菌と抵抗力のせめぎ合い

 野口整体創始者である野口晴哉氏に、風邪の効用というのがある。これについてはつまびらかには知らないのだけど、風邪を引くことは必ずしも悪いことではなくて、それによって体が浄化されるのがあり、毒が体の外に出ることになるので、よいものでもあるということだろう。

 権威主義の体制は、風邪を引かない健康な体のようなものであるかもしれない。風邪を引かない健康な体は丈夫であり、大変によいもののように見なせるけど、かえって危ないところもある。風邪を引くことによって体が浄化されたり毒が外に出たりする機会がないわけだから、体の中に負のものがたまってしまっているおそれがある。ずっとぴんぴんとしていたのが、あるときに突然に倒れてダウンするということもないではない。

 風邪を引かない健康な体の人のなかには、ほんとうにまぎれもなく健康な人もいるだろうから、そういった人であれば、ぴんぴんさを保てるだろうから、だし抜けにあるときに倒れてしまうようなことはあまりないものだろう。

 人間は過剰な活力をもったものであり、健康であるときには過大化になっている。風邪を引いたときのように病気のときには過小化となっている。健康なときは好調であり、病気になってしまったときは不調である。不調なときは苦しいものであり、出口が見えづらいときにはなおさらそうであるのはたしかである。うまくして出口が見えてくるのであれば、過小化から過大化に切り替わったことをあらわす。

 ずっと過大化しているのだと危ない。なので、ときには風邪を引くことで過小化するのがあると、過剰な活力をうまく処理できる。効用がある。風邪をまったく引かないようなぴんぴんした健康で丈夫な体もありえないではないだろうけど、どこかで突然に倒れてダウンしてしまうおそれがないではない。過大化をしつづけることはできないというわけだ。過小化として風邪を引くことがたまにはあると、それによって健康のありがたみがひしひしと思いおこせる効用がある。

 人間工学では、人間は基本として失敗するものである、とされているようである。失敗をしない人もなかにはいるかもしれないが、それはあくまでも例外であり、その例外をもととしてしまうのだと適したものにはなりづらい。まちがいをおこさないというのであれば、無びゅうであるわけだけど、そうではなくて可びゅうであると見なすことができる。無びゅうであるとするのは、ずっと過大化しつづけるようなものであり、成功しつづけるようなものである。

 まったく失敗をせずに、転ぶことがなく、成功しつづけることができるものだろうか。現実にはちょっとありえないものだろう。もし失敗したとして、転んでしまったことになるわけだけど、そのさいには風邪を引いたようなものであるとできるとすると、風邪の効用がおきることが見こめる。この効用をとることができるとすれば、過小化になってしまうものではあるけど、悪いものを外に吐き出して浄化することが見こめる。

 適したときにうまく風邪を引いてしまうことがないのであれば、悪いものを外に吐き出せないし、浄化することができない。そのことでかえってあとになって風邪をひどくこじらせてしまうことがおきかねない。もはや過大化することに限界をきたしているのがあるのにもかかわらず、あいかわらず過大化しつづけようとするのだと、自然に反することになりかねない。

 自然に反するものは、反自然(アンチ・フィジス)であり、崩壊をまねく。すべてにおいてそのように言うことができるものではないだろうけど、一つにはそのように言うことができるのがありそうだ。これはモリエールが言っていることであるという。自然(フィジス)は善美と調和を生み、反自然はあらゆる破綻を生じさせる。このさいの自然とは、色々なとらえ方ができるだろうけど、人間の尺度を超えたものであるということが一つにはできる。人間の思い通りに行くものばかりではないので、人間の思い通りに行かないことも中にはあるのはたしかである。

一元の単数の大きな物語が破局にいたるとやっかいである(正統性が失われて、神話作用が通用しなくなる)

 安倍晋三首相の、政治における将来には疑問符がつく。安倍首相の夫人が縁故主義による政治の疑惑に関わっているのがあるためである。イギリスのガーディアン紙では、そのように報じられているという。

 安倍首相のもとでの政治のあり方は、民主主義というよりも権威主義によっていた。かりにそのように言うことができるとして、一強多弱となっていたのがあり、首相の政治における将来はそれほど不安定ではなかったのがありそうだ。支持率が高めだったのがあるので。夫人がかかわる政治の疑惑が大きくとり沙汰されるまではそこまで不安定ではなかったけど、とり沙汰されるようになったことで、話が変わってきたようである。

 権威主義の体制では、国民一人ひとりがもつばく然とした心理の不安感をたくみに利用する。自我の不確実感をもつ個にたいして呼びかけをすることで、権威にとって都合のよい主体が形づくられる。権威にすがらせるようにする。何ごともないのであれば、平穏なありようがつづく。しかしいったんことが起きればごたごたの混乱をまねく。

 権威主義では、強い長とそれに従う個という図式になる。強い長は、個がもつ超自我(上位自我)の虚焦点となる。強い長に個の超自我が投射されることになる。強い長は父であり、個(子)はそれに従う。非対等なあり方である。父権主義(パターナリズム)がとられることになり、積極の自由となる。積極の自由は何々への自由であり、本来の自由であるとは言いがたい。干渉の不在である消極の自由がとられづらい。消極の自由は、何々からの自由だとされる。

