虚と実において、虚(ネタ)が入りこんでしまうのがありそうだ

 重大な事件がおきる。そうしたときに、根拠に乏しい情報を流すのが、トレンドブログと呼ばれるものだそうだ。容疑者の顔写真が判明しただとか、出身校はどこだとかいった情報を流す。このような情報を流すのは、常軌を逸した行動だと、毎日新聞の記事において記者が警鐘を鳴らしている。

 この毎日新聞の記事の内容について、かならずしもトレンドブログだけを非難できないというのがある。報道機関の報道でも、事件をおこした容疑者の名前を報じることがあるし、顔写真だったり動く映像だったりを流している。

 事件をおこした容疑者の名前を報じるのは、社会的制裁のためであるという。そして、名前を報じるのは、じっさいに有罪が確定してからにするのが理想である。元政治家の橋下徹氏はそのように述べていた。

 現実を見てみると、じっさいに有罪が確定する前から容疑者の名前が報じられることは少なくなさそうだ。そうしてみると、(有罪が確定してから名前を報じるという)理想とはほど遠いと言わざるをえない。

 トレンドブログの行動ははたして常軌を逸しているといえるのだろうか。常軌を逸しているともいえるし、そうとも言い切れないのもある。多くの人の目に触れることでそれが利益につながるのがあるのに加えて、正義感みたいなのもあるのだろう。また、人の興味という需要について、それを供給する役をになう。ただ、その供給されるものの質が悪いと問題だ。即興で出まかせに近いものを流すのだとまずい。

 毎日新聞の記事では、トレンドブログが虚偽情報を拡散してしまうことを危惧している。この危惧はまったくの的はずれなものだとは言えないものだろう。たしかに、報道機関の報じかたにもおかしいところが部分的にあり、理想からはほど遠いところがありそうだ。それはあるとして、それとは別に、トレンドブログが根拠の乏しい情報を流しているのについて、それをいさめるためにとり上げるのは有益である。

 まちがった情報を流していないかどうか、自分で改めるようなことがあればよいのかもしれない。それで、もしまちがった情報を流していたことがわかれば、それについて謝罪するようにする。そして情報を修正するのである。このようにするのに加えて、故意にまちがった情報を流さないようにも気をつけるようにする。なるべく正確を期すようにする。こうした配慮があればよさそうだ。ほんの少しずつであっても、質を高めてゆくようなあんばいだ。

 自分で確かめた一次情報であるのならともかく、二次情報であるのなら、そこにまちがいがあるおそれはけっして低くない。それにくわえて、人間がやることにはまちがいがつきまとう。人間の推論にはまちがいがおきがちだ。見まちがいや聞きまちがいもある。記すさいにも、記そうと思っていることとじっさいに記したこととのあいだにずれが生じる。一つ一つの段階でそれぞれにまちがいがおきるおそれがある。たとえ万全を期したのだとしても、完ぺきに正確にすることはできづらい。そうしたのがあるから、できるだけ注意することができればさいわいだ。

車のアンテナ

 車の上に、アンテナが立っている。ふつうは一本だけで、斜めになっている。そうしたのとはちがい、無数にアンテナが林立している車が走っているのを見かけた。銀色のアンテナが垂直にたくさん立っていたのである。一五から二〇本くらいだったかもしれない。なぜそんなにアンテナが必要なのかと、何を送受信しているのかが気になった。

実感の薄い事実と、実感の濃い仮想(擬似環境におかれている)

 仮定の質問には答えられない。自由民主党菅義偉官房長官は、そのように言っている。記者から質問を受けるのにさいして、仮定にもとづくと菅氏が見なしたものは、答えないようにしているようだ。このあり方ははたしてどうなのだろうという気がする。

 そもそもなぜ質問をするのかといえば、一つにはわからないからだというのがある。事実としてわかっていることであれば、それを質問する必要はとり立てて強くはない。

 わからないことを質問するのは自然なことであると見なせる。脳科学の説では、人間の脳には予想をするという本質があると言われている。この本質をふまえると、予想にもとづく質問をするのはそれほど不思議なことであるとは言えそうにない。的はずれな予想であればあまり意味はないのはあるだろうけど。

 人間はほかの動物とはちがい、二足直立歩行をする。二本の足で立って歩く。その姿勢により、後ろをふり返ることができるし、足元を見られるし、前を見わたしやすい。過去と現在と未来を見て行ける。事実としての現在(または過去)とは別に、色んな可能性を推しはかることを行なう。現実世界だけでなく、可能世界もまたある。

