孤島ではいられないというのがあるから、外との交流をすることはいるのであり、それ無しですませられるとするのなら非現実と言えそうだ

 日本は蚊帳の外でもかまわない。むしろそのほうがよい。蚊帳の内にいないで、その外で日本の独自のよいものを生み出して行く。日本は自力の強さをもつことがのぞましい。そうした意見が言われていた。

 蚊帳の外というのは何だろうかというと、一つには疎外であるということができそうだ。疎外というのは狂気にもつながりかねないものであり、危ないものである。必ずしも否定的なものであるとは言い切れないが、一つの文脈としては負の価値をもつものだと見なせる。それを正の価値であるとしてしまうと、戦前のように、(国際連盟から脱退したときの)わが代表堂々退陣す、みたいなふうに、開き直ってしまい、孤立する悪い方向へ進んでいってしまいかねない。

 蚊帳の外にいてもよいのだというのもできないではないが、それに甘んじてしまってよいものとは必ずしも見なせそうにない。そうなってしまうのは、日本の国としての認知の歪みがはたらいていたり、自己欺まんの自尊心がはたらいていたり、現実を誤認していたりすることによるものだろう。これはもっぱら政権与党によるものである。日本の外交が必ずしもうまくいっていないのは、政権が反知性主義であるからだと、評論家の佐藤優氏は言っている。

 蚊帳の外でもかまわないのであり、そこで日本の独自のよいものを生み出したり、自力の強さを身につけていったりする。そうしたことができればよいけど、どうもできるとは見なせそうにない。蚊帳の外でもかまわないというのなら、蚊帳の外に置かれるつらさや苦しさに寄りそうようにしたらどうだろう。国内においても、蚊帳の外に置かれてしまっている人は少なくない。そういう人たちを自己責任であるとして切り捨ててしまっているような気がしてならない。そうした現状があるとするのなら、蚊帳の外でもかまわないというのは、(厳しく言えば)寝ごとのようなものなのではないかという気もする。

 日本という国は、それが実体としてあるというよりは、共同幻想によるものであり、独立して単独であるものではない。ほかの国などとの関係のうえではじめて成り立つものである。ほかの国との関係がないのなら日本という国もまたないものだろう。物理的には資源の乏しさなどが日本にはあるのを無視できそうにない。

 蚊帳の外でもよいのだとするのはわからないではないし、それが絶対にまちがっているというのではないだろう。そうではあるけど、個人的には、できるだけ(もし蚊帳の外にいるのであれば)蚊帳の外にいるのから脱して、蚊帳の中に入れるようにできればのぞましい。国内においても、蚊帳の外に置かれてしまっている人や集団を、蚊帳の中に入れられるようにできればよい。包摂できるようにする。そうしたことが簡単にできるとは見なすことができないのがある。

 変化がしやすいような可塑(かそ)ということや、柔軟性をもってことに当たることが、日本の社会や政権与党にはいちじるしく欠けてしまっていると言わざるをえない。あくまでも個人の意見にすぎないが、可塑性や柔軟性が低いのがある。それらが低いのはのぞましいことではない。そこにさらに連帯(友愛)がもてないのが加わり、人によっては希望がなかなか見えず、光が差しづらい。人間の安全保障(human security)が軽んじられてしまっている。蚊帳の外でよいのだとするにしても、硬直して固定したあり方では、そこで日本の独自のよいものをつくり出すことはできないだろうし、自力の強さをもつことものぞみづらい。

野党の質問者にやじを飛ばしている場合ではないだろう

 自分がしゃべりたいんだよ、この人は。国会の野党の質問者に、副総理はこうしたやじを飛ばしたそうだ。たしかに、野党の質問者は、自分がしゃべりたいことを語っているようにも見うけられる。しかし、そうさせてしまっているのは、副総理や(副総理のとなりに座っている)首相を含めた政権与党のあり方のせいによるのが大きい。

 副総理や首相を含めた政権与党は、国会で野党から聞かれたことにきちんと答えていない。答えるときに、聞かれたこととは関係のないことをしゃべったり、個人の演説をはじめてしまったり、まるで要領を得ないことを語ったりしている。政権与党がこのようなていたらくであるから、野党の質問者は自分がしゃべりたいことを言うのを一つの手としてとらざるをえない。それにたいして副総理はやじを飛ばしたわけだけど、このやじは的はずれなものだと言わなくてはならない。