 ギリシア語では、クロノスとカイロスというものがあると言う。クロノスは量による時系列(シークエンシャル)なものである。線による流れである。カイロスは質によるものであり、前と後とで質が変わってしまうようなものであるそうだ。クロノスの時間の流れを切断する非連続のものがカイロスである。カイロスは危機の時間であるとも言われる。緊迫の濃さがしだいに増してゆくような、終末論の意味あいをもつのがカイロスだ。

 何ごともないあり方としては、クロノスによる時間によっている。その時間によるありようがずっとつづいているところに、カイロスの時間がおきる。この時間は、機会(チャンス)によるものであり、それが到来したことをあらわす。機会による時間性がカイロスである。

 クロノスの時間は通常の線の流れによる時間表象であり、陶酔による。それが破られることでカイロスの時間となり、覚醒がおきる。目ざめになる。目ざめとはいっても、それは見せかけにすぎず、じっさいには陶酔であることもないではないから、気をつけないとならない。

 権威主義では、参与(コミットメント)がしだいに上昇していってしまうので、ゆでがえる現象がおきかねないのがある。気がついたらゆで上がっていたということになる。そうなってしまってはまずいので、参与が上昇しすぎてしまわないようにして、離脱(デタッチメント)ができるようにするのが、自由民主主義の体制だと言えそうだ。包摂性と競争性をとり、説明責任を果たす。多元のあり方となる。権威主義による一元のあり方であると、その一元が保たれているときは平穏だけど、いざとなり、一元となっているものがおかしくなると、総崩れとなってしまう。

 一元のあり方だと、それが保たれているときは平穏なのはあるが、閉じてしまっているあり方だから、一つの大きな物語になってしまっているのがある。その大きな物語は、現実とぴったりと合っているものとは言いがたい。現実にはずれがあるわけであり、矛盾がおきている。ずれや矛盾を認めずに、教条主義のようにして押し通すのであれば、やがて現実のずれや矛盾が大きくなって、手に負えなくなることになりかねない。うまくずれや矛盾を処理できればよいけど、それができないと、一元である大きな物語破局をむかえることになる。かかえこんでいた乱雑さ(エントロピー)を吐き出すことができなくなったためである。

 神の死が言われているのがあるので、最高価値は成り立ちづらく、没落している。神々の争いとなる。価値の多神教である。神々の争いでは、唯一の最高の価値をとることはできない。争い合うわけだから、不安定ではあるけど、お互いがお互いを相対化し合うことで、うまくすれば絶対化するのを避けられる。多元になることで安定を呼びこむ。一元のあり方はかえって(いざというさいに)不安定だ。一つの神さましかいないのだとして、それは最高価値のものとして偽ったものでしかない。神が神として安定しているようでいて、じっさいには不安定であり、反対物(悪魔)へ転化することもある。じっさいには唯一の最高価値として揺るぎないものは成り立たない。虚偽意識(イデオロギー)におちいるのを避けられないものである。

強硬外交は、対話を引き出すための必要条件(原因)でもないし十分条件(原因)でもなさそうだ

 北朝鮮が対話の意思を示す。それは、日本の北朝鮮にたいする強硬外交の成果だと、日本政府は言っている。しかし、日本の強硬外交の成果として、北朝鮮が対話に応じるようになったとはちょっと見なしがたい。日本が北朝鮮にたいして強硬外交をしていたのにもかかわらず、北朝鮮は対話に応じるようになった。または、日本の強硬外交とはかかわりなく、北朝鮮は対話に応じるようになった。

 強硬外交は、対話をうながすものだとは言いがたい。対話というのは言葉による象徴のやりとりであり、それをうながすには、直接に言葉による象徴のやりとりをすればよい。柔軟なやり方をするのがふさわしいものである。強硬なふうにすることはいりそうにない。

 強硬外交というのは、そもそも対話をうながしてゆくものではないのだから、それによって対話が成り立ったとして成果にしてしまうのはどうなのだろう。強硬外交が前にあり、対話に応じるようになったのが後ろにあるとして、前と後ろのあいだにある中間を見てゆくことができる。あいだの中間に色々なことがあったのであれば、その中のどれかによって後ろの結果が導かれたと推しはかれる。または、たんに偶然によることもないではない。時間が経っただけなのによるのかもしれない。

 強硬なふうでないとならないということはないはずである。そうしないと対話をうながすことができないということはない。色々な切り口や手段があるはずであり、強硬という一つの手段だけによるしかないものではなさそうだ。単数だと、ほかの手が選べない。手段は複数とれるものであるとして、その中からふさわしいものを選べればよい。

 力による圧をかけるのが強硬の手段であるとして、圧をかければ(圧をかけられたものが)爆発してしまうおそれがある。圧力をかけられるほど、かけられたものが爆発を引きおこす危険さが生じてくる。爆発というと物騒な響きがあるけど、疎外されたものは、窮鼠猫をかむといったようにして、やけをおこして狂ってしまうことがないではない。

