タイキックと攻撃性

 みそぎのタイキックを受ける。それが一部で物議をかもしている。年末のバラエティ番組の中で、タレントのベッキーさんはしかけ人として出演した中で、逆ドッキリをしかけられた。これはいわばサプライズみたいなものである。それで、不倫報道により非難されたことのみそぎとして、女性の格闘の選手からお尻にタイキックを見舞われた。

 番組の中でタイキックを受けたことについて、感謝しているとベッキーさんはラジオで語ったという。これはあらためて見るとちょっとおかしい気がしないでもない。お尻にタイキックを受けて感謝するのは、はたしてまともな受けとり方なのだろうか。

 不意打ちということで、タイキックを受けることがわかったさいに、それに強く抵抗と拒否の意を示す。この抵抗と拒否の意は、番組を盛り上げるための、そのときのまわりの状況や空気を読んでの反応だったのがありそうだ。それとは別に、ふつうであればいきなりタイキックを受けることになったら嫌がるのは自然である。キックされたら痛いからである。見せしめみたいにもなってしまう。

 ベッキーさんは、ラジオにおいて、タレントとしてありがたい、との感謝の言葉を述べている。これを見てみると、タレントとしてということだから、裏を返せば、タレントではない一個人(私人)としてはありがたくないと思っているかもしれない。また、タレントとしてありがたいとは言っているわけだけど、これは本心というわけではなく、本当の気持ちを隠すための修辞(レトリック)であるおそれもないではない。心の中を勘ぐってしまうようではあるが。

 みそぎとしてタイキックを受けたのは、慣習の中でのものだと見なせる。これをよしとするのであれば、特に違和感がないものだろう。しかし、慣習それ自体がおかしいのだとすれば、みそぎとしてタイキックを受けることもまたおかしい。それを反省するのがあってもよさそうだ。そうしたのがないと、おかしいことが引きつづいてしまうし、引きつづいてしまうことに加担してしまうことになる。

 タイキックを受ける人と受けない人がいるのは公平ではないし、タイキックを受けていない人に問題がないわけでもない。見当はずれな人にタイキックをしている。番組内で笑ったらアウトとなってタイキックを受ける以前に、タイキックなどの体罰の企画をよしとすること自体がアウトなのではないかとも言えそうだ。

 すぐになくせとかただちに止めろというのではないとしても、あり方をまるまる肯定してしまうのはどうなのかというのがある。じっさいによしとするのかしないのかというよりも、よしとするのかしないのかについてを立ち止まって改めてみなで見てゆくことに多少の効用があると思うのだ。そうした効用をとるのであれば、言いがかりをつけるのがあってもよいし、(そのまま何ごともなかったようにして進んでいってしまうのに対して)腰を折るのがあってもよい。たまには腰が折られるべきである。

 一見すると言いがかりをつけるのは効用を損なうように受けとれるが、それがまったく不合理なものでないかぎりは、むしろ歓迎されるものとも見なせる。最低限の合理性をもったものであれば、改めて見ることのきっかけとなるからである。言いがかりにもよいものと悪いものがある。悪いものだとして一般化するのは性急だ。かりに悪い動機から言いがかりをしたとしても、結果としてよく転ぶこともないではない。全部がそうだというわけではないし、存在を否定してしまうようなのでは場合によってはまずいが。強くつっかかるのとは別に、試しに反論や反ばくを投げかけてみるのが少しはあってもよさそうだ。タイキックであれば、それをすることへの確証(肯定)にたいする反証(否定)もできればよい。

寛容性と相対性(絶対的なものではない)

 寛容性をもつのは、非寛容なものにもそうであることがいる。非寛容なものにも寛容でないとならない。はたしてこうしたことが言えるのだろうか。寛容であるとは、非寛容ではないことはたしかである。そのうえで、寛容とはこれこれのことであるということだから、定義をもっているわけであり、分節されていると言ってよい。無分節なわけではない。

 非寛容なものにも寛容であるのだと、無分節になってしまうおそれがある。定義がなくなってしまうというか、意味が消失してしまうようなふうになる。そうすると、寛容であることの意味がなくなってしまうことになる。意味がなくなってしまうのだと元も子もない。悪い意味での修辞(レトリック)におちいってしまう。意味を拡大してぼやけさせてしまうせいである。

 野球でいうと、寛容さをもつのは、ストライクの範囲を広げることだろう。そのようにして範囲を広げたとして、ボールまでをなくしてしまう。全部をストライクの範囲とする。そのようにしてしまうと、野球のスポーツそのものが成り立たなくなってしまう。ボールがあってのストライクということがいえそうだ。

 何が重要なのかを改めて見ることができる。寛容であることを重要であるのだと見なすのであれば、寛容と非寛容は異なるものなのだと分けることができる。これを分けないのであれば、寛容であることは重要ではないということになりかねない。寛容であることを重要であるのだとすると、それをよいものだとすることができる。それとは区別される反対の非寛容を悪いものだとすることがなりたつ。寛容もよくて、非寛容もまたよい、とはなりづらい。抽象論としてはそうしたことが言えそうだ。