 政権与党に向けられた疑惑はまだぜんぜん解決していないし、整理すらされていないのだから、疑惑の解明にとり組む時間や労力をもっとかけてよいくらいだ。野党から指摘される前に、自分たちから自主的にすすんで説明するくらいでちょうどよい。おざなりな説明では駄目であり、いちばん納得していない人たちを納得させられるくらいにまで言葉を十分に尽くすことがあるのがのぞましい。

 いまのところ、疑惑の当事者である政権与党の説明は不十分すぎていて、まったくといってよいほど足りていない。そのために疑惑についてきちんと整理されていないので、とり散らかってしまっていて、わけが分からず、ちんぷんかんぷんになっている。子ども(大きい子ども)がおもちゃ箱をぶちまけたようになってしまっている。体系でとらえられていないためだ。公のことがらは、遊びではないし、いちおうは大人なのだから、きちんと自分たちで責任をもって最後まで片づけるべきである。当事者ではない人(野党など)に片づけさせるのはおかしい。

 与党のやることについて、野党が引っかき回しているのがいけないのだ、という見かたもできるだろう。その見かたもとれないではないけど、それとは別に、疑惑の出発点となっているものが何かを見ることができる。

 絶対のというのではないが、一つの出発点としては、首相に近しい人に便益をはかったのではないかというのがある。便益をはかられた学園の経営者が、首相と個人的なつき合いのある人であり、友だちだったというのが出発点にある。なので、利益相反の疑いをもたれてもしかたがないのである。

 疑いをもつのがむしろ自然なのであり、それを払しょくしたいのなら、おかしいことはないということを立証する責任は政権与党にある。おかしくはないことを、過程や手つづきの正しさによって客観として厳密に立証しなければならないのであり、それがきちんとできないのであれば、疑ってくださいと言っているようなものである。プラスでもなく、プラスマイナスゼロでもなく、(友だちづき合いがあったという)マイナスから出発しているのだから、ふつうのとき以上に適正な手つづきや過程をふまないとならない。そのマイナス(マイナス足すマイナス)をそのままにしておいて、おかしいことはないというのは、力づくでもないかぎりは通らないだろう。

 マイナスなのは政権与党ではなく、野党のやっていることがマイナスなのだという見かたも成り立つ。与党の足を引っぱっているということで、野党がマイナスなのだということである。はたして、野党はマイナスであり、与党はプラスなのだろうかと、改めて見ることができる。

 与党がプラスであるのなら、正しい純粋な動機による正義でものごとをすすめていることになる。じっさいに与党はそうした弁明をしている。この弁明をそのままうのみにはできそうにない。もしうのみにするのなら、出発点として与党はプラスだったことになるが、そうではなくて、出発点として与党はマイナスだったと見てみたい。はじめにマイナスだったのが、さらにそこにマイナスが積み重なって今にいたっている。犠牲者まで出てしまっている。

 中立公正で、すべての国民にとって益になるのならプラスだと見られる。たんに中立公正だというのならプラスマイナスゼロだろう。そのどちらでもなく、首相に近しい人に便益をはかったおそれがきわめて高いのだから、偏っているのであり、出発点は(大きな)マイナスだったのではないだろうか。マイナスであるものをプラスであると見せかけたとしても、プラスに変わるわけではないだろう。

無謬と可謬のちがいは小さくないから、無謬ではなく可謬にするのがのぞましい(合理性を限定する)

 膿(うみ)を出し切る。そのためには、無びゅうのあり方をやめることがいる。政権与党は、自分たちを無びゅうであるとして、誤りのまったくないものだとしないようにせねばならない。自分たちを無びゅうだとすると、神話(ミュトス)になる。

 無びゅうではなくて、可びゅうであるというようにする。誤りがあるものだとする。その誤りを認めるようにしないとならない。政権与党は、これまでに無びゅうの神話でやってきたのであり、いまでもそれにしがみついてしまっている。膿を出し切ると言いながら、無びゅうの神話を手放そうとはしていない。

 無びゅうの神話は、誤りがないものとして自分たち(政権与党)を仕立て上げることである。この仕立て上げるのは虚偽である。虚偽のあり方をとることで、現実といちじるしい隔たりができてしまう。隔たりが大きくなりすぎてしまっている。

