石破氏が講演の中で言っていることはまっとうだというのがある

 とりわけ少数派の国民にたいして、生産性がないと言ってはいけない自由民主党石破茂氏は、講演の中でそう言ったという。雑誌の記事や動画などにおいて、性の少数派である LGBT には生産性がないと言ったのは自民党の議員の一人だが、これを許すのは自民党の中に多様性があることではないし、懐が深いことでもない。石破氏はそう述べている。

 石破氏は自民党の元幹事長だったそうだが、いまの幹事長が言っていることと比べると、石破氏の言っていることのほうがまっとうである。元幹事長である石破氏はまっとうなことを言っているが、いまの幹事長はおかしなことを言っていると個人としては見なせる。生産性がないと言った自民党の議員を、自民党には色々な議員がいるとして、許容してしまっているのである。党の中に偏りがあるのにもかかわらずそれを隠ぺいしてしまっている。

 自民党の総裁選では、首相をよしとせずに対立する者は、党の中で冷遇するということが言われている。これは首相とそのとり巻きによる思わくだと見られる。石破氏はこれについて、力関係の嫌がらせ(パワー・ハラスメント)だとして、のぞましいことではないとしているが、まさにその通りだと言うしかない。

 当然のように総裁選において首相とそのとり巻きによるパワー・ハラスメントが行なわれているのは、自民党の中に社会関係がいちじるしく欠けてしまっているのを示しているものだ。社会関係がないので、説明責任も果たさないのである。本当はもっとちがったふうであるにもかかわらず、パワー・ハラスメントがとられることで、つくりごとの擬制(フィクション)が成り立つ。うわべの幻想(フェイク)による権力の構造だと言ってさしつかえがないものだろう。

自由民主党の議員は、雑誌の記事の中で、ある人がこれ(このまま)でよいのだとするのではいけないというふうにしているが、なぜこれでよいとするのを否定するのだろうか(基本としてはこのままでよいはずである)

 同性愛のままでよいのだという不幸な人を増やすことになる。自由民主党の議員は雑誌の記事の中でそう記しているという。同性愛の人は不幸であると受けとれるものである。これは、かつての東京都知事が言っていたことをほうふつとさせるようなものである。

 新聞社のコラムでは、同性愛の人が不幸であるとすれば、それはとり巻いている社会が悪いのだとしている。原因は社会にあるのだということである。社会にあるとともに、与党の政治家は権力をつかさどっているのだから、そこにもまた原因を求められるだろう。

 ある人が幸福か不幸かはさまざまであるだろうし、色々な要因によっている。それを一側面をとることでいっしょくたにひとくくりにするのは危ないものである。社会的偏見をうながしかねないものであり、まちがった一般化をしてしまっている。

 人は幸福追求の権利をもつと憲法ではうたわれている。自民党の議員は、政治家であるのなら、それを尊重するようにしないとならない。ある人を不幸であるとして決めつけるのはもってのほかのことであり、もし不幸であるとするのなら社会の問題であるのだから、解決されなければならないものだろう。

 自民党の議員は、ほかにも、なぜ二つの性では駄目なのか、というふうに記しているという。これにかんしては、二つの性だけでは概念の引き出しが少なすぎて、足りないのである。二つの性によるだけではなく、もっと概念の引き出しを増やさないと、現実のありようをとらえることはできづらい。概念の引き出しが少ないのは、認識が貧しいことである。相対的なものではあるが。

 自民党の議員は、二つの性というのを普通のことであるとして、そうではないのを普通ではないこととしてしまっている。普通であるというのは、自然であることとして、神話作用がはたらいているものだろう。普通であるとか標準であるというのは、えてして上げ底になっていて、じっさいよりも価値がかさ増しされている。それを差し引かないとならない。普通や標準というのは、絶対の価値をもつとまでは言えないものである。または一元論としてこういうふうにも言えるだろう。普通であるのと、とても普通であるのがあるとできる。これは、精神障害者の施設であるべてるの家で用いられているものであるという。

人事権のあるなしではなく、そのあつかい方がきわめておかしいし、財務相の(人事について)思っていることには大きな問題がある

 大臣の認識として、今回の人事は最善のものか。報道機関がそう問いかけを投げかけたら、自由民主党財務大臣はこう受け答えた。(最善だと)思ったから私が任命した。人事権はあなたでなく俺にある。

 たしかに、人事権は報道機関の記者にではなく財務相にあるだろうけど、そういう話をしているのではないものだろう。人事権があるからこそ記者は財務相に人事についてを聞いているのであり、もし記者が人事権をもっているのなら、財務相が記者に人事についてを聞けばよい。