 外交における努力とは、いかに強硬な手をとらないようにするのかであるとできる。強硬の語は、強いと硬いというものだけど、これを弱いと柔らかいにするのが外交の努力だと言えそうだ。強く硬くしてしまうと、お互いにぶつかり合う。お互いに敵対し合っていることになる。これを非敵対にもってゆくのが外交努力であるだろう。生やさしいことではないのはたしかだろうけど。

 弱く柔らかくするよりも、強く硬くしたほうが、頼もしく目にうつるから、受けはよいかもしれない。外交で受けのよい手を用いるのは、大衆迎合主義(ポピュリズム)になる。大衆の感情にうったえるやり方である。悪いものにはこらしめをとして、強く硬いあり方でのぞむほうが、感情にうったえることができて、受けはよい。強硬によるあり方は、受けがよいという作用はあるわけだけど、反作用(副作用)があるともいわれている。

 外交では、自分の国と相手の国とをともに認め合うあり方が理想であるとされる。こちらが向こうをこらしめるものではない。こちらが向こうをこらしめるのだと、ともに認め合うあり方にはならない。そんな生やさしいことを言っていては、自分の国が危ないではないか、ということも言えるかもしれない。たしかにそれは否定することができないものではあるけど、それについては色々と文脈をもちかえることができればよい。

 自分の国による文脈と、相手の国による文脈があるとして、それが大きな摩擦となるのが、強硬のあり方だといえる。大きな摩擦になってしまうのはあるとして、それだけではなくて、できるだけ摩擦を減らしてゆくようにするのが、外交の努力だと言えそうだ。摩擦を大きくすることで、人々の感情にうったえることはできるわけだけど、それは長い目で見てよいこととは言えそうにない。となりにある国とは、長くつき合ってゆかざるをえないのだから、その将来の影をくみ入れるのがふさわしい。

 お互いの文脈のずれにより、摩擦が大きいのは、短期としては利益がある。しかし中期や長期では利益にはならない。中期や長期では、文脈の摩擦ができるだけ小さいほうが利益がある。摩擦ができるだけ小さくなるような方へもって行ければよい。摩擦が大きいのは、感情にうったえるあり方だ。自己欺まんの自尊心の感情にうったえるのではなくて、理性によるありかたをとれれば、摩擦を減らして小さくしてゆくことにつながりそうである。

最初は小さな問題だったのが大きなものになったのは、危機が派生しているためなのがある(政権が危機にきちんと対面して対応しているとは言いがたい)

 最初はほんとうに小さな事件からはじまったことである。それが人死にを出してしまった。この問題は、本当に人が死ぬほどの問題ではない。政権についての疑惑がとり沙汰されているなかで、その疑惑に関わっていたとされる公職の人が自殺をしてしまったという。そのことについて、テレビの出演者が語っていたことである。

 人が死ぬほどの問題ではないのにもかかわらず、人が亡くなってしまった。この発言では、人が死ぬほどの問題ではないのなら、人が死ななくてもよいはずだとしているわけだろう。そのように言うのではなくて、たとえどのような問題であったとしても、人が死ぬべき必要はまったくない、というのがよいのではないか。人が死ななくてもよいのは、何か条件がつくものではなくて、無条件のものだと言えそうだ。問題の大きさと人が死ぬことの不要さとは、とくに相関するものとは言えそうにない。

 理想としてはそのように言うことができるけど、じっさいにはそうはなっていないのも否めない。政治や経済の事件では、人が死んでしまうことがあるという。事件に政治がからむと死ぬ人が出てしまいやすい。会社が倒産するさいに、負債が数億円以上にのぼると、人の死がおきてしまうものだという。

 人間には自然的権利があるのであり、死ななければならないことはない。死ななければならないと人に思わせてしまうのであれば、その人が置かれている状況や環境がおかしいおそれがある。いかなる状況や環境であれ、個人がもっている自然的権利がはく奪されることはない。それを奪おうとするものにたいして抵抗することができる。

 野党が与党の疑惑を追求しさえしなければ、人が死なずにすんだ。こうした見なし方をとることができるかもしれないが、人を死なせるために野党は与党の疑惑を追求しているわけではない。人を死なせるためにやっているわけではなく、人は死なないでいてほしいのがあり、そうしたなかで与党の疑惑を追求している。人を死なせたいという意図や動機をもっているわけではないだろう。

 結果として人が死んでしまったのはあるわけだけど、野党が与党の疑惑を追求することと、人が死んでしまったこととを、分けて見ることができる。その二つはそれぞれ別のこととしてとらえられる。二つをいっしょに結びつけることもできるわけだけど、切り離して見ることもできるのがある。できごととしては、一つのできごとではなくて二つのできごとなのだから、関連させて見るのがふさわしいとは言い切れそうにない。

 人が死んでしまったのがあるとして、それを結果とすることができる。その原因は何かをさぐるさいに、ほんとうの原因はわからないというのがある。原因はこれだとすることはなかなかできづらい。はっきりとしないところがある。