 仮定の質問を一つの範ちゅうと見なせるとすると、その中に色々な価値があるとできる。価値のないものもあれば、価値があるものもある。それらをいっしょくたにくくってしまうのはいささか乱暴だ。

 原則として仮定の質問には答えないとするのだとしても、そこに例外を置くことができる。その例外が許されるとすれば、必要性と許容性があることによると言える。必要性として、重要さや理由をもっていて、なおかつ許容できる範囲の内にあるものであれば、なるべく質問に答えるのがのぞましい。

 菅氏と記者とのあいだのやりとりを、一つの場面であると見なせる。そこでは、言語行為が行なわれる。その言語行為において、仮定の質問には答えられないというのが、一つの統制的規則としてとられているということができそうだ。この規則が客観から見て妥当なものであるのかどうかはとりあえず置いておくとして、現に用いられていることはたしかである。

 統制的規則がとられるのは、菅氏と記者とのあいだに序列の関係があるからだろう。菅氏が規則を用いて、記者がそれにしたがう。そうした図式である。これは権力のはたらきによると言ってさしつかえがない。質問に答えなければならない菅氏の立場は必ずしも気安いものではないかもしれないから、菅氏(または政治家)から見ればこの規則は妥当なものなのだろう。

 説明責任(アカウンタビリティ)の点から言えるとすれば、そもそも記者から質問をされる前に、自分から説明するのがあればのぞましい。質問をされてから答えるのではやや遅いとすら言えるのがある。ましてや、質問されたことに答えないのではちょっと残念だ。有権者である国民にたいしてすすんで説明してゆく姿勢があれば、後手に回らずにすむ。

 事実にもとづくのが大事だというのもわからないではないのだけど、逆にいえば、もっと記者に仮定や空想を存分にはたらかせてもらったらどうだろうか。それをうながすのである。仮定や空想は、必ずしも否定の価値をもつものとは言い切れない。そこには知性や理性もはたらいている。人にたいする優しさといったことでの想像(ファンタシー)のありなしというのもある。この想像とは、立場を変えてみるという反転可能性と言ってもよいし、気持ちを察するのや相手の考えを尊重することでもあるだろう。

反省するというだけでは抽象論(観念論)にとどまっていると言えそうである

 事件にかんする文書が廃棄された。そうしたことは、今後二度とおきないように、深く反省しないとならない。財務省の太田充理財局長は、国会においてそのように述べていた。文書管理を徹底させ、決算文書の内容を充実させるようにしてゆく。

 文書が廃棄されてしまったのを、今後二度とおきないようにする。そうするためには、まず関連した人たちの処罰が必要だろう。賞罰(サンクション)において、罪と罰がとられないとならない。応報律をとる。それを避けてしまうようだと、同じことがこれから先にくり返されてしまうこととなる。

 責任者がいて、その人がいざというさいに責任を引きうける。そのようになっていないのだとまずい。この責任というのは、たんにいさぎよく地位を他の人にゆずることばかりではない。とり沙汰されていることがらについて、できるだけその真相が明らかになるように努めてゆく。一定の区切りがつくまで十分に明らかになったところで、地位をゆずるようにする。そのようにできればのぞましい。

 たんに文書が廃棄されたことが単独であるのではなく、それと関連するもっと広い問題がある。そのように広く問題を見てみると、なぜ文書が廃棄されたのかとして、そこには色々な原因(cause)があり、結果(effect)があると見なせる。この原因と結果というのは、一つだけではなくて、いくつも想定することができるものだ。いろいろな仮説による見かたが成り立つ。

 同じことを今後二度とおこさないようにするのであれば、因果関係をふまえた議論をとるのがよさそうである。そのような議論が行なわれずに、原因となるものが放っておかれたままでは、また同じことをくり返してしまう。

 原因には近因と遠因があるという。その二つをふまえてみるのもいりそうだ。また、文書の廃棄に関わった人たちが、どういった状況に置かれていたのかも無視できない。その状況がどうだったのかがはっきりするとよい。

 権力者は人であり、人は神にも悪魔にもなれる。神だと思ってその声を聞き入れたところが、じっさいにはあとで悪魔であることがわかった。そんなふうなことが推しはかれる。神か悪魔かを見分けるのは一種の賭けである。

