民のみんなのためになるような目標を達するためには、外発ではなくて内発の動機づけがとられるのがのぞましい。そのためには、時の権力者や国をほめたり持ち上げたりしないのがふさわしい。正の印象操作をしないようにする。かりにするにしても、一本調子にするのではなく、抑揚をつけるようにして、悪いところを見るのがあればつり合いがとれる。

金しばりと先祖供養に、因果関係や相関関係があるかどうか

 毎年の夏に、高野山に先祖供養に行っていた。ある年、たまたまそれに行けなかった。中学校の部活の試合があったためだという。試合のあった日の夜に金しばりにあった。

 金しばりにあった次の日に、そのことを母親に話した。高野山に先祖供養に行かなかったから金しばりにあったのではないか、と母親は言う。母親に言われたことに納得する。先祖供養に行くのは大事なのだと自覚する。それいらい、毎年にわたり先祖供養に行くのを欠かさないとのことだ。

 新聞の投稿で、高校生が言っていることである。高校生はこの投稿で、先祖のことをたまには思いおこすことをすすめている。先祖を大切にする心をもつことが大事だとしめくくっている。

 高校生の国語の教科で、論理国語と文学国語に分けることが、省庁によって決められたと報じられている。くわしくは、論理国語と文学国語と国語表現と古典探求の四つであるそうだ。

 このうちの論理国語からすると、高校生が新聞に投稿したなかで言っていることは、もうちょっとつっこんで見ることができるのがある。投稿の中で、金しばりにあったのを、先祖供養に行かなかったからではと母親は言っているが、これをうのみにしないことができる。

 毎年にわたり行っていたのを、その年にかぎってたまたま先祖供養に行かなかった。そのことと、その行かなかった年において、部活の試合があった夜に金しばりにあったこととは、必ずしも因果関係は成り立たない。

 金しばりにあったのは現象である。その現象の原因として、毎年にわたり行っていた先祖供養を欠かしたことが当てはまるかは定かではない。あくまでも仮説にとどまっている。決定的な結論とまでは言えるものではない。

 先祖供養をしたり、先祖を大事にしたりすることに価値を見いだすのは悪いことではない。それとは別に、高校生の国語(論理国語)の教育という点からすると、言っていることのすじ道が必ずしも通っていないところがある。

 意地が悪い大人の言うことではあるが、批判的な見かたが成り立つのはたしかだ。金しばりにあったのは、毎年にわたり行っていた先祖供養をその年にたまたま欠かしたことに原因があるとははっきりとは言いがたい。因果関係について、確証(肯定)だけではなく反証(否定)することができる。

 先祖供養をしたり、先祖を大事にしたりすることに価値がないわけではない。個人が自分でよしとする中においてそれらを行なうのはよいことだろう。それらをすることによって、よいことがおきるとか、またはしないことによって悪いことがおきるかは、定かとは言えそうにない。

 定かではないのは、たとえば金しばりにあうことと、先祖供養を欠かしたことは、独立した別々の二つのことだと見なせることによる。関係していないと見ることが一つにはできる。二つが関係していると見なすのは、応報として見ることによるものだ。応報というのは、こうしたらこうなるといった説話(物語)だが、この説話は現実とぴったりと合っているとはかぎらない。虚偽(創作物)であることがないではない。

生成され、対象化され、つくられ、生産されることで、男性と女性の性のちがい(差)がおきている

 性の少数者(LGBT)と言っても、男か女かだけだろう。それだけだ。LGBT は政治による策略であって、完全なでっち上げだ。テレビ番組の中で、アメリカの国民の一人はそう言っていた。

 アメリカの国民の一人は、テレビ番組の中で、男か女かだけしかないという。かりにそうであるとしても、男性と女性の二つがあるのは、実体ではないという見かたが成り立つ。実体ではなく関係によっている。

 関係論からすれば、実体ではなく関係によっているとすることができる。男性と女性は関係することで成り立っているが、そのあいだの分類線は揺らいでいる。男性と女性という大きな物語が安定しては成り立ちづらい。

 記号内容(シニフィエ)にそった記号表現(シニフィアン)ということで言うと、男性と女性のほかに、LGBT を持ち出すことは必要になってくるのがある。記号が増えることで、記号内容にそっていない記号表現をとらされるのを避けられるようになる。見かたを変えて見れば、男性と女性ということの虚偽性が、LGBT を持ち出すことによって浮かび上がってくる。

憲法は国の理想を語るものだと首相の言うことにおける、上位と下位

 憲法は国の理想を語るものだ。首相はそう言っている。与党がおし進めようとしている憲法の改正における話し合いの中でのものである。

 首相が言っていることには一貫性が感じられない。いまの憲法は理想によっているから、現実とはかけ離れているので、改正しようというのが現実論だろう。その現実論に、理想論を持ち出すのであれば、つじつまが合いづらい。すでに理想は語られているのだから、とりたてて改正するのはいらないのではないか。