 場合分けをすることができるとすれば、寛容であるのがよいこともあるし、また悪いこともある。非寛容であるのが悪いこともあるし、よいこともある。そのように分ける見かたが成り立つ。このように分けて見ることで、たんに、寛容がよくて非寛容が悪い、とするのを避けることができる。

 寛容性をよしとするのは、あくまでも言葉による意思疎通のうえでの話だといえる。そのなかでやりとりができて、ものごとが少しでもうまく進めばのぞましい。しかし、現実にはうまく行きづらいことも少なからずある。そうしたときにはどうすればよいのか。そこで持ち出されてくるのが、物質による力である。

 物質による力を使わざるをえないときがある。それは認めざるをえないことかもしれない。そのうえで、それはあくまでも必要最小限にとどめることがいる。それにくわえて、そうした力は使わないに越したことはないものである。使わないですませられるほどよい。そのようにして、あくまでも悪い手段なのだというのを自覚することがあるとよさそうだ。そのように自覚したとしても、欺まんにおちいるのを避けられそうにない。

 物理の力を使うときには、それを使わざるをえない理由を見ることができる。そうした理由を見ることで、必要性があることを確かめる。それにくわえて許容性があるかどうかも見ないとならない。この二つが満たされていれば、限定をしたうえでの最小の力を行使することが認められると言えそうだ。

 寛容性の中には、力による暴力がもともと含まれていると見ることができる。寛容が寛容であるためには、寛容であらざるものである非寛容が排除されていないとならない。非寛容があり、それがきちんと線引きされることで、寛容さが成り立つ。線引きするというのは、非寛容な行為である。寛容さは、非寛容な行為によって定まるものと言えそうだ。

 理想としての寛容性は、宗教でいう悟りを開いたあり方のようなものであるとすると、凡人にはそのようになることがきわめて難しい。世の中にいるかぎりでは、よほど非凡な人をのぞいては、寛容性をよしとするのだとしても、その中に非寛容をもたざるをえない。死に寛容になっては生きることができなくなってしまいそうだ。

 もともと寛容であるのであれば、寛容性を持とうと改めてすることはいりそうにない。寛容ではないから、寛容であろうとする。そうして寛容になることができる。寛容でないものが、寛容であるようになることで、寛容がその時点で生成するわけだ。うまくすればの話ではあるけど。かろうじて生成するのにすぎないものかもしれない。

 一つの原理として寛容性がある。そのように言うことができそうだ。原理ではあっても原理主義ではない。原理主義であればそれは非寛容であることになりかねず、寛容性を失うことにつながる。寛容性をもつのだとしても、教条主義になってはいけない。一神教のようにではなく、多神教のようになれればよい。寛容性は、一神教のような最高価値ではないものだろう。あくまでも仮説としてあるものとできる。仮説としての試みだ。

 寛容とは、一つの問題(プロブレマティク)であるということができそうだ。細かく非をとがめ立てするのではなく、そこは大めに見るようにする。排斥するのではなく包摂する。同質なものだけをよしとするのではなく、異質なものも受け入れる。こばんでしまわない。そのようにすることができれば、問題なし(ノー・プロブレム)として大らかに構えられる。質のちがいがあったとしても、質がちがったままでありつつ同じ輪の中に入れるわけだ。人はすべてみなちがいがあり、それと同時にみんな同じである。理想論ではあるが、そうしたあり方ができればよさそうだ。

 はたして寛容さを持てているのか。そのように自分を省みるのがたまにはないとならない。自分が寛容ではないことに寛容であってはならない。もし自分が寛容ではないのを寛容で見てしまうのであれば、それは自分が寛容ではないことをそのままにしてしまうことになる。自分が寛容ではないままになってしまう。それをいましめるために、自分を批判するのがよい。自分が寛容ではないのを自分に起因することだとして、自分の行動をよいほうへ改めて行く。

 他の一般の人にたいしては、寛容にするべきだと言っているにもかかわらず行動が寛容ではないとしても、それについて寛容な見かたができるとよい。寛容についての言行が一致していないのだとしても、他の一般の人については、一致させようとして少しづつ努めているのかもしれない。過程であり途上であるわけだ。または努力逆転の法則がはたらいてしまっているのかもしれない。もしくは、一見すると寛容ではないようではあっても、それはこちら側の目や耳の錯覚であり、よくよく見れば寛容であることもないではないことだ。他の人に寛容であるのがよいとはいっても、権力者や公人にそうであっては腐敗が横行しかねないから、あくまでも一般の人に限られる話である。違法な行為をする人も(ものによるのもあるが)何らかのしかるべき対応がとられるのがのぞましい。

 他の人から、お前は寛容ではないからけしからん、と批判されたときに、どのように受けとればよいのか。開き直ってしまうのではないとすれば、その批判の当否を見ることができる。当たっていればそれを受け入れられればよいし、当たっていなければ気にしないようにできればよい。なるべく感情が高ぶりすぎないような応じ方ができれば、寛容をもつことにつながる。

