停滞と反動形成(たんなる破壊)

 停滞したあの時代に、あと戻りさせてはならない。私たちは結果を出して行く。自由民主党安倍晋三首相は、このように訴えている。停滞したあの時代とは、具体的にいつのことを指しているのだろうか。そして、それはなぜそうだったのだろうか。そういったつめた考察がないとなんとも言えないのがありそうだ。

 今まさに思いっきり停滞してしまっている。そうしたことも言える。これはあくまでも一つのかりの見かたにすぎず、絶対に今が停滞におちいっているということはできない。そのうえで、かりに今が停滞におちいっていると見なすと、その原因と察せられるのは、安倍首相が首相の座におさまっていることにあるだろう。首相の座をほかの人にゆずれば、停滞が解かれるのが見こめる。新しい風や空気が入ってくることになるからだ。窓を閉ざした部屋のように、空気の汚れやほこりがしだいにたまる。政権の中に、乱雑さ(エントロピー)や腐敗はどうしてもたまってゆくものだろう。たまりにたまった乱雑さをどうするのかで、あとにつづく人はおそらく大変だ。

 今まさに停滞してしまっているとすると、その原因の一つに、酔ってしまっているのがあげられる。為政者が自分たちの効力感に酔っているのである。そうして気持ちよくなる。これが停滞をまねいてしまうことになるというわけだ。こうした筋書きはあくまでも一つの見かたにすぎないものではある。そのうえで、停滞から脱するためには、気持ちのよいうわべの神話による酔いから覚めないとならない。幻想の効力感から覚めて、現実の無力感から出発するようにする。それも一つの現実主義のあり方だろう。

 停滞したあの時代にあと戻りしないようにする。そうしたことを意識するよりかは、むしろ停滞すらできずに、ずるずると後退していってしまうことを気にしたほうがよい。かりに後退していってしまうのだとすれば、それをごまかさずに明らかにしてくれたほうが親切であるかもしれない。見せかけだけの大国主義をあらためて、徐々に身の丈に合ったようにしてゆく。そんなふうにするのは、絵に描いたようにうまく行くものではないだろう。少なからぬ抵抗感もある。ただ、超少子高齢の社会の深刻さは待ったなしである。

 停滞したあの時代にあと戻りしないようにするとはいっても、ではこれから先にすごくよい時代が来るのかといえば、それはあまり大きく期待することができそうにない。逆に、停滞したあの時代が、今から思えばとても懐かしいといったことにならないとも限らないのがある。そうして懐かしさをおぼえることになるのは、たとえば(決しておきてほしくはないことではあるが)不慮の大きな自然災害に見まわれたり、国家財政が破綻したりすることもないではないからだ。そんなことにはならないと、いったい誰が完ぺきに保証できるだろうか。いざとなったら誰も責任をとりはしないのが本当のところなのではないか、とつい懸念してしまう。備えがきちんとできているとも見なしづらい。なぜ備えがきちんとできていないのかといえば、そんなに危機だとは見なしていないせいがある。軽んじているのである。そうではなくて、重んじたほうがよいような気もする。そうしたほうが、手ぬかりが少し防げるのがあるからだ。

すりこまないのに越したことはないのはありそうだけど

 憲法学は、すりこみによる。そのような記事が、産経新聞に載っていた。憲法の法を学ぶ人たちは、すりこみを受けることになる。そのすりこみは、左翼に偏ったしろものである。そうして左にかたよった人ができあがるわけだ。これははなはだけしからんことである。

 すりこみの内容が左にかたよっているというのは、では逆に右ならどうなのだというのもある。右のすりこみなら、みんなが納得してそれを受け入れるのだろうか。そうとは限らないものだろう。ようは、かりに左にかたよったすりこみがあるとしても、それがいかなる理由によっているかがあげられる。たんなる陰謀として片づけられるものとは言えそうにはない。

