内容のある伝わりやすい発言をするという点では、国の中央の権力をになう政治家とは天と地の差がある(国の中央の権力をになう政治家は地である)

 沖縄県の県知事が亡くなったという。知事は国の中央の政治家にはっきりとものを言える数少ない人物であったようである。報道機関などに向けて知事が語る発言には、分かりづらいところが少なく、伝わりやすくて実質(中身)のある内容を発しているのが、日本の政治家の中ではきわめてめずらしいものだろう。これはいまの政権与党である自由民主党の要職につく政治家による、わけの分からないごまかしの発言(の連発)が目だつのとはまさに好対照である。自民党の政治家の中にも空疎でないことを言う人はごくわずかにはいるのはあるが。

 沖縄の基地の問題にはあまりくわしくはないのはあるのだけど、これは沖縄の問題として矮小化されてはならないものだろう。広く日本の国民における一般のことがらとして見なければならない。それができていないために、沖縄に一方的に負担を押しつける形になってしまっているものだろう。

 沖縄で基地に反対する人たちを、日本にとってのぞましくないといったふうにとらえてしまうのがあり、これは動機論による忖度である。悪い動機によるとして邪推してしまっているのである。この動機論による忖度をとらないようにするのでないと、沖縄で基地に反対している人たちの声を受けとめることはできづらい。

 日本の中で沖縄は基地の負担などで犠牲になっているわけだが、これは沖縄が可傷性(ヴァルネラビリティ)や悪玉化(スケープゴート)になっていることをあらわす。差別がおきてしまっているのである。この差別を減らして行くためには、よき歓待(ホスピタリティ)をとるようにして、意見を異にする者を受け入れて、異なる声を受けとめるようにする。それができるようにするための見こみはたっていない。日本の社会から少数派または弱者への不当な抑圧や搾取や差別が増えて行くかそのまま(今のまま)であることはあっても、より少なくなって改まって行くというめどはまったくたっていないのがある。

対話はとてもよいものではあるが、それでやっかいなことがらを魔法のように解決するというのでは、話が飛躍しすぎている(やっかいなことがらが解決するに越したことはないが)

 さいごは私自身が金正恩委員長と向き合い、対話を行なう。核やミサイルや、何よりも重要な拉致問題を解決して、新しい日本と北朝鮮との関係を築いていかなければならない。自由民主党安倍晋三首相はそう言ったという。

  あたかも自分をトランプのジョーカーのようにして、最後の切り札みたいにしているが、そんな都合のよいことはおこりそうもない。たしかに、対話はとても大事なものではあるが、何もかもを一挙に片づけられるほどの魔法のようなものではない。たぶん首相はわかっていることだとは思うが。

 日本の国会では、ご飯論法や信号無視話法をさも当然のごとくに首相および大臣たちは用いている。いまの政権与党がもっともやる気をもたず、苦手とすることの一つが対話だろう(もっとも得意とするのが独話である)。とりわけ首相は、少しでも批判を受けるとすぐに、印象操作だ、などと言って論点のごまかしを行なう。直情径行(ちょくじょうけいこう)である。国内では対話をないがしろにすることを平気でやっていながら、国外では手ごわい相手と対話ができるとは見なしづらい。練習をしないでいきなり強敵との本番の試合にのぞむようなものだろうか。

核兵器禁止条約には不参加であると首相は明言しているが、その合理的な理由をあげることはできないのではないか

 核兵器禁止条約には参加しないことを明言する。それを変えるつもりはない。そのいっぽうで、核兵器保有する国と保有しない国の橋わたしに努めて、国際社会のとり組みを主導して行く。世界の中で、核兵器を減らして行く機運を高めて行く。自由民主党安倍晋三首相はそう言っている。

 首相の言っていることは支離滅裂であると個人としては見なせる。首相の本心は、核兵器禁止条約に参加しないというところにありありとあらわれていると見られる。そこに本心があらわれ出てしまっていて、ごまかしようがない、という解釈が成り立つ。

 条約に不参加であることを明言しつつ、核兵器を減らして行くために動いて行くと言うことで、つり合いをとっているつもりかもしれないが、まったくつり合いはとれていず、ちぐはぐである。人によって色々な見かたがあるかもしれないが、条約に参加しないことには強く批判をしたいところである。

権力をになう政党に属する国の政治家が自分で言ったことについて、それが一部から批判されているのがあるので、危機管理をすることがいる(危機に対応することがいる)

