若さのストライクゾーンが広い(個人においては、広くてよいこともあるが)

 まだ若いから、注意をしながら仕事をしていってもらいたい。性の少数派である LGBT のことを生産性がないと言った議員は、まだ若い。これからは気をつけて注意をしながら仕事をしてほしいと首相は言う。

 生産性がないと言った自由民主党の議員はまだ若いと首相はしているが、この議員の年齢は五一歳である。若いか若くないかというのは相対的なものだから、首相の言うことが完ぺきにまちがっているとは言えないかもしれないが、五〇を超えていれば、昔であれば人生をまっとうしていたくらいである。人生五〇年という時代もあった。

 五一歳で若いというのは、それが許されないというわけではないが、甘い見かただと言わざるをえない。誰がどう見ても若いのだということはできない。若さを根拠としているのだとすれば、その根拠は受け入れがたいものだ。若さゆえのあやまちということはできづらい。かりに若いのだとしても、駄目なものは駄目なのだから、少なくとも公の政治にたずさわっているのなら、言ったことの説明責任を果たしてもらいたい。

 性の少数派を生産性が無いといった議員について、多様な意見があってよいと首相は言う。自民党は多様性を尊重する党であるという。これにたいして、同じ自民党で党の総裁選に出馬する石破茂氏は、ちがう見かたを示す。首相が言うように、多様な意見があるのが自由民主党だとしてそれでよいとは思わない。傷ついた人は少なからずいると言う。

 多様な意見があってよいと首相は言っているが、多様性を否定するような意見について、多様性があってよいというのはおかしい。多様性を否定するような意見なのだから、多様性を肯定するのであれば、そこは否定しないとおかしいだろう。

 多様な意見があってよいという首相の発言が本当であれば、色々なことについて、さまざまな意見があってよいものだが、現実にはそうはなっていない。日本の国についてや、いまの首相の政権をよしとする意見がとり立てられて、歴史がねじ曲げられてしまっている。国益にかなうのはよしとされて、そうでないものはよしとはされない。これのどこに多様性があるのだろうか。多様性を言うのであれば、国益にかなわないものであってもよしとしないとならない。国益にかなうものだけをよしとしていて、多様性などあるはずがない。

おそれ入らないのだとしても、国際法は守るべきだろう

 プーチン大統領に、国際法がこうだからおそれ入ったか、と言う。そう言ったとしても、おそれ入りましたとはならない。首相はテレビ番組の中でそう言っている。

 国際法がこうだからおそれ入ったかと言って、プーチン大統領がおそれ入ったとは言わないとしても、それで国際法に何の力もないことになるのだろうか。持ち出しても何の意味もないことになるのだろうか。そうとは見なせないものだろう。

 まったく国際法に反するようなことをプーチン大統領がやった。それでプーチン大統領が正しくて、国際法がまちがっていることになるのだとしたら、それはふさわしいことだとは言いがたい。

 プーチン大統領に(日本が)おそれ入りました、となるのだとすると、それもまたおかしいことである。国際法を破ることをプーチン大統領がかりにするのだとすれば、それはプーチン大統領が無法者であることをあらわす。法ではなく人の支配のようなことになる。

 日本の国内における強硬派の意見では、たとえ戦争をしてでも、領土をうばい返すことがいるのだというのが言われている。この意見は、国際法から見てふさわしいものではないだろう。戦争をしてでも領土をとり返そうとするのではなく、あくまでも国際法などの法にのっとった中で、力づくではない形で解決を目ざして行く。

 たしかに、国際法を持ち出したとしても、それにたいしておそれ入ったとプーチン大統領は言わないだろう。それは首相の言っているのが当たっているところはある。しかし、かりにプーチン大統領が心の中で国際法におそれ入っていたとしても、おそれ入りましたとじかに言うわけがない。心の中はうかがい知ることはできない。

 プーチン大統領国際法におそれ入ってはいないとどうして言い切ることができるのだろうか。たとえおそれ入っていないようなことを言ったりやったりしているのだとしても、心の中でおそれ入ってはいないということを完全に裏づけるものとは言いがたい。