 寛容とは一つの答えではなく、問いである。そのように言うことができるかもしれない。完成しているものではなく、その過程や途上にあるものである。また、いつもいつもそうすればよいというのではなく、ときには非寛容であることがよいことも少なくない。格律(マキシム)としてはもてそうだが、普遍の道徳法則とまではできないものだろう。完全な義務ではない。

 寛容さと非寛容さのつり合いをとって行ければさいわいだ。それぞれのよし悪しがあるのを見て行ければよい。文脈を持ち替えてみることができる。動機として寛容であるようにするのだとしても、結果としてまずいことになるのもあるから、そこを組み入れることがいる。また、寛容であるだけでは不十分であるのもたしかだ。それ一つだけでものごとがうまく解決するような便利なものはありそうにない。

あるべきものと、すでにあるもの(あるべきものとしてのすでにあるもの)

 今年こそ、憲法のあるべき姿を国民に提示する。自由民主党安倍晋三首相はこのように語ったそうだ。この発言において、今年こそということだけど、なぜ今年こそなのだろうというのが一つにはある。何か今年にやらなければならないような必然性があるのだろうかというのが個人としてはいぶかしい。必要性をねつ造している気がしてならない。

 憲法のあるべき姿を示すということだけど、そもそも、すでに憲法があることを忘れてはいけない。そのような気がする。まさか忘れているわけではないとは思うけど、軽んじようという意識がはたらいているとしたらそれが心配だ。

 憲法のあるべき姿というのは価値についてのものであり、人それぞれであるものだ。それとはべつに、いまある憲法を重んじることができる。よい憲法か、それとも悪い憲法か、というのは、価値についてのことだから、人それぞれで見かたが異なる。それとは別に、実証として、いまある憲法は有効性をもつものなのだから、これを最大限に尊重することができる。あるべき当為(ゾルレン)ではなく、実在(ザイン)としてのものである。それを最大限に尊重するとはいっても、現実とのかね合いや今までの流れがあるから、そこの融通はとれるものだろう。

 よいか悪いかは人それぞれであり、それとは別に、実在するのがある。その実在するものが、すごく悪いとかまちがっているという人もいれば、すごくよいとか正しいとする人もいる。これが実在におけるさまざまなありようである。そうしたさまざまな実在のあり方ではなく、たとえばすごく悪いとかまちがっているというのだけをよしとするのであれば、あるべきである当為のあり方であると言えるだろう。そうした当為のあり方をとるとしても、そもそも正しさやまちがいは、何を目的とするかによってちがってくるのを無視できない。人間がよしとする正しさは、神さまのような完全なものではなく、不完全なしろものである。神さまのように完全だとすると、独断におちいってしまう。

 (少なくとも部分的には)まちがっているものはまちがっているではないか、との意見もあるかもしれない。たしかにそれも言えるかもしれないが、一方で、まちがっているものはその存在を否定してしまってもよいものだろうか。それは(極端にいえば)粛清やせん滅のあり方につながりかねないのがある。まちがっているからそれを否定してもよい、となる。完全に正しい論法ではないけど、そのような見かたがとれる。この見かたは、一義ではないという視点に立つことによるものである。多義による。そのようにして、早まって否定するのに待ったをかけるとはいっても、批判をするのまで止めるわけではない(批判するのはありである)。その批判は、できれば自他への批判であるのがのぞましいものだ。

 改憲をするという意気ごみを持つ前に、やらなければいけないことがある。それは、あるべき姿を示すとはいっても、それが原理なきものではあってはならないというのを再確認することである。原理についてを再確認することなしに、あるべき姿を示してしまうのであれば、あれからこれへの時勢や時局に流されてしまうようなあり方となりやすい。そうして流されてしまうのを防ぐには、何を出発点として置くのかを十分にふまえてみることがいる。

 ロマン主義のようにして、新しくあるべき姿を示す。そういったふうであれば、その姿勢には個人としては賛同ができそうにない。新しさなどないのだというふうに見なしたいのがある。新しさなどないというのは、一つには、反動のようにして戦前に回帰してしまってはまずいのがあるからである。いまの憲法と明治の憲法とは、対照をなすものとしてとらえられるわけだから、その二つの対比によって見ることができる。これを、明治の憲法に少しでも近づけて行こうとするものなのであれば、何ら新しいものであるとは言えそうにない。むしろ(悪い意味で)古い。古いから悪いとは言い切れないわけだけど、そのいっぽうで、新しいものでも何でもないというのもたしかだ。

 文化によるソフト・パワーと、物理によるハード・パワーがあるとして、どうしても物理によるほうが頼もしく見えるのはいなめない。それはあるとして、そうした目立ちやすいものばかりではなく、目立ちづらいものに目を向けて行くのが大事になってくる。目立ちづらいものに目を向けて行くためには、一つには、物理の現象の背後にある理念や理論に目を向けて行くのがよさそうだ。

