ウェブにおける特定の属性のものにたいする嫌がらせは、社会の中の全体における生きづらさや閉塞感を暗示している

 女性の議員は、差別にあいやすい。ウェブにおいていやがらせを受けやすいのがある。ソーシャル・ネットワーキング・サービスツイッターなんかでは、女性の議員はより叩かれやすいというのはあるだろう。それについて、ツイッターでは、何か具体の対策がとられているのかといえば、とくにとられているのでもなく、放置されているようだ。

 女性の議員のすべてというわけではないかもしれないが、その多くにおいて、社会的偏見(social bias)やステレオタイプがはたらいている。それでしつような嫌がらせにあってしまうのではないか。ほんらいであれば、こうしたことについて、ツイッターは、何らかの対策や倫理観を示すべきだが、積極的に手が打たれてはいない。

 ツイッターとともに、じっさいの現実では、女性の議員に下着などの物品を大量に送りつける嫌がらせがおきている。こうしたことがおきるのは、特定の属性のものが、可傷性(ヴァルネラビリティ)をもちやすく、悪玉化をされやすいことを示している。特定の属性の人から、言動の自由を不当にうばいとってしまいかねないものである。ウェブのサービスや現実では、それについて積極の防止策がうたれていないので、差別の言動がまん延してしまっていて、自由が損なわれてしまっている。これを重大な問題だと見なして、できるだけ早急に何とかできればのぞましい。

いまの政権による政治のスキャンダルについて、それをより上位のメタの視点から見ることができるとすると、より有意義になることが見こめる

 森◯学園や加◯学園のことについては、それそのものが悪いというのがある。悪いというのは、主として政権与党が悪いということである。しかしそれだけではなく、さらに上に向かうようにして、より上の視点から見ることもいる。メタの視点に立つようにする。また、問題の所在を見ることもいるだろう。

 メタの視点に立ったり、問題の所在である根本の趣旨を見たりすることができるとすると、政治の腐敗というものに行きつく。毛沢東は矛盾論において、目の前の矛盾を見るのではなく、その背後にあるより大きな主要矛盾を認知しなければならない、と言ったという。目の前には森◯学園や加◯学園のことがあるとして、その主要矛盾に当たるのが、政治の不正や腐敗なのではないだろうか。それとともに、無法(アウトロー)や脱法や、短絡による悪もある。

 政治の不正や腐敗や、法をないがしろにする問題がある。それが主要矛盾に当たるとすると、それがおきてしまうことについて、構造として見るようにしなければならない。構造や体系として見るようにして、それで改めるための手だてをうつ。それができればのぞましい。改めるようにすることは、高次学習を行なうことであり、それはいまの政権による合理性をとり止めるようにすることだろう。いまの政権をよしとしているかぎり、低次の合理性にとどまりつづけることになってしまうのが危ぶまれる。その点については、ほかのさまざまなちがう見かたがとれるものではあるかもしれない。

イデオロギー(嘘)と悪運によって党内の多数派は勝つにすぎないのだから、たとえ負けて冷遇されるのだとしても、勝つもの(多数派)を批判するほうが正しくなりやすい(悪魔の擁護者になるべきである)

 負けた派閥は、冷遇を覚悟するように。自由民主党の副総理兼財務相は、そのように言ったという。自民党の中で、勝った派閥は厚遇されて、負けた派閥は冷遇される、ということだろうか。そうであるとすると、むしろ、冷遇されるからこそ正しいのだ、ということが言えはしないだろうか。正しいものというのは、えてして周縁に追いやられてしまうものである。中心にとって都合が悪いからである。

 勝つというのは数の力(その他の力もあるだろうけど)によるものだけど、力というのは正しいということを必ずしも意味するものではない。力(might)と正しさ(right)は切り分けて、別々にして見るのがふさわしい。経済の世界で勝っているのが大企業だけど、大企業のやっていることが正しいとは見なしづらい。まちがっていることをやっていながら勝ってしまったり力を持ってしまったりすることはざらにある。

