特殊な文脈の遊びな気がする(もし遊びなのだとすれば)

 お店の人と言葉遊びを楽しむことはある。女性の記者に性の嫌がらせをした疑いがもたれている役人の人は、このように弁明をしていた。やりとりを録音した音声を公表した女性の記者が名乗り出ていないことから、女性の記者にではなくて、お店の人にたいしてやりとりをしていたのだとしているようだ。本当にそうだったのかもしれないのはまったくなくはないのかもしれないが。

 お店の人といっても、どういったお店の人であるのかでちがってくる。ふつうの飲食店のお店の人にたいしてであれば、場ちがいであるし、不適切だろう。一般論としてはそう言えるが、特別な関係性があり、合意の上でのことだということなのだろうか。

 性の嫌がらせのやりとりは、言葉遊びだったということだけど、もしそうなのだとすれば、性の嫌がらせの体(てい)による言葉遊びだということになる。独特の体の言葉遊びだなという気がする。言葉遊びというのは、もうちょっと当りさわりのないようにしてするものなのではないか。

 ちょっとかまをかけて、ほんのささいなほのめかしに相手が気づくか気づかないかのすれすれを楽しむというのなら、分からないではない(いけないことではあるかもしれないが)。相手がはっきりと嫌だという意思表示を示す遊びというのは何なのだろう。遊びとして成立しているのかが定かではないし、危険性が高い内容だなというのがいなめない。はたからの印象ではあるが。

神の死のようになっていて、虚無主義になっているような気がする(政権を信頼する根拠が虚無なのではないかということである)

 国会では、くだらないことをやっている。森◯学園の問題はともかくとしても、加◯学園の問題はそこまで大した話ではない。それよりももっと大事なことをとりあげるのがよい。こうした見かたがとられている。

 森◯や加◯の問題は、そこまで大したことではないというのは、見かたによってはなりたつ。大したことがないとするのは、問題が無いとすることだけど、それだけではなくて、問題があるとして見ることができるのも無視できそうにはない。

 森◯や加◯の問題は大したことがないとしてしまうと、一周回った見かたになる。一周回ったというのは、回帰するということである。この回帰は、友敵論によるものである。自分たちをよしとするのは友であり、そうでないものは敵であるとする。自分たちではなくて敵がまちがっているのにほかならない。友と敵とを分けることで今まで政権はやってきていたのがある。

 友敵論による単純な弁証法によるのだと、何かよいことをやろうとしている自分たちと、それをはばもうとする敵というふうな図式になる。この図式によるあり方で今までやってきて、それによって森◯や加◯の問題がおきてしまったのがある。それなのにもかかわらず、そこでもまた友敵論の単純な弁証法を持ち出すのはどうなのだろう。

 友と敵の自明さが揺らいできている。もともと友や敵は実体ではないのがある。それを実体とすることによって、友敵論の単純な弁証法となってしまう。この図式によるのだと、友でもなく敵でもないような人をすくいとりづらい。いないことになってしまう。

 友敵論における友と、単純な弁証法における正(テーゼ)を、改めて見直して行くことがいる。この友や正は、首相による政権与党のあり方にほかならない。友や正はよくて、敵や反(アンチ・テーゼ)はまちがっているとして、友や正すなわち合(ジン・テーゼ)ということでこれまでやってきたわけだけど、それに無理がきてしまっている。友や正すなわち合というのを肯定できなくなってきているのがある。少なからず否定せざるをえない。

 友や正すなわち合はいまもって正しいものであり、これから先もそれでやって行くべきだという見かたもできるかもしれない。その見かたができるとして、それとはちがう見かたができるのもある。友や正すなわち合は、敵や反をしりぞけることによって成り立つものであるが、逆に見ると、しりぞけられてしまっている敵や反のほうがじつは正しいのではないか、というふうにも見られる。もし敵や反のほうが正しいのであれば、友や正がまちがっているとできる。

 どちらが正しくてどちらがまちがっているのかは、人によって見かたが変わってくるものだろう。人によって見かたが変わってしまうのはあるとして、友や正すなわち合というのがあるが、その合をいったん棚上げしてみるのができればよい。合につなげるのに待ったをかける。棚上げして待ったをかけることで、また一周回って回帰してしまうのをほんの多少は防ぐことができる。

