性の記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)を見られる

 性について、社会の中で話すのはよいことではない。社会や政治において性をとり上げないほうがよい。評論家はテレビ番組の中でそう言っていた。

 性について社会や政治でとり上げないほうがよいのかというと、そうとは言えそうにない。

 性については、個人のそれぞれが自分の生活の中でとり組めばよいことであり、個人の自由に任されているのはある。しかし、性についてを見て行くさいに、それを個人のものとして当てはめて終わりにすることはできそうにない。個人のことがらであるとともに、社会のことがらでもある。二つの見かたがとれる。

 性のことをとり上げるときに、それを一つの大きな論点であるとできるとすると、その大きな論点の中に、さまざまな中くらいのや小さな論点を含む。中くらいのや小さい論点に細かく分けて細分化したほうが、ものごとをよりよく理解することにつなげられる。

 性とひと口に言っても、身体の性と文化の性に分けられる。この二つに分けられるのがあり、それぞれについてを見て行くようにしたほうが、限定して見ることになるので、有益になるのが見こめる。

 性の行為が行なわれるのを大っぴらに見せるのであれば必ずしものぞましいことではないが、そうではなく、たんに(重要な)主題の一つとしてとり上げるだけなのであれば、それは行なわれるのがのぞましいことだろう。

 広くいえば、人間のあらゆる行ないは性に関わっているくらいである。フロイト精神分析学でそれは言われている。性の欲動が昇華されることで文化が営まれる。たとえ高尚なことであっても、じっさいには卑俗なものに支えられていることはまれではない。性と性でないものがあるのではなく、すべてを性の一元論のようにして見ることもできる。ある対象に性の欲求(エロス)をもつことは行なわれている。

制度そのものや、日本の国や経済がブラックだというのがある(ブラックを含んでいる)

 技能実習生制度では、外国の人が日本にやってくる。本国から日本に来るさいに、甘いうたい文句などでだまされているのがあるという。多額の借金を背負わされて、日本で安い賃金による労働力としてこき使われてしまう。日本での悪い状況から抜け出すことが難しくなる。

 国と国とをまたいだ、口入れ屋の活動をゆるしてしまう。技能実習生制度にはそのまずさがおきているのがうかがえる。戦前の日本には口入れ屋がいたという。これは職業紹介業者であり、この業者はうたい文句によって労働者をだまして、中間搾取を行なっていた。労働者は多額の借金を負いがんじがらめになり苦しむ。

 口入れ屋は、紹介を行ない、労働者を貸し出すことで利益を上げる。労働者は超過の搾取をこうむり、不幸におちいる。戦後になってこれは禁じられるようになった。原則として労働者を直接に雇うようにした。直接に雇うようになってはいるものの、戦前の中間搾取のあり方は、派遣業者という形で戦後になってまた復活してしまっているのはある。

 国と国とをまたいだ口入れ屋の活躍を許してしまうのが技能実習生制度だとすると、外国からやって来る労働者はそれによって不幸におちいることになる。この制度は外国からやって来る労働者を不幸にすることがあるものなので、やめるようにしたほうがよいものだろう。

 外国からやって来る労働者を受け入れるのであれば、なんぴとたりともあたかも物のようにあつかってはならない。国内の労働者もまたいかなる理由があったとしても物のようにあつかわれてはならないのがある。人格としてあつかわれないとならない。そのために労働者の権利が十分に保障されて、違法なことが行なわれるのが許されないようになるのがのぞましい。

何によってかはともかくとして、明るい未来がやって来るのであれば、明るい未来がやって来ると思うべきかもしれないが、その確証はあるとは言いがたい

 人工知能の機械が発展すれば明るい未来が来ると思わないと駄目だ。テレビ番組の中で大企業の社長はそう言う。それにたいして、ほかの出演者は、強者(勝者)の弁だと反論をしていた。

 大企業の社長はテレビ番組の中で、人工知能の機械が発展すれば明るい未来が来ると思わないとだめだと言うが、本当にそうだろうか。そう疑問を発することができるだろう。

 大企業の社長の見かたは、一つには楽観論になっているものだというのがある。それとは逆の悲観論も成り立つ。楽観論をとらないと駄目だということは必ずしも言えそうにない。ものごとにはたいていは二つくらいの見かたがとれる。