 甘いところがあるのは確かだが、国際法などの法にのっとってものごとを何とかして行くことができればのぞましい。たとえほんの少しではあったとしても、プーチン大統領は、心の中では国際法をおそれ入っているのではないか。ほんの少しも気にしていないとは考えづらい。

 物理的な力ではなく、文化の力によるのは、やりようによっては力をもつものである。物理的な力が正しさになるのではないのだから、文化の力によってうったえて行くのはやり方によっては有効なものだろう。

 法というのは法則というくらいであり、発見されるものである。絶対の法則ということにはならないものではあるが、法則としての部分も持ち合わせているのだから、それなりの力をもっている。

 力関係によって、力の強い者と弱い者ができて、その勢力のちがいによってものごとをおし進めて行く。それで力の強い者がおし進めることが正しいことになるわけではないし、正しさが決まるわけでもない。

 力の強い者は法を破り、弱い者は守る。強い者は法を破ってもおとがめがなく、弱い者は守りつづける。国の中でも、国どうしでも、そうしたきらいがある。ロシアなどの大国は国際的な法の決まりを守らずに破ってしまう。そうだからといって、大国のやっていることが正しいことにはならない。

 法の下の平等ではなく不平等になってしまっているとすれば、不平等なのを改めて平等にして行くことがいる。大国と小国とのあいだで二重基準(ダブル・スタンダード)になっているとすれば、そうなっていることはおかしい。大国であろうと小国であろうと、国というのは世界の中の一部でしかない。一部が全体よりも無条件で優先されるわけではないだろう。全体の中の一部である国は、大国であろうと小国であろうと、部分のまとまりの共同幻想によるものである。幻想や観念の産物であり、思いこみによるものである。

疑惑とされることについての首相の往生際の悪さがある(かりにまったく非がなかったとしても、非があると疑われかねないことをしたのなら、権力者としては非を認めるべきだろう)

 利害関係に当たる人と、ゴルフや会食をする。省庁の役人と銀行の頭取りがそれをしていたことがあった。この件では、役人と銀行の頭取りは、利害関係ができてからゴルフや会食をはじめたという。

 テレビ番組の中で、首相は利害関係にある者とゴルフや会食をしていたのを問われた。そのことについて首相は、例として引き合いに出された、省庁の役人と銀行の頭取りのあり方とはちがうのだと言っていた。自由民主党の総裁選の話し合いをする番組であり、番組には首相と候補者の石破茂氏が出ていた。

 利害関係になってから親しくしたのではない。利害関係ができてからつき合いがはじまったのではない、と首相は言う。私の場合は、もともとの友人である。ずっとつき合っている。

 テレビ番組の司会者は、首相の言いぶんについてちがう見かたを示す。首相は学生時代からの友だちだったと言うが、たとえ学生時代からの友だちであっても、省庁の役人と銀行の頭取りはゴルフをしてはいけない。学生時代に友だちだったからよいだろうというのは理由にはならない。ゴルフをしたり会食をしてごちそうになったりしてはいけない。頻ぱんにゴルフや会食を重ねるのは、たとえお金をもらわないとしてもおかしいことである。

 司会者は、石破茂氏にも話をふる。もしも石破氏が首相と同じ立ち場であったとする。自分の昔から友だちの人と、利害関係に当たることになり、ゴルフや会食をするかどうか。そう聞かれた石破氏は、こう返す。自分が職務権限を持っているときは、少なくともゴルフや会食はしない。権限をもっているあいだは接触はしない。あらぬ誤解を受けるのを避けるようにする。

 石破氏が言っていることは、一般論として正しいものだろう。司会者の言っていることと同じ見かたである。いっぽうで、首相の言っていることは見ぐるしい言い逃れであり、個人的にはほとんど言っていることの説得力が感じられない。ほかの人にはまたちがう受けとり方があるかもしれないが。

