かもしれない運転と、だろう運転と、である運転があるかもしれない

 かもしれない運転をする。自動車を運転しているさいに、大丈夫だろうとはせずに、人が急に飛び出してくるかもしれない、といったように、神経を配っておくようにする。そうしたことが、国内にスパイやテロリストが潜伏していることについても言えるのだという。はたしてそうしたことが言えるのかどうかを改められる。

 たしかに、スパイやテロリストが国内に潜伏しているのかもしれない。それは、自動車の運転で言うところの、かもしれない運転に通ずるのがないではないものだろう。そうしたのはあるが、それはあくまでもかもしれないの水準にとどまっているものである。なので、かもしれないという水準にふさわしい表し方をするのがかなっている。必然性として表してしまうと、自動車の運転でいうところの、だろう運転やである運転のようになってしまう。そうではなくて、可能性として表すのがふさわしい。ゆるい表し方だ。

 かもしれないであるようなものを、だろう運転における、だろうであると見なす。それをさらに飛び越えて、である、というふうに断言してしまう。そのように表してしまうと、飛躍がおきてしまっているため、適切であるとは言いがたい。最初にあった、かもしれないの水準が忘れ去られてしまっている。かもしれないにおいては、ある種のネタみたいなのが入りこんでいる。そのネタのところが捨て去られてしまい、マジのようにとりあつかうのだと、ネタをマジだととりちがえることになるおそれがある。ネタというのは、偶像(イドラ)といってもおかしくはない。そうしてネタと言い切ってしまうことはできないのはたしかなので、マジであるかもしれないのはある。

 かもしれないをいうのであれば、そうであるかもしれないのだけではなく、そうではないかもしれないともできるのがある。そのように場合分けができる。そうではないかもしれないという方のかもしれないは、そうであるかもしれないよりも、目立ちづらい。目立ちづらいから重要ではないというふうには言えそうにはない。むしろ、目立ちづらいけど重要なのだというふうにもできる。なので、一方のかもしれないだけではなく、もう一方のかもしれないも踏まえられるとよさそうだ。でないと、自動車の運転でいうところの、だろう運転になってしまう。さらに行きすぎてしまうと、である運転のようになる。

 おもてなしとして、客迎え(ホスピタリティ)が関わってくるのがあるかもしれない。自分たちといちばん遠いところにいる人は敵対者や外部の者であるわけだけど、そうした人をおもてなしして客として迎え入れる。友を客として迎え入れるのは当たり前だが、そうではなくて敵対者や外部の者を客として迎え入れるのが肝要である。そのようにすることで、敵対者や外部の者であったのが友となる。確実にそのように変わるとはいえないわけだけど、そのように変わることが絶対にないとはいえそうにない。このようにして変わることがあれば、それも一つの安全保障となると見ることができる。試しとしてやるのも一つの手だろう。

 そんなお花畑のような甘い話が現実におきるわけがないというふうにも言えるかもしれない。たしかに、自分たちからいちばん遠い人を客として迎え入れるのは、合理の回路から外れるようにするのでないと、なかなかできるものではない。そのうえで、人類の文化の一つとして、こうしたならわしが知恵として古くから行なわれていたのもあるという。なので、まったく荒唐無稽の話とまでは言えそうにない。日本には、おもてなしという言葉があるのも無視できない。この語句のあらわす意味をあらためて見ることができる。かつての鬼畜米英は、今では敵ではなく友となっているのがある(基地の問題では米とは一部でもめてしまっているのはあるが)。

差別に当たるのかどうかというのは、そうした意図があるのかどうかと、結果として差別に当たるかどうかを見ることができる

 差別だという人こそ、差別主義者である。差別につながりかねない発言だとする他からの批判を受けて、そのような批判を言う人こそが差別主義者であるのにほかならないとする。このようにして、何々と言う人こそが何々だ、とすることもできるわけだけど、そこには問題がないわけではない。

 差別だと言う人こそ差別主義者なのだというのは、差別だと批判をする他の人に原因を当てはめてしまっている。差別だと批判をする他の人に原因があるのであり、自分に原因があるのではないとしているわけだ。これは自己防衛による回避のあり方である。こうして回避してしまうと、自己欺まんになりかねないのがある。欺まんになってしまうのを避けるには、自分にもまた(批判を受けるだけの)原因があるのではないかと省みるのがあるとのぞましい。