 合につなげてしまうと、裏づけのようなものができてしまうけど、それがとれなくなってきている。友や正は、じつは正しいのではなくてまちがっているのではないか、というのが出てきている。それを払しょくするためには、合に結びつけてしまうのはのぞましくない。合に結びつけてしまうと、また一周回って回帰することになるのがあるし、変わりみがないし、じつは正しくないのではないかというのを払しょくしたことにはなっていない。

 友敵論による友か敵かや、単純な弁証法による正か反か(正すなわち合)といったものを、捨てることができればよい。これを捨てることができれば、中立の見かたに近づいて行ける。もし友敵論や単純な弁証法のあり方を捨てないのだとしても、友だけとか正だけというふうではなく、敵や反に当たるものを十分にとりたてるようにするのがよい。友敵論や単純な弁証法を(いままでの通りに)とってゆき、なおかつ友や正だけをよしとして、敵や反をしりぞけてしまうのなら、元のもくあみとなりかねないことになってしまう。

 友や正は、自分たちがうまくやっているとしているかもしれないけど、かんたんに覆(おお)われている覆い(cover)をとり外してしまうことができるし、その覆いをとり外すと色々な穴を発見(discover)することができるのがある。大小さまざまな穴がたくさん空いてしまっているのを指し示すことができるし、それを無視するのはいかがなものだろうかという気がする。

 穴は、(政権が抱えもつ)危機であり問題である。それは減りはしないどころか、増えつづけて行く。それがあるのだから、ここかしこに大小さまざまな穴が空いているぞとか、これから先に穴が増えつづけていってしまうぞというふうに言うのは、おかしいこととは言えそうにない。穴があってもそのままにするのは、ぺらぺらの吹けば飛ぶような見せかけの覆いをかけておくことであり、それをとり外してみなければならないのがある。とり外したくなるのが人情である。

自己了解ではなく、相互了解のあり方でものごとをやって行ければよい(独話と対話のちがい)

 自己了解によってものごとを進める。その自己了解は、すべての人をうなずかせられるものではない。ある人たちはうなずく。その人たちは包摂される。そのいっぽうで、うなずくことができない人たちは排斥される。

 排斥されてしまう人たちは不満をもつ。その不満は社会の中で緊張をもたらす。緊張がだんだんとたまってゆく。その緊張がデモとなってふき出す。この緊張は、デモにつながるものだけど、デモを行なったところで解消するものではない。

 包摂されない人たちは排斥されてしまうわけだけど、それを改めて、包摂性と競争性によって、権力が交代するようにしないとならない。ある特定の人たちに顔を向ける誘因を為政者がもつのはあるだろうけど、それをやってしまうと、公平さが損なわれてしまう。

 緊張というものが無視できないくらいにまで高まっているのがあるとすれば、それを和らげるためには、自己了解でものごとを進めるあり方を改めることがいる。自己了解でものごとを進めていってしまうことで、緊張が高まってしまう。これは、一のあり方をとるものである。一とは、反省しないで(または自分に都合よく反省する)、失敗しないで、挫折しないものである。その一のあり方をとるのが行きすぎると、現実と分裂することになるから、けっきょく一のあり方にはなりづらい。

 ずっと一のあり方のままではいられづらいのは、客観として一ではいられなくなるからである。客観ではなくて、主観としての一というふうになって行く。客観であれば、かくあるべき当為(ゾルレン)とかくある実在(ザイン)が一つに合っているが、主観になることでその二つのあいだにみぞが開く。かくあるべきものがそのままかくあるものとなっているのは保ちづらい。ほんの一瞬くらいしか保てない。それをずっと保てると無理やりしてしまうのは、(見かけは大人であっても)大きな子どもであると言えるだろう(厳しく言えば)。

否定の契機としての膿(まずは、潜在している膿をできるかぎり顕在化させることがいるだろう)

 膿(うみ)を出し切る。首相はそのように言う。この膿を出し切るさいにいるものとは何かというと、膿を出すのをになう人である。膿を出すのをになう人とは何か。それは権力の中心にいたり、中心の近くにいたりする人ではない。絶対にというふうには言えないけど、中心や中心に近いところにいる人には、膿を出す役をにないづらい。