 二つのへんてこさがある。一つは、テレビ番組に、わざわざ国の長とそれになろうとする候補者が出ているのに、なんでゴルフや会食といったとてもくだらない話題がとり上げられているのかである。このくだらない話題に、首相は自分の言い逃れのために、長々と言葉をついやす。だらだらと言葉を並べ立てるのは時間の無駄であり不親切である。短く核となる結論だけを言えばよい。

 もう一つのへんてこさは、くだらない話題なのにもかかわらず、首相がそれにきちんと答えていないことである。テレビ番組の司会者から問いたずねられたことにまともに答えていない。政治の不正の疑いとしてはとり上げる値うちのあることだが、話そのものはくだらないのだから、さっさと切り上げるようにして、簡単に核となるところだけを述べられればよい。首相はそうではなく、核となるところのまわりにあるところを不毛にぐるぐると回っている印象だ。

 利害関係がおきてからゴルフや会食をしはじめたか、それとも利害関係がおきる前から友だちのつき合いがあったかの二つはちがう。首相はそのちがいを意味のあることのようにしているが、そこは論点からずれたものである。わざとかどうかは定かではないが、そこは論点からずれているものなのにもかかわらず、へんなとり上げ方をしてしまっている。

 利害関係がおきてからではなく、その前から友だちのつき合いがあったのだとしても、それでよいことにはならない。司会者はそれを指摘しているのに、首相はそれを受けとれていないようだ。前から友だちのつき合いがあったからよいのではなく、そうであっても駄目だし、むしろそうであるならなおさら駄目だろう。疑われるのは予想できることであり、予想していなければ駄目なのがある。

 司会者は、スポーツとしてのゴルフに偏見をもっている。首相はそう言う。ゴルフはいまはオリンピックの種目になっている。ゴルフが駄目で、テニスはよいのか、将棋はよいのか。

 首相は、司会者がゴルフにたいして偏見をもっていると決めつけているが、ゴルフにたいして偏見をもっているのではないだろう。ゴルフはいまはオリンピックの種目になっているといっても、だから何なのだという話である。ゴルフではなく、ゴルフをする人が問題なのがある。テニスはどうとか、将棋はどうとかというのも同じで、それをやる人のあいだがらが政治における利害関係者なのであれば、差しひかえないとならないものだろう。

 なんでゴルフは駄目なんだというふうに首相は言う。駄目な理由としては、かつて役人と銀行の頭取りなどの利害関係がある者どうしのあいだで不正や腐敗がおきたから、いけないことだとされている。それだから駄目なのだというのをなぜ受け入れないのだろうか。

 利害関係にある者どうしはゴルフをやってはいけないというのは原則論だろう。原則はそうなっているが、これは例外だというのではなく、原則そのものに首相はいちゃもんをつけている。それでゴルフのほかにテニスや将棋を持ち出して、焦点をぼやけさせようとしている。

 ゴルフをやってはいけないという原則がもしないとしたら、利害関係のある者どうしがゴルフをやり放題になる。いぜんはそうなっていたことで、不正や腐敗がおきた。それでやらないようにするという原則がとられるようになった。この流れがあるとすると、首相は流れを無視している。流れを無視して原則そのものにいちゃもんをつけてもしようがない。原則に反しているのだから、非を認めるべきなのはほぼ明らかなのを、首相は変にがんばっている。がんばるところをまちがえている。

党の総裁選で見られる、投資の行動の弱さと強さ

 投資をじっさいにやったことはないから、説得力はないかもしれない。経験がないから説得力はないだろうけど、自由民主党の総裁選を、投資によって見る見かたが成り立つ。

 投資では、大勢の人が右に行っているときに、自分ひとりだけは左に行くようにする。大勢の人が右に行っているときに、自分もそれについて行って右に行くようでは、大きな利益を見こみづらい。

 多くの人が首相を支持している中で、それに抗って首相と対立しようとする。より多くの人が首相のことを支持すればするほど、反対の方向に行く人は少なくなる。大勢の人のあり方に抗って、首相を支持するのとはちがう、その反対の方向に行くことの好機になる。