 この程度の議論が認められないのであれば、国の安全保障を論じ合うことはできない。そのように言うのがあるとして、そこで言われるこの程度の議論というのが、はたしてどんなものなのかが問題だ。それが陰謀理論なのであれば、程度の高い議論であるとは見なしがたい。むしろ、そうした陰謀理論をとりあげないほうが、国の安全保障を論じるうえで有益といえるだろう。陰謀理論が入りこむと、議論の程度が低くならざるをえない。

 議論の程度が低くなるというのは、一つには危機をあおりすぎることになりかねないのがある。危機には認識があるわけだけど、その認識は利害関係による。多数派に利があり少数派に害があるような認識になってしまうのだとまずい。少数派が悪玉にされて、排除されかねないのであれば、その懸念は小さく見積もられてよいものではない。

 危機の認識をもつなというわけではないが、できれば文脈を一つに固定せずに、持ち替えられればよいのがある。文脈を一つに固定すると陰謀理論におちいる。そのようにしないで、固定させないようにすれば、参照点を変えることができる。危機を高く見なしたり、低く見なしたりすることができる。低く見なしたほうが妥当なこともあるわけだから、そこを軽んじないようにできればのぞましい。安全の押しつけのようになってはまずいのがあり、誰がどのような安全をのぞんでいるのかを、なるべくきめ細かく見ることができればよいのがある。それぞれの遠近法というものがある。

 差別になりかねないのであれば、差別は合理の区別とはいえないわけだから、合理の議論につながりづらいのがある。合理による議論をするためには、できるだけ差別につながらないような配慮をするのがあってよい。国の安全保障という大きな言葉(ビッグワード)を用いるとして、その大きな言葉の影に隠れるようにして抑圧や排斥がおきてしまうのだとしたらそれはのぞましいことではない。そうしたことがおきないようになるべく気をつけるのがあるとよさそうだ。

 国の安全保障といった大きな言葉にまぎれこんで、差別につながりかねないような言動が流れるとして、それに簡単にそそのかされないように気をつけないとならない。弱者や少数者における人間の安全保障は、国と比べたら言葉は小さいかもしれないが、だからこそより重要だ。国という全体は幻想性によるものであり、虚偽であり、不真実であると見なすことができる。観念である思いこみによるところが小さくない。

 国民にとって最大ともいえるような不幸をもたらすのが戦争なわけだから、それをできる限り引きおこさないようなことができればのぞましい。そうした点に立つのにおいて、なるべく国からの精神または物質の利得を得ようとしないようにできればよいのがある。そうした精神または物質の利得を国から得ようとすると、戦争につながりやすくなるという。国からの甘い誘惑やささやきとして、利得を与えられるのがあるとして、そうした誘いに簡単にのらないような勇気があればよい。勇気というのは、にも関わらずという精神である。人それぞれだから、それはそれで必ずしも悪いとは言い切れないかもしれないが、もし国からの甘い誘いにのってしまうのだと、権力の奴隷となり、太鼓もちとなると言ってもさしつかえがない。

出演者への忖度をするのはどうなのだろう(よかれと思ってのことだからよしとなるとは必ずしも言えない)

 戦争がおきたとする。そうなると、ふだん日本の大都市などに潜伏している北朝鮮のテロリストが、日本をおとしいれるために動きはじめる。そのような発言が、テレビ番組の中で語られたという。その発言をした出演者によると、かりに、戦争かなにかで北朝鮮の最高指導者である金正恩が殺されたとしたら、テロリストはそのときに、外部との連絡を一切断って、自分で動きはじめるそうだ。それで日本をのっとるつもりだというのだろう。

 これは、政治学者の三浦瑠麗氏がテレビ番組に出演したさいに語ったことだそうである。この発言が一部で波紋を呼んでいるようである。批判する声もあり、その逆に擁護する声もある。擁護というのは、あくまでも可能性としてはあるかもしれないことだというわけである。たしかに、可能性ということでいうと、まったくないことだとは言えそうにない。