 会見を開くつもりはない。性の少数者の人から殺害を予告するメールが来ていて、その中で会見を開くと、危ないからであるという。自由民主党の議員の事務所はそう言っているそうだ。

 性の少数者のことを生産性がないと言った自民党の議員は、性の少数者から殺害を予告するメールが来ているということで、それで申し開きの会見は行なわないとしている。

 身の危険があるということで、それを避けるのはよいのだけど、それとは別に、国の政治家であるのだから、自分が発言したことにまつわる危機管理をやってもらいたいものである。

 自民党の議員は、自分が雑誌の記事や動画などで発言をしたことで、一部から批判の声があがってきているのだから、そのことについての危機に対応をすることがいる。いまのところそれができていないと言わざるをえない。会見を開くつもりはないようだけど、会見を開くのであればそれは危機に対応する一つの行動である。

 性の少数者を生産性がないと自民党の議員がしたのは、まちがったことだというのは、一つの文脈としてはとれるものである。これがすべてであるわけではないかもしれないが、そうであるにしても、社会関係として、一方的にならないようにして、自説を強硬に押し通すだけにしないのがのぞましい。

 雑誌の記事や動画で自説を言ったのがあるわけだから、(物ではないけど)自説を製造したことにたいする一定の責任はあるだろう。国の政治家なのだから、一般の人より以上の責任があるのだと見なせる。自分が製造した自説に、自分の意図がまったく入りこんでいないとは見なしづらい。あらわされた自説と(言った者の)意図の二つがぴったりと合うとする文脈をとることができるのであり、あらわされた自説および意図についての説明責任(アカウンタビリティ)を果たすのがあるとよい。身の危険があるのだとすれば、その中で絶対に会見を開けとまでは言えないのはあるかもしれないが。

一国の国家安全保障(national security)というより、集団安全保障(collective security)をとるようにして、国が核を持ったり軍事力を高めたりしないようにできればよい(個人的な意見ではあるが)

 日本が核の被害国であるがゆえに、核を持つという選択もある。二度とこのような犠牲を国民に味あわせないようにする。そのために、日本を攻撃したらわれわれも攻撃しますよとの意味をこめての核武装論もありえる。テレビ番組で評論家はそう言っていた。

 日本が核の被害国であるからこそ、核を持たないというのならわかるが、核を持つ選択肢もあるというのでは、日本が核の被害国であることと関係なくなってしまっている。日本の歴史の文脈をくみ入れないことになり、負の経験をもつ日本の特殊さがとられないことになる。日本が核の被害国であることをくみ入れるのであれば、核を持たないようにするのがふさわしい。核の被害国であることと、核を持つこととは、接合しそうにない。

 日本は核を持たないとはいっても、アメリカの核の傘に守られているのだから、そこに欺まんがあるのはまぬがれないのはあり、そこは認めざるをえないところである。アメリカの核の傘に守られるよりも、自前で日本は核を持ったほうがよいということも言われているが、それには個人としてはうなずくのはできづらいものである。(自前で)核を持ったり軍事力を高めたりして平和をとるということもまた欺まんにほかならない。

 前提条件を改めて見ることができるとすると、日本が核を持つことによって、国どうしがぶつかり合うことが防げるとは言い切れないのがある。核を持ったり軍事力を高めたりしても、国どうしがぶつかり合わないことを保証するものではない。国どうしがぶつかり合うことおよび戦争を避けるのを目的とするのであれば、その手段として、核を持ったり軍事力を高めたりするのは必ずしもふさわしいものではない。

 もう一つの前提条件として、人間(人類)は核とともに生きて行くことができるのかという問いかけが言われている。この問いかけは重いものであると見なせる。戦争によって日本の広島と長崎は核の被害を受けたわけだが、そのことを重んじるのであれば、人間は核と共には生きては行けないとする見かたが一つには成り立つ。核をなくして軍事力を減らして行くのでないと、平和にはつながりそうにない。現実にすぐにできることではなく、理想にすぎないのはあるが、核を廃絶して軍事力を減らして行くことができればのぞましい。

 核を持ったり軍事力を高めたりするのは、社会状態というよりは自然状態(戦争状態)のほうに近いものである。それぞれの国が核を持ち、軍事力を高めることになれば、人間を含めてほかの生物などがつねに死のおそれにさらされることになる。すでにそうなってしまっているのはあるが、全体として死の世界になっているのである。武器をつくったり売ったりしているのは死の商人だ。