 大勢の人が右に向かっているのだとすれば、そこには利益はたくさんあるのかというと、一見するとそう見えるところはあるが、その見こみは低いという見かたが成り立つ。みんなが右に行っているときに、自分ひとりは右には行かずに反対の方向である左に行く。非合理な行動のようではあるが、投資の理には適っているものだろう。一人だけ左に行って、利益が得られる確証はないが、可能性はある。

 目立つのと地味なのがあるとすると、目立つものには大勢の人の目が向かいやすい。地味なものには目が向きづらい。目立つものには大勢の人の目が行きやすく、じっさいに目が向かっているのがあるから、そこには大きな利益を見こみづらい。あまり多くの人の目が向かいづらい地味なものに目を向けると、利益を見こめることがある。

 目立ちやすい(ハイ・プロファイル)のと地味(ロー・プロファイル)なのとで、地味なものに目を向けるのは一つの手である。目立ちやすさと価値の高さは必ずしも相関しない。中心と周縁であれば、中心のほうが価値が高く、周縁は価値が低い、とはいちがいには見なせないものである。

外交における希望的観測

 ロシアのプーチン大統領は、日本のことをわかってくれている。日本の政府はそうした見かたをとっている。プーチン大統領は、ほんとうに日本のことをわかってくれているのだろうか。

 プーチン大統領は、日本のことをわかってくれていて、日本のために益になるようにしてくれるにちがいない。ここには、希望的観測がはたらいている。いまの首相の政権は、楽観論をとっているように見うけられる。

 もしほんとうにプーチン大統領が日本のことをわかってくれていて、日本にとって益になるようなことを多少なりともしてくれるのであれば、のぞましいことである。しかし、そうしてくれることのがい然性はそこまで高いものだとは見なしづらい。

 いまの日本の政権は希望的観測によっているようだが、これは先の戦争のときのことをほうふつとさせるものだと言えなくはない。先の戦争では、日本が勝つだろうとか、何とかなるだろうということで、戦争に踏みきって、その見こみとはまったく反対のことになってしまった。

 戦争で敗戦するほどのことではないが、ロシアとの領土についての外交で、日本の政府は希望的観測によって動いていることの危なさがある。うまく行かないことの危なさもあり、それとは別に、精神のあり方としての危なさもある。楽観論によってうまく行くのであればよいが、悲観論もあわせ持っていたほうがのぞましい。都合のよいように神風は吹かず、そんなに甘くはなかったということになるのを見こして、悲観論を持っていたほうがつり合いがとれる。

お父さん、憲法違反なの、と言われた自衛官すらいるとのことだが、じっさいにその人を連れてきてもらわないと完全な信ぴょう性があるとは見なしづらい(お父さんが憲法違反なわけではないのもある)

 お父さん、憲法違反なの。そう言われた自衛官すらいる。このままでよいのだろうか。首相はそう言っている。

 自由民主党の総裁選に出馬する石破茂氏は、ちがった見かたを示す。お前のお父さん憲法違反なんだって、と言われる子どもはいまどきいない。

 首相と石破氏の、どちらの見かたがふさわしいだろうか。人によって異なるものだろう。個人としては、石破氏の見かたのほうがふさわしいと見なせる。

 自衛隊憲法違反だとするのだけでは、かなり限定された見かただろう。自衛隊についてと憲法については、それぞれにちがった文脈である。それらについてを子どもは十分に分かっているのではないのだから、時間をかけて少しずつ理解を深めて行くようにする。

 子どもにとって、憲法違反というのは、難しい言葉なのではないか。生活の中で、憲法違反というのを用いる機会はないだろうから、ふつうに生活を送っている水準とはちがったことがらになる。そのことがらについて、子どもに聞かれて、大人がすぐに答えられなくても、やむをえない面がある。