 三浦氏が出演したテレビ番組には、お笑い芸人のダウンタウン松本人志氏も主要な出演者として共演していた。その松本氏によると、番組に出演した人が、番組を盛りあげようとして、サービス精神を発揮することがあるという。それによって出演者が世間から叩かれるのは残念だ、といったようなことを松本氏は言う。その場を盛り上げるために、サービス精神を発揮するのは、番組にとってはよいことかもしれないし、そうした意図は悪いことではないだろう。しかしそれによる結果がどうなのかは問題だ。盛り上げ方や、サービス精神の内容や質が問われる。確からしさがあまり高くはないような情報を、さも本当のことであるかのように言うのだと、問題がないとはいえない。

 番組の中での三浦氏の発言は、可能性としては否定できないところがあるかもしれないが、あくまでも仮定によるものである。もしかりに戦争がおきたらだとか、いざというさいにはだとか、かりに最高指導者の金正恩が殺害されたらだとか、ということである。このようにして仮定に仮定を重ねると、さも本当のことであるかのように耳に響きかねない。しかし、そもそも仮定のうえに成り立っているものなのだから、(仮定だから絶対に現実にはおこらないとは言えないにせよ)その根拠がどうなのかを見なければならないだろう。

 北朝鮮のテロリストが日本の大都市に潜んでいるとしたり、そうしたテロリストがいざというさいに日本をおとしめるために動き出すとしたりする。このように見なしてしまうと、日本は善で北朝鮮は悪というふうに見なしかねない。現実はそこまで単純なものではないだろう。日本人の中にも社会において悪いことをする人はいるわけだし、すべてが善なわけではない。そうしたことは関係によって規定されるところがある。日本は善で北朝鮮は悪だとするのだと、(原因)帰属の錯誤となってしまう。

 ほんとうに北朝鮮のテロリストが日本の大都市に潜んでいるかどうかは、確かめようがないのがある。戦争などのいざということがおきたとして、それでふだんから潜んでいたテロリストが動き出さなかったとすれば、テロリストなどというのはもともと潜んでいなかったおそれが高い。そういう形でしか否定できないものであり、開かれているものとは言いがたい。一つの物語であると言ってさしつかえがない。

 可能性ということでいえば、なにも北朝鮮にかぎらず、あらゆる国からのテロリストが潜んでいるおそれを捨てきれないのがある。自分以外はみんな敵だといった発想に立てば、そうした見なし方ができる。日本をおとしいれようとする魂胆を、北朝鮮を含めて、それ以外のあらゆる国が持っていないとは言い切れない。敵と見立てようとすれば、どこまでもできてしまいそうだ。そうした見かたができるのはありそうだけど、それと同時に、そうした見かたをとることを疑うことができる。実体のないものを、テロリストだとして対象化しているおそれが無くはない。

言い訳をするのは必ずしもみじめではない(完全に反証から逃れようとするのだとみじめかもしれない)

 報道した記事について、朝日新聞は、その一部に誤りがあったことを認める。それにたいして謝罪はしなかった。そのことについて、ウェブで批判の感想を述べたのは、安倍晋三首相である。フェイスブックにおいてそうした書きこみをしていたようだ。その書きこみは削除されたようである。

 哀れであり、いかにも朝日新聞らしいみじめな言い訳である。予想通りであった。こんなかんじの書きこみだったようである。首相が朝日新聞にたいして決して小さくはないうっぷんの感情をもつのも分からないではない。そうしたのはあるわけだけど、一組織にたいして、哀れだとかみじめだとかという形容詞を使うのはどうなのだろうかという気がする。適したものであるとはちょっと言いがたい。国の長の地位にあるのなら、人または集団がもつ可能性を尊ぶようにして、一方的にこうだと決めつけないようであればよい。

 朝日新聞らしいみじめな言い訳だと首相は言っているのがあるけど、これについて改めて見てみると、はたして朝日新聞らしいということが言えるのかというのがある。誤った報道をして、それについて言い訳をするのは、なにも朝日新聞にかぎったことではない。近いところでは、産経新聞が誤った報道をしたのがある。それについて産経新聞は誤りを認めていて、謝罪もしているようだけど、潔い姿勢をとっているかといえば、そうとも言えそうにないのがある。