 はっきりとしないところがあると言っても、野党が与党の疑惑を追求するなかでおきたことなのだから、はっきりとしているではないか、ということができるかもしれない。その点については、野党が与党の疑惑を追求するなかで、人が死んでしまうことがあってはならないことはたしかである。あってはならないことがおきてしまったのは、あるべきではないことがおきてしまったのであり、野党が与党の疑惑を追求するさいに人が死んでしまわないようでなければならない。

 人が死んでしまわないようにするためには、可傷性(バルネラビリティ)や被悪玉化(スケープゴート)として犠牲になりやすい人が生じないようにすることがいる。弱い立場に置かれている人ほど犠牲になってしまいやすい。犠牲になってしまうことはあってはならないことであり、そうしたのがおきないようにすることと、野党が与党の疑惑を追求することとが、両立するようであればのぞましい。どちらか一方をとるというのだというのでは、あれかこれかの話になってしまう。まず原理として、野党や報道機関が与党の疑惑を追求するのは行なわれなくてはならない。それがないのであれば原理なきあり方になってしまう。

 罪を憎んで人を憎まずというのがあるのだから、人を憎んでいるのではなく、罪を憎んでいるとすることができる。人は死ななくてもよいのは当然であり、それだからといって、罪はきちんと見て行かないとならない。権力チェックとして、権力において不正が行なわれたおそれがあるのなら、それを見てゆくことに権力者はなるべく協力しなければならない。権力者を人として憎んでいるのではなく、罪があるのだとしたらそれを憎むのはかまわないだろう。権力者は強者であり、弱者のふりをするのはいかがなものだろうか。

 強者である権力者(または権力に近いもの)が嘘をつくことで、その犠牲となるのは弱者である。この嘘は罪であり許してはならないものであるという気がする。まったく嘘をつくなとは言えないかもしれないが、肝心なところで本当のことを言わないのだと、本当のことが明らかにならないし、示しがつかなくなることはたしかだ。弱い者をおもんばかる気があるのなら、本当のことを語るべきである。人に聞かれる前に自分から語ったらどうだろうか。そうすれば、ほんらい犠牲になる必要のまったくない無実の弱者が救われることになる(なった)。

適した人材登用の反証可能性(合理性の限界)

 登用は適材適所だった。理財局長としても国税庁の長官としても適任だった。しかし世間をお騒がせしたことについて、その責任をとるために辞任をする。行政の決裁文書への信頼を損ねて、国会の審議を滞らせてしまい、国会の答弁においてていねいさを欠いた。こうした理由により、国税庁の長官からの職を辞する申し出があり、辞任を認めることになった。

 麻生太郎財務相はそのように述べたという。麻生氏としては、理財局や国税庁の長に当たる人を任命した人事を、あくまでも正しいものだったとしたいのだろう。これが正しいものだったのかどうかは疑うことができる。

 一つの推しはかりとして、長として適材適所であるのなら、世間を騒がせることはないはずである、とできる。世間を騒がせてしまうような人は、長として適材適所であるとは言いがたい。少なくとも疑問符がつく。世間を騒がせたということがあるのであれば、適材適所ではない(かもしれない)と見なければならない。

 世間を騒がせてしまったけど、長として適材適所である、というのはちょっと無理がある。世間が勝手に騒いだのにすぎないとしてしまうことはできづらい。適材適所ではない人が長としているから、世間(の一部)が騒いでいるのがある。世間の人たちは有権者であるため、国民主権主義からすると、その声は無視できそうにない。世間の判断が民意に近いと言えそうである。みんながみんな騒いでいるわけではないだろうから、民意そのものとは言えないかもしれないが、切実な民意の一つだとは言えそうである。

 適した人が長になることは、そこまで多いものではない。一般論としていってもそうしたことが言えるのがある。ローレンス・J・ピーターによるピーターの法則というのがあるそうで、これによると、人は自分が持っている能力の限界まで昇進するのだという。階層社会における労働者のあり方だ。

 ある人が能力をもっているとして、その能力をもった人が有能でなくなるまで地位の階段をのぼってゆく。ある人が有能でなくなったところで昇進はとまり、その地位に居座ることになる。有能ではなくなった人が上の地位にいて、そこに居座りつづけられると、下の者を阻害してしまいかねない。下の者を阻害しているのにもかかわらず、それには気づかずに、または気がついていても、上の地位にいつづけられるとやっかいだ。下の者が阻害されずに満足していられるようでないとならない。

 上のほうの地位にいてなおかつ有能な人もなかにはいるだろうから、色々であることはたしかである。上のほうの地位にいる人がすべて有能ではないというのは言えそうであり、必ずしも適材適所ではないことは少なくはない。ほんとうに適した人が上のほうの地位にいるのかを改めて見ることができる。政治が関わってくるところである。適した人が上の地位にいるのかどうかは、正統性が関わってくる。実質の正統性を見いだしづらいことは少なくない。そうだからといって、抗いがたいこともあり、従わざるをえないこともある。従っているからといって、実質として正しいことだとは必ずしも言えそうにない。

国家が一人ひとりの人間をきっちりと包摂するべきであり、差別や排斥をなくせればよさそうだ(人間が人間を人間に当たらずとするのは人間が決めたことにすぎない)