 憲法違反というのを言うのであれば、既成事実というのもまた知っておくのはどうだろうか。既成事実の積み重ねの重みというのがある。それを抜きにすることはできづらいし、またそれがあることのまずさもまたある。既成事実の積み重ねの重みはかなりのものになるので、まずはそこをふまえた上で、それからものごとを見て行くようにした方が、現実にもとづいた見かたになりやすい。

 憲法違反かどうかについては、決疑論(casuistry)や関係論による見かたが成り立つ。これは二元論によるものではなく、連続した見かたである。白と黒ではなく、灰色のところを見る。白か黒かではなく、灰色のところを見ることができるのは、大人のあり方なのがある。割り切るのではなく、割り切ってしまわないものだ。

 関係論によるとらえ方では、二つのものはまったく質を異にするのではなく、たがいに関係によって成り立つ。相対のものである。東洋の思想で言われる陰と陽のように、互いに断絶したものではなく、互いに流通しているものである。

 白か黒かと割り切らずに、割り切れないものだとしてしまうと、あいまいなものになる。その欠点があることはいなめない。その欠点をとらないようにして、白なら白や、黒なら黒と割り切ってしまうのがよいのだろうか。

 憲法違反であるとすれば、違反ではないようにすれば、のぞましいあり方になるのかといえば、必ずしもそうとは言い切れない。自衛隊憲法違反ではなく、正式なものになるとしても、戦争に関わるのがある。

 せっかく憲法で誓った不戦による平和をないがしろにして、世界のさまざまなところでおきる戦争に関わる。これがまちがいなくよいことなのだとは言うことはできない。せっかくの憲法による不戦の誓いが台なしになってしまう。

 戦争というのは、きれいごとですむようなものではなく、人が人を殺すものなのだから、それに関わることを、子どもに聞かれたら大人はどう説明するのかがある。それこそ、憲法違反だというのよりもより嘘やごまかしや欺まんを避けることは難しい。

 戦争に関わるのは、それがきれいごとによっていて、嘘やごまかしや欺まんによるからよくないのだというよりは(それもあるが)、戦争そのものがよくないことなのがある。それはそれとして、いずれにしても、大人の世界には、少なからぬきれいごとはいるし、嘘やごまかしや欺まんは避けづらい。だからといって、戦争をすることをよしとしてよいものではないことはまちがいがない。

 戦争の是非については、これだけではなくて色々な見かたが人によってできるものではあるだろう。世界の中では、基本として戦争は法によって禁じられているのがあるから、武力によるのではなく、力によるのではない話し合いなどの方法によってもめごとを何とかするようにできればのぞましい。

 自衛隊憲法違反かどうかというのには、さまざまな見かたがとられているのがあるだろうし、違反であるにせよないにせよ、いずれにせよ少なからぬごまかしは避けられないのがある。きれいごとやごまかしをゼロにすることはできづらい。子どもに聞かれたときに大人がうまく説明しづらいのは、きれいごとやごまかしを抜きにはできないのがあるから、それを逆に言えば、まったく善でもなくまったく悪なわけでもない。

 悪いことをやるためにあるのではないとすると、趣旨からして、まったく面目が立たないわけではないだろうから、(憲法違反であるために)まったく面目が立っていないというふうに言うのにはうなずくことはできない。まったく面目が立っていないのを、面目が立つようにするのだというのは、やることの実態として、まったく善なことをするわけではないのだから、そこを見ることがいる。まったく善なことをするように言うのはきれいごとでありごまかしだろう。

私(首相)への批判はあるだろうとか、どんどん言ってもらえればと言うが、二重拘束(ダブル・バインド)になっている

 すべては国民のために、ただ国民のために働く。自由民主党の総裁選の討論会で、候補者の石破茂氏はそう述べている。

 石破氏の述べていることは、いまの首相による政権が、そうではないことを指し示しているものだろう。いまの首相による政権は、国民のためという視点が欠けているように見うけられる。顔の見えない国民のためではなく、顔の見える特定の支持者に向けて動いている。

 討論会で首相は、一日たりとも反省を欠かしたことはないと言っている。自分は至らない人間であると言う。批判されることがあり、それが当たっていると思うこともある。どんどん批判をしてくれればよい。記者にそう語りかけた。