 どこの新聞社であっても、誤った報道をしたのがあるとして、それについて弁明や言い訳を多少はするものだろう。そうした弁明や言い訳は、それなりの理由があってのことであるとすると、必ずしも言い逃れだとはいえそうにない。誤りがあったのにもかかわらず、それをまったく認めないのであればのぞましくない。そのように認めないのではなく、いちおうは認めているのであれば、確証(肯定)が崩れて反証(否定)されたのを最低限は受け入れていると見なせる。反証から完全に逃れようとしているとはいえないものだろう。

 反証から完全に逃れようとするのは、一見すると極端なあり方ではあるけど、そのようになってしまうことがある。まちがっていたり失敗していたりするのにもかかわらず、それを認めないで、あくまでも正しいとか成功しているとかというふうにしつづける。このようなふうにするのではなく、非を自分で最低限は認められるのであれば、それは哀れではなくみじめでもない。哀れであったりみじめであったりするのは、どちらかといえば、非を自分で認めないで中和化してしまうことである。中和化とは、非であるものを、非ではないとすることである。反証を受け入れずに確証をもつ。

 朝日新聞は謝罪することがいるのかというのは、たしかに謝罪があってもよいのがある。しかしそれは、あくまでも自発でやるのがよいものであり、ほかの人から言われてやるのではしかたがないというか、あまり意味があるものとは言えそうにない。謝罪をさせられるというのでは外圧によっていることになる。それに加えて、謝罪をしなければならないのは朝日新聞にかぎったことではなく、ほかにも色々とあるのはたしかだ。謝罪をする必要ということでは、その必要は色々なものが持っていると見なすことができる。特定のものが謝罪をするのではなく、謝罪をし合うという形をとるのがふさわしい。謝罪し合うというのはちょっと変なことかもしれないが、そうしたことができれば、それぞれがお互いに成長するきっかけをもてる。

そりの伝説化

 下町ボブスレーとして、ボブスレーのそりをつくる。東京都の大田区の町工場がもっている技術をそこに活かす。そうした動きを国もあと押ししていた。それで、ボブスレーのジャマイカチームに使ってもらう契約だったのが、とりやめになる方向だという。偶然に使ってみたラトビア BTC 製のそりが、日本の下町がつくったそりよりも具合がよかった。それでジャマイカチームは新たにラトビア BTC 製のそりを使うことに決めたという。

 日本とジャマイカチームが結んでいた契約の内容は、改めて見るとちょっとおかしい。そりを使うぶんには無料であり、契約を破棄したさいには開発料の四倍となる六八〇〇万円もの額を支払わないとならない。なぜこのような内容になっているのかというと、日本としては、ジャマイカチームにそりを使ってもらうことで、評判が高まり、うまくすればそのごにそりの注文が他からやってくるのを期待していたのだということである。

 本当に技術をもっていて、それが高いものであるのなら、そりを無料で使ってもらうという契約の内容ではなくて、きちんとそれなりのお金を支払ってもらってそりを使ってもらうようにするほうがよさそうだ。そのほうがあと腐れがない。使うぶんには無料だけど、契約を破ったら高額の支払いをしないとならないというのは、ジャマイカチームにそりを使ってもらって、宣伝してもらうという日本の側の魂胆が透けて見えてしまっている。

 下町ボブスレーとして、相手にそりを使ってもらうかどうかは、交渉が関わっていそうである。下町ボブスレーのそりを相手に何としてでも使わせるというのだとちょっとおかしい。そりが世界にいくつもある中で、どれを使うかの意思決定権はジャマイカチームにある。契約を結んだのだから使うべきだというのは、下町ボブスレーのそりがきわめて優れたものであり、世界一のものであることが前提となっているものだろう。もしそうではなく、ほかのそりのほうが優れていることがわかったのであれば、優れているほうを使いたくなるのが人情である。

 契約を破ったら高額の支払いをしなければならないのだから、そうそう簡単には破らないだろうというのは、趣旨がずれてしまっているところがある。あくまでも優れたそりだから使ってもらうようにするべきであり、そこが肝心なところとなる。そうして使ってもらうことで、結果としてそりの名声が上がるのであれば不自然ではない。しかし、はじめから宣伝を見こしてそれを目的とするようなやり方でものごとを進めているようなのだと、見こみちがいもおきてしまう。