大きな物語として見るのではなく、それを相対化して、小さな物語として見ることができる(方法論により、テクストとして見るようにする)

 性の被害がおきたことを、一つのテクストとして見られる。テクストとして見るのであれば、一つの角度からだけではなく、いくつかの角度から見られるものである。

 性の被害のできごとを、一つのテクストとして見られれば、一つの筋書きにしばられることを避けやすい。一つの筋書きだけではなくて、いくつかのものが成り立つ。一つの答えに収束させてしまうのではなく、逆に拡散させるようにして、収束するのに待ったをかけられる。

 一つのテクストとして、物語として見るようにすることで、たんに一つの見かたによらないようにする。こうだからこうなったというのは、一つの物語であるけど、これは大きな物語とも言える。大文字の大きな物語はなりたたず、小文字の小さな物語しかなりたたない。絶対論ではなく相対論としてはそれが言えるので、大きな物語になってしまうのを避けられればよい。

 一つの物語において、こうだからこうなったというのがあるが、それとは別のものがあるとすることができる。単一の原因と単一の結果ではなく、多くの原因と多くの結果というふうに見られる。単一の原因と単一の結果としてしまうと大きな物語になってしまう。それを避けるようにすることができればよい。できるだけテクストとして見るようにするようにして、さまざまな角度から見られれば、単一の原因と単一の結果をとってしまうのを防ぎやすい。

親孝行や愛国(国を愛する)というのよりも、個人がどうかというほうがもっとも重要である(個人にもっとも大きな価値がある)

 憲法に、親孝行や、愛国心をもつことを書く。憲法の改正でそれらを書きこむようにするのがよいと、愛知県の前知事は言っていた。

 憲法というのは、国民一人ひとりの自由を保障するものなのだから、親孝行の気持ちをもつ人がいてもよく、もたない人がいてもよい、としたほうがよいだろう。愛国心をもつ人がいてもよく、もたない人がいてもよい。それらをもつかもたないかは、それぞれの人の価値のもち方によるものであり、自己決定によるようにする。

 親孝行の気持ちをもつのは悪いものではなく、のぞましいものではあるけど、そのいっぽうで、社会福祉というのがある。社会福祉によって社会保障の制度がとられているのだから、親孝行というよりもそちらの物理の制度のほうがより重要だろう。

 社会の中で困っている弱者を救うことがいるけど、日本ではそれが十分にできていない。自己責任で片づけられてしまっている。それにくわえて、受益と負担というのがあり、これまでは、低もしくは中くらいの負担で、大きな受益を求めていたが、それができなくなってきていると言われる。そこをどうするのかが問われている。

 親孝行や、愛国心というのは、精神論であるけど、そうした精神論をもつことは、それぞれの個人が自分で決めればよいことだろう。上からどうこう言ってしまうと、父権主義(パターナリズム)になりかねない。親孝行といっても、すべての親がきちんとしているのではなくて、なかには子をしいたげるよくない親もいるだろうから、そういった親に孝行するのがいるのかは一概には決めづらい。

 愛国というのにおいては、すべての国が、いついかなるさいにものぞましいことをするとはかぎらない。国は暴力を独占していて、それで人々を従わせているのだから、正しいことをやっているのでは必ずしもない。愛国というのはイデオロギーにすぎず、それに反抗するのであれば、戦前や戦時中には厳しい弾圧をこうむることになった。国は破滅して、人々は犠牲になり、失敗をした。国を愛することよりも、その過去のまちがいによる大失敗から何を(反面教師として)得るのかのほうがより有益である。