 財務相は、人事について、いちおう簡単には説明をしているが、それはきわめて不十分で不適切である。はた目から見たら、最善であるはずはなく、最悪と言ってもさしつかえがないものなのだから、思ったからだとか俺に人事権があるからだというのではまるで答えになっていない。

 俺に人事権があるといっても、それは国民からかりに付託されているだけにすぎないものだろう。国民にたいして十分に納得できるだけの説明をする責任があるはずである。公的な人事の権利があるからこそ説明をつくす責任(義務)がある。それを放棄して開き直ってしまうのはいただけない。民主主義を放棄していると言ってよいものである。にらみをきかせることで、記者が権力チェックで追求するのを放棄させてしまってもいる。財務相のふるまいは、いまの自民党のあり方を象徴しているものだが、いちじるしいごう慢(ヒュブリス)と退廃におちいっているのだと言わざるをえない。

東京五輪で学生などからボランティアを募るのは、社会の負のからくりが透けて見えるようである(支払うべきところにきちんとした報酬を支払っていない)

 二〇二〇年にもよおされる東京五輪の期間のあいだは、授業を避けてほしい。大学や専門学校に国はこうした通知をしているという。ボランティアの活動に学生が参加しやすいようにするためだとされる。ボランティアとは言いつつも、じっさいには学生をただ働きさせるのにちがいないものである。

 東京五輪は、ボランティアすなわちただ働きをする人がいないと成り立たないもよおしだと言ってさしつかえがない。ボランティアすなわちただ働きさせられる人は、ほんらいであればきちんとした報酬が支払われるべきだが、それをしたら東京五輪は成り立たなくなってしまう。東京五輪は、ボランティアすなわちただ働きさせられてしまう人たちから、ほんらいであれば支払われるべき報酬を不当に搾取することで成り立っていると見られる。これは東京五輪にかぎらず、社会や国の全体のあり方を象徴するものだということができる。

差別している人を差別するのも差別だというと、対人論法のようになりかねず、論点がずれてしまいかねないのがある(最初の差別が論点としてある)

 差別している人を差別してしまっている。差別は怖い。お笑い芸人の人は、ツイッターのツイートでこうつぶやいていた。差別している人を差別してしまうのもまた差別なのであり、差別は怖いものだということだろう。

 このつぶやきの前提条件を見てみると、差別はいけないことだというのをとっている。差別はいけないことなので、(差別をしている人を)差別してしまっているのに気づいて、それを怖いというふうに言っている。

 前提条件として差別をいけないことだとするのであれば、差別している人の差別をそのままにするのはのぞましいことではない。差別している人を差別するのもまた差別ではあるけど、これを言うと切りが無くなるのがあるので、共通しているものである差別ということを見て行くことがいる。それがいけないことだというのに立ち戻らないとならない。

 差別している人というよりは、差別という行為を見るようにして、人と行為を分けて見るのはどうだろうか。罪を憎んで人を憎まずというふうにして、差別をしている人というよりは、その行為を憎むようにする。それで差別の問題を見るようにすることができればよい。

国民と権力者(政治家や公務員など)は同列ではないし、憲法の義務を持ち出すのであれば、いかに権力者が憲法を守れていないでないがしろにしてしまっているかを指摘することがいる

 憲法で定められた国民の義務は、勤労と納税と、教育を受けさせることである。それらの義務を果たしていれば、権利を主張してよい。どのような生き方をしても、どのような考えをもっても、犯罪でさえなければ個人の自由である。自由民主党の議員はツイッターのツイートでこう言っていた。

 自民党の議員はツイートのつぶやきで国民の三大義務を言っているが、それを持ち出すのであれば、憲法の三大主義をまず言うべきだろう。三大主義の一つには基本的人権の尊重があるのであり、これは義務を果たすことと交換で権利が与えられるものではない。基本となる人間としての権利はすべての人にはじめから与えられているものである。

 憲法で国民に課せられる三つの義務があることはたしかだけど、その義務さえ果たしていれば、どんな生き方や考え方をしてもよいとは言い切れない。国民についての話と権力者についての話がごっちゃになってしまう。政治家や公務員などの権力者は憲法をしっかりと守ることがいるのであり、どんな生き方や考え方をしてもよいとは言いがたい。権力者は、生き方や考え方が、最高法規である憲法の枠の中でというふうに制限されることになるから、国民の三大義務を果たせばそれでよいとは見なしづらいものである。

 たとえ悪気はないのだとしても、国民にたいしてとやかく言う前に、とりわけ与党の自民党に属する議員の人たちは、しっかりと憲法の決まりを守るようにしてもらいたいものである。それがしっかりとできていないでいい加減になっているのだから、政治家や公務員などの権力者は憲法を守ることをまず第一にしてほしいのがある。