 憲法は国の理想を語るものだと首相は言うが、これそのものは頭からまちがったものではないかもしれない。素人の言うことだから合っているかはわからないものだが。

 首相の言うのとはちがい、こう言うことができるのではないか。憲法は国の理想を語るものというのではなく、自由を保障する基礎法だと見なせる。そこに本質があると見られる。

 首相が言うように、憲法が国の理想を語るものなのであれば、下位に落ちこんでしまうおそれがある。下位に落ちこむとは、自由が損なわれることを示す。国民から自由をうばう、国家主義の理想が語られることがある。

 下位に落ちこませないようにして、上位(メタ)に引き上げるようにする。与党がもくろんでいる憲法の改正と比べたら、いまの憲法はすでに上位(メタ)に引き上がっている。これを下位に引き下げようとするのは国民の自由が損なわれることになるので見かたによっては改悪になるだろう。

 首相を含めた権力をになう政治家が行なうことで気をつけないとならないのは、上位(メタ)にあるのを引き下げて落ちこませて、下位(ベタ)にすることで、国民がもつ自由を損なわせる動きだ。理想を語るのも大事なものではあるだろうが、下位(ベタ)に引き下げて落ちこませるものなのであれば個人としては反対だ。

大学の医学部の受験でとられていた、大学の集団の内部における誤ったおきて

 大学の医学部の受験で、性のちがいによってあつかいを変える。女性に不利な採点が裏でひそかに行なわれていた。それが明るみに出て、報じられている。複数回の浪人をしている人にも不利な採点が行なわれているという。

 いくつもの大学の医学部で、性のちがいや浪人の回数によってあつかいを変えていた。これは、集団の中におけるおきてによるものだと見られる。まちがったおきてが裏でとられていて重んじられていた。

 裏でひそかにとられていたおきては慣習によるものだ。この慣習はまちがったものだけど、それが改められることはなかったものだろう。改められる機会がなかったのは、裏でひそかに行なっていたことによるのが一つにはある。

 裏でひそかに行なう慣習のおきてではなく、表だってみんなに知らされる決まりであれば、その決まりがよいものなのか悪いものなのかをみんなで見て行ける。悪いものであればその決まりをとらないようにしたり改めたりすることができる。

 医学部の受験にかぎらず、日本の社会の中にあるさまざまな集団の中において、おかしな慣習によるおきてがとられているのがおしはかれる。労働において、労働者を不当に軽んじることはその中の一つだろう。こうしたものが改められることがあればのぞましい。

与党を正として野党を誤とするのと、与党を低として野党を高とする形式の仕組み

 政権をになう与党は正しい。野党はまちがっている。政権をになう与党の足を野党は引っぱってしまっているのは駄目なことだ。与党が大衆迎合(ポピュリズム)であるとしていったいそれの何が悪いのか。こんなことが言えるのがある。

 与党を正として野党を誤とできる。与党は正なのだから、その足を、誤である野党は引っぱるべきではない。邪魔をするべきではない。一般論としてそう言えるものとは見なしづらい。具体や特殊のものだろう。正しいものが選ばれるとは限らない。

 具体や特殊は不公平になることがあるものだ。一般論として公平なあり方をとるのであれば、与党は正として野党は誤とするのではなく、与党を低として野党を高とするのがとれる。野党は高なので、政権をになう与党をきびしく監視する。与党は低なので、野党(反対勢力)の監視や批判を受ける義務を負う。

 批判のための批判なのであれば、それはのぞましいことではない。そうではなくて、的を得た批判なのであれば有益だ。

 仕組みとして与党が低で野党が高となっていて、与党が野党などからの監視や批判を受ける義務を負う。野党などが与党をきびしく監視できるようになっていれば、与党が(正ではなく)誤であるときに、その誤を明らかにするのをうながす。

 かなり骨抜きにはなっているが、いちおう形としては仕組みがあることで、かろうじて与党の誤が浮きぼりになっているのがある。大手の報道機関を飼い慣らすことなどをして、与党は自分たちの誤を隠すのに必死だが、それでもいちおう形としては仕組みがあるので、誤を隠しきれなくなっている。

 批判のための批判になってしまっては駄目なのはあるが、与党は正で野党は誤だという絶対の確証はないのはたしかだ。与党を低として野党を高とすることによって、与党は監視や批判を受ける義務を負い、野党などは権力について監視や批判をする仕組みは、あったほうがよいのはまちがいがない。いまの首相による政権のありさまを見ると、それがひしひしと感じられる。