 膿を出すのをになうのは、ふだんは中心から遠ざけられていて、周縁にいる人がふさわしい。これは文学でいわれるカーニヴァル理論と関わってくるものだろう。カーニヴァル理論では、殺される王の主題がとられる。殺される王として、冬の王がいすわっているわけだけど、その王を膿だとすることができる。冬の王がいすわっているのをやめさせることで、春(夏)を呼びこむ。春の復活である。

 権力の主体を冬の王だと見なすのは、すべての人にうなずいてもらえるものだとは言いがたい。人によってはうなずきがたいものではあるかもしれないが、かりに権力の主体があるとすると、その権力の維持は虚偽意識(イデオロギー)によってなり立つ。虚偽意識は現実とはぴったりと合わないものである。ぴったりと合わなくてみぞがおきるのがあり、そのみぞを批判するのは、ふだんは権力から疎外されている者による。

 権力から疎外されている者は、ただ疎外されたままというのではなくて、機会(チャンス)が来れば活躍することができる。機会が来れば、中心に近いところに躍り出て行くことができる。その機会が、たまった膿を出し切るときだと言えそうだ。膿を出し切るのに適した役になることができる。ふだんは日の目を見ないで中心から疎外されていることが、反転することになる。裏と表が反転するといったあんばいだ。

仕事のうえでの有能さよりも、嫌がらせ(ハラスメント)をしないということが優先されたほうがよいのではないか(一つの見かたとしては)

 三〇代の女性の記者に、性の嫌がらせ(セクシャル・ハラスメント)の発言をする。その嫌がらせは、性だけではなく力関係(パワー・ハラスメント)も含む。この嫌がらせをしたとされるのは、財務省事務次官の人である。

 女性が役人から嫌がらせを受けたさいに、録音をしていたために、嫌がらせが明らかになった。報道機関が報じたことで表ざたになった。もし女性が録音をしていなければ、表ざたになることはなく、人々に知られることはおそらくなかっただろう。

 このことを受けて、財務大臣は、役人にたいして注意をするにとどめている。もし報道が事実であれば駄目であるが、事実かどうかは定かとは言えないとしている。事実かどうかを省が率先してきちんと調べて行くつもりはあまりないようだ。

 財務大臣は、問題となっている役人の人を、仕事のうえで有能だとしているみたいである。仕事のうえでの能力を高く買っているので、速やかに処罰するのに難色を示している。女性の記者に嫌がらせをしたことの一点をもってして、能力に欠けると判断をしているわけではない。財務大臣はこのように言う。

 仕事のうえで高い能力をもっている役人を、財務大臣はなかなか手放したくないというのは分からないではない。その手放したくないのは分からなくはないが、そのいっぽうで、新人の役人にたいして首相が、高い倫理観をもてと言っていたのがある。これはごく最近に首相が言っていたことだ。この有言を実行するのでないと、言った意味がない。

 新しく入ってくる人にたいして、高い倫理観をもてと(首相が)言っていたくらいだから、省としての倫理観というものを大臣は示すのがあってよい。仕事のうえで有能なのであれば、性や力関係での嫌がらせが軽んじられるというのではおかしい。性や力関係の嫌がらせはあってはならないものだというふうにすることで、倫理観を示せる。その一般論の建て前をとり、そこから具体の例を見て行くようにする。

 仕事のうえで有能なのと、性や力関係の嫌がらせをした(かもしれない)のは、別々のことだと見なせる。場合分けをしてみると、仕事のうえで有能な人が、性や力関係での嫌がらせをしたか、もしくはしていないかとできる。していないのであればいわれなきことだけど、したのであればそれと向き合うことがいるだろう。したかしていないのかは、真相がはっきりしていないのであれば、どちらの可能性もある。していないかもしれないし、したかもしれない。

 二つのうちで、したかもしれないのをとることができる。仕事のうえで有能な人が、性や力関係の嫌がらせをしたとするのなら、そのさいにはどうするのがよいのかということがある。必然としてそうだというのではないにしても、もしそうであるとするのなら、高い地位についている人ならその地位を退くか退かないかとなる。