 国民が自由になることと、政治家や公務員などの権力者が自由になることとは、一致するものとは見なしづらい。あたかも国民と政治家や公務員などの権力者が同じであるかのように見なすのはおかしいし、たんに犯罪をしなければよいというのは国民については当てはまるものだが、政治家や公務員などの権力者にはさらにそのうえに憲法の決まりによる歯止めがかかることがいる。その歯止めが今はかなりがたがたになってしまっていて、退廃が深刻になってしまっている。一般人に近い人には厳しくて、権力者(とそのとり巻き)には甘くなっているのがあり、不正義な二重基準が大手を振ってまかり通っている。

とんでもなく暑い日だったのにもかかわらず、戸外で部活動をやっているのが危ないのがあった

 救急車が道路を走っていて、コンビニエンスストアの駐車場に止まった。そのコンビニの外のベンチには、炎天下の暑い気温のさなかだったこともあり、熱中症で体調が悪くなった人がいたようである。このコンビニのすぐそばには、公園があり、その中にはテニスコートがあって、学生が部活動で試合をしている。大きな声援が投げかけられていた。

 熱中症になった人は、テニスをしていた人だと察せられるが、それは無理もないことだというのがある。戸外の強い日ざしと異常な高温の中でテニスをしていたり観戦をしていたりすれば、体調がおかしくなるのをまねきやすい。

 どんなに暑い気象の中であっも、テニスなどの運動をすることは自由ではあるかもしれないが、正直言って、気が狂っているのではないかという気がしなくもなかった。テニスをしたり観戦をしたりしている部活動の学生や関係者の中で、熱中症になってしまった人も出たわけだし、それはたいへんに危険なことである。

 熱中症というのは甘く見られるものではなく、すごくひどければ死んでしまいかねないし、重とくな障害に見まわれることがある。いざそうなったとしたら、誰が責任をとるのかというと、日本の社会では、まったく誰も責任をとらないのである。テニスに限らない話ではあるが、そこのところを改めることがいるのがある。

権利と特権はちがうので、権利についてはもっと認められることがあってよいものだというのがある

 さまざまな性の指向を認めると、同性婚を認めるのだけにとどまらないことになる。兄弟婚や親子婚やペット婚や機械との結婚をさせろとの声が出てくるかもしれない。自由民主党に属する議員は、雑誌の記事で、こうしたことを言っている。

 さまざまな性の指向を認めるとすると、兄弟婚や親子婚やペット婚や機械との結婚をさせろとの声がおきてくるということだが、やや荒唐無稽な例が入ってしまっている。同性婚を認めるのと、兄弟婚や親子婚やペット婚や機械との結婚をさせろとの声は、いっしょくたにしてしまわずに、それぞれを分けて見るようにすることができる。

 さまざまな性の指向を見て行くさいに、同性婚という一つを認めることで、そのほかの極端なものまで認めることになりかねないというのは、滑りやすい坂道の論法だろう。これは詭弁につながってくるところがあるので、そのままうのみにすることはできづらい。一つを認めることで、ほかの極端なものまで認めなければならないことには必ずしもならないのだから、一つひとつを見て行けばよいものである。

 一部から叩かれている自民党の議員は、雑誌の記事の中で、このようなことも言っている。常識やふつうであることを見失って行く社会は、秩序がなくなり崩壊してしまいかねないという。結婚の制度でいえば、男性と女性との結びつきが常識でありふつうであることだというのだろうが、これを改めて見れば、つくられたものであり、擬制(フィクション)であるのはいなめない。現実にはほころびがおきていて、うまく行かなくなってしまっている。家庭の崩壊というのは決してめずらしい例ではない。

 結婚の制度はつくられたものであり擬制であるのだから、常識やふつうであることとは必ずしも言えそうにはない。自民党の議員が雑誌の記事の中で言っていることは、一つの見かたとしては成り立つだろうが、それとは逆の見かたもまた成り立つ。秩序が人々にたいして抑圧としてはたらくのであれば、それをそのままにするのではなく、改めるのは一つの手である。

 常識やふつうであることをとるのではなく、それらをカッコに入れるようにして、疑うことがあれば有益である。常識やふつうであることは、それにしたがっていればよい方向につながるのを必ずしも保証するものではない。逆に悪くなることもあるのだから、その点に注意することがあるのがのぞましい。常識やふつうであることは、たんにある集団や社会の中でそう見なされているのにすぎないものであり、それを唯一にして絶対の価値とすることはできづらい。内において常識やふつうであることは、外から見れば非常識やふつうではないことになることがあるから、相対化して限定することが大切だ。常識やふつうであることは、それを自然なものとする神話作用がはたらいていることがある。