 無びゅうの神話は、自分たちを絶対とするものである。一点の曇りもないとする。一点であっても曇りを認めようとしない。じっさいには、一点くらいは曇りはあるものなのだから、一点くらいは曇りを認めてもよいものだろう。一点すらも曇りを認めないという癖を改めて、曇りは曇りとして認めてゆく。そうしないと、一方的なあり方が正されない。

 無びゅうの神話をとらないようにすることで、絶対ではなく相対にすることができる。絶対のあり方だと、(自分たちに都合の悪い)否定の契機が隠ぺいされて抹消される。隠ぺいされて抹消されたものが膿であり、それを出し切って行かないとならない。ほんとうに膿を出し切るつもりがないのであれば、隠ぺいされて抹消されたままとなる。しかし状況証拠は少なからず残っているのだから、隠しつづけるのには無理がある。無理があるからこそ膿を出し切るのがいるのであり、そのためには無びゅうから可びゅうに転換して、自分たちをずらして行くことがいる。ずらして行くのは、自分たちをのぞましいものとして仕立て上げないようにすることである。

不幸におちいっている国民を、自己責任であるとして切り捨ててしまってはいないだろうか(政権与党は、不幸におちいっている国民に真摯に向き合ってはいないのではないか)

 いつまでも加◯学園の問題をやっているのはよいことではない。国民の幸福につながらないし、国のためになっていない。テレビ番組の出演者はそのように言っていた。加◯学園の問題を国会でとり上げるのをやめるべきだというわけだろう。

 いつまでも加◯学園の問題をやっているのは、それを議論の主題の一つとしてとり上げていることである。そうではなくて、ほかのもっと重要なことを主題としてとり上げるべきだというのはたしかに言えることだ。しかし、これはどのようなことを議論の主題にとり上げるべきかにとどまることではない。議論の前提がはなはだしくおかしいのである。

 加◯学園や森◯学園は具体のことだけど、それを一般化できるとすると、加◯や森◯では政権与党(と省庁)は虚偽答弁や公文書の改ざんまでしている。政治家が小さくはない嘘をついて、それでおとがめ無しなのであれば、下手をすると独裁制(ファシズム)につながりかねない。独裁制というと大げさに響くかもしれないが、そこで犠牲になるのはもっぱら社会的弱者である。現に社会的弱者や少数派は社会の中で犠牲になっている現状がある。この現状は、政権与党の欺まんや嘘のせいなのがあると個人的には見なせるのがある。

 加◯学園や森◯学園の問題がいつまでも続いてしまっているのは、議論ができていないことをあらわす。これは主として与党に原因がある。与党がやろうとしさえすれば、それほど時間をかけずに片づけることができることであるにもかかわらず、それをやろうとはしていない。与党に不利なことであるためである。

 国民が幸せになるために直接に関わるものではないかもしれないが、国会できちんとした議論をすることがいるのがある。それができないようでは、国民の幸せもへったくれもないのではないか。議論の主題としてどれがふさわしいかという以前に、与野党できちんとした話し合いができていないのだから、議論の前提が成り立っていない。意思疎通ができていないのである。与党は、野党や報道機関などの反対勢力に、強い不信をもっている。敵意と怨念をもち、対立と分断をあおっている。

 与党は、質問されたことにきちんと答えていず、はぐらかしすぎている。質疑応答ができていない。議論が崩壊してしまっているのである。これでどうやって国民は幸せになれるというのだろうか。国民は気の毒であり、不幸におちいってしまっていると見なせるのではないかという気がする。政治家を選んでいるのは国民なのだから、国民にも一応の責任はあるだろうけど。

忖度されたことは(忖度された側は)わからないというけど、忖度された結果として悪いことがおきたのなら、忖度された側に少なからず悪いところがあると言えはしないだろうか(一つの視点として)

 指示はしていない。部下に指示はしていないが、(自分は)部下から忖度される側であるため、忖度されたことは分からない。忖度された側(である自分)はどうだったのかはよく分からないと、自由民主党安倍晋三首相はテレビ番組の中で述べていた。首相は、よくわからないと言うが、それではいそうですかでそのまま通るのなら、世の中はいささか甘い(優しい)のではないかという気がする。きちんとよく分かっていなければならないのではないか。

 健全な上の者がいる健全な組織の中で、忖度が行なわれるのならまだしもよい。そうでないのなら問題である。政権与党でいまとり沙汰されている疑惑では、不健全な上の者がいる不健全な組織の中におけるできごとのおそれが低くない。そう見なせるものだとできそうだ。