 契約を結んだのは参与(コミットメント)であり、それがずっと守られるのであれば、さしたる問題はおきない。しかしその参与が破れたことで、問題がおきることになった。下町ボブスレーのそりよりも、ラトビア BTC 製のそりのほうが優れているのだとすると、そちらを使ったほうがジャマイカチームにとっての満足度は高い。

 日本としては、あくまでも下町ボブスレーのそりを使って、ジャマイカチームに結果を出してもらいたい。そうしたもくろみがあることは確かだろうけど、そうしたもくろみによる思わくが強ければ強いほど、お笑いで言われるフリみたいなのがきいてしまう。落ちとして、もくろみがこけてしまうおそれが生じてくる。期待が大きいほど、それにたいする裏切りもまた大きくなる、といったあんばいである。

 期待どおりにものごとが進めばよかったのはあるわけだけど、それとは別に、期待どおりにはものごとは進まないこともあるわけだから、そのときにどうするのかという視点があってよい。その視点として、契約を破ったさいに高額のお金を支払わせるというのがあったのだろうけど、そうしたことではなく、ジャマイカチームの満足度をいかに高めるかという視点がないと、ほんらいの趣旨から外れてしまっているのがある。もともとは、下町がもっている技術が高いから、ジャマイカチームに満足を与えられるというのがあるはずである。満足をうまく与えられないのであれば、技術が高いのではないか、もしくはうまく活かせなかったのがありそうだ。

母親の一般化を解くこともできるかもしれない

 あたし、おかあさんだから、という題名の歌の歌詞がある。これは、絵本作家ののぶみ氏によるものだという。歌がつけられていて、NHK歌のおにいさんを務めていただいすけおにいさんによって歌われている。歌詞を手がけたのぶみ氏によると、歌詞だけではなく、歌の曲調もあいまって一つのまとまりとなっているから、そこを見てほしいとのことである。

 歌を抜きにして歌詞だけを見ると、色々なとらえ方ができるのがある。それで、とても感動できる内容だと受けとる人もいれば、他方であまり賛同できないといった感想をもつ人もいるようである。替え歌もつくられていて、あたし何々だから、というふうに、おかあさん以外の語を当てはめて、だからこうであるといったことが言えるのがある。

 お母さんだからというふうに歌詞の中では言われているわけだけど、このような言い方だと、お母さんだからこうしなければならないとか、こうでなければならない、といったふうにとらえられることはたしかだ。お母さんというものを仕立てあげることになっている。言葉はちょっと悪いかもしれないが、排除型の人間観になっているふしがある。よいお母さんはこういうものであるとして、それ以外をそうではないものとしてしまいかねない。

 現実には色々なお母さんがいてもよいというのであれば、多様性を指向する人間観をとることができる。色々なお母さんのあり方があり、それが許される社会であるほうが、ゆとりのある社会であるということがいえるかもしれない。社会にとっても益になるところがある。

 父親や母親と、子どもという関係だと、緊張感が生じる。歌詞の中では、お母さんと子どもの関係に的がしぼられているので、なんとなく緊張感が感じられるようである。これを緩和するには、お母さん以外の人による手助けなんかがあったほうがよさそうだ。祖父母なんかがいてくれて、手助けをしてくれるのなら、そこにしばしば冗談関係が成り立つ。子どもにとっての緊張感も和らぐだろう。

 お母さんが置かれている現状というものがあり、その現状においては、お母さんは少なからず自己犠牲を強いられる。それははたして美しいものなのだろうか。そこが若干の疑問である。現状としてはお母さんは少なからず自己犠牲を強いられるのがあるとして、それは実証である。その実証から価値は導き出しづらい。価値は価値として、また別にとらえられるのがありそうだ。

 歌詞の中で、お母さんは、お母さんになる前は、自分のやりたいことをやったり、自分で生き抜こうとしたりしてがんばっていた。それがお母さんになってからは、子どものことばかりになった。子どもを優先させているのである。この二つのあり方があるとして、そのどちらかというよりは、中間あたりのあり方をとれないものだろうか。自分だけというのではなく、かといって自分以外の子どものためだけというのでもなく、そのつり合いがとれればさいわいだ。お母さんの自己犠牲ではなく、自己実現ができればのぞましい。それを許さない外からの圧や世情があるとすると、理想論ではあるかもしれない。