 隠れている理論があり、それが根拠になって、現実を意味づけている。そうしたのがあるとすると、もとにある隠れている理論を表に出すことができる。隠れている仮定を明るみに出す。隠れているままであれば、隠ぺいされていて、抹消されている。抹消されていることも抹消されていて、二重に抹消されているわけだ。そうした忘却を改めることで、想起することができる。この想起は、素朴な現実主義(naive realism)への批判である。

 現実そのものをとらえるのはできづらい。これが現実であるというのだとしても、それは物質である言葉によって媒介されている。言葉は観念であり、それは思いこみによって成り立つ。観念によって照らし出された部分があるとして、それ以外の暗闇である残余の部分がある。とらえきれていないところである。くみつくせないところがある。ずれや揺らぎというのもある。

 ある理論によれば真であるのが、別な理論によれば偽になることがある。そうであるとしても、真っ向からぶつかり合ってしまうとはかぎらない。一つの文脈だけが正しいとするのでないのであれば、寛容性をもつことができる。それぞれの根拠(argument)による議論(argumentation)が成り立つ。白か黒かではなく、がい然性によるとすれば、灰色とすることができる。

 なぜ明治の憲法ができたのだとか、なぜ今の憲法がかくある内容になったのかだとかを、上へと目を向けてゆく。実質の水準に下げてしまうのではなく、メタである上に上がるようにして、形式みたいなものにも目が向かうようであればよい。他国の陰謀だなどとするのは実質の話だ。実質である下位だけではなく、上位の視点も合わせ持つことができればつり合いをとりやすい。偉そうなことをさも知ったようにして言ってしまったが、あるべき姿を示す前に、もっとやるべきことが色々とあるような気がするのである。その前にある段どりをすっ飛ばしてしまうようなら残念だ。

一斑を見て全豹を卜(ぼく)すということでは、全豹をとらえているわけではない

 いつも怖い顔で報道されている。それが、じっさいに会ってみたら、かっこよくて、人相がよい。報道では、悪い印象操作をされているのにほかならない。沖縄で活動をしているという我那覇真子(がなはまさこ)氏は、首相公邸にまねかれたさいに、首相にたいしてそのように発言をしたという。新年において、首相を囲んで四人の女性論客が対談したさいのことである。産経新聞の記事に載っていた。

 じっさいに首相に会うことで、間近に目にしたり耳にしたりすることができる。我那覇氏が感じ入ったとうかがわれるのは、首相の外形のかっこよさであり、人相のよさである。しかしこれは、あくまでもそれを見た人の主観の印象にすぎない。それに加えて、二四時間三六五日にわたり首相のことを生で接して見たり聞いたりするわけではないから、断片であることはたしかだ。

 生でじかに会ってみて、かっこよいし人相がよいから、その人はよいことをするのだろうか。この推論は正しいものだとは必ずしも言えそうにはない。人をだます詐欺師なんかは、生でじかに会う人にたいして、人あたりがよいことが少なくない。人あたりが悪い詐欺師は少ないだろう。目的を達しづらい。そこからすると、生でじかにあったさいに愛想がよいからといって、そこからその人がよいことをするだろうと推しはかるのはちょっと危ない。

 報道では印象操作されてしまうこともあるだろう。しかしそうだからといって、生でじかに会ったさいに印象操作がないとは言い切れそうにない。むしろ、印象操作とは、本人が生でじかにやることだとも言える。自分の印象を操作することは、自分しだいでいかようにもできることである。言語もしくは非言語のあらゆる手段を用いて行なう。なので、生でじかに接したさいにこそ、印象操作を本人がしているとして、そこを差し引かないとならないのではないか。本人が自分に不利なことをあえてさらけ出すことは、何らかの理由がないとありえづらい。反動形成や、駆け引きによる譲歩や、気を許しているとか、(仲間内だけではない相手との)誠実な議論のやりとりにおいては考えられそうだが。

 物理による客体としての首相がいるとして、それをどのように受けとるかがあり、それから意味づけがされる。そうして自分が意味づけしたものが正しいものだとは限らない。というのも、受けとり方がまちがっているおそれがあるからだ。ここについては、認知の歪みなんかが知らずうちにはたらいてしまっているおそれがある。なので、意味づけしたものは絶対ではなく、相対化するほうが無難である。客体への解釈として、先見が入りこんでしまうのも避けがたい。

 沖縄では、首相が厳しい顔で報じられるのがあるそうだ。それは、首相という個人にたいするものというのとは別に、(分けかたが雑かもしれないが)本土と沖縄とで、負っている負担の格差が生じてしまっていることによるのが要因としてあげられる。そうしたことが反映されていると見ることができそうだ。その点について、双方向で話し合いのやりとりがきちんとなされているとは言いがたく、公正さにたいする配慮が少なからず欠けてしまっていると言わざるをえないのではないか。もしそれが欠けていないのであれば、(一部からではあるかもしれないが)不満の声が強くはおきないはずである。

たんなる批判というだけではなく、親心みたいなものゆえの忠告でもありそうだ

 テレビのお笑いの番組で、顔を黒塗りにする。これは黒人にふんしたネタだった。顔を黒塗りにするのをブラックフェイスといい、欧米などでは政治的公正(ポリティカル・コレクトネス)にそぐわないものだとして、表現が禁止されているという。そこで、日本のお笑いの番組でネタとして放送された顔の黒塗りが、一部から批判されている。公正でないというわけだ。