 組織の中で、上の者は、何がよいことで何が悪いことなのかを、はっきりと示すことがあるとよい。よし悪しや、目ざすことなどを、ことあるごとに口を酸っぱくして言う。ことあるごとにというのはできづらいだろうから、理想にすぎないけど、それを示すことによって、下の者はそれをもとにして動くことができやすい。一方的ではなく、双方向のやりとりなんかがあるとのぞましい。

 組織の中の上の者がもつ善悪のあり方が狂っていると、下の者がそれを基準にしてしまいかねず、上も下も狂うということになる。上も下もどちらもおかしくなる。

 上下のあり方として、上の者が一方的によし悪しや目ざすことを下のものに押しつけるのだとのぞましくない。閉鎖性によるようになる。開かれたあり方ではなくなる。

 組織の中で、上の者はきちんとしていて、下の者がおかしいというのは、考えられなくはないが、かりにそうであるにしても、下の者がおかしいことをやったことの責任を上の者がとるのがあってよいものだろう。それに加えて、下の者を厳正に処罰することがいる。いまの政権与党は、この二つのどちらもが欠けてしまっていると見なせる。二つとも欠けているということは、不健全な上の者による不健全な組織のあり方になっているということになり、そこできわめておかしな不正の忖度が必然としておきてしまったのではないだろうか。

 政権与党のあり方はそこまでおかしいものではない、という見かたもできなくはないかもしれない。個人的にはその見かたはとりたくはないものであり、その理由として、組織の中の上の者のあり方を下の者が真似てしまい、それが不正の忖度として出てきているのではないかというのがある。この理由は客観とはいえず、あくまでも主観による推測にすぎないものではある。推測だからまちがっているおそれはあるが、真似をするということで、悪い空気に染まってしまうというのがあり、そうした模倣(ミメーシス)というのはあることだ。このいちじるしく退廃した空気を刷新するには、上の者を交代させたほうがよいだろう。

報道のされ方はともかくとして、非を省みたらどうだろうか(非の打ちどころのないあり方をしているとは見なせない)

 報道でくそ野郎あつかいをされている。財務省の役人はそう述べているという。くそ野郎という言葉の選択はどうなのだろうか。じっさいにくそ野郎という言葉が報道で使われているわけではないだろう。くそ野郎かどうかはともかくとして、公僕ではあるのだから、国民に広く益するような言動や、説明責任を果たしてもらいたいものである。それと、報道でくそ野郎あつかいという役人の発言が報道されているのがちょっとだけおかしい(面白い)気がした。

総理と言うか首相と言うかは、まるでどうでもよいことなのだから、総理と言って首相とは言わないというへんてこな決まりはまちがいなく守られているわけがない(守られているとは見なせない)

 総理とは言っても、首相とは言わない。官邸や政府では、そのようにしているという説が言われている。国会に参考人として呼ばれた首相秘書官も、自分は総理とは言うが首相とは言わないと述べていた。

 総理とは言うけど、首相とは言わない、というのは一体どういうことなのだろう。総理と言うけど首相とは言わないというのは、原則論としてそうだということなのだろうか。そうだとすれば、原則には例外がつきものなので、例外として首相と言うことは十分にあることだ。

 そもそも、総理とは言うけど首相とは言わないというのは、とるに足らない話である。どうでもよいことであり、くだらないことである。どちらで呼んでも変わりがないのであり、実質としては何の差もない。変な形式にこだわっているだけだと映る。小さな形式にこだわっているのは、(一国の長にふさわしい)器が大きい人物だとは見なせそうにない。

 官邸や政府では、総理とは言うけど首相とは言わないということだけど、これをうら返せば、官邸や政府だけでそう言っているというのをあらわす。官邸や政府ではないところでは、総理とも言うし首相とも言う。どちらも使っている。官邸や政府と、それ以外とでは、あり方が異なっている。統一されていない。統一されていないというのは、官邸や政府のあり方に説得性がないということをあらわす。もし説得性があれば、官邸や政府の外にひろく広まるはずであり、統一されることになるだろう。

 総理と首相は、それぞれ同じものをさすが、語感がちがう。総理と言うよりも首相と言ったほうが語感としてそぐうことはあるだろう。語感として首相という言葉を選んで口にすることはないことではない。総理とは言って首相とは言わないというのは人為の不自然さがある。自然な語感や文脈の流れとして口から出ることがないとするのはおかしなことだ。