 学びは、まねびからきているともいう。まねすることが学びにつながる。これをすりこみと言い換えることもできなくはない。悪いまねもあるだろうけど、そうとばかりは決めつけられず、よいまねもあるはずだ。それはよい学びと言ってもよいのではないだろうか。さらにそれを活かすことがいるものではあるだろうけど。

 日本の伝統芸能では、守破離と言われるものがあるとされる。これをふまえてみると、すりこみは守であるといえる。この守の段階は、はじめにあるものにすぎない。なので、そこを頭から批判してしまうのはちょっとちがうのではないだろうか。すべての人が守の段階でとどまるものと決めつけてしまうことはできそうにない。

 守の段階でとどまらずに、破や離まで行ければよいのがある。そうすればよさそうだ。これを逆に言うと、守の段階でとどまっているように見うけられるのであれば、それはけしからんことではないのか、と言うことができる。それについては、守の段階にとどまっているように見うけられるのだとしても、そこに保守の精神みたいなのが息づいていることがありえる。必ずしも革新をすることがよいとは限らない。

 いっけんすると守の段階にとどまっているように見うけられるとしても、その守が深まっているといったことがありえる。それに、まったくぴったりと寸分もたがわずに守であることはできづらい。どこかに、その人なりの個性があらわれるものである。たとえちょっとであったとしても、破や離が達せられている。そうしたことがありそうだ。

 すりこみがまったくないのであれば、守がなくて破と離だけ、みたいなことになるかもしれない。はじめは何らかのとっかかりとしての守があったほうが都合がよいのがある。その守について、どういうものがふさわしいのかが改められる。いずれにせよ、完ぺきな守はありえないと言えそうだ。どこかに多少なりとも非があることは自然である。あとは、理由を見てゆけばよいのがあるし、妥当であるかどうかを説明し合ったり論じ合ったりすればよいのがありそうだ。

この国と言うときのこのが、日本を指していないのであれば問題かもしれない(日本を指しているのなら問題はなさそうだ)

 この国を、守り抜く。これは今回の選挙で自由民主党がかかげているスローガンである。このスローガンの中で、この国との文句があるけど、これはかつて民主党がテレビのコマーシャルの中でも使っていたそうだ。

 民主党によるテレビコマーシャルで、この国との文句が使われていたさいに、それに批判を投げかけていたのが、自民党に属する佐藤正久議員である。佐藤氏は、民主党が日本をこの国とコマーシャルの中で言っているのは、民主党愛国心のなさのあらわれである、とツイートで述べていた。この国なんて言うのではなく、我が国と言わなければならない。それが愛国心をもった者たちのしかるべき言いあらわし方である。

 はたして、日本のことを、この国と言うのがよいのか、それとも我が国と言うのがよいのか、どちらなのだろうか。これは好みの問題もあるし、文脈とのかね合いもある。いずれにせよ、瑣末(トリビアル)なものであると言えそうだ。固有名詞で日本としてしまったほうがいちばん無難だ。

 日本のことを、あの国と言うのであれば、それはおかしい。あのと言うのは英語では That に当たり、遠称である。他人ごとみたいなふうになる。しかし、このであれば英語では This に当たるだろうから、近称であるため、それほどおかしくはない。ほんのちょっとだけ距離があるかもしれないが、それほどとがめ立てするほどのことではなさそうである。それが証拠に、自民党も今回の選挙ではスローガンの中でしっかりとこの国と言っているのがある。

 この国を守り抜く、はとくにおかしくはないけど、我が国を守り抜く、だとちょっと変な感じがする。これはなぜなんだろう。我が国を守り抜くだと、当たり前だからだろうか。我が国なのだから、われわれのうちの誰かが主となって守るのは当然であるとも言える。