 地位を退かないのだとしても、何らかの改善策をとることはいるだろう。仕事のうえで有能なことから、地位をそのままつづけるのだとしても、ことのてんまつを明らかにするのがあればよい。お酒を飲んで理性を失ってしまったのであれば、そうならないようにするために、お酒を飲むのを断つだとか、(治療が必要であれば)治療をするだとかいうのを行なう。そういったことをすればそれでよいというわけではないが、それらがまったく無くて、ただ地位をこれからもそのままつづけるというのでは、適したことだとは言えそうにない。

膿を出し切るのに適材(うってつけ)な人を活用するのであれば、膿を出し切れるかもしれない

 膿(うみ)を出し切る。首相はそのように語ったという。膿があるのだとして、その生みの親は誰だろう、というのが気にかかる。

 膿を出し切るということだけど、その前に、膿を、と言っているのだから、膿があることが前提になっている。その膿があるのはなぜなのだろう。膿を出し切る前に、膿についてを見てゆくことがいる。かくあるという記述とともに、なぜということについての説明がないと、知ることが深まらない。膿があるという結果があることの、その原因を探ってゆく。その方法論をとってゆくのがあればよい。

 膿があるのだとすると、それがどういったものかを見てゆき、定義をする。事実を認めて行かないとならない。膿を出すというのは問題の解決をさしているのだろうから、問題の解決をするためには、事実を認めるのが原則としてないとならないものである。

 膿をきちんと出せたのかどうかを、改めて見て行き、膿が十分に出せていないのであれば、出せるまでくり返しやって行くことがいるだろう。出したつもりというのでは、出したことにはなりそうにない。

国益という記号表現(シニフィアン)における記号内容(シニフィエ)は、人によってとらえ方がちがうものだから、不確かなものであると言えそうだ(ずれがおきざるをえない)

 学問の自由は尊重したい。しかし、ねつ造は駄目である。このねつ造とは、主に従軍慰安婦の問題についてのことである。国益に反するようなことは、国費を投じるのはのぞましくなく、自費でやってほしい。国費(税金)を反日活動に使うのは納得が行かない。自由民主党の議員の人は、こうした内容のツイートをしていた。

 学問の自由は尊重したいが、ねつ造は駄目であると自民党の議員の人はしている。ねつ造が駄目だということでは、国益がねつ造ということはないだろうかという気がする。国益というもの(の必要)をねつ造してはいないのだろうか。もししているのだとすれば、国益のねつ造はやめるべきだろう。

 学問の自由を尊重するということだけど、学問の目的の一つとして、真実がどうなのかを見てゆくというのがありそうだ。真実や事実がどうなのかを見てゆくのは、国益よりも優先されるのがよい。真実や事実を見てゆくのが国益よりも優先されることで、それが国益になる。絶対にというわけではないけど、そう見なすことはできそうである。

 国益を学問の対象にすることはできないかというのがある。それができるとすると、国益学というのが成り立つ。国益学ができるとすると、国益にならないものをとり上げることをすることになる。こういう根拠においてはこれが国益と見なせそうだが、それとは別の根拠ではちがうことが言える、といったふうにできるものだろう。一つではなく色んな学説がきっととれる。

 国益は万人にとって益となるものだとは言いがたい。国益というのを一つの記号として見ることができるとすると、どういったものを国益と見なすのかは、人によってまちまちとなる。人によってずれがある。ある人が国益と見なすものは、別の人にとっては国益ではないことがある。

 人によってとらえ方がちがう。そのちがいがあるのからすると、国益とは一つの仮説だと言えそうだ。国益じたいが一つの事実や真実だとは言いづらく、神話作用がはたらいている。客観のものではなく、主観によるものだということが言える。

 国益を否定するのを反日活動だと見なす。そう見なすのがあるとして、国益を否定するのは、国益を反証するということであり、それはまちがったこととは言えそうにない。国益を認知するさいに、確証(肯定)の認知の歪みがはたらくとすると、正しい認知とはならなくなる。それを反証することがいるだろう。その反証をするのは、反日活動とは言えないものである。反日活動ということも反証してみないとならない。