 特定の他者を神だと信じるとすれば、それは一つの賭けであり、あとで裏切られることにもなる。そうであるよりかは、客観の決まりを守っておいたほうが無難ではある。それに加えて、自分からすすんで悪魔の擁護者(devil's advocate)になる手もある。これは、反論を買って出るということである。うかつにしたがわない。とりあえず権力者の言うことは疑ってみるというのは、一つの定石みたいなものだと言えそうだ。

 権力者からの呼びかけに応じるとして、その呼びかけはイデオロギーであるおそれがある。虚偽である。それを聞き入れてしまうと、イデオロギーに都合のよい主体となってしまう。他律で動かされることになる。権力の奴隷となるおそれが生じる。そうして奴隷でいるのを選ぶこともできるわけだけど、そこに危険性があるのもたしかだ。事後の反省とは別に、事前についていうと、他律によって動かされないようにとの反省をはたらかせることができる。こうした自律の観点も少しもっておくのがよいかもしれない。

当事者意識みたいなのがあまり感じられないような気がする(社会全体の問題というのは正しいわけだけど)

 私は楽観主義者である。ツイッターの創業者であるジャック・ドーシー最高経営責任者(CEO)はそのように語っている。ドーシー氏が楽観主義であるとして、それがとくに悪いことではないわけだけど、ツイッターの現状に関しては、はたして楽観するのがふさわしいものなのかがやや疑問である。

 未来に直面するであろう問題は、人々の手で解決できると考えている、とドーシー氏は述べている。人類が進化してゆくために、私たちが抱えている問題について議論をする。その問題が重要なものなのかそうでないのかを理解してゆく。そうすれば正しい方向へエネルギーを向けられる。ツイッターがそうした意思疎通の場として生かされてほしい。

 こうした前向きなことをドーシー氏は NHK の取材の中で述べている。このドーシー氏による前向きな見かたを個人による見解であるとすると、じっさいにはそれとは逆の見かたも成り立ちそうだ。議論の可能性ではなくて、不可能性のほうが目だつ。理解よりも誤解が多く生まれてしまっている。その不可能性や誤解がこれから先に改められるのかというと、何か有効な対策が立てられでもしないかぎりは難しそうだ。

 ドーシー氏は、人類が進化してゆくためにと言っているが、これをツイッターそのものに向けることもできるのではないか。ツイッターが進化してゆくために、ツイッターが抱えている問題について見てゆくようにするのである。そのようにしてツイッターを少しずつ進化(改善)させて行ければのぞましい。これは、自己言及や再帰性から言えることである。

 私たちが抱えている問題について議論をする。そうした場としてツイッターを用いるのであれば、そうしたことができる環境が整っているのがのぞましい。主張(と根拠)について、これはよいものだとかそうではないだとかの評価ができるようにする。そうしたようにして、議論についての評価ができればよいのが一つにはある。発言者の属性とか結論とは別に、議論の過程についてを見るようにするわけだ。

 そのように合理性をもった議論の場にしてゆくのであれば、それができるような環境を整えることもできなくはなさそうだ。しかしツイッターは、そうした目的に特化する場ではないだろうから、そこがきっと難しい点なのだろう。この点については楽観することもできるのだろうけど、個人としてはちょっと悲観せざるをえないような気がしてしまうのもたしかである。

 本音がいつもむき出しになってしまうようだとちょっとまずい。ひとり言だとかで本音をぶちまけるのはよいわけだけど、ウェブは不特定多数の人が見る場所だから、建て前があるていどは有効でないとならない。弱者や少数者の意向が重んじられるようであればのぞましい。どのような集団であっても、たいていは弱者や少数者に不当にしわ寄せがかかるものである。そうした負の面に少しでも目や耳が向けられればさいわいだ。

建て物がとり壊されて、後ろの景色が見えるようになった

 建て物が建っている。そのうしろに山がある。そうしたふうになっていて、建て物がとり壊されることになった。その建て物は住宅ではなくて四階建てくらいの会館なんだけど、とり壊されてみると見晴らしがよくなった。うしろにあった山がすぐ目の前に見えるので、それが新鮮なふうに映る。風景が開けたようなふうになった。建て物が風景をさえぎっていたのだなあと気がついた。建て物は人々が使うものであり、衆生世間のものである。いっぽう山は器世間(きせけん)である。この二つが図と地であるとして、それが転換したふうになった。