 この国を守り抜くとのスローガンは、国とするのではなくて、国民とするのがよいのではないかという気がする。国ではなくて国民を守ったらよいのではないだろうか。なんで国民よりも国が先にきてしまうのかが腑に落ちない。国民のことは率先して守ってくれないのだろうか。そこがちょっと心配だ。あと、意気ごみはともかくとして、どう守り抜くのかや、たんなる思いこみではないのかが示されたほうがよさそうである。

いじめがおきたのは必然ではないとすると、別の結果が十分に見こめたのがある(いじめがおきないという結果)

 いじめでは、いじめた方に全責任がある。しかし、いじめられた方にも原因がある。こうした意見があった。このさい、いじめられた方にも原因があるというのは、すべての原因ではなくて、一部は原因がある、ということだろうか。

 実証として、いじめがおきたのを見る。そうして見ると、いじめられた方にもほんの少しは原因がある、と言えるおそれがあるかもしれない(場合によっては)。しかし、実証ではなくて、そもそもなぜいじめがおきたのかを見ることがいりそうだ。そこには禁止の侵犯が少なからずあるのではないか。やってよいことではないはずだ。

 いじめと一と口にいっても、じっさいには色々なものがありそうだから、それぞれでちがうものだろう。そのうえで、そこでは強者が弱者に力をふるうのがふつうである。そのさい、弱者は可傷性(バルネラビリティ)をもつ。または、贖罪の山羊(スケープゴート)となってしまう度合いが高い。

 たとえ弱者であっても、自由をもつことは保障される。これは、不当な干渉を外から受けない自由である。もし不当な干渉を外から受けてしまうとすれば、自由の侵害となる。最低限の自由を侵害してしまうのだから、それは悪いことであると言ってよい。

 いじめられたいとのぞむ人はいるのかと言えば、おそらくそのような人はいないだろう。とすると、本人がいじめられたくはないとのぞんでいるのにも関わらず、それがまったく無視されてしまうのはおかしい。いじめられたくはないとのぞんでいるのなら、それはきちんと聞き入れられるべきである。大きな声を出さず、内面の声であったとしても、それが軽んじられてよいことにはなりそうにない。

 建て前ではあるかもしれないけど、いじめがおきるのを受け入れてはいけないのではないかという気がする。受け入れてはいけないとはいえ、せち辛い現実にあっては、どうしてもいじめはおきてしまうものではあるかもしれない。そうはいっても、そこで犠牲となるのはおおむね弱者であると見なせる。弱者が犠牲となるような社会ははたして生きやすいのかとか、息苦しくないのかといえば、そうとは言えそうにない。全体にはね返ってきてしまうのがありそうだ。めぐりめぐって、われわれ自身の首をしめることになってしまう。

現実が抱える問題は、現実とのずれがなくなっても解決しないような気がする

 憲法九条と、リベラリズムの死。こういう題名の記事を見かけたんだけど、そもそも憲法九条とリベラリズムは生きものではないので、死なないのではないか。擬人化してしまうのはどうなのだろう。擬人化とはキャラクター化でもある。

 日本型リベラルというのがあるのだとしても、それとは別に、日本型現実主義もまたある。現実主義だといっても、それは日本型であるおそれが小さくない。なので、リベラルだけをいちがいに日本型だとして批判することはできづらい。

 日本型現実主義とは、現実をきちんと分析することなく、皮相となるものである。おもて向きを見るだけでよしとしてしまう。広く見たり、深く見たりすることに欠ける。そうしたあり方なのだそうだ。すぐに一つの結論を出してしまう。

 日本型現実主義の難点の一つは、現実(事実)から価値を導出してしまうきらいである。これは、かくあるからかくあるべしを導く、自然主義的誤謬となってしまうものである。現実と価値を一元なものとするおそれがある。そうして一元なものとしてしまうのではなく、現実と価値を分けることで、現実を相対化するほうがときには有益だ。

 かりに憲法九条信仰があるとして、そこでは憲法九条が真理となる。いっぽう、日本型現実主義においては、表面的に受けとられた現実が真理となる。そうした点では共通しているところがある。