 国益にかなうということで、確証(肯定)をしてしまうと、独断になりかねないのがある。独断から偏見につながりかねない。国益にかなうかどうかというのは、分類をしているのであり、分類には解釈が入っている。解釈には先入見が関わってくる。国益にかなうかどうかとして見ると、先入見をはたらかせてしまい、虚心で見ることのさまたげとなる。

 国益は観念であり、それは思いこみによって成り立つ。国益の表象(イメージ)をたまにはとりはずしてみることができればよい。国益と言ってしまうと、あたかもそれが確かにあるかのように響く。しかし、確かにあるというよりは、一つの仮説にすぎないものなのだから、国益と言い切ってしまうよりは、国益のようなというふうにするのはどうだろう。見まちがえているかもしれないのがあるから、国益のようなというふうにとどめておくと無難である。国益にかなわないとするものでも、国益でないようなものとすれば、頭ごなしに切り捨てることにはなりづらい。

 国益が実体としてあるのかというと、そういうふうにも見ることはできるが、そうではないとして見ることもできる。反実体として見られる。反実体として見るのであれば、実体ではないものが国益である。国益国益に反するものは、関係としてあるのにすぎない。国益に反するものがないのであれば、国益もまたない。国益に反することがあってはじめて、国益がある。その二つのあいだの線引きは揺らいでいるものとできる。

ある理論や主張がよいとして、それをとっている人をよしとしてしまうと、象徴化することになる(その人のもっているほかのさまざまな部分が捨象されてしまう)

 経済の、量的金融緩和の理論がある。経済のほかに、憲法では、憲法の改正の主張がある。それらを首相はとっているわけだけど、それらの理論や主張をとっているから、首相は正しいというふうになるのだろうか。

 ある理論や主張を正しいものであるとできるとする。それをとっているのが首相であることから、首相のことを最後まで全面として支えて行く。首相をよしとして支えて行くのは、あくまでも(首相がとっている)ある理論や主張が正しいからなのにほかならない。

 ある一つの理論や主張が正しいからといって、それをとっている人まで正しくなるのかというのはちょっといぶかしい。かりにある理論や主張が正しいのだとしても、それをとっている人は正しくない、ということもあるだろう。

 ある人がいるとすると、その人の全体があるとできる。その全体のうちで、ある理論や主張をとっているのは、その人の中の部分にすぎない。部分と全体は等しいものではなく、解釈学の循環構造というのがおきるとされる。部分を見たときと、全体を見たときとでは、ちがう見かたになる。

 部分から全体へとつなげてしまうと、一斑を見て全豹を卜(ぼく)す、ということになりかねない。過度の一般化であり単純化である。性急に一般化してしまっているのである。この一般化や単純化は不正なことがある。一斑を見るのと全豹を見るのとを分けることがいるだろう。

 ある理論や主張をとっている人の集合(外延)というものがあると見なせそうだ。その集合の中に、健全な人もいれば不健全な人もいるだろう。よい人もいれば悪い人もいる。つり合いのとれた人もいれば偏っている人もいる。意志が強い人もいれば誘惑に弱い人もいる。一人の人の中に、それらのあり方がちょっとずつ含まれているというふうに見なすことができるのもある。完全な人間はいないということではそう言えるものだろう。

 ある理論や主張が一つの根拠となって、そこから、その理論や主張をとっている人を信頼できる、となる。その根拠のところを見てゆくことができる。はたしてふさわしい根拠となっているのかどうかというと、そうとは言い切れそうにない。言い切ることができないのは、一つには、ある理論や主張をよしとしている人にとっては、同じあり方の人を信頼して共感できるだろうけど、それは同じあり方どうしということで成り立っているものだと見なせる。

 自分がよしとしている理論や主張と同じものをとっている人だからといって、その人のことを信頼することができるものだろうか。信頼するかどうかはその人の自由だというのはある。自由ではあるのはたしかだが、その判断が正しいということには必ずしもなりづらい。判断がなるべく狂わないようにするためには、信頼ではなくその逆の不信をもつくらいであるほうがよいことが少なくない。まったくもって信頼してしまうのではなく、少しくらいは不信を持っていたほうがよいだろう。