 いまでは抑圧はおもて立っては行なわれていないけど、それは国が自分で自制しているのではまったくなく、かろうじて権力に歯止めがかかっていることによる。その歯止めを与党の政治家は(憲法の改正で)とり払おうとしているのがあるから、危なっかしくてとてもではないが気を許せるものではない。否定と回帰や、禁止と侵犯の二重運動が、国の為政者によってねらわれている。過去の大失敗にまったくといってよいほどこりていないのである。歴史修正主義(自由主義史観)をとっているしまつだ。

 国の政治をになう政治家(権力者)は、国というのをとり払ってみれば、たんなる一人のどこにでもいる(とるに足りない)人間にすぎない。いざとなれば、政治家(権力者)は、国民を見捨てて逃げ出すものであり、最後の最後まで国民の面倒をみるとはおよそ考えづらい。じっさいに先の大戦では敗戦になり、国民のことをおっぽり出して為政者はとんずらした。自分たちに都合の悪い証拠の書類はせっせと焼き捨てた。しばらくのあいだは、国民は自分たちで食べるものを探さないとならなかったという。それをふまえれば、愛国心をもつことに意味があるのかははなはだいぶかしい。国や政治のあり方が、誰も責任をとることのない無責任体制になってしまっているのだ。

残業代が補助金のようなものであるとして、それの額をもっと高くして、残業をさせづらいようにすれば、時間としては長時間労働のまちがいを改められることが見こめる

 生産性が低い人に残業代をはらう。それは補助金を与えることだ。経済学者の人はそう言っていた。生産性の低い人に残業代を出すのは補助金を与えるようなものであり、おかしいことだという。

 経済学者の人はそう言っているが、これをそのまま正しいことであるとして受け入れるわけには行きづらい。そのまま受け入れるわけには行きづらいが、残業というのが常態化しているのを改めるのであれば、残業代の割り増しの賃金を高めるようにすればよい。残業代のことを補助金(のようなもの)だと経済学者の人は言っているが、その補助金の額をさらに高くするのである。

 残業代が補助金のようなものであるとして、その額をさらに高くすれば、使用者はそうとうな痛手を負うことになるので、割りに合わないということになり、残業をさせることができづらくなる。まともな労働のあり方ということで言えば、なるべく残業がないようであるほうがよく、そのうえで生活するのに十分な賃金が支払わるようであればよい。

 残業代は補助金のようなものであり、それを(生産性の低い労働者に)払うのがおかしいのではなく、その額が低すぎるのである。額が低すぎるのを高くしてしまえば、おいそれとは使用者は労働者に残業をさせるわけには行きづらくなる。時間ということで言えば、残業をしない(させない)ですむほうがのぞましい。

 労働者の生産性の低さを責めて、それをうんぬんするよりもまず、きちんとした人間らしい労働の環境を、すべての人に例外なく整えるのを先行させるほうがよい。生産性といっても、それはしょせんは量(定量)のものにすぎず、それよりも定性のほうが重要だ。量のものさしではかって数字で評価するのは単一の世界観による生産中心主義にほかならない。数字でものごと(人など)を評価するのは、ただでさえ労働は楽しいものではないが、なおさら楽しい労働にはなりづらい。

 基本として労働はやらされるものであり、自分からすすんでやるものではない。そこでさらに数字で評価されれば、非人間さがより増す。機械の部品のようにあつかわれ、人間が物のようになり、つらいものである。極端にいえば、それは死の世界である。そういったことから脱して、人間の定性によるそれぞれのちがいなどの質を重んじて、標準以外を排斥しないようにする。非標準を許容できたほうが、人間的である。

絶対に九の数字が書いてある服を着てきてはいけない国会

 九の数字が書いてある服を着て、国会に入る。それはできないことらしく、入り口で警備員の人に止められてしまうそうだ。九の数字は憲法九条にかかわるからだろうか。自由民主党の議員が、野党が行なう(自民党への)スキャンダルの批判にたいして、連想ゲームだなどと言うのがあるが、これこそ連想ゲームのような気がしないでもない。