 自分が出発点として、現実を見る。そのさい、出発点となる自分は純粋で偏りのない(少ない)ものである。このようなあり方は主体主義によっている。しかし、思想家のカール・マルクスはこのように言っているのも見のがせない。個人の意識は、その社会によって規定される。社会のあり方だったり、属している階級だったりに、個人の意識が大きく影響を受けるのである。

 現実を直接にとらえるのはできづらい。というのも、それをとらえるのには、言葉によるのがあるためである。言葉は物的な媒介である。それを媒介とすることで間接的になるわけだ。なので、そうした間接によるのがあるにも関わらず、あたかも直接によるのだとするのなら、そこには現実とのずれの隠ぺいがあるだろう。

 真理か虚偽かといった一かゼロによる見かたではなく、もうちょっとファジーに見てもよいのではないか。ファジーに見たら、憲法九条や日本型リベラルも、それなりに正しいところがある。それなりに間違っているところもあるだろうけど。そこについては、反証可能性みたいなのがあるのを認められればさいわいだ。

 憲法九条や日本型リベラルに反証可能性があるのだとして、それだからといって頭から全否定されるものではないだろう。哲学者のカール・ポパーは、科学的である条件は反証可能性をもつことによる、としたそうだ。これについてはまったくもって正しいとは言えないのもあるそうなんだけど、それはそれとして、間違いが含むのを許すようなファジーな合理性があってもよい。

 現実を見るのについて、反証をこばんで確証バイアスによってしまうのであれば、認知の歪みとなってしまう。これは反証をとらないことによる合理性だ。こうした合理性ははたしてほんとうに合理的なのかと疑える。人間には合理性の限界(限定された合理性)しかないのをふまえると、何の間違いや非もまったく含まないとはなりづらい。もし何の間違いや非もないとするのなら、それは無謬性をかたっていることになる。

 憲法九条をよしとしているだけでは、戦後の平和は築かれなかったかもしれない。しかしこれをあらためて見れば、憲法九条と戦後の平和との相関をまったく否定することもできそうにないのがある。もしかしたら、戦後の平和にとって、憲法九条のもっている力はすごく大きいのかもしれない。そこははっきりとは言えないところだろう。いっけん頼りなくて目だちづらいけど力がある、といった可能性がある。

 国の防衛において、一国で自衛する力をもったり、集団で自衛するようにしたりする。そうしたのは否定されるものではないかもしれないが、軍事力や軍事条約(同盟)によっているのはたしかである。一見するとそれらは頼りになりそうなものだけど、そうしたのがあったのにもかかわらず、第一次世界大戦第二次世界大戦がおきてしまったのは無視できそうにない。そうした大惨事をおこさないようにとのことで戦後の集団安全保障の体制がつくられたのではなかったか。そことのつながりとして、日本の憲法の九条があるとも見られそうだ。

建て前と本音があるとして、本音をぶちまけてしまうのはどうなのだろう(建て前とのかね合いがあるので)

 今回の選挙では投票をしない。そのようにして棄権することを呼びかける。この動きについて、一部からは批判する声があり、また他方では賛同する声も見うけられる。

 はたして、投票をしに行くのと棄権をするのとでは、どちらが楽なのか。それを比べると、棄権をするほうがどちらかといえば楽なのではないかという気がする。何人かの候補者や政党の中から、どこかを選ぶ。その選ぶのをやめてしまうのだから、そのほうが少し楽だとは言えるだろう。投票所に足を運ばなくてもすむ。

 六〇〇億円の費用がかかっているのがある。選挙に行ってくださいとの呼びかけもあり、期日前投票などのおぜん立てもされている。そうした労力や費用はなぜかけられているのだろう。それは一つには、よいことだからなのではないか。よいことではないのなら、労力や費用をかけないで放っておけばよい。周知しなくて、密かにやっていればよいわけだ。