 この批判は、アメリカのアフリカ系アメリカ人の作家である、バイエ・マクニール氏によって投げかけられたものである。顔の黒塗りをしているのを見ることで、馬鹿にされていると受けとれる。不快感をもよおす。そうした心情がある。

 二〇二〇年に東京五輪が開かれるが、そこで顔の黒塗りの表現をすることもないではない。もしそうなれば、日本は世界のほかの国から批判を投げかけられることになる。そうなるかもしれないのが心配だ。マクニール氏のこの発言は、そこまで突飛なものとはいえそうにないのが現実だ。

 顔を黒塗りすることが、差別をする意図がなかったのだとしても、それはあくまでも動機の面にすぎない。それとは別に結果の面を見ることがいる。結果として、馬鹿にされたと受けとれたり、不快感をもよおしたりする人がいるのであれば、そこをくみ入れることがあってよい。あくまでも個別として表現をしたのだとしても、それが一般(普遍)にまでつながるものと受けとられれば、表現の失敗であると言えないでもない(厳しく言ってしまえば)。悪意はなかったとしても、人間のすることだから失敗することもある。

 日本は日本、アメリカはアメリカ、としてしまうのだと、悪く言われるところの文化相対主義のようになってしまいかねない。このように見なすのは、一見すると日本とアメリカとがそれぞれで横並びのようではあるが、じっさいにはそうはなりづらいものである。というのも、内集団ひいきがおきてしまうからだ。これは認知の歪みであり、そこに少し気をつけるのはあってもよい。自民族中心主義になってしまいかねない危うさがある。

 アメリカの基準を一方的に日本に押しつける、としてしまうのは(まったくそういうところがないとは言えないかもしれないが)、それとはちがったとらえ方もできる。ようは、双方向でこの問題についてとらえて行ければよい。それで非があるところは修正することができればさいわいだ。

 アメリカが世界の中心だから、その基準を日本に押しつけてくる、というのではなく、アメリカのよいところを日本にとり入れられればよい。日本がすべての面でアメリカを上回っているとはいえそうにない。劣っているところも少なからずあるだろう。アメリカは多民族社会であり、人種への意識の面では、日本よりも進んだところがありそうだ。であれば、そこを見習うことができる。日本はあくまでも日本のあり方をもっていればよい、としてしまうのにはあまり賛同できない。日本の中にも、じっさいに声を上げてはいないが、馬鹿にされていると感じたり不快感をもよおしたりする人はいることが察せられる。

 お笑いは娯楽であるから、どうしてもやらなければならない表現というわけではなさそうだ。これは、最優先というほどではない、といったことである。さまざまな人が色々な受けとり方をすることに配慮をすることができれば、公共の福祉に反しないようにできる。表現をする自由や権利があるのはたしかだけど、いっぽうで、楽しめなかったり不快に思ったりする人がなるべく生じないように努める義務(努力目標)ももつ。完全なものではないにせよ、そうしたのがある。なので、表現をするのとはまた別に、受け手の一部から投げられる批判の声を聞き入れて、それについていっしょに話し合うことがあったら生産的だ。間接的にではあっても、そうしたことができれば、お互いに歩み寄ることにつながりそうだ。どんな批判であれ、そのすべてを聞き入れるべきだとまでは言えないけど、しかるべき根拠がある批判であれば、耳を傾けるに値するものと見なせる。

国民を愚民視するような愚民観をもつのは適したものとは言えそうにないのはある(世界全体にまで広げられないものだろうか)

 国民を愚民視している。そうした愚民観は許しがたい。そういったことが言われているのを目にした。これは、国民を愚民視するような愚民観をもつのはのぞましくないという、あるべき当為(ゾルレン)を言っているのだろうか。もしそうだとすると、その当為とは別に、実在(ザイン)としての国民が愚民であることを完全に否定することはできそうにない。

 国民を愚民視するような愚民観をもつことに問題があるというよりは、国民を愚民だと見なすのは、国民を十ぱ一からげにしてしまっているからいけないというのがある。ひとくくりに一般化してしまっているわけである。国民の中には、賢い人もいるし、賢くはない人もいる。賢い人のよさもあるだろうし、賢くはないがゆえのよさもあるかもしれない。賢くはないがために気づけることもないではない。賢いがために見落としてしまうようなこともありそうだ。

 国民をひとくくりに愚民だとは見なせないにしても、だからといって国民は完全にあやまたないものだろうか。人間はあやまり多きものなのではないか、ということができる。これは、人間が合理性に限界をもっているからだろう。あとでふり返ってみれば不合理だったといったようなこともしてしまう。そうしたことへのおそれをもつことは、まったくの不合理な見かただとはいえそうにない。