党の中に色々な人たちがいて、なおかつ開かれているのなら、重大な問題だとして問題視をする人がいてもよいはずであり、問題視をする人としない人とのあいだで議論をするのがあってよいはずである

 人それぞれで色々な政治の立ち場がある。色々な考え方や人生観がある。自由民主党の幹事長はこのように述べている。一部から叩かれている自民党に属する議員の主張を問題視しないつもりであるという。

 幹事長はさらに、自民党は右から左までさまざまな議員が集まっていて、その中での主張だと受けとめているとしている。また、社会の中でつらい思いや不利益をこうむる人が出ないように、多様性のある社会にすることがいるとしている。そのような社会にするために努めて行くという。

 つらい思いや不利益をこうむる人が出ないように、多様性のある社会にするように努めるのであれば、叩かれている自民党に属する議員の主張を問題視しないのはちょっとおかしい。問題視するべきなのではないか。

 幹事長は、多様性のある社会にするのが大事だとして、そうなるように努めて行くとしているが、その前にまず自民党の中で多様性があるようにするべきだろう。いまの自民党に多様性があるのかと言えば、きわめて乏しいあり方になっているのだと見うけられる。首相のまわりにはイエスマン太鼓持ちばかりがいるようになっていて、それが党の全体のあり方になってしまっているのが見てとれる。

 自民党の中の多様性はおそらくきわめて乏しいものだろう。それがあらわれているのがある。叩かれている自民党の議員の主張が、もし党や首相にとって都合の悪いものなのであれば、すぐに押さえつけられるはずだが、そうはなっていない。これは自民党の中で右から左までさまざまな議員がいるからではなく、自民党の支持団体(日◯会議など)にとってさして都合の悪い主張ではないから、たんに黙認されているだけである。

 叩かれている自民党の議員は、性の少数派である LGBT には生産性がないとはっきりと言っているが、すべての自民党に属する議員の人たちが同じ見かたをしているのだとは言えそうにない。そこは、幹事長が言うように、全員が完全にまったく同じ見かたをしているのではないということでは、色々な見かたをもっている人がいるのは認められる。

 一般論として、かりに自民党の中に色々な政治の立ち場や人生観や考え方をもっている人たちがいるのだとしても、それでよしというふうには見なしづらい。それをよしとしてしまうのであれば、極端に言えば、ナチス・ドイツのようなあり方をよしとすることにつながる危うさがある。色々な見かたをする色々な人たちがいるというのは悪いことではないが、それだけでは駄目なのであり、できれば批判としてやりとりをすることがいる。それをしようとしないのであれば、社会関係(パブリック・リレーションズ)をとらないことになる。いまのところ、自民党のあり方は、それをろくにとっていないのがあるので、改められたほうがのぞましい。

理不尽に生徒からお土産をとり上げた国は、ひろく国民一人ひとりにたいして、人を人とも思わないようなことをしているのだと言うことができる

 朝鮮へ旅行に行った生徒たちが、お土産をもって帰ってくる。そのお土産を、関西空港の税関は没収したという。お土産を没収された朝鮮学校の生徒たちは、つらい思いをして、泣き崩れる生徒まで出たという。あまりにひどいしうちである。

 税関は生徒からお土産を没収したわけだが、これは北朝鮮への経済制裁のためであるという。経済産業省の許可がないと輸入品は日本に持ってくることができないとしている。そうであるのなら、経済産業省はなぜ例外として特別に許可をしないのだろうか。許可をしないのはおかしな話である。許可をしないのならしないということで、事前に生徒たちに言っておかないとならない。

 北朝鮮への経済制裁のために、輸入品を日本に持ってくるのを禁じているとのことだが、それは国と国とのことがらであって、人間としての生徒には何の罪もないものである。何の罪もない生徒にひどいしうちをするのは、ほめられたことではなく、日本の国がまちがったあり方をしているのを示している。

 せっかく朝鮮へ旅行をしたのにもかかわらず、そこから日本に帰ってきて、もらってきたお土産を日本の税関でとり上げられてしまい、生徒たちはどれほどのつらい思いをしたことだろう。それをおもんばかるのは偽善ではないものだろう。朝鮮学校の生徒たちに日本の税関がしたしうちは、生徒たちに限定されることではなく、広く日本の国民の全体に当てはめられるものである。生徒たちに限ったことではなく、日本の国のあり方として、国民一人ひとりのことを十分に生かすようにはなっていないことをあらわしている。人の心をふみにじるようないちじるしい不正義を国はなしたのだと言わなくてはならない。