 投票に行かないで棄権する自由があるのはうなずける。それに、ほかのところで色々な政治の活動にはげむこともできる。そうしたのはあるわけだけど、棄権する理由としてはそんなに強くはないのかなという気もする。そういう埋め合わせみたいなのはあるだろうけど、それとこれとはまたちょっとちがうのではないか。もっとも、まったく何の理由にもなっていないというわけではないし、個人の信条だからあまりとやかくいうべきではないのはあるかもしれない。

 共和主義においては、一人ひとりが労力や時間をかけて、公共の利益のためにとり組むのがよいとされる。どのようなものに労力や時間をかけるのかは、色々なのがあるだろう。そのうえで、あえて選挙で投票するのを避けることはない。そうした気がしてしまう。というのも、棄権してしまうのであれば、けっきょく労力や時間をかけないことになってしまいそうだからである。ほんの少しではあっても、差があると言えそうだ(ほんのちょっとだけかもしれないけど)。

 内容からいって、今回の選挙にはきちんとしたおぜん立てが整っているとはいえないのがある。そうしたのがあるとしても、なんとか自分で動機づけをすることはできなくはないのではないか。まったく少しも動機づけをはたらかせることができないとはいえそうにない。たとえば選択肢が一つしかないとか(同じようなのが)二つしかないとか、そういう極端なことであればやっかいだ。しかしそうではなく、いちおうは右から左まであるのだとすれば、そこで折り合いをつけるよりない(何とか折り合いをつけられれば)。棄権のほうへ動機づけがはたらいてしまうのを防げればさいわいだ。といっても、かりにそうなったとしても、個人の選択として自由ではあるわけだけど。

責任感の必要性のねつ造(物語としての責任感)

 人手が足りない。完成させないといけない期日も迫っている。二〇二〇年に催される東京五輪で、会場として新国立競技場が使われる。まだ建設の途中にあるわけだけど、そのさなかに現場で監督をしていた新人の男性が、自殺をしてしまった。

 この男性は、新人であるにもかかわらず、現場の監督を任されていたという。そのせいもあり、上下関係での嫌がらせであるパワー・ハラスメントを受けていたとされる。ほんらい、任に適した人を配置するのは会社の責任といえる。適していないのにもかかわらずそのまま任せていたのだとすれば、いったいなぜそうしたのだろう。

 現場の監督を任された新人の男性は、共有地の悲劇におかれたといってよい。自分がさばけるだけの仕事の要求であればよいが、それを超えた量であるのなら、押しつけとなる。量を加減して、その人がさばけるだけの要求にとどめるのがまっとうだろう。

 仕事とはそれほど楽しいものではない。それがもし楽しいのだとすれば、仲間との助け合いがあったり、やっていることがきちんと認められていたり、賃金がしっかりと支払われていたりすることによる。そうしたのがなければ、たんなる苦痛となるおそれが高い。その仕事さえしていなければ受けるはずのない苦痛を与えるのは、その人にとって悪いことをしているといえそうだ。

 一人ひとりがよき生(ウェル・ビーイング)を送るのであったらよい。そのためには、社会の中でよしとされていることとは別に、自分が幸福になるのを一番に優先させるのが許されてもよいのがある。少なくとも、視点の一つとしてそれがあるのはかまわないだろう。日本国憲法でも、個人の幸福追求権が保障されている。

 自己への配慮や関心がある。英語では take care of myself である。こうしたものをもつのがよいのかもしれない。自分をきちんと take care するのが許されて、認められる。自己への配慮や関心をもつことができるようであるのがいる。それをさせなかったり妨げたりするようなものはよからぬものである。ときにはそうしたことも言える。外にある社会や集団が押しつけてくるものがあるとして、それに待ったをかけて切断するようなのができればよい。共同幻想と自己幻想を分けるようなあんばいだ。仏教の開祖であるお釈迦さまは、天上天下唯我独尊といっている。