 日本が核の被害国であるというのは、たんに日本という一つの国の話とは言えず、広く世界の全体のことであるという見かたがとれる。日本は核の被害国であるのだから、核を持つという選択肢とは接合できず、核を持たないというあり方をとる。じっさいにはアメリカの核の傘に守られているという欺まんはあるが、その現実とは別に、理想としては核を持たないというのをとることができる。これはたんに日本という一つの国がそうしたあり方をとるということではなく、世界の全体に広げることができるものである。

一強であったり、総裁選で自分を支持しない者を干すとおどしたりするので、本当によいのか、というのがないのが実質を重んじるあり方である(メタの視点である中立や形式をないがしろにしている)

 首相のほかにめぼしい代わりがいない。首相による一強(他弱)のあり方である。このことと、自由民主党の総裁選で、首相とそのとり巻きが自分たちを支持しない者は干すとおどしているとされるのは、通じていると見なすことができる。

 たしかに、首相とそのとり巻きにとってみれば、一強であるのに越したことはないだろうし、総裁選ではのどから手が出るほど勝ちたいのはあるだろう。しかし、話がそこで終わってしまうのであれば、まずいことになるのがある。

 首相のほかにめぼしい代わりが見あたらないことと、自民党の総裁選で首相らが自分たちを支持しない者を干すとおどしているとされることは、同じ系列のものだと見なす見かたが成り立つ。一方がまずいものであるのなら、他方もまたまずいものである。

 どこにまずいことがあるのかというと、一つには、中立(メタ)にならないのがあげられる。中立をないがしろにして実質をとってしまっているのである。中立の視点をないがしろにしてとらないから、一強のあり方でよいとしてふんぞり返っているのだし、総裁選では自分を支持しない者を干すのだとおどすとされることをするようになる。

 中立のよさと実質のよさというのがあると見なせるとすると、かりに二つ目の実質が五点満点中で五点だとしても、中立が〇点であれば、五点にしかならない。一つ目の中立の視点をないがしろにしてとらないようだと、どんなに実質を重んじたとしても五点より上には行かない。そこに限界がある。

 実質のよさというのは、かけがえがないということだけど、かけがえがないのは危ないものである。かけがえがあるのを前提条件にするのが中立であり、それのほうが安全である。いざというときのかえがあるからである。いざというときにかえがあるようにしておくのは中立の視点をとることであり、それをしないのは実質をとることになる。実質をとると中立の視点を欠く。

 本当はかけがえがあるのにもかかわらず、あたかもかけがえがないかのように見せかけるのだとすると、なおさら悪い。いんちきになっているのである。それを避けるためには、中立の視点をもつようにするのがのぞましい。見切りができなければできないほど実質をとることになり、それを(やるべきときに)さっとできるほど中立の視点をもつことになる。見切らないのは実質をとることであり、それはそれで頭から悪いことではないのはあるが、欠点もあるのはまちがいない。

 欠点として、実質を重んじるのには、確証(肯定)の認知のゆがみになりやすいのがある。反証(否定)をとりづらくなる。かけがえがないのだということになると、確証によって肯定をしがちになり、反証で否定をするのができづらい。

 首相は政治でとり沙汰されていることで、膿(うみ)を出すと言いつつ、じっさいにはまったくやっていないわけだが、これは実質をとっているのをあらわす。もし中立の視点をとるのであれば、自分で言ったことである膿をじっさいに出そうとするはずだ。

 膿というのは、権力に内在している否定の亀裂であり、それを否定することで、隠ぺいや抹消することになる。権力に内在している否定の亀裂におおい(cover)をして見えなくしているが、そのおおいをとり去れば(discover)穴が空いているのを見つけられる。おおいをかけることによって、つくられたいんちきの一強となり、かけがえがないのだとなる。しかしこのかけがえのなさは、見せかけのものにすぎず、幻想の産物である虚偽意識(イデオロギー)にほかならない。

自虐史観におちいらないようにする歴史修正主義(自由主義史観)は、大本営発表のくり返しのおそれがある

 自虐史観ではない歴史をあらわす。それで新しい歴史の教科書がつくられている。自虐におちいらない歴史をあらわすということだけど、その中で、言葉の言い換えが行なわれているのだとしたら、戦前や戦時中に行なっていたこととまったく同じことをやっていると言わざるをえない。

 戦時中には、国は国民にたいして、敗北や退却であるのにもかかわらず、そうとはせずに転進(スピンアウト)または玉砕なんかと言っていたという。侵略のことを進出としていた。本当のことを言わずに、国民をだましていたのである。そこから反省するのならまだよいが、同じことを戦後にもまたくり返すのだとしたら、失敗が生かされてはいない。