 首相は、反省をすることがあるとか、批判はどんどんしてくれてよいとかと言っている。批判が当たっていると思えることもあるとも言う。まったく反省することはないとか、自分への批判は絶対にするなとかと言うよりは、言っていることはましである。しかし、首相が言っていることについて、そのまま受け入れることはできづらい。言っていることとやっていることがちがうからである。

 批判はどんどん言ってくれればということだが、もしそうであるのなら、首相に対抗したり反対したりする者をおさえつけるのはなぜなのか。反対する者をおどすのはなぜなのか。おさえつけたりおどしたりするのは、批判をするなということに等しい。言っていることとやっていることのつじつまが合っていない。

 討論会において首相はふところの広さをかいま見させるようなことを少しは言っていた。しかし、総裁選を開くことを拒んでいたのがある。何としてでも出るのだという石破氏の強い意思があったことで、ようやく開かれることになったいきさつがある。そうしてようやく開かれた総裁選で、日程も短くなった中で、権力者としての自分のふところの広さをにおわすことを言っても、とりたてて説得力が感じられない。

 反省をしているだとか、批判をしてくれてかまわないだとかは、当たり前のことではあるが、それはそれでよいことだ。そのいっぽうで、やることがいるのにも関わらずできていないこととして、情報の管理と開示がある。これができていないで、情報を国民から隠そうとしているのがある。ここを改めることがいるが、改める具体の見こみは立っていない。これからもよりいっそう情報を隠そうとしている。

 危機管理ができていないのがある。危機の管理ができていなく、危機から逃げてしまっている。危機となっている問題がさまざまにあるが、その問題が放ったらかしのままだ。問題を放ったらかしにしていて、それを増やしてしまっている。一つひとつの問題に向き合い、それに対応して行く。これが政治において仕事をするということであり、これができていないようでは、権力者としてやるべき仕事をやりません(仕事ができません)と言っているようなものだろう。

 政治の権力者が言うことややることは、現実とぴったりと合うものではない。少なからずずれがおきる。現実とのずれが大きくなっているのは、権力者が批判とまともに向き合っていないせいなのがある。それで膿(うみ)がたまり、緊張が高まっている。膿や緊張がたまっているのは、現実とのあいだのずれが大きくなっていることだから、それを何とかしないとならない。

 たまっている膿や緊張による現実とのあいだの大きなずれを何とかすることがなく、放ったらかしのままにするのだと、権力は虚偽意識(イデオロギー)のかたまりになる。選挙で国民から選ばれているのには正当性はあるが、それによってつくられた政治の権力は、擬制(フィクション)であるのはたしかだ。国民の意思がまんべんなく反映されているとは見なしづらい。

十全に正しくはないからこそ、まちがいをまぬがれないのだし、少なからぬ嘘を言ってしまうことになる

 政治家は、学者や評論家ではない。正しい論理を述べていればよいものではない。総裁選の討論会で、首相はそう言っていた。

 学者と評論家を同じに並べるのは適したものではないだろう。学者や評論家と言っても、それぞれにさまざまな人がいるし、色々な分野がある。政治家にもまた色々な人がいる。一般化することはできづらい。

 首相が言うように、かりに学者や評論家は正しい論理によるのだとしても、政治家がそれを持たなくてよいということにはならない。さまざまな声に耳を傾けなくてよいことにはならないものである。

 首相が言う政治家というのは、おそらく首相(自分)のことを言っているのだろう。政治家は正しい論理はもたなくてもよいのかというと、その見解にはうなずくことができづらい。

 学者や評論家とはちがうのが政治家だということだが、相違点と共通点を見られる。用いているものは共通している。

 学者や評論家や政治家は、それぞれに属性や肩書きは異なっているが、用いているものである言葉は共通している。営みとしては、やっていることは同じではないかもしれないが、根拠を支えとして主張または行動をする点では大きなちがいはない。