 九の数字がだめなのなら、数式にするのはどうだろうか。五足す四みたいにする。小数点以下の数字を使えば、わかりにくくなるから、九だとはすぐには見なされづらいかもしれない。または、何かものを九個あつめて、その合計ということで九をあらわす。アルファベットの q もよいかもしれない。そこまでする意味はとくにないだろうけど。

割り切れるとしてしまうと一神教のようになるが、そうではなく、割り切れないものとして多神教(経験主義)として見ることができる

 性の被害を受けたとされる女性と、それをおこしたと見られる男性がいる。その男性は検察から起訴されなかったのがあり、刑事の裁判は開かれていない。そこから、無罪推定の原則を当てはめて見ることはできるだろう。それによって見ることで、男性は無罪となるのかというと、そうとも言い切れないところもある。

 そこで男性を無罪として見てしまうと、女性が嘘を言っているということになり、女性がまちがっているということになるけど、そう見られるとはかぎらない。女性が嘘をついていて、まちがっているとして見てしまうと、こんどは女性を有罪推定の前提で見てしまうことになる。女性を有罪推定の前提で見るのは避けなければならない。

 性の被害を受けたとされる女性と、それをしたとされる男性とで、言っていることが食いちがっている。すべてがすべて食いちがっているのではなく、たとえば性の行為をホテルで行なったのや、途中のタクシーの中で、駅で降ろしてくれと女性が言ったことなどは、男性も認めている事実である。

 女性と男性とで言っていることが食いちがっているところがあるが、一つの見かたとしては、どちらかが本当のことを言っていて、どちらかが嘘をついているのだろう。はたして、どちらが本当のことを言っていて、どちらが嘘をついているのかは、はっきりとは決めがたいところがある。そこについては、寛容の原理を当てはめて見ることができるものである。

 ちょっと非寛容になってしまい、偏ってしまうのはあるかもしれないが、男性の言っていることが、つくった話ではないという確たる根拠はない。つくった話であるおそれもないではない。これは女性についてもまたそう言えるのはあるが、女性の言っていることが、まちがいなくつくった話であると決めつけてはならないものだろう。もしかしたら本当のことを言っているかもしれないと見ることもいる。

 男性の言っていることが、必ずしも本当のことだとは限らず、つくった話であることがあるというのは、中立の見かたとは言えないものかもしれないが、そこは完全には払しょくできないものだろう。自由民主党の議員の人は、男性の言っていることはまちがいなくつくった話ではないとしているようだが、そこについてはそうとは言い切れず、もしかしたらつくった話であると見ることができるから、そうして見るのがふさわしい。そう見ないと、女性の側に陰謀理論を当てはめる、まちがった見かたにつながってしまう。

 男性の言っていることが、まちがいなく本当のことであり、つくった話であるわけがないとしてしまうと、そこから二律背反(トレード・オフ)により、女性を有罪推定の前提で見てしまうようになる。二律背反によって、女性を有罪推定の前提で見てしまうと、一つの教条(ドグマ)となってしまう。それにおちいるのではなく、二律背反に耐えるようなかたちで、どちらをも無罪推定の原則と寛容の原理を当てはめて見ることはできないではない。難しいところはあるわけだけど。

 神の死があり、最高価値の没落があるので、価値の多神教というのがある。価値の多神教では、これが絶対だとか、これが絶対に正しいだとかは決めがたいのがある。男性の言っていることがまちがいなく正しく、つくった話であるわけがないとしてしまうと、一神教のような見かたになるので、それにおちいると危険さが生じる。多神教として、相対的に正しく、相対的にまちがっている(かもしれない)という見かたが成り立つ。