当為(ゾルレン)としてのあるべき横綱のあり方と、実在(ザイン)として事件がどうだったのかが、混ざり合っていそうである

 暴行の事件をおこしたことで、引退をする。大相撲の横綱日馬富士は、そのような意を示したという。日馬富士は、貴乃花部屋の力士の貴ノ岩関に暴行をふるったと報じられている。そのいきさつの全容はまだ明らかにはなっていない。

 日馬富士は、なぜ貴ノ岩に暴力をふるったのか。それについては、貴ノ岩が礼を失するようなことをしたためなのだそうだ。礼儀や礼節を直すために手を上げた。これは、日馬富士における内面の動機と見ることができる。この動機については、とくにまちがったことだというわけではないかもしれない。その手段として手を上げたのは駄目なのはあるわけだけど。

 わからない点の一つとして、はたして貴ノ岩がどれくらい礼を失するようなことをしたのかがある。ほんのちょっと礼を失しただけなのか、それとも中くらいか、もしくはものすごく礼を失したのか。その度合いによって、日馬富士が手を上げたことへの見かたが変わるのがある。暴力をふるったのはいけないことなのはたしかだけど、それに対するどのような礼の失しかたがあったのだろうか。そこのつり合いが気になるところだ。

 もう一つわからない点をあげられるとすると、日馬富士ははたして引退する必要があったのかがある。暴力をふるったといっても、それがどの程度のものなのかが明らかでないから、どう見なしたらよいのかが定かとは言いがたい。ほんの少しの暴力をふるっただけであるとすれば、それで引退するのは行きすぎなのではないかという気もする。そこのつり合いはどうなのだろう。

 世間を大きく騒がせたのがある。これについては、報道機関の報道のしかたによるのが無視できない。できるだけ視聴率や見聞きしてくれる人を多くするために、話を大げさに盛ってしまっているおそれがあるから、それを差し引いて見ることができるだろう。それにくわえて、どういった枠組みによるのかもある。挿話(episodic)による枠組みで報じると、個人たたきのようになってしまうのがあるという。こうした報じ方によるとして、それが必ずしもまちがいというわけではないが、別の見かたもできることはたしかである。

 横綱であるなら、下の者が礼儀や礼節に適っていないのを直す務めがある。そのように日馬富士は思っていたのだろうか。親分肌のようなあり方だ。これは、日馬富士横綱のあり方を誤解していたおそれがあるのではないか。横綱であるのなら、下の者が非礼をはたらいたのを直さないとならないとして、義務みたいにとらえていたのかもしれない。日馬富士の内面を忖度できるとすれば、そのようなことが一つには言えそうだ。

 相撲協会は、日馬富士にたいして、横綱とはこういうものであり、こうあればよいものなのだというふうにきちんと教えていたのだろうか。もしそうしたように親切に手とり足とり教えていなかったのだとすれば、相撲協会にも多少の非があるとの見かたも成り立つ。日馬富士横綱のあり方をまちがってとらえていたのだとすれば、それにたいして相撲協会は多少の弁護をするだとか、少しはかばってあげてもよさそうなものである。あくまでこれは部外者の意見にすぎないものではあるけど(偏った意見であるかもしれない)。

誤報だとする理由は何なのだろうか(寛容に見るとすれば、誤報ではないという見かたができる)

 国会での野党の質問時間を削減させる。それで与党の質問時間を増やす。そのように指示したとの報道は、報道機関による誤報である。自由民主党安倍晋三首相はそのように述べていた。国会における野党の質問の持ち時間を減らすように首相が指示したとされるのは、誤報であるとの認識を持っているとしている。

 はたして誤報なのかどうかということで見てゆくと、大手の報道機関が一斉に報じていたものであるから、各社が一斉に誤報したことになる。そうして一斉に誤報をするということもありえないではないかもしれないが、ちょっと考えづらい。それに加えて、じっさいに国会での野党の質問時間が少し削減され、与党の質問時間が少し増えている。与野党で協議が行なわれたことで、このような結果となったようだ。

 なぜ首相は、報道機関が一斉に誤報をしたとの認識をもっているのだろう。この首相による見解を疑ってみることができる。首相の弁は、自分の素朴な感情や気持ちを口にしたものだと受けとることができそうだ。その素朴にわいた感情や気持ちによる弁を出力とできるとすると、その前には思考回路があり、また入力があるとできる。