嘘八百の確証(肯定)と反証(否定)

 籠池氏は嘘八百である。森◯学園についての質問において、首相はそのように答えていたようである。この嘘八百というのについては、そうした題名の映画を首相は先に鑑賞しているそうで、そこから、この文句が口から出たのだろうか。

 籠池氏は嘘八百である、という発言について、この発言が嘘ではないのかというふうに見ることができる。この発言が嘘ではなく本当だというのは、何によって明かされるのだろう。嘘八百というさいの八百というのはじっさいの数字である実数ではなくて虚数と言われるものだろう。なのでそこは置いておくとして、籠池氏は嘘をついている、と決めつけることになる。

 首相の夫人である昭恵氏については、聞かれたことに誠実に受けこたえている、と首相は述べている。これについては、首相にとって夫人は身内なので、誠実にこたえているとはいっても、身内をかばうことは自然であり、つき放すことはできづらい。代理でこたえているというのもあり、夫婦といっても個人としては別人なわけだから、人格がぴたりと一致するわけではないだろう。

 籠池氏を嘘八百だとして仕立てあげてしまうのには賛同できないのがある。そうしてしまうと嘘になってしまうおそれがある。人間は言葉を用いることで、原理として嘘をつくことができる。嘘が少なからず入りこむ。真実そのものは開示できづらい。なので、八〇〇とは行かずとも、嘘一とか二くらいは誰でもついてしまうものである。嘘がゼロとはなかなか行かない。このさいの嘘とは、まちがいを犯すことを避けづらい、といったことでもある。無びゅうではいられないということである。可びゅう性をもつ。

 籠池氏が嘘八百だとして決めつけてしまうのではなく、とり沙汰されていることに関わった当事者が自分たちの口から直接に知っていることを語るのがあるとよさそうだ。そのようにして語ることがなく、たんに籠池氏を嘘八百と決めつけて片づけてしまうのだと、印象操作になりかねない。籠池氏が嘘八百だとして嘘をついているのではなく、逆に本当のことを語っているおそれがあることはたしかである。その可能性はゼロではないだろう。そこを尊重することで寛容さをとることになり、また無罪推定として見ることにもなる。そのように見ないと、籠池氏の立場を尊重するという正義が損なわれることになる。唯一にして絶対の正義というわけではないだろうけど。

 個が国家にたいして不正義をはたらいたのだ。そのように見なすこともできるかもしれない。そうした見かたとは別に、国家が個にたいして不正義をはたらくことに、十分な警戒をもたないとならない。国家は公であり、個は私である。公が私を押さえつけることはめずらしいことではないのがある。こうした図式による不幸は行なわれてきたものである。なので、私が十分に尊重されることがあるとのぞましい。国家の公の肥大は危険である。

 権力者やそれに近いところにいる人においては、有罪推定の前提で見ることは、権力チェックとしてあってよいものだろう。あまり行きすぎてしまうとまずいのはあるかもしれないが。とり沙汰されていることについて、白とはいえず灰色として見られるのがあるとすると、そこをできるだけ払しょくするように努める。そうした立証責任が権力者の側にはある。完全には立証できないとしても、できる手が残されているならそれをやることがあるとよい。

 権力者が言いがかりをつけられたさいには、自分で黒ではないのをなるべく証明する。そのさい、言いがかりをつけるのは、えてして野党(反対勢力)であったり報道機関であったりである。言いがかりをつけてくるところへ向けて、(権力者の側が)言いがかりをつけることもできなくはない。それが必ずしも悪いとはいえないのはあるが、自己欺まんにおちいってしまいかねないのがある。性格論として、人間そのものが悪いというのではなく、過去に行なった行動にあやまりがあるのなら、そこを認めるのがあってよいはずだ。そうした行動の非を認めずに、とり沙汰されていることの原因を外に当てはめてしまうのは、正しくない判断となりかねない。