 ある理論や主張に、絶対の揺るぎない正しさがあるかどうかはいぶかしい。もし絶対の揺るぎない正しさがあるのであれば、科学や学問の営みをこれから先に行なう意味がなくなるのではないか。科学では、それまでに正しいとされていたことがくつがえされることがしばしばおきるという。移り変わって行く。科学の営みはこれからもつづいて行くのがあるのだから、絶対に揺るぎない正しさは無いというふうに見たほうがよいのではないかという気がする。

 ある理論や主張が、そのまま正義と直結するのかというと、そうとは言い切れそうにはない。これについては、動機と結果を分けることができる。手段と目的で分けることもできる。ある理論や主張は、それが目的というよりは、手段だと見なすことができる。目的が達せられるのであれば、どのような手段でもとくによいとも言えるから、手段に必ずしもこだわらないでもよい。手段にこだわるのは手段の目的化である。それを避けたほうがよいものだろう。手段の目的化になり、正義といちじるしく隔たってしまうこともあるから、そうなってしまうと危ない。教条(ドグマ)になることになる。

 ある人が、どういった理論や主張をよしとしているのかとは別に、たんに人一般として見ることができる。人一般として見るのではなくて、どういった理論や主張をよしとしているのかの点で見るのだと、一般として見ることにはなりづらい。固有性で見ることになりやすい。固有性で見てしまうと、価値判断が中立ではなくなってしまうおそれがある。できるだけ中立の価値判断をするためには、人一般として見るのがふさわしい。権力者であるのなら、(とりかえがきく)権力者一般として見るようにする。

 偏向した見かたになってもかまわないというのなら別だけど、そうではないのであれば、とりかえがきくとして見るのがよい。とりかえがきかないものとしたいのがあるのだとしても(それは分からないではないが)、いったん反対に振るようにする。反対に振るようにして、とりかえがきくものとして見たときにどうなのかとする。こうすることで見かたを補正しやすい。メタ(上位)の視点に立ちやすい。たんにとりかえがきかないものとしてしまうと、固有性を持つものとすることになり、偏向してしまいやすい。具体のものとして特別視してしまう。

どうしようもないということでは、なぜというのと何がというのとどのようにというのが挙げられるかもしれない(もしどうしようもないのだとしたらの話ではあるけど)

 もともとが、どうしようもなくなりやすい。どうしようもなくなりがちな下地がある。その下地による構造があるので、与党と野党があるとして、野党のやることがどうしようもないものであるという見かたは成り立つ。どうしようもないようなことをやっているように見うけられるのは、視点によってはとれるものである。

 どうしようもなくなりやすく、じっさいにどうしようもないのはあるが、その中でもそれなりに何とかやって行く。それなりに何とかやって行くのができるのであればよいが、どうもそうはなっていないような気がする。野党とは別に、権力の主体が、すごくどうしようもなくなってしまっているような気がしてならない。

 どうしようもないと言うが、そうであるのではない。権力の主体をどうしようもないとして見るのは決めつけだ、とすることもできる。なぜどうしようもないものだというふうに見るのができるかというと、その根拠として、食べるのには困らないという社会の豊かさがある。

 厳密にいうと、食べるものに困っている人たちは少なからずいるのだけど、それが隠ぺいされていて、表面としてはいないかのようになってしまっている。富が偏在していて、余っているところと足りないところでムラがおきてしまっている。それはあるとして、そのうえで、みんながみんな食べるものに困っているのではないという点において、社会の豊かさがあるとは言えそうだ(じっさいには豊かではないと見ることもできるのはあるだろうけど)。

 まちがいなく確かな根拠だとは言えそうにない。豊かな社会だから(政治が)どうしようもなくなるとは言えず、豊かでない社会だからどうしようもなくはならないとも言えそうにない。あくまでもがい然性というにすぎず、断定はできないものである。どうしようもないというのは定量ではなく定性のことだから、主観によるため、完全に客観とはいえない。

 人間は食べものを食べるが、それとともに、記号を食べるものでもあるという。記号の生産と消費である。豊かな社会になり、みんながみんな食べるものには困らないようになることで、記号を食べるのがより多くなってゆく。そこに危なさがおきてくる。記号による世間話がとり交わされて、空語がやりとりされるようになる。記号による世間話や空語は、商品語であり、偶像(イドラ)である。