 人はきっちりと一つの国家に帰属しないと、人間にはならない。他国を理解することもできない。育鵬社による公民の教科書には、こうした内容が記されているそうだ。これは作家の曽野綾子氏の言っていることを引用したものだという。

 人はきっちりと一つの国家に帰属しないと人間にはならないということだけど、これは正しい見解だとは受けとりづらい。きっちりと一つの国家に帰属するとはいったいどういうことなのだろう。きっちりという形容詞をどうとらえたらよいのかが定かではない。きっちりと国家に帰属していない人は人間にはならなくなってしまう。そんなおかしな話はない。

 人間であるというのは、何か条件がつくものではないものだろう。きっちりと国家に帰属しているかぎりで人間であるというのでは、条件がついてしまっている。そうではなくて、人間というのは一つの目的であるのだから、それ自体として尊重されるものである。何かのための手段なのではない。

 近代においては、国家というのは人々の契約によって成り立つ。人々が契約を結ぶことで国家権力が外に叩き出される。社会契約説ではこのような見かたをとることができる。この説によると、国家ができあがる前に人間がいるとできるから、人間のほうが先行していると見なせる。国家が先行しているのではない。

 社会契約説は本当のことではなく、説明として言われていることだから、それを差し引かないとならないことはたしかである。性悪説に立ち、人間どうしが終わりなき争いをする。万人が争い合う。内乱集団であるビヒモスのありさまはのぞましくないため、それをなくすために国家であるリヴァイアサンがとられる。完全に争いがなくなるわけではなくて、リヴァイアサンとビヒモスの対立は国家の中に残存するという。リヴァイアサンという巨獣が、ビヒモスという獣を抑えつけているのが国家であるそうだ。

 情念がビヒモスであり、内戦をあらわす。理性がリヴァイアサンであり、情念であるビヒモスを抑えこむ。理性によって原始の契約が結ばれる。理性が情念を抑えこむのは、契約があるからである。理性により契約を結ぶことが合理であるとなる。

 情念によるビヒモスは本音に当たり、理性によるリヴァイアサンは義理や建て前に当たるかもしれない。世の中は建て前で動いてゆくものではあるけど、しだいに本音との隔たりがおきてくる。理性が現実とずれてくると、情念に打ち勝てなくなり、情念による反逆を許す。理性が退化したり、野蛮に転化したりすることもないではない。理性は道具化する。退廃(頽落)を引きおこす。

 リヴァイアサン海獣であり、神であり巨獣であるとされる。国家は一つのリヴァイアサンであり、リヴァイアサンどうしが争い合うのが国際関係である。国家どうしが争い合うのは社会契約説でいう自然状態なので、平和の手段によって争いのない社会状態にすることができればのぞましい。社会契約説はつくりごとであるとしても、国家どうしが争い合う自然状態は現実にあるものだとできるし、自然状態は現実のことだからしかたないとすることはできない。死をいとわない国家どうしの争い合いは、自己欺まんの自尊心によるものであり不毛なものである。

 リヴァイアサンであるのが国家だけど、それは絶対のものではない。地方分権による地域主義からすると、国家はリヴァイアサンではなくビヒモスに当たるのだという。国家はリヴァイアサンでありかつビヒモスでもあるので、両義性をもつことになる。両義性をもつものは排除されたものであり、契約により国家権力が外に叩き出されたことをあらわす。それが上方に排除されることがあるし、下方に排除されることもある。

 国家が先行していると見なすと、国家を本質であるとすることになる。本質は存在に先立つというものである。これは本質主義による見かたであり、本質の語に国家の語を代入することが可能だ。それとはちがう見かたとして、実存主義がある。実存は本質に先立つというものだ。国家よりも(人間である)実存のほうが先立っている。

 育鵬社の公民の教科書に引用されているものの中で、曽野氏は地球市民というのを否定しているようだ。それは現実としてありえないものだという。それぞれのちがいを認め合い、そのちがいを超えて受け入れる。相手が困っていたら助けの手を差し伸べる。そうしたのがインターナショナルということにほかならないという。

 地球市民は現実としてありえないということだけど、はたしてそういうふうに言えるものだろうか。たとえ現実にありえないからといって価値がないとは言い切れないのがある。現実にありえなくても理想としてかかげることはできる。現実にはまだありえないからこそ理想として掲げる意味があるとできる。

 地球を一つの全体とすると、一つの国はその部分に当たる。部分どうしはそれぞれにつながり合っているものであり、部分が単独としてあるわけではない。部分は単独として意味があるわけではない。部分とは別に、全体はどうなのかといった視点がもてればよいのがある。全体といっても、それを見わたすことはできづらいし、できているわけでもないのだけど、地球という全体の中の一部分として人為で区分けされたのが国家だろう。その国家を絶対化せずに相対化するために、地球市民による超国家(トランスナショナル)の見かたがあってもよさそうだ。

 参照した文献:『リヴァイアサン長尾龍一 『ケルゼンの周辺』長尾龍一 『資本主義』今村仁司編 『トランスモダンの作法』今村仁司他。

権力についての疑惑をとり上げるのは、まったくのでっち上げであってはまずいものだけど、臆することはいりそうにない(謙虚さと自信があればよい)