もし否決の結果が出ても問題はないということであれば、そもそも問題がない(のではないか)、というふうにも言えそうだ

 憲法改正についての国民投票をする。それをして、否決の結果が出たらどうするのか。このような質問が国会で投げかけられた。この質問はとても有意義なものであり、かつ当然といえば当然のものだと見なせる。絶対に可決されるという保証はないからである。この質問について首相は、もし否決の結果が出たとしても、自衛隊の合憲は不変である、と答えたという。

 否決の結果が出たとしても、自衛隊が合憲であることには何ら変わりはないというのである。ここでいう自衛隊は合憲であるというのは、一つの言明としてとり出せそうだ。自衛隊は合憲であるという言明は、それ自体として成り立つものだと見なせる。そしてこれは、国民投票をおこなう前から成り立っているものだとも見なせる。そこから、当たり前ではあるが、自衛隊は合憲であるという主張がとれる。

 自衛隊は合憲であるのなら、国民投票をやることはいらないのではないか、というのが言えることはたしかだ。合憲であるのなら、とくに問題があるというわけではない。絶対ではなく、一つの見かたではあるが、そのようなことが言えるだろう。

 自衛隊憲法にきちんと位置づけるために、国民投票をする。そのような動機による動きがある。そうした動きは必ずしもまちがったものとはいえず、一つの意見であることはたしかだが、そのいっぽうで、別の見かたがとれるのもまたたしかだ。国民投票をやって否決の結果が出ても、自衛隊は合憲であることに変わりがないのだとすると、もともと自衛隊は合憲だということ(建て前)なのだから、国民投票をやらないのでもよい。

 国民投票は絶対に不要だとはいえないにせよ、それの必要性は必ずしも高くはない。危険性があることもたしかだし、その危険性を危ぶむことは臆病であることを意味するものではおそらくないだろう。国民投票を行なうことがいるというさいの説得性は、必ずしも万全なものだとはいえそうにない。説得性はまったくないというわけではないが、落ちるところがありそうだ。

真実が知りたいのだと言うのが真実(本心)なのかどうかがいぶかしいと言わざるをえない(どのような意味あいにおいての真実を知りたいのだろうか)

 私が真実を知りたいと、本当に思います。安倍晋三首相の夫人である安倍昭恵氏は、報道陣に向かい、そのように述べている。昭恵氏はさらに、森◯学園のいきさつについて、自分は何にも関わっていないんです、というふうに語っている。これらの発言については、そのままうのみにはしづらい。まったくの嘘でたらめと決めつけるは避けるとしても、仮説の域を出るものではないというのがある。

 昭恵夫人は、私が真実を知りたいと本当に思うというふうに言っているわけだけど、もしそうであるのなら、呪われた部分に向き合い、それととり組むことがいりそうだ。そうしたのを避けてしまい、非合理の部分と向き合ってとり組むことがないのだとすると、真実を明らかにすることはできづらい。真実が明らかにされないままになっているのは、合理の回路の中にとどまっているのをあらわす。

 合理の回路にとどまるのではなく、そこから出ることにより、非合理と向き合ってとり組むことになる。そのようにすることは自分(と首相)にとっては損になったり不利になったりすることになるのは明らかである。得になった利益になったりするようなうまみはきわめて少ない。なので、動機づけがはたらくものではない。損得抜きで、ただ真実を少しでも明らかにするように努めるのであれば、それは合理の計算としては割りに合わないことではある。真実は闇の中となるほうが合理の計算としては割りに合う。割りには合うだろうけど、公益に関わることがらについての真実を少しでも明らかにしようとするのを怠ることになり、有権者にたいして一定の義務を果たすのを拒むことになる。

 昭恵夫人が言っていることが、まったくの嘘でたらめであると決めつけてしまうのは早まった見かたかもしれない。しかしながら、夫人の言っていることをそのまま受けとめるわけにも行きづらい。立場としては夫人は公人というのがあり、まったくの純然たる私人とはいえないのがある。そこらへんの線引きがきちんととられていないようなのがもめごとを引きおこしてしまった原因の一端としてありそうだ。

 当事者の一方である森◯学園の元経営者である籠池夫妻は、証拠隠ぺいのおそれがあるとして不遇にも拘置所に勾留されつづけている。これが正当な対応なのかかというと、そうとは言い切れず、不当なものなのではないかとも言われている。公正世界仮説(just world hypothesis)をとるのでもないかぎり、不当なものなのではないかとの見かたを完全に捨て去ることはできづらい。