 どうしようもなさということで、権力の主体がいるとする。その権力の主体がどうしようもないのではなく、権力の主体の足を引っぱっている(一部の)野党や報道機関がどうしようもないのだ。権力の主体の足を引っぱっているかのように見なせる一部の野党や報道機関をどうしようもないとすることもできるが、その見かたがどうしようもないものだというふうにできないでもない。どうしようもなさのなすりつけ合いであり、押しつけ合いである。どうしようもなくなさのうばい合いである。

 避けがたく(不可避として)、多かれ少なかれ、どうしようもなくなってしまわざるをえない。残念ながらそうしたのがあるとして、その中で、いかにどうしようもなさすぎるのから脱することができるのかというのがある。あまりにもどうしようもないのであれば、その事実を認めることができればよい。その事実を認められないのであれば、あまりにもどうしようもないのから脱するのはできづらい。あまりにもどうしようもないのを一つの問題として見るとすると、どのようなあまりにもどうしようもないことがあるのかを、事実として見てゆくのができればさいわいだ。

安定といっても、定常ではないので、乱雑さ(エントロピー)のためこみと吐き出しはおきざるをえないものだろう

 そこまで大さわぎしてとり沙汰するほどのことではない。そうであるのにもかかわらず、大さわぎしてとり沙汰してしまっている。大げさに騒いでしまっているのだ。そのことにより、政治が不安定になっている。これはのぞましいことではない。

 たしかに、本当はさして大さわぎするほどのことではないものなのであれば、それを大げさにとり上げるのはやりすぎになってしまいかねないものである。政治が不安定になるよりも安定していたほうがよいとすることができる。不安定よりも安定をとるのは、とんちんかんなとらえ方であるとは言えないものである。このとらえ方は、日常をよしとするものと言えそうだ。

 日常をよしとするのを世界であるとすると、それとは逆になる反世界のあり方がある。日常にたいする非日常である。世界が光だとすると、反世界は闇である。昼と夜といったようなものだとできる。昼だけをとることはできづらく、夜がめぐってくることを避けづらい。

 昼の世界をよしとするのは、夜の反世界をよしとしないことであり、反世界をうとんじて遠ざけることになる。うとんじて遠ざけたとしても、消えて無くなるわけではない。

 秩序が保たれて安定しているのであっても、よい安定であるのか悪い安定であるのかというのがある。安定しているのが必ずしもよいものであるとは言い切れそうにない。安定していなくて不安定なのが必ずしも悪いことだとも言い切れないものだろう。不安定であるのが悪いこともあるし、そうではなくてよいこともある。不安定だけど活性化しているということがある。よいか悪いかとして、場合分けをすることができる。

 安定による世界を一つの極であるとすると、それだけではなくて、もう一つの極がある。もう一つの極として不安定の反世界がある。二つの極によって、振り子のように両極のあり方となる。この両極のあり方をとるとすると、安定しているときは、片方の極に振り子が振れているのをあらわす。片方の極に振り子が振れれば振れるほど、もう片方の極へ向かう力がたくわえられる。きっかけさえあれば、もう片方の極へ振り子が振れることになる。

 安定による世界という一つの極があるとして、それがあることによって、もう一つの極である不安定の反世界を生む。一つの極があることで、もう一つの極ができあがる。二つの極となることで両極になる。その両極のあいだを行ったり来たりする。行ったり来たりがおきていなくて、片方の極に振れているのだとしても、そこにとどまりつづけるのはできづらい。もう片方の極に向かう力はたくわえられているので、きっかけさえあればそちらへ振れることになる。

 不安定がよくないというよりは、不安定にならずにすむのにもかかわらず、いたずらに不安定にさせるのがよくない、というのは言えるだろう。そう言えるのはあるが、害があるのなら、そのうら返しの利があるというのがある。安定の利には、うら返しの害があるのがいなめない。不安定になるのは害があるが、利もあるのだとすると、その利を見ることができる(害を見ることももちろんできるが)。不安定に害があるとしても、利などあるのかというふうに言うことはできるが、一つには、安定している世界のときには見えなかったもの(気づかなかったもの)が反世界において見られる(気づける)ようになるというのはあるだろう。