 正しい論理と言っても、すべての人がはい(イエス)と言ってくれるようなことを言うことはなかなかできるものではない。しかし、なるべく正しくなるように努めることはあってほしいものだ。

 逆にいえば、正しい論理でないことで、政治家がものごとを行なって行くと、どういうまずいことがおきるのか。その生きた例が首相(いまの政権)なのではないだろうか。極端に言ってしまえば、政治家が正しい論理によらないと、言葉が死んでしまうだろう。ご飯論法や信号無視話法が国会で多く用いられることにそれがあらわれている。

 正しい論理になるように努めるのをしないで、それをまったく手放してしまうのであれば、目をおおいたくなるようなひどい現実のあり方になってしまう。政治ではその危険性が高い。学者や評論家によるものとして、首相は正しさを低く価値づけしているようだが、じっさいにはその逆だろう。

 完ぺきにはできないにしても、なるべく言うことややることが正しくなるように努めるのは、政治家にとって必須のものであり、欠くべからざる必要条件なのではないだろうか。

党の総裁選で首相と対抗する候補者の効用は高い(対抗する候補者がゼロであるのと比べて)

 首相は膿(うみ)を出し切るとずっと言っている。いまの段階で、膿は出し切ったと考えているか。それともまだなのか。自由民主党の総裁選の討論会で、記者はそうたずねていた。

 まだ、とかそういうことではない。膿を出し切ることについてたずねられて、首相はそう答えている。まだとかそういうことではなくて、膿は出し切らなければならない、と考えているとのことだ。そして大切なことは、二度と決裁文書の改ざんなどが行なわれてはならない。

 首相が言っているのは、記者から問いたずねられたことの答えになっていない。建て前を言うことでごまかしている。試験であれば厳しくいえば〇点だろう。首相の言っていることが、膿を出してはいなくて、出す気もないことをあらわしてしまっている。

 記者が言っていることは、首相は自分で言ったことをやっていない、ということが一つにはある。自分が言い出したことなのにもかかわらずそれをやっていない。言ったことをやっていないことについて、なぜそうであるのかを説明する責任が首相にはある。しかしまったく説明をしていない。なので、記者から問われたことに答えていない。

 党の総裁選で、首相のほかに候補者が出て、論じ合いを行なう。それが大事なことなのだと、討論会で(候補者である)石破茂氏は言う。それにたいして首相は、そうではないのだということを言っている。すでに現職の首相がいるのだから、総裁選では他の候補者が出る必要はない。論じ合いもいらない。現職の首相の活動をさまたげることがないのがよい。

 現職の首相がいるのであれば、党の総裁選に首相に対抗する候補者が出ることはいらないのだろうか。出てはいけないことなのだろうか。もしそうであるとすれば、それがルールになっていないのはなぜなのだろう。ルールになっていたほうが、はっきりとするし、そのルールが適したものかどうかを見ることができやすい。

 党の総裁選に、首相に対抗する候補者が出ることは、国民にとっては益になるものだろう。国民にとってどうなのかの視点がもっとも大事なことの一つだから、首相が言うことよりも、石破氏の言うことのほうが個人的にはうなずけるものである。

 たしかに、首相が言うように、現職の首相の活動に一時的にさまたげがおきてしまうのはある。しかしそれを補ってあまりあるくらいの益が見こめる。総裁選のやりとりの中で、首相の非が少なからず浮かび上がる。それは首相にとっての益ではないだろうけど、首相にとっての益が国民にとっての益ではないから、国民にとっての益を重んじられればよい。

 もうすでに国内の政治に支障がおきてしまっている。党の総裁選で首相に対抗する候補者が出ようが出なかろうが、すでに国内の政治はまずくなっている。その見かたが一つにはとれる。首相をはじめとする政権のにない手たちは、国会において、ご飯論法や信号無視話法を多く用いている。かみ合ったやりとりができていない。まともに政治が成り立っているとは見なしづらい。議論ができていないことによって、おかしくなってしまっている。