 競技場の建設をしなければならないとして、それに役立つか役立たないかで人の価値がはかられてもよいものだろうか。これだと手段的価値となってしまう。そうではなくて、人には内在的価値があると見なすことができる。手段ではなくて、目的として人があつかわれるのをさす。こうした見かたは、あくまでも理想にとどまるものではあるかもしれない。そのうえで、人を何かの手段として見すぎてしまうと、野蛮と化すのを避けづらい。

 二〇二〇年の五輪に向けて、急ピッチで競技場の建設を終わらせなければならない。それはたしかに重要なことではあるのだろう。ただ、そうしたふうに無理に計画が立てられて、資金が限られている中では、そのしわ寄せが来てしまうのは弱者である。横暴な経済権力や国家権力を弱者にふるってまでやるだけの意味あいがはたしてあることなのだろうか。人をしいたげてまでやることがいるのかは疑問である。五輪という盛大なもよおしの見かけではあるが、少し耳をすませると、ひどくうつろな響きをたてているのではないか。廃墟の痕跡がある。

加害者はこの人であるとして、それで物語を閉じてしまってよいものだろうか

 詐欺で逮捕された。籠◯泰典氏(と夫人)について、自由民主党安倍晋三首相はこのように述べていた。選挙における党首討論で、疑惑を問いただされたなかでの発言だ。不正が疑われる、籠◯氏が運営していた森◯学園と、加◯孝太郎氏の運営する加◯学園は、首相とその周りとのかかわりが濃い(濃かった)のが明らかにされている。

 一国の首相が、一人の個人について、わざわざ詐欺で警察に逮捕されたことに言及するのはいかがなものだろうか。そのような気がしてしまったのである。たしかに、詐欺で警察に逮捕されたのは事実ではある。しかしそうだからといって、犯人であるのが立証されたとはまだ言いがたい。

 警察に逮捕されて、裁判にかけられたから、その人は悪い人になるのだろうか。必ずしもそうとは決めつけられそうにない。これを決めつけてしまうのは印象の操作になる。誤認逮捕とか、不当判決が出るおそれも決してなくはない。有罪推定の前提で見るのはどうなのだろう。

 じっさいに詐欺をはたらいていたのであれば、たしかに悪いことをしたことになる。そのうえで、籠◯氏だけが悪いと決めつけられるのかは定かとは言いがたい。籠◯氏がはめられたおそれを否定できないのがある。少なくとも、解釈の一つとしては成り立つだろう。はめられた方も少しは悪いかもしれないが、はめた方(がもしいるとすれば)もまたそうとうに悪い。

 籠◯氏に首相が嫌われても、たった一人(また数人)から嫌われるだけだから、たいしたことはない。そんなふうに、利と害をはかりにかけているとすれば、いただけない。疑惑がほんとうはどうだったのかについて、籠◯氏が詐欺をはたらいたので一件落着としてしまうのは、罪の押しつけになりかねない。こうした落着のさせ方にはどうしても賛成できないのがある。もしそのように落着させているのだとすればの話ではあるけど。

 たった一人で、どうやって国を相手どって詐欺をはたらけるのだろう。詐欺をはたらくとすれば、一般論でいうと、だます方がだまされる方よりもより賢くないといけない。籠◯氏は国よりも賢かったのだろうか。国は籠◯氏よりも愚かだったのだろうか。ふつうは逆なのではないかという気がする。悪賢いという意味でだけど。

 どこに帰属があるのかにおいては、個人要因と状況要因に分けられる。籠◯氏の個人に要因をおけるとは必ずしも見なせないだろう。状況の要因も無視することができない。どういった状況におかれていたのかが少なからぬ意味をもつ。首相やその周りとの仲がよかったのだから、忖度して引き立てられたゆえのあやまちだったおそれもある。そうであるのなら、忖度して引き立てた人たちにもまたあやまりがあったことになる。