 出力されたものの奥に思考回路のはたらきがある。この思考回路において、自我の防衛機制認知的不協和の解消がはたらいたことによって、誤報であるとの認識の弁が出力されたのではないか。現実にはちょっと考えづらいことではあるが、大手の報道機関が一斉に誤報をしたという認識をもつのは、自我の防衛機制のはたらきのなせるわざであるだろう。ほんとうに一斉に誤報だったおそれもゼロではないのはあるわけだけど(そうだとすれば首相の認識は正しいことになる)。

元慰安婦の人たちが被害者であり弱者に当たるのをくみ入れないとならないのがありそうだ

 慰安婦像を設置するかどうか。それについての公聴会が、アメリカのサンフランシスコ市で開かれた。そのさい、日本人の参加者も公聴会にまねかれたという。その人は、従軍慰安婦はすべてねつ造だとして、元慰安婦は嘘の証言をしていると言ったそうだ。

 最大限の愛情と尊敬をこめて言いますが、恥を知ってください。出席者の一人は、日本人の出席者の発言にたいしてこのように述べた。この出席者はカンポス委員という人だそうだ。そうしてみると、日本人の出席者の発言は逆効果にはたらいたことになる。かえって印象を悪くしてしまった。自分が正しいと見なしていることを発言したのはたしかだろうけど。

 何にたいして恥を知るべきなのかというと、過去におきたことを否定する自分たちにたいしてである。それにくわえて、勇気をもって証言をしにきてくれた人を、個人として攻撃することにたいしてである。カンポス委員はそのように述べていた。

 アメリカで最大の放送網をもつとされる CBS は、像を建てるのに日本が抗議してきたことに報道の中で触れたという。ほかに、ワシントン・ポスト紙やイギリスのインデペンデント紙やロイターも記事にしたそうだ。

 日本政府が怒れば怒るほど慰安婦像は拡散する。像に固執するほど、かえって世界の平和活動家を刺激してしまう。ワシントン・ポスト紙の記事では、このような分析の見かたが示されている。

 もともとサンフランシスコ市は、必ずしもはじめから像を建てるのをよしとしていたわけではないという。日本や大阪市の立場にも理解を示していた。それが変わったのは、日本の側からの抗議が一つのきっかけと見ることができそうだ。

 像を設置するかどうかを話し合う公聴会の場において、どのようなふうにのぞめばよかったのか。それをふり返られるとすれば、一つには、それを交渉の場としてとらえるのがあげられる。交渉として見たら、意見がぶつかり合っている中でこちらの言い分がまるまるすべて聞き入れられるとは考えづらい。半分以下と考えるのが妥当だ。そうだとすれば、こちらの言い分がほんの少しでも聞き入れられるのをもってしてよしとすることもできたのではないか。白か黒かといったことではないあり方である。

 最後にはどういう帰結になるのかとして、そこから逆算できればよかったのがありそうだ。それによってどういう発言をしたらよいのかを決める。いろいろな帰結の可能性をふまえて、どれをいちばん避けたいのかとか、どれくらいなら受け入れられるのかを見てゆく。〇点がいちばん悪いとして、それをできるだけ避けるようにする。一〇〇点はのぞみすぎなのがあり、点数そのものは低くても、一点でも多い結果を目ざす。

 公聴会をかりに交渉の場として見ることができるとするなら、そこで相手を怒らせるのはまずい。こちらがうわ手からものを言うのではなくて、下手下手に出てゆく。そのようにして、できるだけ相手と敵対しないように気を配るようにする。敵対してしまうと相手がこちらの意をくんでくれるのを期待できない。

 動機と結果として、二つの事項に分ける視点をもてる。動機がどうであるかとは別に、結果がどう出るかを見ることができる。それに、内面の動機といっても、自分で意識できるのだけではなく、さらにその奥にある無意識も見てゆくことができる。無意識をふまえると、動機のよさや純粋さがぐらつくことはたしかだ。力への意志にすぎない。

 議論として見ると、こちらがたとえ正しいことだとしている内容であっても、それをきちんと支えるような根拠を示さないとならない。そして、主張がきちんとした根拠で支えられているのかを決めるのは、受け手である。受け手の判断しだいというところがある。

 根拠を固定化させないで見ることができる。固定化させないとすれば、別の根拠をもってきたときにはまた別の答えが出てくることになる。この複数性をふまえると、一つの根拠で一つの答えが言えるとしても、それは限定されたものにすぎない。絶対的なものではないわけだ。仮説の性格をまぬがれない。