 国民を愚民視するのを避けるのだとしても、それは日本人に限ってのことでよいのだろうか。日本人を愚民視するのを避けるとして、それ以外の国の人はどうなのかということである。もしそこで区別をしてしまうのだとすると、それは差別には当たらないだろうかというのがある。日本以外の国の人は愚民視してしまってもよいとするのではなく、そこについても愚民観を捨てるようにすることも意識できる。愚民ではないのだとすれば、合理による話し合いが(少しくらいは)できるのがあるだろうし、見さかいなく日本をおとしいれたり攻め入ってきたりするようなものと見なすのに待ったをかけられる。

 日本の国民を愚民視するのような愚民観は許しがたい。そうして愚民視しないのだとしても、では現実の政治や社会はどうなのかを見ることができる。すごくうがった見かたをしてしまえば、愚民ではないのだとすれば、もっと現実がよくなっていないとおかしい(さまざまな文脈において)。政治や社会のじっさいのありように、愚民ではないということが反映されているのであれば、つじつまが合う。はたしてつじつまが合っているかどうかは、みんなが納得するとはちょっと言いがたい。満足している人もいるだろうけど、不満をもっている人もいる。

 政治についてにかぎって言うとしても、愚民でないためには、その分野にたいする知識や情報をきちんともっていないとならない。そのような条件を満たす人ははたして多いのだろうかというと、少ないのではないかという気がする。きちんとした知識や情報をもち、感情に流されず、つり合いのとれた見かたができてはじめて、均衡しているということができる。しかしじっさいには不均衡または無関心である人が多いのではないか。これは自分を含めての話である(自分もけっして例外ではない)。であれば、そこを改めるような工夫があってもよさそうだ。この工夫は、個人によるのとは別に、制度などの環境を改められればよいというのがある。

 (国民投票なんかの形で)いきなりこれについて考えよと上から言われて、それではいそうですかとして、それについての均衡のとれた見かたができるのかといえば、きわめて難しいのではないかという気がする。もしそれができるのだというのなら、国民を信頼しすぎなのではないかといえそうだし、過信してしまっているところがある。そこについては、疑いをもたざるをえないのが個人としてはある。

敗戦や侵略についての否定が価値をもつ

 第二次世界大戦で、日本は敗戦をした。そのことを話の中で持ち出し、敗戦の語を口にする。聞いていた側は、いや、あれは敗戦ではなく終戦だ、と反論する。敗戦の語を口にしたのは政治家の田中真紀子氏で、それを(敗戦ではなく)終戦だと反論したのは自由民主党安倍晋三首相だという。

 田中真紀子氏は、戦時中の日本は中国や東南アジアへ侵略したとしている。侵略戦争だった。しかし安倍首相はこれを認めず、ちがった見解を示す。侵略だったのではなく、アジアを解放するために行なったことであるとしている。

 二人のあいだで話がかみ合っていない。ともにちがった見解をもっているからだろう。そのうえで、一つには、敗戦を終戦と言い換えるのはいかがなものかというふうにできる。言い換えてしまうと、ごまかしになってしまうものと見なせる。敗戦は敗戦であるときちんと認めたほうがよいのではないか。

 敗戦を敗戦としてきちんと認めることにより、中国や東南アジアにたいする侵略戦争だったとの見かたにもつながってくる。なぜその見かたにつながるのかといえば、日本が敗戦をしたから、侵略戦争だとなったというのがあるからである。日本が戦争に負けたから、あの戦争は侵略だったということになった。そのようなつながりによる見かたが成り立つ。

 敗戦を敗戦として認めず、終戦と言い換える。そうすると、戦争に負けたというのがぼかされてしまう。そうしてぼかされることで、侵略戦争ではなかったという見かたにつながる。そのようなことが言えそうだ。この見かたはちょっと苦しいところがある。というのも、敗戦したのは一つの事実だと見なせるからだ。敗戦していないとは見なせない。そこでむりやり、アジアを解放するために行なったという建て前を押し通すのには無理がある。この建て前は、動機といってもよく、それとは別に、結果があると言えそうだ。動機だけではなく、結果もまた見ないとならない。

 建て前や動機だけを見てよしとするのだと、自己欺まんの自尊心におちいってしまいかねないのがある。よいことをしたとか、しようとしたということで、それを自国である日本の手がらにしてしまう。栄光化するわけだ。そうしたあり方からすると、罪責をもつことはいらないとなる。しかし、罪責というのではないとしても、自己非難はするべきである。それがないと、自己欺まんの自尊心の肥大化から抜け出すことはできそうにない。自尊心が肥大化すると、ものを見る目がいちじるしくくもる。

 罪責をいだき、自己非難をする。それを自国である日本をおとしめることであるとするのは、動機による忖度である。そうではなく、(動機は別として)それが結果として少しでもよいほうに進んでゆけばよいのであり、そうしたほうへ進んでゆける可能性はゼロではないのがある。このほうが、自己欺まんの自尊心におちいるのを少しは避けられるので、それがよい点だろう。罪責である、過去のよくなかったことに意識して気づけるのもよい点だ。意識して気づくことで、それを相対化することができるのが見こめる。