 総理と言うけど首相とは言わないのは、安倍晋三首相が総理と言われるのを好み、首相と言われるのを嫌うことから来ているものだという。安倍首相は、自分の好みを周りに押しつけているのである。周りの者はよい迷惑なのではないだろうか。周りの者からすれば、たとえ不合理なことであっても、安倍首相の気分がよくなることがよいことなのかもしれないが。

 総理と言うのは、安倍首相のとり巻きの人たちにとっては義務みたいなものかもしれない。この義務というのは、すごくいい加減なものであり、たんに安倍首相が好んでいるというだけのことであり、とくに意味のあることではない。なので、義務といっても努力義務のようなものであるし、絶対に守られているものとも言えそうにない。いついかなるさいにも総理と言うとは見なせないし、どんなときにも必然として総理と言うとも見なせないものである。可能性として首相と言うことは十分にあることだ。ふだんから首相とは言わないのだから、首相案件とは言っていないという首相秘書官の弁明は、日本語話者として苦しいものであり、小学生のような言い訳だ(小学生に失礼なくらいだ)。

NHK に属する出演者が、番組の中で、よい独裁もあるということを言うのは、個人的には許容することができない(悪い独裁の危険性を言うべきだろう)

 よい独裁もある。NHK に属する出演者が番組の中でそのように言ったという。この発言にはちょっと驚いてしまった。思わず椅子から転げ落ちてしまうといったような感じである。

 たしかに、よい独裁があるというのはまちがってはいないものだろう。よい独裁はないことはない。想定としてはそう言えるかもしれないが、独裁がよいということにはならない。独裁はよくないものなのだということができる。

 よい独裁があるというのは、実質としてのことを言っているものであり、形式はまた別にあるものである。独裁は形式の合理性を欠いているのだから、形式としてはまちがっているということができる。形式としては独裁は肯定されるものではない。

 形式をすっ飛ばして、いきなり実質をとってしまう。それが、よい独裁もあるということである。そうであるのだから、いきなり実質をとってしまうのではなくて、形式をふむようにしないとならない。形式として非合理にならないようにすることがいる。形式の合理性を満たしたうえで、実質をよくして行くようにする。

 形式などどうでもよくて、実質こそが大事なのだ、ということもできないではない。そう言うこともできないではないけど、これに反論することができる。よい独裁もあるというのは、一面の見かたとなっているのをまぬがれるものではない。多面で見てよい独裁だということは言えないものである。悪い独裁ではないというのを完全に否定することができるものではない。

 よい独裁というのは、どこからどう見てもまちがいなくよい独裁だというのを意味しない。客観ではないということである。主観になってしまうものである。よいかどうかはともかくとして、独裁であるというのがじっさいのところである。よいというのは主観であり、カッコの中に入れざるをえない。

 よい独裁ということの、よいというのをとり外すことになり、独裁ということになる。独裁をとるのがいるのかどうかは、目的ではなく手段の話である。手段として独裁をとるのは必然であるとはいえない。独裁を手段としてとる必然性はないのだから、独裁であることは必ずしもいらないものである。必ずしも独裁でなくてもよいのだから、民主主義であってもかまわないはずだ。

 民主主義であったとしても、独裁に転落してしまうことがあるから、注意していなくてはならない。よい独裁もあるというのだとしても、それは民主主義の中では、独裁に転落してしまっているのだと見ることができる。独裁に転落してしまってもかまわないということはできづらく、民主主義が失敗してしまっていると言わざるをえない。独裁でなければならないということはないのだから、民主主義が失敗して独裁になってしまわないようにしたほうがよい。民主主義を否定することで独裁におちいってしまわないようにして、民主主義をできるだけよい方にもっていったほうがのぞましいだろう。簡単ではないかもしれないが。

かりに自分の記憶力に自信があるのだとしても、メモを残しておくに越したことはないのだから、忘れるのに備えてメモに残しておくのはおかしいことではないし、価値がないものではない

 メモをとっていない側の言い分のほうが、メモに記されていることよりも正しい。国会に参考人として呼ばれた首相秘書官は、このようなことを言う。首相秘書官のこの言い分には疑問を投げかけざるをえない。

 首相秘書官は、メモに記されていることよりも、メモをとっていない自分の言い分のほうが正しいという。じっさいにこのように言ったのではなくて、じっさいには、(メモをとっていない側の言い分よりも)メモに記されていることが必ず正しいというのはおかしいとしている。