 男性は無罪であるが、それをおかしいとする女性をまちがっているとか嘘をついているというふうにしてしまうと、男性を白として、女性を黒とすることになる。これは仕立て上げてしまっているものである。男性が白だという見かたは一つにはあってもよいものだが、それとは別に、ずらして見ることもできる。黒と決めつけるのではないにせよ、灰色だとして見ることはできる。男性と女性で言うことが食いちがっていて、真相がはっきりとしていないことをくみ入れると、男性を白とは別に灰色(または黒)として見るのは、そこまでおかしなものではないだろう。

海外にとやかく言われたとしても、そこまで過度に気にしないでもよいのではないか(すごくむかつかないでもよいのではないか)

 海外にとやかく言われるのはものすごくむかつく。テレビ番組で、お笑い芸人の人はそう言っていた。これは、日本のサッカー代表の試合のやり方について、海外が批判をしたものについて言っているものである。

 イギリスの BBC は、日本代表の試合について、最後の一〇分間は恥ずかしい展開だったとしている。茶番であるとしている。あぜんとさせられるものであり、次の試合では日本代表はぼこぼこにさせられるのをのぞんでいる、と言っている。

 同じテレビ番組に出ていた別の出演者は、なんでお前(イギリスの BBC)にそんなこと言われないとならないのか、ということを言っていた。なんでお前にそんなことを言われないとならないのかということだけど、それは言われてもよいことなのではないか。というのも、サッカーというのは、イギリスやイタリアが発祥のスポーツだとされているからである。

 日本のサッカーの代表が、すごく悪いことをしたわけではないのはあるのだろうけど、観衆を喜ばすために全力で力を出すというのをおろそかにしたのはあるのだろう。そこの努力を観衆は見たいのがあるだろうから、そこについての努力義務が足りなかったのを批判されることになった。それにたいして、なんでお前にそんなこと言われないとならないのかだとか、海外にとやかく言われるのはものすごくむかつくだとかとしないでもよいものだろう。むしろ厳しい辛口の批判を投げかけられてよいのではないか。それを反骨心をもつためのばねにして、次の試合にのぞめばよいだろう。

 イギリスの批評が、日本の代表はすごいですね、とほめたたえたら逆に反骨心をもちづらいから、理由があるのであれば、厳しい批判というのは必ずしも悪くはたらくとは言いがたい。日本にとってイギリスは他国に当たるわけだが、他国の人(批評家)を満足させられたわけではないようだから、そこは受け入れることもできるものだと見なせる。

仕事がほしいという目的は、とくにおかしいものではないし、その目的をもっているために、逆に弱みとして不当につけこまれてしまうことはありえないではない

 仕事がほしいという目的で、男性と食事をする。そこでお酒を飲み、性の被害がおきた。自由民主党の議員の人は、仕事がほしいという目的で、男性と食事やお酒をともにして、男性をそそのかしたかのように女性を見ているが、これは逆にして見ることもできるものである。

 自民党の議員の人の見かたでは、女性が仕事がほしい目的で、男性をそそのかしたというふうにとらえているようだが、この逆の見かたも十分に成り立つ。性のいやがらせ(セクシャル・ハラスメント)では、男性が女性にたいして何らかのとり引きみたいなのを持ち出したりちらつかせたりすることで、性のいやがらせがおきることがあるという。これは対価型である。

 性の被害がおきたのでは、仕事がほしいという目的で、女性が男性をそそのかしたという見かたがあるが、その逆であるという可能性を見ることができる。男性が仕事を与えるのを口実に、女性にたいして性のいやがらせや性の被害をおこすことは十分に考えられるので、そこを無視することはできそうにない。なので、仕事がほしいという目的で、女性が男性をそそのかしたのだとは決めつけられず、男性が女性に仕事を与えるという名目で、性の行為を強いたおそれがある。

 自民党の議員の人は、女性が男性をそそのかしたと決めつけた見かたをしているようだが、その見かたはひっくり返して逆にすることができるので、そのようにしても見たらどうだろうかというのがある。仕事のうえで、男性のほうがより優位な地位にいたのがあるので、それを活用(悪用)するというのはありえないことではない。