 大企業の社長は楽観論をとっているが、それはその反対である悲観論と関係しているのであり、その二つのあいだに解消しがたい矛盾があるのが現実ではないだろうか。

 無理をしてまでも、明るい未来がやってくると思わないと駄目なのか。そうすることによってかえって悲壮なふうになってしまいかねない。

 一人でも多くの人が生きていきやすく、幸福になれる。自由の幅が広がって行く。そうなることをうながことの役に立つのであれば、科学技術の発展は喜ばしい。そうではないのであれば、いったい何のための発展なのかということになる。

 人工知能の機械が発展することによって、明るい未来がやって来るのであれば、それに越したことはない。そう思うにせよ思わないにせよ、そうなるのであれば、どちらでも同じことだという見かたも成り立つ。

 未来を見るのとはちがい、逆に過去を見ることがあるとよい。過去にはさまざまな負の痕跡が残されている。過去におけるさまざまな負の痕跡が眠っていて、それらに光を当てることができればよい。眠りから覚まされるのを静かに待っている。それらに光を当てられるようにして、忘却して風化により忘れ去ってしまわないようにする。想起して行く。それによって、ただ未来を見るのではないものが見えてくるのがのぞめる。

政権に投げかけられたやじによる響きと怒り

 沖縄県の前県知事の県民葬が行なわれたという。そこに出席した政府の官房長官は、首相からたくされた気持ちを代わって朗読した。基地の負担が沖縄に集中していることに触れて、それを軽減することを目ざして行くという。官房長官が代読したこの首相の気持ちは、そのままうのみにすることはできそうにない。

 官房長官と与党の議員にたいして、県民葬のほかの参加者からやじが飛ばされた。葬儀が行なわれているときに官房長官や与党の議員にやじを飛ばすのは適したものではないとの声が言われている。個人としてはこれにはうなずくことはできず、むしろやじや怒声が飛ばないほうが不思議なくらいだろう。

 一般論でいえば、葬儀のさいにやじや怒声を飛ばすべきではない。しかし、個別として見ると、地域が抱える事情があるし、前県知事は県にある重い基地の負担をなくそうとがんばっていたのがある。それにきちんと聞く耳を持ってこなかったのがいまの政権だというのがある。冷遇していたのであり、厚遇していたのではない。

 葬儀のさいに官房長官や与党の議員にやじや怒声が飛ばされたのを、一つの現象として見ることができるとすると、その現象がおきたのは、いまの政権や日本の社会の全体に原因があると見られる。官房長官や与党の議員は、よほど顔の皮が厚いようであり、恥ずかしげもなく葬儀に出て、はなはだ疑わしいものである首相の気持ちを代わって朗読した。これはとくにほめられるものではないだろう。やじや怒声を浴びるのではまだまだ足りないくらいであり、国民の厳しい声を甘んじて受けるのがいる。

危険の大小の文脈ではなく、権利と義務の文脈で見られる(危険の大小も無視できないものではあるが)

 車はラジコン飛行機よりも危ない。ラジコン飛行機を飛ばすのを禁じられている河川敷で、ラジコン飛行機を飛ばしていた人は、テレビ番組の中でそう言っていた。

 車とラジコン飛行機は、比べてみれば車のほうがより危ないのはある。車のほうが危険ではあるが、ラジコン飛行機は安全かといえば、そうとは言えそうにない。車には問題があるし、ラジコン飛行機にもまた問題があると見られる。

 車は社会の中に組みこまれている。モータリゼーションになっている。危険性は高いものの、得られる利益もまた高い。車を運転するには免許がいり、運転手には社会的に一定の責任が背負わされている。

 車が社会に益をもたらすのとは別に、害をもたらしてしまっているのは無視できそうにない。その害を重く見ることはできる。理想論としては、車がないほうがよいか、もしくは害のない車がつくられればよい。現実論としては、車は社会に必要であり、そのために許容されている。

 ラジコン飛行機は、社会に広く必要なものとは見なしづらく、特定の人に益になるものだと見られる。社会に広く必要なものだとは見なしづらいので、車ほどには必要不可欠さが低い。車とラジコン飛行機は同列にあつかうことはできず、質のちがうものなので、別なものとして見るのがふさわしい。禁じる決まりがあるのなら、それを守るようにして、そこでは飛ばさないようにしてもらいたい。

学園の理事長は、いまの政権と同じように、(公の)文書を軽んじているのがよくないのがある

 県の文書には目を通していない。学園の理事長は記者会見の中でそう言っていた。県の公文書の中で大事なことが書かれているのは六ページにすぎないが、それに目を通していないという。