 言葉の言い換えは、いまの政権与党である自由民主党によってさかんに行なわれてしまっている。国会では、ご飯論法や信号無視話法がさも当然のことであるかのようにして政権与党によって用いられている。これは、戦前や戦時中に失敗したことから学習していないのをあらわしている。戦前や戦時中のあり方に回帰してしまうのではなく、否定しなければならないものだろう。

東京五輪のために基本的人権を制限したり規制したりするというのは、受け入れがたいものである

 二〇二〇年に開かれる東京五輪では、基本的人権の制限も必要だ。テレビ番組の中で評論家はそう言っていた。基本的人権が許される枠の中で、あるていどの義務を負うべきだとのことだ。別の出演者は、あるていど規制して監視社会にしないともたないと言っている。

 この発言にたいして、またちがう出演者は、基本的人権の制限はよほど慎重でないといけないとしている。日本においては、非常時に制約したものが日常化する懸念があるとのことだ。

 東京五輪のために、基本的人権を制限したり規制したりするという発想は、うなずけるものではない。基本的人権は制限したり規制したりできないものであり、一人ひとりの人間からうばってはならないものだろう。それを制限したり規制したりすることができるというのがちょっと分からないところだ。

 東京五輪のために基本的人権を制限したり規制したりするのであれば、東京五輪のもよおしは人権の侵害であるということができる。東京五輪のもよおしは憲法に違反しているという見かたが成り立つ。憲法に違反しているもよおしを行なうのは許されるものなのだろうか。

 たしかに、東京五輪では、テロなどが危ぶまれるのはあるのだろう。それが危ぶまれるのがあるのだとしても、そこから基本的人権を制限したり規制したりするというのだと、飛躍していると言えるだろう。テロなどを防ぐために、基本的人権を制限したり規制したりする必要性が定かではないし、許容できるものとも言いがたい。もっと前の段階で色々とできることがあるだろうから、それをやるのでないと、基本的人権を持ち出す正当性はないだろう。

 テレビ番組の出演者は、監視社会にしないともたないということを言っているが、理想としては監視社会にしなくてももつ社会にするべきである。東京五輪のもよおしのために監視社会にするというのは必ずしも結びつくものではないし、国家の公を肥大させてしまう危なさがある。戦前や戦時中は、国家の公があまりにも肥大してしまったために、みながみなを監視し合うようなことになり、個人の私はとれなくなったのがある。国家の公ではなく個人の私をとることができるようにするのが、基本的人権をとることである。

 テレビ番組の出演者は、基本的人権を制限したり規制したりするのがいるとか、監視社会にすることがいるとかと言っているが、それとは逆に、東京五輪のもよおしをきっかけにして、基本的人権をもっととれるようにするべきである。いまの日本の社会は、政権与党である自由民主党による失政の影響もあり、社会的弱者や経済的弱者にはとりわけ生きづらいものになってしまっている。そこを改めることができればよい。

 東京五輪のもよおしをやることはすでに決まっているが、それをやるにせよやらないにせよ、基本的人権は一人ひとりの人間においてもっととられるようにしないとならない。建て前のきれいごとを言うのにすぎないのはあるが、そこは言っておきたいところである。

自由民主党が偽証についてを定めた見かたは、適したものであるとはできづらい(受け入れられない見かたである)

 記憶に忠実な陳述であるかぎり、偽証には該当しない。自由民主党の与党筆頭理事は、そう述べている。いぜんに財務省事務次官でかつ国税庁の長官だった役人を、偽証の疑いで告発したくないことから、自民党は偽証についての自分たちの見かたを示している。

 自民党が示した偽証についての見かたを、野党の議員はおかしいとしている。記憶のかぎりではという枕ことばをつけさえすれば偽証にならないことになってしまう。記憶のかぎりではという枕ことばをつければ、記憶に忠実な陳述だと見なせるのである。

 記録とはちがい、記憶はあいまいなことがあるのだから、記憶に忠実な陳述をしたとしても、あいまいなことを言っただけになることがある。記憶を持ち出したとしても、それはあいまいであり疑わしさを完全にはまぬがれない。それによって偽証を定めてしまうと、あいまいなものになる。

 自民党は偽証についておかしな見かたをしているが、そうした見かたをしてしまうと、ものごとをぼやけさせてしまう。ものごとをはっきりとさせることのさまたげとなり、有害にして無益である。偽証についての見かたでは、ものごとをはっきりとさせるという目的をとるのがふさわしいだろう。