 政権と省庁への疑惑を、新聞社がとり上げた。疑惑をとり上げたのは朝日新聞社である。朝日新聞へ向けて、疑惑をとり上げたからには、立証する責任がある、とする声が投げかけられている。

 この意見では、疑惑をとり上げた朝日新聞が(投げ返さないとならない)球を持っていることになる。しかしそうではなくて、球を持っているのは政権と省庁であると言えそうだ。少なくとも、朝日新聞が球を持っていて、政権と省庁が球を持っていない、ということにはなりづらい。それぞれが球を持っているが、比重としては政権と省庁に球の重みがかかっている。

 立証する責任は、一方だけにあるのではなくて、双方にあるのだとできれば、一方向ではなく双方向になる。球の投げ合いとして双方向にできればよい。疑惑をとり上げた朝日新聞だけではなく、政府と省庁も球を持っているのだから、投げ返さないとならない。どういった倫理をもっていて、何をのぞましいこととして何をのぞましくないこととしているのかを示す。のぞましくないことをしたおそれがあるのなら、それを払しょくするように努める。ごまかしたり隠したり時間かせぎをしたりしないようにするのがよい。

 政権と省庁への疑惑について、朝日新聞がとり上げたわけだけど、これをとり上げなかったとしたらどうだろう。とり上げなかったこともないではない。もしとり上げなかったとしたら、疑惑が見すごされてしまったことになる。

 場合分けをしてみたらという話にすぎないのはあるのだけど、政権と省庁が疑惑をもたれていることをじっさいにやったとして、それをどこの新聞社もとり上げなかったことが想定できる。朝日新聞をはじめ、その他の新聞社がどこも疑惑をとり上げない。どこもとり上げないのだから、政権と省庁はまんまと不正を隠しおおせたことになる。これは大変にけしからんことであるのはまちがいない。

 疑惑を持たれていることが、本当のことであるという確証は持てないわけだけど、疑惑が本当のことであり、かつそれが見すごされてしまう、というのはもっともまずいことである。不正が行なわれたことになり、それが表に発覚せずにすむ。そうであるよりかは、明るみになったほうがのぞましい。明るみになるようにすることはとても意義があることである。それをやったかもしれないのが朝日新聞であると言えそうだ。

 政権や省庁が疑惑としてとり上げられている不正を行なっていたとして、それが明るみに出ずに、まんまと隠しおおせたとする。知られずにすんだとするのであれば、応報律として正しくないことであると言わざるをえない。公において不正を行なったのであれば、応報を受けないとならないのがある。矯正(つり合い)の正義である。罪があるとして、罰がないのだとつり合いがとれていない。応報によるつり合いは、そうあるべきこととしての当為(ゾルレン)であると言えそうだ。

 不正をまちがいなくはたらいたのだとは言い切れないのはあるかもしれないが、いまの政権や省庁であれば、小さな不正は行なってもかまわないということだと、示しがつかない。二重基準であるのはのぞましくはない。公(国家)と私(民間人)や、かつてと今とこれからの政権において、二重基準でないようにすることがいる。小さな不正を行なってしまうのがあるとして、それでどうして大きな正を行なうことができるのだろう。小さくない不正であれば、なおさらのことである。小さめの不正であるのだとしても、一見するとつけたり(剰余)のディティールのところに大きな意味があらわれることがあるから、おろそかにしないようであればよい。

代理人費用を支払うことにたいする吝嗇(りんしょく)のつけが大きくなりすぎるとあとではなはだやっかいである

 政治家と役人がお互いに協力し合う。国会において、お互いに足並みのそろった受け答えをする。役人が政治家のためになり、政治家が役人のためになる。持ちつ持たれつというふうだ。政治家を手助けした役人は、あとで厚いもてなしと報奨を受ける。なあなあのあいだがらとなってしまう。

 なあなあのあいだがらになってしまうと、代理人費用(エージェンシー・コスト)が支払われなくなる。その費用が支払われないことにより、あとで大きなつけがおきてしまう。大きなつけを支払わないとならないようなことになる。

 日ごろからきちんと代理人費用を支払っていれば、あとで大きなつけを支払わないとならないようなことにならずにすむ。なあなあのあいだがらにならないように努めるようにするわけである。

 代理人費用を支払うのをけちってしまうと、権力が分散されるのが損なわれがちになる。抑制と均衡(チェック・アンド・バランス)がとりづらい。権力が一か所に集約されやすくなるので、効率はよくなるかもしれないが、適正さや公正さが欠けてしまいかねない。

 代理人費用をきちんと支払うのは、ちがう考えをもったありようを認めることになる。ちがう考えをもったありようを認めないで拒むのだと、代理人費用をけちることになる。ちがう考えをもったありようを認めないで拒んでしまうと、考えが分散されなくなり、一つに集約されがちとなる。その考えがもしまちがっているとすると、総崩れのようなことになってしまう。不安定である。

 不安定であるのを避けて安定させるようにするためには、代理人費用をきちんと支払うことがいりそうだ。ちがう考えをもったありようをうとんじないで、あるていどは認めることがあるとよい。同じ考えをもつありようばかりを歓迎しないようにする。