 党の総裁選で、首相やその賛同者たちは、支持をとりつけるために、裏で根回しをしていた。この根回しをせずに、まったく開かれた形でやるのなら、石破氏のほかにも候補者が出馬していたのが見こめる。首相が党の総裁に選ばれていなかったおそれは低くない。それがあるために、さかんに裏で根回しをして動いていたのだろう。それをしないでまともに(正直と公正に)やったら勝てる見こみが立たない。

 いまの与党にはり合えるほどの野党がいるのかといえば、それは見あたらない。与党のひとり勝ちになってしまっている。その現状があるので、せめて与党の中で一元になるのは避けたほうがよい。多元になるように努める。そうすることで国民にとっての益になる。与党の中で、首相をよしとしない反対勢力(オポジション)がいることを許したほうが、国民の声をすくい上げやすい。

 政権の中に、膿がたまっていて、緊張がおきている。たまりにたまった膿や緊張があるのだから、それをそのままにしておくことはできづらい。たまった膿を出させて、緊張をとり除くことがいる。そのためには、いまの政権にたいする反対勢力となるものがないとならない。党内では、その役をになえる数少ない人物が石破氏だろう。

 いまの政権は、膿や緊張をためているが、それを自分たちで外に出すことはのぞみづらい。それがのぞみづらいのは、政権は組織として腐り切っているからである。腐敗している。いまの政権がそのまま権力の地位に居つづけるのではなく、ほかの者にゆずる。その者が、いまの政権がためにためた膿や緊張を出す役を引きうける。それをするだけでも、その者の値うちは高い。いまの政権ではなく、次の者たちが、いまの政権がためた膿や緊張を出すことをするのに適している。絶対に正しい見かただとは言えないものだが、一つにはそう言うことができる。

像を蹴った(そぶりをした)ことについての謝罪

 像を蹴るそぶりをしたことについて謝罪したい。日本人が台湾にある慰安婦の像を蹴った(そぶりをした)ことについて、その日本人が所属する団体の代表は謝罪の意思を示した。

 像を蹴ったとされる日本人の言いぶんでは、蹴ったのではなく足のストレッチをしたのだという。蹴ったふりをしただけだともいう。ほんとうに蹴ったわけではない。像を壊すほどの強さで蹴ったわけではないにせよ、蹴るそぶりをすることは、場所の特性をくみ入れて、行為の記号的な意味として見れば、蹴ったこととほぼ等しいと見なせるのがある。

 ふつうの場所で、何ということもないただの像を蹴ったのなら、または蹴ったそぶりをしたのなら、とくに深刻な問題はない。そうではなく、その地域において歴史として意味の深い像を蹴った(そぶりをした)のであれば、その蹴った(そぶりをした)という行為(表現)には、より大きな意味づけがされることになる。記号性がおきる。

 謝罪をしないのと比べれば、謝罪をしたことは、よいことではある。しかし、蹴ったそぶりをしたことをもとにするのではなく、蹴ったことにして、それを認めたうえで謝罪したほうがよりよいだろう。

 今回の件で、日本と台湾の友情が損なわれることをもっとも憂慮している。団体の代表はそう言っているが、これはどちらかというと像を蹴られた側が言うことではないか。蹴った(そぶりをした)側が友情を損ねるようなことをしたのだし、傍観者のように響く。蹴った(そぶりをした)側が言うのにふさわしいこととは言えそうにない。

 団体の代表は、これから信頼の回復が得られるようにやって行くとしているが、信頼の回復をするためには、いっそ従軍慰安婦のできごとを認めたらどうだろうか。今回の件で像を蹴ったことと合わせて、従軍慰安婦のできごとについても、それがあったことを認めて謝罪する。

 従軍慰安婦のできごとについては認められず、あくまでも像を蹴った(そぶりをした)ことについてだけ謝罪するつもりなのだろう。それとこれとは別だということである。しかし、一つのとらえ方としては、像を蹴った(そぶりをした)ことで、罪の上塗りをしてしまったのがある。もともと罪があって、そこにさらに罪を重ねてしまった。そのおそれがある。