憲法の改正をかかげるのはよいにしても、それとは別に、できるだけ正確な情報をもとにするのでなければ信用がおけないのがある

 教科書には、自衛隊違憲だと記述してある。自由民主党安倍晋三首相は、党首討論のさいにこのように述べていた。これについては、二重に正しくないおそれがあげられる。

 自衛隊違憲であるとはっきりと記述している教科書はさして見あたらない。そういう意見もあるとしているのが多い。そのうえ、違憲を匂わせているとしても、それはそもそも憲法がかかげる平和主義にずれているのではないか、としている。

 かりに安倍首相が言うように、教科書に自衛隊違憲だと記述されているとしよう。もしそうであるのなら、そこから憲法の改正に向かうのではなく、教科書の記述を改めればすむ。高度な政治の判断については断定を避けておく。そのほうがてっとり早いのではないか。教科書の記述に憲法を従わせないといけないとすれば、ちょっとちぐはぐだ。

 まず、現実の誤認というのがある。そして、それをもとにした対応のしかたのいかんがある。このさい、現実の誤認が一番目の誤りである。ついで、それをもとにした対応のしかたが二番目の誤りとなる。このようにして二重に正しくないことができあがってしまう。

 誤認とか誤りだとかいうのは、見かたが一面的になってしまっていたり、認知の歪みがはたらいていたりすることをさす。そうしたふうになるのはまずいから、なるべく気をつけられたらよい。

 そもそも憲法の改正をすることがほんとうにいるのか。改正をせずともほかに打てる手段はないのか。そうした点を見られたらよさそうだ。これはいわば、石破四条件のようなものである。石破四条件では、大学の学部の新規開設にいま一度の再考をうながす。そのために四つの条件をつけている。この条件の中身がはたして正しいのかどうかはとりあえず置いておくとして、決定の前に再考をうながすことに意味があると思うのだ。

 憲法の改正がほんとうにいるのかについては、いると断言する。そして、改正をしなくてもほかに打てる手段がないのかについては、ないと断言する。こうしたふうになってしまうと、自分が断言したことを疑うのがなくなってしまう。確証バイアスがはたらく。このバイアスは歪みであるから、ひどいものであるとまずい。いったん一次情報なり事実なりにあらためて立ち返る機会があったほうがよいだろう。

 憲法が硬さをもつのでなければ、やわらかくなる。そうしてやわらかいのだと、一回あらためて、またそれを元に戻して、またあらためて、なんていうふうになってしまいかねない。それだと不毛である。それを避けるために硬さをもたせるのがよいとされる。これは、一つだけではなく、いくつもの視点を関わらせるのをさす。見る角度が変われば、映り方もまたちがってくる。よっぽどおかしな見かたでないかぎり、色々な角度から見られたほうがよい。そうすることで理解が少しは増す。あせる必要はそれほどないだろう。

 憲法の改正をするのだけが正しい。こうしてしまうと、一つのあり方だけをよしとすることになる。こうしたあり方も現実にはとれるわけだけど、一か〇かや白か黒かになってしまうのを避けづらい。そうではないあり方もとれる。一か〇かや白か黒かとしてしまうと、きつくなってしまうが、ゆるくすることもできる。ゆるくするのなら、一でもよいし〇でもよく、白でもよいし黒でもよい。このようにしてゆるくする試みがあってもよいのがある。こうすることで、偽りの二分法におちいってしまうのを少しは防げる。

 自主憲法がのぞましいとは必ずしもいえない。そうしたのもある。というのも、自主的に憲法をつくったからといって、その中身がのぞましいものになる根拠がとくにない。場合分けできるとすれば、のぞましいものになることもありえるが、そうでないものになるおそれもある。どちらになるのかは定かではない。当事者が決めることと、当事者にとって(長い目で見て)益になるのとは、必ずしも結びつかないものである。そうしたのがあるから、国内外の識者からの助言や、国外ではどういうふうなのかや、戦前と戦後の対照さなどについての、比較と分析がじっくりと行なわれるのがあったらよさそうだ。