 原因がわかれば感情は消える、とするあり方もあるという。これは、哲学者のスピノザ精神分析学のフロイトが言っていることだそうだ。そのさいの原因(cause)として、自国である日本が過去にしでかした歴史上の大失敗の行ないなどが当てられる。(かつての)自国に原因を特定できるわけだ。少なくとも一つの仮説としてはそれがもてる。その原因から目をそむけつづけ、耳をふさぎつづけるのなら、怨恨や憎悪などの負の感情はいつまでも消えそうにない。

 負の感情はいつまでも消えそうにないなどと、わかったようなことを言ってしまったが、自己欺まんによる自尊心が肥大化しかねない危うさがあるということは言えそうだ。そうなると破滅につき進むおそれがある。破滅というとおどしのようになってしまうが、自己欺まんによる自尊心は自己保存をとるものであり、これは他者の死滅を求めることにつながる。そこで死を賭けたぶつかり合いとなる。

車の運転によって得られる効用(帰結を計算してみる)

 なぜ車を運転するのだろう。そうした疑問を見かけた。車を運転することで、自分が他の人をはねてひき殺してしまうかもしれない。そうした事故をおこしてしまうおそれを払しょくしきれない。歩行者などの他の人をひき殺してしまいかねないおそれを大きく見積もると、車を運転するのはかなり危なっかしいことである。運転しないに越したことはない。

 コインの表と裏のようにしてみると、その裏に当たるのが、車を運転することでおきかねない負のできごととなる。人をひき殺してしまうかもしれないようなことだ。その裏が大きければ大きいほど、同じコインとしてそれと一体になっている表もまた大きい。表というのは、得られる利益である。コインの裏のおそれは決して見過ごせないものではあるが、それをひっくり返してみると、表の利益の大きさに焦点を当てられる。

 コインの裏に当たる負の面については、保険に加入するとか、自分で運転するときに気をつけるとかで、負の度合いをあるていどは減らすことができる。完全にゼロにはできないことはたしかだけど、事故をおこしたくておこす人はいないわけだから、それをなるべくおこさないための目的意識をもつことができる。

 危険が大きいにもかかわらず、それと同時に、そこから得られる利益が大きいから、車を運転する。図と地のように、コインの表と裏の関係性を反転させられる。そのように言うことができるかもしれない。これは車の運転にかぎらず、他のことについても言えそうだ。原子力発電や一国の経済政策(景気浮揚対策)なんかにも当てはまりそうだ。このさい、危険の大きさを過小視して、利益の大きさを過大視することがある。そうしたふうになってしまうとやっかいだ。その見かたをたまには改める機会がないと、正しく見ていることにはなりそうにない。

 表か裏かのどちらかだけというのではないというふうに見ることはできる。表と裏についての、いろんな組み合わせの比率が想定できそうだ。文脈を持ち替えて色々とずらしてみることができる。そうすれば、一つに仕立てあげてしまわないようにできる。表だけを見るのではなく、そこに何が裏書きされているのかを見ることもなくてはならない。

株価は量であり、その質がどうなのかがありそうだ

 平均株価が一万円から二万三〇〇〇円になった。それがあるので、自由民主党安倍晋三首相による政権について、ほぼ一〇〇点満点を与えられる。評論家の勝間和代氏は、投資家の立場をこめつつそのように語ったという。一万円を七〇〇〇円にした政権と、それを二三〇〇〇円にした政権との、どちらを評価できるのか、と問いかけている。答えは明らかだということだ。

 株価は上がったものの、労働者の賃金は上がっていない。それがあれば一二〇点をあげられる。勝間氏はそのように言っている。労働者の賃金は思うように上がっていないので、ほぼ一〇〇点満点にとどまっているというわけだ。

 安倍首相による政権が株価を上げたということだけど、これは株価の額であるから、量ではあるが、それとは別に質についてがある。質というのは、きちんと中央銀行の独立性を保ったうえで株価が上がったのならよいけど、そうではなくて中央銀行の独立性を損ねるようにしているのが心配だ。これは代理人費用(エージェンシー・コスト)をきちんと払っていないことをあらわす。代理人費用を払うとは、権力の分立をとることであり、抑制と均衡により意思決定の適正さを保つことである。その費用を払っていないことのツケがあとで出てくるおそれがある。

 株価が上がったことの恩恵は、一般の人にはそこまであるのだろうか。株の投資をしているのであれば、目に見えて儲かった人もいるかもしれない。しかし一般の人で株の投資をしている人はそれほど多くはないようだ。近い将来に必ず株が上がるとわかっていれば、みんながそれを買うだろうが、(何ごともそうではあるが)確実という保証はない。あとでふり返ってみて意味づけをすることはできるわけだけど、それはあくまでも後知恵である。

 株価というのは、上がったら下がるし、下がったら上がるものである。そうした波動による。上がったとして、それをそのときの政権の手がらとしてしまってよいものだろうか。株価もよいことだし、何となくうまく行っているだとか、何となくうまく回っているだとかという受けとり方であれば、社会の中の負の面に目を向けるのをし損ねてしまいかねない。この負の面は、社会の中の呪われた部分である。解決されていない社会の深刻な問題の数々だ。