 メモというのは愛媛県の職員が記したものであるという。愛媛県知事は、(メモのことを否定した)首相秘書官は本当のことを語っていないと言っている。職員がきちんととったメモなのだから、まちがった内容のものではないということだ。

 たしかに、首相秘書官が言うように、メモに記されていることが必ず正しいということにはならないのはある。そうであるからといって、メモのことを否定すれば、(メモをとっていない側である)首相秘書官の言い分が正しくなるわけではない。

 なぜメモを作成したかというと、そのときにあったことをあとで忘れないようにするためだろう。その動機があるのだから、メモのことを頭からは否定できないはずである。はめるためだとかおとしいれるためにメモを作ったのだとするのは陰謀理論を持ち出すことであり、これを持ち出してしまうと建設的な議論ができづらい。

 備忘録としてメモが作られたのだとすると、メモの内容はあるていどは信用できるものだろう。少なくとも、首相秘書官が今になって急に記憶を思い出したり、または都合よく忘れたりするのよりはよほど信用ができる。いったいに記憶というのはそこまであてになるものではなく、とりわけ政治権力に近い人の記憶は(一般人よりも)なおさらあてになるとは見なしづらい。あやふやさがつきまとう。

 記憶というのは、今になって、そのときにあったことを思い出すものである。時間が経ってしまっているのだから、短期記憶(作業記憶)として頭の中から忘れ去られてしまったことも少なくないのにちがいない。長期記憶として正しく残っているかどうかは定かではない。

 かりに首相秘書官がそのときにあったことを今でも記憶していて、その記憶していることが、メモに記されていることと食い違っているとする。この食い違いがあるときに、首相秘書官の記憶のほうが、メモに記されていることよりも正しいとは言い切れない。人間には記憶ちがいというのがあるからだ。記憶ちがいであるのを正しく記憶していると思いこんでいるだけにすぎないことがある。なのでそこまで信用はできない。

 メモに記されていることが必ず正しいわけではないのはある。そのうえで、メモをつくるのは、記憶として思いおこすこととはちがう。記憶として思いおこすのは、時間が経ってしまったものを頭の中でふり返ることであり、時間が経ってしまったというのが大きく影響する。時間が経たないうちに、そのときにあったことを、そのときのうちに記しておくのがメモだ。できごとの最中かすぐ直後に記したのがメモなのだから(そうであるはずだから)、それなりの客観性はあるものだろう。

 メモの内容が故意にでっち上げているものであるのなら話はまたちがってきてしまう。たんにでっち上げだろうと見なすのは、言いがかりにすぎないものだから、メモに記されている内容をくつがえす根拠としてははなはだ弱い。首相秘書官は権力に近い立ち場にいるのだから、説明責任を負っているのであり、メモのことを否定しただけでは説明責任をきちんと果たしたことにはならない。自分が覚えているかぎりのことを自主的にすべて語ったらどうだろう。記憶力に乏しくて、それほどできごとを覚えていないというのであれば、メモのことを否定するのはちょっとおこがましいことだ。

小さなことが、中くらいのことや大きなことへ形式として転移するというのがある(若干の詭弁が含まれている論法ではあるかもしれないが)

 森◯や加◯学園は、そこまで大きくはないことがらである。こう見なすのは、実質としてそこまで大きくはないことがらだということと言える。実質としてそこまで大きくはないことがらなのだとしても、それとは別に、形式として見ることができる。

 一事が万事というように見るのは形式によるものである。形式で見るとすると、森◯や加◯学園で政府や省庁(主として政府)がしでかしたことが、ほかのことにも転移して行くとすることができる。ほかのさまざまなことに広く転移して波及して行く。そうなってしまうのだとすると、ゆるがせにすることはできないものである。

 ある一つのことがらについて、規則を破ったりずさんなことをしたりするのであれば、ほかのことについてもまたそうするのだという推測が成り立つ。この推測は絶対に正しいというものではなく、まちがいのない真理であるということはできないものだろうけど、完全にまちがっているものだとは言い切れない。ものごとは有機的につながっているものなのだとすれば、一つのことがらが他のことがらに関連しているというふうに見られる。これとは別に、無機により非関連として一つのことがらを見ることもできないではないけど、それだとその一つのことがらを特別視するようなことになる。