 籠池氏が国家にたいして悪い企みをはたらいたこともあるのかもしれないが、それはそれとして、籠池氏はいちおう私人であるのがあり、かたや夫人は公人の色合いが強い。どちらが強者でどちらが弱者かといえば、公人を弱者とするわけには行かないのがある。報道機関にしつように責められることにより、公人が厳しい立場におかれるのがあるという事情もないわけではないだろう。そうした事情があるからといって、公人が弱者の側にあるのだとは言いがたい。権力に近い側である公人が言うことを、そのままうのみにしてしまうのではなく、表向きで言っていることの裏をさぐることが、まちがった判断を下さないためにはいるものだろう。

問題意識の持ち方によってちがうのはあるだろうけど、一つの見方としては、政権与党の対応のまずさによるのがある(それで長引いてしまっている)

 森◯学園の問題が、国会でやりとりされる。いまだに解決されずに、長引いてしまっている。野党がこのことをいたずらに引っぱっているから、国会でほかのことを論じるのが妨げられてしまっているのであり、はなはだけしからん。そうした見かたもとられている。そのいっぽうで、与党である自由民主党の政権による、このことについての姿勢が問われているのもある。

 国会において森◯学園のことがとり沙汰されたさいに、受けこたえをした財務省の役人の人が、虚偽答弁をした疑いが低くない。そうした見かたがとられているのにもかかわらず、その役人の人はいまでは国税庁の長官の地位をあてがわれている。その任命について、あくまでも適材適所によると、財務大臣は述べている。はたして適材適所なのかというのは、素直にはうなずけそうにない。

 国会で虚偽答弁をした疑いがとられている人にたいして、国税庁の長官の地位をあてがう。これは、そうした報奨を与えているのだから、悪いことをしたのではなく、よいことをしたときの応報律がとられている。これが正しかったのかどうかは、改めて省みられないとならない。別な応報律として、一般の納税者(の一部)からの不満が投げかけられているのがある。国税庁の職員はそれを受けとめねばならず、業務に支障がおきているのも一部ではあるそうだ。

 財務大臣は、国税庁の長官への任命について、あくまでも適材適所だとしている。これは、国会で虚偽答弁をした疑いがあるうえでそうしているのだから、追認していることになる。財務大臣のほかに、首相もまた同じく追認していることになる。このような見かたが識者から投げかけられている。

 財務大臣や首相が追認しているというのは、改めて見ると、国会で虚偽答弁をするのでもかまわない、というふうにしているのに等しいとも受けとれる。そうではなく、国会で虚偽答弁をしたとなればそれははなはだまずいことだから、改めていま一度とらえ直す。そして事実にもとづきしかるべき処置(処罰)をとるといったようなことをして行く。一般論として言うとそのようなことをするのがあるとのぞましい。

 国会での虚偽答弁や偽証について、それをすごく重く見ることができる。もしそうしたことをしたのであれば、はなはだしくまずいことだというふうに見なせる。聞くところによると、アメリカでは、たとえ本人が意図したものではなく、結果としてであっても、偽証をすると(時と場所によっては)重罪になるという。すごく重い罪に問われるのである。嘘をつくことにたいへん厳しい態度をとっているといえるだろう。

 ひるがえって日本ではどうだろうか。すごく重い罪に問うのがいるとするかどうかは置いておくとしても、軽く見なしてしまっているのがあったり、麻痺してしまっていたりするようなところが、すべてというわけではないけどおきている。それを示しているのが、森◯学園においての虚偽答弁を疑われているさいの政権がとっている対応だといえそうだ。人によって色々な意見があるかもしれないが、国会において、嘘はいけないんだということによって対応するのでないと、示しがつかなくなるし、正義(建て前)が死んでしまう。これについては、とりわけ正義の過剰だとはいえそうにない。あまり厳格主義のようにするのもやりすぎになるかもしれないが、なし崩し的にずるずると(権力者の)身内に甘くなってしまうとしたら特例のようになってしまうわけだから、それはちょっと許容できないものであると見なさざるをえない。