 県の文書に記されていることと、それにまったく目を通していない学園の理事長が記者会見で口から言ったことと、どちらが信用に足るものなのか。

 県の文書に記されていることが、絶対にまちがいなく正しいとは言い切れないし、理事長が記者会見で口から言ったことが、絶対にまちがっていてでたらめだとは決めつけられそうにはない。

 場合分けをしてみれば、文書に記されているからといって正しいとは限らないし、口から発したことだからといってまちがっているとは限らないのはある。正しいか正しくないかは、どちらであることもあるが、一般論からすると、文書に記されていることのほうがより重みがある。

 大事な内容だから文書に残しておく。これは大事なことだということで文書に記録するという心理がはたらく。あとでもめごとになったさいに、文書に記録が残っていれば、それをもとにして見て行くことができる。捨ててしまわない限りは文書には存続性がある。

 文書に記されていることが、まったくのでっち上げであり虚偽だというのもないではないだろうが、その点については、現実との整合性や、つじつまが合っているかや、周辺の状況や、前後の文脈などにより、説得性を見て行ける。説得性が〇か一〇〇かということにはなりづらい。

 学園の理事長や、それとつながりのあるいまの政権は、疑惑がおきたさいに、残されていた文書の内容を軽んじるのが目だつ。いまの政権(の息が吹きかかった省庁)においては、公文書を改ざんまでしているしまつだ。残された文書の内容よりも、口から発することを優先してしまうのであれば、口から出まかせを言うことができてしまう。まずいことである。

 文書を残していたほうと、残していなかったほうがある。この二つがもめたさいには、文書を残していなかったほうに不手ぎわがある。そうしないと、文書を残すことの意味がなくなってしまう。事前に備忘として文書を残しておけば、事後にそれを参照できるので役に立つ。

 文書に記されたことが完ぺきに正しいとは限らず、いつわりが記されていることはゼロではない。ゼロではないにしろ、具体の証拠がないのであれば、いつわりだと決めつけることはできない。

 内容においては、残された文書に記されている内容のほうが、口から発して言うことよりも、一般的にはより信頼度が高い。一つには、残された文書は、だいたいにおいては、そのことがおきて間もないうちになるべく早めにおきたことを記しておく。そのいっぽうで、口から発することは、しばらく時間が経ってから、自分の頭の中から思い出そうとするものだから、正確性に疑問符がつく。記憶は意外とあやふやなのがある。

 もう一つには、文書に記すときに、あらためておきたことがどういったことだったのかを整理することになる。文書に記す中で、おきたできごとが整理されるのである。重要なものとそうでないものが振り分けられる。木の幹と枝葉といったようにして、幹を中心にして記すようにするものだろう。そのいっぽうで、口から発することは、幹と枝葉が分けられていないでごちゃごちゃになっていることがある。その場で、自分の頭の中の記憶をたよりにして口から発するためである。

直接さと間接さ(媒介性)を対比してみることができる

 直接さと間接さを比べてみることができる。直接さは、速度の速いものである。間接さは、速度の遅めのものである。

 直接さは短い時間で育てる促成栽培であり、間接さは時間を長めにかける低温熟成であると見なせるものだ。

 直接さは透明なあり方で単眼のものである。透明にものを見通す。間接さは不透明なあり方であり複眼のものだとできる。不透明にしかものを見ることができない。

 直接さは、学者のダニエル・カーネマンの言っているというシステム 1に当たる。システム 1は感情や直感によるものだという。システム 2は理性によるものだとされている。このシステム 2は間接さである。

 システム 1である直接さは、ものを言い切ってしまう。これは斫断(しゃくだん)である。斫断によりものを言い切り、結論をとる。

 システム 2である間接さは、ものを言い切ってしまうのに溜(た)めをもつ。待ったをかける。斫断をとらないようにする。結論をとるのではなく仮説にとどめておく。正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。がい然せいである。

 直接さは直線のあり方だ。寄り道をしない。速度の速いものである。

 間接さは曲線をとる。くねくねしているものだ。寄り道をして迂回する。迂回することによって逆説として直線とする(急がば回れ)。

 直接さをとることによってものを言い切ることはできるが、はたしてそれを虚偽ではない完全な形ですることができるのかというと、そうとは言えそうにない。人間がものを言うさいには、直接に言いあらわすことはできづらく、言葉によって媒介されざるをえない。言葉によって媒介されることで媒介性がおきる。これは間接さである。