 ここに問題がある、あそこにも問題がある、というふうに、猟犬のようにそれを嗅ぎつけて指し示す人を、うとんじてしまうようだとまずい。うとんじて遠ざけるのもまったくわからないわけではないが、都合の悪いことを回避してしまえば、問題の解決にはなりそうにない(先送りにはなるかもしれないが)。

 めんどうではあるかもしれないが、社会の問題について、正(テーゼ)と反(アンチ・テーゼ)による対立点をつくる作業ができればよさそうだ。こうした作業はめんどうであり、すぐには役に立たないし、時間や労力がかかるが、豊かさにつながることがのぞめる。そうした作業をやらないで、たんに正(テーゼ)だけをもってしてよしとするのだと、対立点をつくることはのぞめない。都合の悪いものである反(アンチ・テーゼ)を隠ぺいしたり排除したりすることで、蓄積再生産をとることになる。いわば、ためこみだ。正のものだけではなく、負のことがらのためこみでもある。

慰安婦合意についての命題と反命題

 合意は一ミリメートルも動かない。自由民主党安倍晋三首相は、日本と韓国とのあいだの合意について、そのように語っている。この合意は、二〇一五年に二つの政府のあいだで結ばれた、従軍慰安婦問題についてのものである。

 一ミリメートルも動かないというのは、それ以下の、〇.一ミリメートルくらいは動くのだろうか。ミリメートルが最小の単位ではないから、まったく少しも動かないとは言っていないことになる。ちりも積もれば山となる。あげ足をとれば、そういうことが言えそうだ。

 日本の側は、あくまでも両国のあいだで結ばれた合意は合意だ、としている。なので守られないとならない。いっぽう韓国では、前政権が結んだ合意にすぎず、それをいまの政権が批判をもって検証したところ、問題が少なからず見つかった。受け入れがたいものだとしている。

 合意という一つの全体があるとする。それにおいて、日本はある部分に焦点を当てていて、韓国は別の部分に焦点を当てている。そうした見かたがとれるのではないか。どちらかだけが正しいというのではなく、どちらもそれなりに正しい。合意についての一側面をそれぞれが照らし出している。

 日本は合意について、義理は守るべきだと言っている。しかし韓国は、(韓国側の)人情を欠いた義理は守れない、と言う。義理は義理だから守るべきだというのは、範ちゅうについてを言っていると言ってよい。いっぽう、人情を欠いた義理は守れないというのは、価値についてを言っていると言えよう。

 慰安婦の問題において、いったい誰が弱者に当たるのか。それは元慰安婦の被害者だろう。とすれば、弱者である元慰安婦の被害者が一番におもんばかられないとならない。そのように言うことができるのではないか。これが、強者に有利になってはいけないのがある。弱者が満足せずに不満をもってしまうようであれば、いったい何のための合意なのかということになる。もともとの話がすり替わってしまう。

 日本と韓国の両方の政府において結ばれた慰安婦問題についての合意では、それが完ぺきなものであると言えるかを見ることができる。人間のやることに完ぺきはありえないというのがあるので、完ぺきだとは言えそうにない。それにくわえて、両国が合意することをさしあたっての目標としたのがあるとすると、効率を重んじたことになる。そうして結ばれた合意には、適正さについて非や欠点があるのは不思議ではない。そうした非や欠点である否定の面に目を向けることができそうだ。

 合意についての非や欠点ということで、哲学者のジャック・デリダは、このように言っているという。不合意は合意の構成的外部である。不合意を見えない形で排除することではじめて合意は成り立つ。そうしたことが言えるそうなのだ。

 合意について、お互いの政府のあいだで合意できていない。そうした合意について合意できていないことを合意することもできなくはない。ちょっとややこしいが、そうしたのがある。そのうえで、当為(ゾルレン)として、合意は守られるべきだというのとは別に、合意に問題があり、守れそうにない、という実在(ザイン)をまったく認めないのは正しいあり方だとは必ずしも言えそうにない。

 日本は合意を守るべきだというわけだが、これは万全の説得性をもった意見であるとは言えないのがある。その説得性は下がらざるをえない。なぜかというと、韓国という、相手あってのものが合意であるからだ。こちらが強いてやらせるのであれば、それは権力による支配となる。それを避けるのであれば、相手の言い分に耳を傾けることがいる。まったく狂っているのではないのだから、そうした寛容性を相手へもつことができる。それで話し合いをして行ければよさそうだ。現実には難しいかもしれないけど。

 合意は合意だとする日本の意見はまちがいではない。しかし、それをあまりに強く持ちすぎると教条主義になりかねないものである。それを和らげることで修正してゆく。そうしたあり方がとれるのがある。教条主義が合理主義による絶対論であるとすると、それを修正するのは経験主義による相対論である。相手の言い分にそれ相応の理があることもあるから、かたくなになるのではなく、それを受け入れられればさいわいだ。現実においては、一神教のような合理主義よりも、多神教のような経験主義で行ったほうがよいことが少なくない。