 同じ考えであるのだけだと、一つしかないのだから、投資でいうと一点張りのようなことになる。一つの対象だけに投資するのは安全ではない。いくつもの対象に分散させておいたほうが危険さは少ない。いくつもの対象に分散させておくことで、危険さをヘッジさせることができる。代理人費用を支払うことになるわけである。つり合いを大きく損ねないようにするための費用である。

 同じ考えをもつありように協力を求める。それで友とする。協力してくれないような非協力のありようをとるのを敵とする。このように分けてしまうと、同じまたは似たような考えをもったありようで固まることになるので少なからず危うい。

 全面として自分たちに協力してくれることが益になるとはかぎらないし、非協力なのがすなわち不益になるともかぎらない。非協力なのが不益にならずに益になることがあるというのは、非協力だからといってそれをすぐに遠ざけないようにすることで、代理人費用を支払うことになるのがある。非協力なのにも理があるとすることができて、それを受け入れることができれば、一か所に集約しすぎてしまうのを防いで、分散させることにつなげられそうだ。そうすると安定しやすくなるのがある。

 なぜ代理人費用を支払うのをけちってしまうのか。色々な理由がありそうだけど、一つには、いさぎよさをもってしてよしとしてしまうのがあげられる。いさぎよさにより、自分たちと同じ考えをもち協力してくれるありようをすぐに友と見なす。そうでないありようのものをすぐに敵と見なす。いさぎよく分けてしまうようなあり方である。

 いさぎよく分けてしまうと、ねばりがとれなくなる。いさぎよく分けてしまうのではなくて、ねばりを持ったほうがよいことが少なくない。ひとくちに友といっても、悪い友もいるし、悪い協力もある。ひとくちに敵対といっても、よい敵対もあるし、よい非協力もある。よい友やよい協力ばかりではなく、また悪い敵対や悪い非協力ばかりでもない。よい友やよい協力を利用しようとするだけではなく(それが絶対に悪いことだとは言えないのはあるが)、敵対や非協力を逆利用することもあればよい。逆利用するというのは、そこに理を見いだすのができることがあるから、そこを尊重するものである。

因果関係については、政権に問題がある(あった)とする見かたも成り立ちそうだ(一つの見かたとして)

 公の文書を改ざんしたと見られている。この改ざんは公文書偽造に当たるようだ。それを行なったのは省庁の官僚の人たちであるとされる。官僚の人たちは、はたして能動で文書を改ざんしたのか、それとも受動でさせられたのかが、はっきりとしていない。

 改ざんした文書は、官僚の人たちの手によるものだとして、それによって政権を転ぷくさせることができる。官僚の人たちは、文書を改ざんすることによって、そのときの政権を倒せるというわけである。たしかにそうしたおそれもないではないものと言えそうだ。そのおそれはないではないだろうけど、あくまでも可能性の一つというのにとどまっているのもたしかである。

 政権は改ざんされた文書について責任がないのかといえば、そうとは言い切れそうにない。責任についていえば、それがあるとするにいたる因果関係はまったくない、とする意見もあるようだ。政権に責任はなく、悪くもなく、非もないということである。この意見では、因果関係はまったくないとしているけど、まったくないと言い切ってしまうことはできそうにない。

 文書が改ざんされたのは、一つの結果であるとできる。その結果がおきたのはなぜなのかとして、原因をさぐって行くことがいる。方法論として、結果についての原因を探って行ければよい。これを見て行くにさいしては、問題意識がどうなのかによって見かたが変わってしまうのがあるから、一つの問題意識によるだけではなくて、いくつもの問題意識によって見ることがいる。一つの問題意識によってとらえるだけだと、それがまちがっているととらえ方もまた誤ってしまう。

 政権にまったく非がなく、悪くないとするのは、被害者だと言っていることになる。被害者であるとするのであれば、加害者は官僚の人たちということになる。この被害者と加害者のとらえ方は、色々と変えて見ることができるのもたしかである。加害者であるとしているのが、レッテル張りによっているおそれがある。いちど加害者のレッテルが張られると、それがまちがったものであったとしても、なかなかとり払いづらい。権力チェックであればあるていど(試しに)レッテルを張ることがいるものではある。レッテルを張るというと語へいがあるかもしれないが、権力については性善説ではなく性悪説で見ることがあるていどはないとならない。

 政権は、自分たちのことを被害者であるとするのだと、自分たちに原因はまったくないとすることになる。そして官僚の人たちにすべての原因を押しつけることになる。こうした原因の当てはめ方が、ふさわしいものなのかどうかは定かではない。政権は自分たちを自己防衛したいから、自分たちを被害者だと見なしているおそれが低くない。これは自己欺まんであり、問題の解決にはなっていないものである。きちんと問題を解決したいのであれば、自分たちにもまた少なからぬ原因があったとして、非を認めるのをいとわないようにしないとならない。