 直接さをとることができるのはあるにせよ、それはじっさいには間接のものである。言葉によって媒介されていて、媒介性がとられているためである。

 間接さを見てみると、それは記号によるものである。痕跡だ。記号は実体ではなく関係の差異によって成り立つ。世の中の全体を、色々なものごとに分節する。たとえば天気では、晴れや曇りや雨の変化は本来は一つづきのものだが、それを分節することでよい天気や悪い天気が成り立つ。日によって、よい天気になり、悪い天気になる。

 世の中の全体や分節されたものを実体として見てもまちがいというわけではないが、それはわきに置いておきたい。

 関係の差異によって記号はできていて、記号と意味の結びつきは恣意(気まま)による。必然のものではない。日本太郎という名前の人がいるとして、その名前は親がつけたものだが、日本一郎と名づけても成り立つ。

 記号では、正の価値づけや負の価値づけがとられて、対立がおきる。たとえばよいと悪いは、正の価値と負の価値をもつものであり対立するものだ。

 中立にものを見ることはできづらい。直接にものを見ることができるとすれば中立にとらえることができるかもしれないが、生まれ育った地域の文化や歴史に人間は媒介されている。その影響を受けざるをえない。地域の文化や歴史や自分の利害などからの影響を受けていて、そこから主体である人間が成り立つ。そこに媒介性がはたらいている。ものを見る目が多かれ少なかれ偏向しているのである。

コンプライアンスに引っかかっているのが、学園と政権(首相)だと見なせる

 コンプライアンスとガバーナンスを守って行きたいと思っている。首相と関わる疑惑が投げかけられている学園の理事長は、記者会見の中でそう言っていた。

 コンプライアンスとガバーナンスを守って行きたいと思っているとのことだが、これはばく然とした発言である。ほんとうに理事長がそう思っていると見なさなければならない確実な根拠(担保)がないので、うのみにすることはできない。

 コンプライアンスとガバーナンスを守るのも大事だろうが、それをする前にもっとやらなければならないことがある。とり沙汰されている首相と関わる疑惑について、説明をするようにしないとならない。疑惑がいつまでも片づかないのは、学園が疑惑について説明するのを避けていることによる。

 学園の理事長は、記者会見の中で、コンプライアンスとガバーナンスを守って行きたいと言っているが、このさいのコンプライアンスとは世間に一般で通用している法などの決まりや常識を守って行くということだろう。これを守るのであれば、学園に投げかけられている疑惑について、自分たちから能動で説明をしないとならない。

 説明が十分ではなく、不足してしまっていることから、疑惑が片づかないままになってしまっている。これは学園においてコンプライアンスが軽んじられていることをあらわす。コンプライアンスが軽んじられていて、それよりも学園の組織を保身させることをとっている。

 学園は、説明をするよりも、自分たちの組織の保身をとってしまっているが、これは学園だけによらず、いまの政権のあり方とそっくりでありうり二つである。無責任体制というまちがったいまの政権のあり方をまちがって模倣していると見なさざるをえない。

 理想としては、疑惑がおきたときには、最初期に最大の努力を注ぐことができるのがのぞましい。初動において最大の力を注ぐ。火でいうと、ぼやのうちに何とかする。ぼやから本当の火事になってしまったら、そうそう火は消せるものではない。たとえ時間を引きのばしたとしても、それによって火が小さくなるとはかぎらない。

 火を持ち出したのは置いておくとして、すでに疑惑が形のある負のものとして振り出されてしまっているのがある。いくら時間を引きのばしたとしても、質問に受け答えたり説明をしたりして片づけようとしないのであれば、形のある負のものが振り出されたままになっているのは変わらない。

能力の優劣は、優れているから正しく、劣っているからまちがっていることを必ずしも意味しないものだと見なせる

 能力が高い、または平均の人がいる。かたや、能力が平均にとどかない人がいる。平均に達していないで、劣っている。平均未満である。

 能力が高い、または平均の人が正しくて、平均に満たない人はまちがっているのか。必ずしもそう言うことはできそうにない。

 場合分けをすることができるとすると、能力が高いまたは平均であるとして、正しいこともあるがまちがっていることもある。能力が平均に満たないとしても、まちがっていることもあるが正しいこともある。決めつけることはできそうにない。

 能力が高い人と、平均の人とを合わせると多数にのぼる。その多数にのぼる人のあり方が正しいのだとは必ずしも見なすことはできそうにない。平均に満たない人がたとえ少数であるとしても、その人のあり方がまちがっているとは一概には見なせないものである。

 能力から見て高いまたは平均の人と、平均に満たない人とは、お互いに関係によって成り立つ。片方がいることによって、もう片方がいることになる。絶対としてのものではなく、相対のものにすぎない。あるものさしを当てはめたさいにちがいがおきるのにすぎない。そのものさしとは別のものを当てはめてみれば、またちがったあり方になる。