 自民党が示した偽証の見かたは、反転可能性の試しがまるでなされていないものだろう。その試しをするのがないと、ほかのところで通用しないものになるから、説得性が低い。ほかのところで通用するものでないと、二重基準になってしまうから、特殊な見かたにすぎないことになる。その場をしのげればといった場当たり的なものになる。

 記憶に忠実な陳述であるかどうかは、客観で確かめようがなく、あかしを立てることはできそうにない。主観のものにとどまっている。たとえ記憶に忠実な陳述であったとしても、不整合なものであればみなが納得するものにはなりづらい。それで偽証ではありませんと言ったとしても、はいそうですかとうなずくことにはならないものである。

 自民党の示した偽証を定めた見解は、とうてい受け入れられるものとは言いがたく、まちがったものであると見なすしかない。記憶に忠実な陳述であるのを根拠にして、それで偽証ではないというふうになるわけがないのだから、おかしな見解であると言える。偽証であるかないかは、他との開かれた話し合いのやりとりをすることの中で少しずつ見えてくるものだろう。

自由民主党によるいまの政治の世界と似ていて、その縮図のようであり、符合するところが少なくない

 日本ボクシング連盟の会長は、助成金を不正に流用したとして報じられている。試合で一方の選手に有利になるように判定を裏で動かしていた疑いも言われている。会長は、悪いことは一切やっていないとして、辞任するつもりはなく、このままつづけて行くのだという。

 この会長は終身会長ということで、これはアマチュアでは異例であるそうだ。ずっと会長でいつづけられるものだろうから、権力を手ばなしたくない思わくがうかがえる。権力によって支配をするのと共に、権威主義になっているのがある。自分は世界のカリスマとして名を知られていると自分で語っていた。権威主義のあり方において、いざことがおこると、会長(リーダー)が注目のまとになり、いままでの安定が崩れて、不安定になる。これは決してよいことではない。いまの政治の世界にも言えることである。いまは首相によって虚構の安定が形づくられている。

 選手が勝ち得た成果を、あたかも連盟の手がらのようにしているのがあり、恩に着せているのははたから見ておかしいものである。連盟は選手を支えるのは当たり前のことであり、それを選手に恩着せがましくしてしまっては駄目だろう。選手が勝ち得た成果はあくまでも選手のものなのであり、連盟は主役ではないのだから、手がらを横どりするのは主役とわき役をはきちがえているとせざるをえない。

 会長の人物像というのがあったのだけど、方針として、よきものは残して改革するべきものはいかなる弊害があれどもなし遂げる、としている。この方針をとるのであれば、会長はすみやかに職を辞するべきだろう。報道で色々と報じられるのや、会長の弁明の内容を少し見たかぎりでは、まったく白というふうには見なしづらい。

 会長は弁明の中で、自分が声をかければ何千人も人を集められるだとかという変なことを言っている。会長を訴えた訴訟では数百人ほどの人の数だが、それよりも多くの人を集められるという。どれだけの人を集められるかの数によって正しさが決まるわけではなく、たとえ数が相対的に少なかったとしても正しいものは正しいだろう。何千人も人を集められるといっても、日本には一億人以上の人がいるのだから、その中の何千人はそこまで大したものではない。

 五輪のボクシングの競技で金メダルをとった選手を、会長は自分や連盟のおかげで金メダルをとったとして恩に着せてしまっている。会長や連盟は、選手が金メダルをとるのに力を貸したのはあるかもしれないが、選手が今回の件で批判の声をあげるのはそれとはまた別の話である。いぜんに力を貸してもらったから、おかしなことがあっても黙っているというよりは、黙らずに声をあげるほうがまっとうだ。

 五輪で金メダルをとった現役の選手からも批判の声があげられているのがあり、これを無視することは難しいものだろう。危機管理の点でいうと、会長が職を退くことがまず第一歩であるとはた目からは見なせる。危機に対応するためには、ほかの人に地位をゆずり、新しい人が改革に着手するのがふさわしいのがある。ボクシングの世界とは別に、政治の世界では、公文書の改ざんなどをおこした財務省は、責任者である大臣がずっといすわりつづけていて、また改ざんとまったく無関係ではないにもかかわらず、総理大臣も責任をとらないで、膿(うみ)を出そうとはせず、そのまま平気でいすわりつづけてしまっている。同じ穴のむじなといったところだろうか。