 かりに政権が被害者であるのだとしても、だからといってまったく責任を負っていないわけではない。とり沙汰されていることについて、何の関わりもなく、当事者ではないのであれば、責任はそれほどないかもしれないが、当事者として関わっていて、責任のある立場(地位)にいるのであれば、責任をとることがいる。責任をもって事態の解明にできるかぎりの力を注いで行くようにしないとならない。

 政権は自分たちを被害者だとしたいのかもしれないが、それが許されるかどうかが定かではないし、かりに許されるのだとしても、事態の解明についてはできるかぎりの力を注がないとならないのは変わらない。そうしないことには、誰が加害者で誰が被害者なのかはわからないままになってしまう。うやむやにするのはのぞましいこととは言えそうにない。

どの水準の議論であるのかといった、想定している議論における水準の高低のちがいがありそうだ(日常のではない、きちんとした水準の議論をするのであれば、議論の基本の技術をきちんとふまえていないとならない)

 議論をしましょう。首相はそのように言う。この発言では、議論をしましょうと言っているわけだから、そのまま受けとると、議論をしようといっているのはたしかである。議論をしようと言っているのだから、それをそのまま受けとるのが正しいのかというと、必ずしもそうとは言い切れそうにない。

 ほんとうは議論をしたくはないのにもかかわらず、議論をしようと言っているおそれがある。このように見なすのは、首相の言っていることをまともに受けとってはいないので、首相のことを否定してしまっていることになると受けとられるかもしれない。そう受けとられるおそれはあるけど、ふさわしい判断をするためには、権力者が言っていることをいちおうカッコに入れなければならない。

 議論をしたいという意図をもっているから、議論をしようという発言をするのだとは、必ずしも言えないのがある。議論をしたくはないのにもかかわらず、口では議論をしようと言うことは可能である。頭のなかにある意図と、口で言うこととは、必ずしも合うものではない。その二つが合っていないこともある。合っていないのであれば、口で言うこととは違う意図をもっているとすることで、意図をおしはかることができる。そうした見解をもつことができる。

 議論をしようということで、議論をやり合うのだとしても、それが形だけのものなのであれば、生きたものであるとは言いがたい。議論とは、それほど易しいものではないだろう。それは言われるまでもなく、すでにわかっていることかもしれないので、改めて確かめるといったことになる。

 議論をしようというのは、そもそもの話として、議論は易しいものではない、との認識からはじめるのがよいのではないかという気がする。そんなことはわかりきったことであり、改めて言われるまでもない、というのはあるだろうけど、いちおう確かめておきたい。そもそも議論は易しいものではないとわかっているのであれば、議論をしましょうと気やすく口にはできないのではないかという見かたも成り立つ。議論をしましょうと口にして、それですぐに仲よく議論ができるほど易しくはないのではないか。

 議論をしましょうというのは、そもそも議論をしているのがあるわけだから、そこまで意味がある発言とは言えないかもしれない。議論をしましょうと口にするのとは別に、議論を評価しましょう、というふうなことが言えそうである。議論を評価することがないと、議論の中身が改められることがのぞめない。

 どういう基準をもってして評価するのかがある。そのものさしがないと、評価をすることができづらい。議論をすることはできても、適否みたいなものがないがしろになってしまう。評価することがないのだと、そのまま流れていってしまうのがある。フローのあり方である。それだとのちに積み上がって行きづらい。積み上げて行くようにするのであれば、評価をするようにして、よくない評価のものについては、それを改められればよい。そうすることで、少しずつ改められるのがのぞめる。ストックのあり方である。

 議論をしましょうとして、議論をうながすだけでは、フローのあり方がとられることになるとしても、ストックのあり方がとられる保証がない。ストックのあり方をとるようにするためには、議論をうながすだけではなくて、議論を評価することをうながすのがよい。議論の中での一つひとつの発言について、ふり返るようにする。これはどうだとかいうふうにして、ものさしに照らしてていねいに見てゆく。それで、次にはなるべくこうしようだとかいうことを省みられる。そうすれば、ストックのあり方がとりやすくなり、積み上げをすることにつなげられる。

 ふり返りをおこさせられればのぞましい。ふり返りをおこさせるには、質問をするとよいそうである。どういったことが行なわれたのかは記録に残るものであり、実証のものである。都合の悪いものが故意に抹消されないかぎりは、議事録に記録される。その実証があるとして、それにたいしてよいか悪いかを一つひとつ見て行く。悪いものは、なぜ悪いのかとして、要因をさぐってみる。どうするのがのぞましいかについてを見て行くことができる。

 議論の水準がどうなのかといった点も無視できそうにない。一と口に議論といっても、さまざまな水準のものがあるそうなのだ。その水準がかみ合っていないと、くいちがいがおきてしまう。日常のものであれば、それほどきちんとしたやり取りをすることはいりそうにない。日常のものではなくて、公のことがらについてをやり取りするのであれば、日常の感覚の延長で行なってしまうのはまずい。低く評価せざるをえないような発言はなるべくしないようにすることがいるだろう。それは日常におけるあり方であるからである。公のことがらをやり取りし合うさいにはふさわしくないと見なさざるをえない。低く評価せざるをえない発言はなるべく行なわないほうがよいものだというのがあれば、日常の水準から脱しやすくなりそうだ。