 高い能力や平均の能力と、平均に満たない能力がある。優と劣とすることができる。この差は絶対のものだとすることはできづらい。劣に当たるものは、優に当たるものを異化するはたらきをもつことがある。異化するはたらきがおきることによって、優または平均のあり方のおかしさが浮きぼりになることが見こめる。おかしさがきわ立てば、優と劣や、普通と特殊が逆に転じることが見こめる。

 いまの政権の財務相は、財務相および政権にたてつかずに従順に従った役人を、きわめて有能な人物だと評した。この役人が客観として有能だということはできないのがある。あくまでも政権や財務省によるものさしを当てはめれば、きわめて有能だとなるのだろうが、肝心の政権や財務相がもつものさしが狂っているのだから、見かたによってはこの役人は無能であるということができないではない。

 有能または平均と、そうでない(劣っている)ものとのちがいは、あんがいいい加減なものであり、反対に転じることがあるのを示す例として、財務相の役人についての評価を見なすことができる。

お前もそうじゃないか、と言われてしまうさいの対処法(有効なものである保証はできないものだが)

 あることを相手に言って、相手から、お前もそうだろ、と言い返される。相手を批判したときに、その相手から、批判を投げ返される。相手に向かって、嘘をついたではないか、と言ったとすると、その相手から、お前も嘘をついていただろ、と言い返されるようなものだ。

 相手を批判して、その相手から批判が投げ返されるのは、類似性による反論がとられている。類似性が成り立つことによって、批判が投げ返されて、ブーメランが返ってくるようになる。ブーメランが返ってこないようにすることはできるのか。

 ブーメランが返ってこないようにするには、類似性が成り立っていないとすることで返ってこなくさせられる。類似性が成り立たないようにする手として、次元を変えてしまう手がある。次元をずらすようにするものだ。次元をずらして、高い次元において、類似性をとれるようにする。

 相手から批判を投げ返されるのを、高い次元に移すようにする。相手から批判を投げ返されて、ブーメランが自分に返ってくるのは、相手が言っていることが正しいということが前提条件になっている。絶対に正しいとなっているとすると、それを相対的に正しいものにする。まちがっているおそれがあると見なす。相手が言っていることをカッコに入れる。

 ブーメランが自分に返ってこなくさせることは厳密にはできづらいが、ブーメランを行ったり来たりさせて、自分にも相手にも行き来して定まらないものにすることはできる。ブーメランがこちらにだけ返ってくるのではないようにする。

 ブーメランがこちらにだけ返ってくるのではないようにして、相手にも返って来るようにする。ブーメランを行き来させる。そうなるようにするために、社会学者のカール・マンハイムの言う存在被拘束性をとるようにする。自分だけではなく相手もまた存在被拘束性をまぬがれてはいない。純粋な客観ではなく、主観をまぬがれてはいない。

 存在被拘束性において類似性があるので、ブーメランが自分にだけ返ってくるのではないとすることができる。肉を切らせて骨を断つとか、おあいこにもって行くようなあんばいだ。

 こちらの言っていることがまちがっているということにはなっていないとすると、こちらの言っている内容については正しいものだとすることができる。こちらの言っている内容については相手から反論を受けて否定されているわけではないので、こちらの言っている内容の点に関しては正しい見こみは保たれている。

 ブーメランは自分と相手のどちらにも投げられるものなので、どちらにブーメランが行くのでもまちがいではない。どちらでもかまわないことから、自分の精神の中で、相手にブーメランを投げるようにする。このさいに、相手の言っていることをそのまま受け入れることはとくにない、とすることができる。相手の言っていることが必然として絶対に正しいとは限らないのだから、信用しなくても必ずしもかまわない。自分を本位であるとすれば、そうすることができる。

 ブーメランを投げたほうが精神として優位に立ちやすいので、自分が投げられる側ではなく、投げる側に立っていると思いこむ。それで気持ちとしてちょっと優位に立つ。自分の論の内容がまちがっていると言われたわけではなく、ちがう論(異論)が立てられたにすぎない。その異論は自分の発言にたいする反論ではあるが。さらに、自分が気持ちとして優位に立つために、相手の言っていることを全面的には信用しないで、言葉どおりには受けとらないようにして、うのみにしないで疑う。それで自分の気持ちを保つようにする。あくまでも気持ちの持ちようにすぎないものではあるが。