 こちらが正しいとしていることを言うのはよいわけだけど、それはあくまでも人称でいうと一人称に立っている。それだけだと十分ではない。それにくわえて、直接の相手である二人称についてや、間接の相手である三人称についても考慮に入れる。それらを総合して、つり合いをとったうえで発言できればよかったのがありそうだ。

 従軍慰安婦はねつ造であり、元慰安婦の人は嘘の証言をしている。こうしたのは、客観というよりは、主観による推論といえる。この推論では、発言者を否定しているところがあり、対人論法となっていると見なせる。陰謀理論におちいってもいる。このようになるのを避けて、従軍慰安婦(戦時性暴力被害者)について、部分的にここがちがうだとか、ここは受け入れられないだとかすればよかったのではないか。ここについては誇張されているおそれがある、なんていうふうにする。動かない事実と、動く事実を、整理することができていればよかったのがありそうだ。

過大(過剰)の幻想と、過小化の現実

 二〇二五年問題がある。それについて、毎日新聞の社説に載っていた。この問題は、団塊の世代が七五歳以上になる年をさす。こうした社会保障の危機がこれから先に迫っているのに、それについてきちんとした対応がとられていない。そのことについて警鐘を鳴らしている内容である。

 社会が超高齢になるのに加えて、人口も減ってゆく。今はおよそ一億二七〇〇万人いるとされるが、これが二〇五〇年ごろには一億を割りこむ。二〇六〇年代には八〇〇〇万人台になるという。

 社会保障と人口減少の危機は、一つの国難といえそうだ。こうしたことについて、選挙では中心の争点としてとり上げられていない。それで選挙に勝っていまの与党があるといえそうだ。こうしたあり方は、大衆民主主義および大衆迎合主義と言ってさしつかえないのではないか。

 この毎日新聞の社説の内容は、議会外の野党(反対勢力)からの声と言ってよいものだろう。この声に政権与党はできるだけ耳を貸すべきではないかという気がする。選挙中に、都合の悪いことはなるべく言わないようにして勝っているのがある。勝ったのをよしとして、選挙が終わったあとに野党の声を軽んじるようではまずい。議会の内外にある声を、進んで聞き入れるべきである。

 これから先に迫っている国難については、いまの与党にすべての責任があるのではない。過去のこれまでの政権が先送りにしてうやむやにしてきたことでもあるという。この先送りにするのは、けっきょく本質としての解決にはつながっていないので、つけが溜まってしまっているようなあんばいだ。それで今にいたっている。

 これから先については、楽観もできそうだ。楽観で見れば、未来においても日本は有能であり、もっといってしまえば全能である。自己(自国)における効力感をずっと保てる。ものごとがよい方へと転がってゆくわけである。国の威光を大きく失うことがない。

 楽観のほかには、楽観と悲観を半分ずつ持つのや、悲観だけを持つことができる。楽観と悲観を半分ずつ持つのは分能であり、悲観だけを持つのは無能(無力)である。

 楽観だと全能感や効力感にひたれるが、そのいっぽうで危機をきちんと認識することができない。すぐ先に迫っている国難を軽んじてしまう。そうしたあり方であると、これまでの政権がやってきたように、やっかいなことを先送りするやり方と同じである。そうしたやり方はまずいものだろう。

 現実をふまえたあり方としては、楽観と悲観を半分ずつ持つのや、悲観によるようなふうにするのがよさそうだ。そのほうが、危機を軽んじないですむので、きちんとした認識をもちやすい。そうしたふうにするためには、自分たちの全能感や効力感や有能さに疑いを突きつけるようなものに目を向けるようにする。それらを損なわせるようなものにもきちんと目を向ける。有用性の回路だけに閉じてしまわないようにすることがいりそうだ。有用性の回路とは、過小化の隠ぺいである。

 過去(起源)と現在と未来という、通時による見かたがあるとよい。この見かたによるのができれば、共時によって今だけよければそれでよいとするのに多少の歯止めをかけられる。現在はよいとしても、それはそれとして、(近)未来にたいしても配慮をもつ。連続や持続の視点である。儒教でよしとされる孝にあたる。短期としてよい(悪い)ことだけではなく、中期や長期としてよい(悪い)ことなんかもふまえられればさいわいだ。そこで冷静な議論ができればよい。