国難と受難(パトス)

 お前が国難、と記された用紙をかかげる。自由民主党安倍晋三首相は、選挙の演説に行く先々で、国民の一部からの反対の声にさらされている。ツイッターハッシュタグをつけて、#お前が国難、との文句が安倍首相につきつけられている。

 はたして、選挙の演説では、候補者の演説と有権者(の一部)からの声と、どちらが優先されるのがよいのだろう。候補者が演説しているのに、それを邪魔するのはけしからん。大人しく聞いている人も多々いるではないか、ともいえる。しかし、憲法では国民主権がうたわれているのもたしかだ。政治家(候補者)主権になってしまうとしたらどうなのだろう。代表制の矛盾のあらわれだ。

 行く先々のすべてで反対の声が投げかけられるわけではないのかもしれないが、行く先に反対者が待ちかまえている確率は低くない。陣営は、事前に行く先を告知しないようにしているらしいのだが、それでもまったく知られないでやることはできないから、賛同者ばかりを聴衆として集めるわけにはゆかないのだろう。演説をする身としてはやりづらそうだ。

 安倍首相の演説にかけつけて、反対の声を投げかける人たちは、動員されているおそれもいなめない。そのように動員されているかどうかは、客観の証拠がないかぎりは断定することができないものである。ほんとうの国民(の一部)からの生の声であるとすればそれはできるだけ尊重されることがいる。

 お前が国難、との文句は、議会の外にいる野党からの声といえるだろう。議会の内にいる野党からの声は避けられても、その外からの声は避けられなかった。そういうことが言えるのではないか。なにも、与党のやることに賛同してついてきてくれるばかりが野党ではない。それはたんなる補完勢力にすぎないのがある。

 お前が国難との文句を投げかけることで、問題を突きつけていることになる。問題というのは外から突きつけられるものであり、内からはなかなか突きつけるのができづらい。自分にはどうしても甘くなってしまうものだからである。自分で自分になんら問題がないと言っても、それは自己言及になってしまう。

 すべての批判の声にいちいちとり合わなくてもよいかもしれないが、それとは別に説明責任を果たすことは大切だ。不信をもっている人たちがいるのなら、その人たちを切り捨ててしまうのではなく、なるべくすり合わせるようにできればよい。そうでないと分断したままになる。

 問題があるのなら、それを認めて、再発の防止の策を示す。もしくは自分がいったん地位を引き下がる。そうした手だてがとられるのがいる。もし問題がないとするのであれば、たんなる問題の隠し立てではないことをきちんと納得させられるように説明をする。おもて立ってそれができるはずである。

 お前が国難、と言っているのは、けっして何の理由もなくそうした声を投げかけているわけではないだろう。何らかの理由にもとづいて声を投げかけている。これは、お前が国難であることの理由である。いっぽう、自分が国難ではないことを証明するのはむずかしいかもしれない。国をつかさどってきた長として、これまでに非がまったくないとは見なしづらい。

 いったい誰が(何が)国難なのかについては、意見が分かれるのはある。そのうえで、国難を持ち出したきっかけは安倍首相なのがあるから、まさかそのほこ先が自分に向けられるとはあまり想定してはいなかったのかもしれない。少なくとも、かりに国難があるのだとすれば、そうやすやすとは解決や突破ができそうにない。そもそも、国難と突破はたやすくは結びつかない。なにを根拠にして、国難と突破を結びつけているのだろう。

 分断をきたしている場合ではなく、みんなでそれぞれの知恵を出し合い、それを尊重し合うのがあったらよさそうだ。そのためには、無知による切り口もありだろう。自分が知っていることがすべてではないのがあるから、自分と近しいものだけでは不完全さをまぬがれそうにない。近しいものだけで固まるのなら側近政治をぬけ出すことは困難だ。