置かれている条件がちがうわけだから、単純に年月の長さで比べるのはどうなのだろう

 日本は、世界でもっとも年上の国である。2677歳になる。デンマークがついで1500歳、イギリスがそれについで 1000歳である。日本たばこ産業の広告では、こうしたことが言われているそうだ。

 ここで言われる国とは、そもそもどんなしろものを想定しているのだろう。近代国家なのであれば、たしか 17世紀ほどにウェストファリア条約によって成り立ったものだろうから、それによって順次できあがっていったものといえそうだ。それ以前にさかのぼれば、近代国家としての国はないわけだから、あまりさかのぼっても意味がなさそうである。

 日本の国が 2677年も続いてきたとはいえ、それを 0からずっと連続してとらえるのにはいささか無理がありそうだ。質のちがいを無視してしまっている。記号表現(シニフィアン)が日本であっても、記号内容(シニフィエ)はそうとうに異なっているはずだ。なので、ひとくくりに日本(人)とするのは適当とはやや言いがたい。

 日本が世界でもっとも年上なのであるとするのに加えて、日本は神さまがつくった国でもあるという。そうしたことが広告の中で言われているわけだけど、そもそも、国だとか神さまだとかいったものは、厳密にいえば実体ではない。精神分析学のフロイトは、国は超自我の虚焦点である、と言っているそうだ。見る者の内なる超自我が投射されているわけである。

 神さまについても、それは世界を実体化したものであるという。世界そのものは物自体なのでとらえることが難しいものとされる。そのうえで、世界がなぜあるのかというさいに、それを説明する物語が持ち出される。その物語は本当のこととはいえないにしても、受けとる者において現実味が高ければじっさいのことのように見なされる。

 日本は神さまがつくった国だとするのは、日本のはじまりを説いたものである。これは起源を説く神話であると言ってさしつかえがない。日本には日本の神話があってもよいのもたしかである。それにくわえて、日本には八百万の神さまたちがいて、その一人ひとりにもまた神話があると言ってもよさそうだ。日本人の一人ひとりにもまたそれぞれの神話があるだろう。

 神さまとはいわば、よく分からないものにフタをするようなものである。そのフタをとってしまえば、神さまを抜きにしたこととなる。たんに世界の中に一つの島があり、そこに人が住んでいる(きた)だけにすぎない。そうした点をふまえると、日本の国をつくったのが神さまだとするのは、汎霊論(アニミズム)からの観点によった見かたである。

増税に耐えられる経済の足場を整えるのと、反対派を説き伏せるのとは、どちらのほうが難しいのだろう(どちらのほうが易しいのだろう)

 消費税の 10%への引き上げは、予定どおりおこなう。テレビ番組に出演したさいに、自由民主党安倍晋三首相はこのように述べた。2019年の 10月に予定されている消費税の増税をおこなう意思を示した。

 首相は合わせて、財政の赤字を減らして健全化をはかるとしている。また、国内総生産に占める債務残高の割合を低くするように努めると語っている。消費税の増税とともに、これらはできるだけなしとげるべき目標であるとしていた。

 おもうに、消費税の増税については、ここでこそていねいな説明をしたほうがよいことなのではないかという気がする。この点についてていねいな説明が欠けてしまっているせいで、陰謀理論がはびこってしまったり、即興による解説がなされてしまったりしてしまう。擬人化して見立てる、擬人的思惟にはまりこむ。

 消費税の増税を予定どおり行なうのであれば、それをするのはなぜなのかといった理由づけや、背景となる観点や条件を説く。増税を行なうのが正しいとできるような論拠を出すことによって、しっかりと論証してゆく。そうした過程がとられたほうがよいだろう。反対の立場からの反論があるはずだから、その立場ともやりとりをする。

 一人二役ではないが、アメとムチのようにして、増税の延期を土壇場になってちらつかせるのは、ムチを引っこめてアメを差し出すようなものだといえそうだ。土壇場になってアメを差し出されれば、それについ手を出してしまうのは人情でもある。こうした点については、ことわざでいう、良薬は口に苦し、なんていうのを持ち出すこともできるだろう。たんに苦いだけでは国民は納得しないのはあるわけだから、そこは首相の口からあらかじめていねいな説明をするのがあったほうがよい。それによって、陰謀理論や即興による解説のまん延を、巷から少しは払しょくすることができそうである。

労働と休暇の折衷

 問題が山積みなのにもかかわらず、夏休みをとるとはけしからん。(就任中の)バラク・オバマ前大統領にたいして、このような批判を言った。批判を言ったのは、大統領に就任する前のドナルド・トランプ氏だ。そしてトランプ氏はいざ大統領になった今となって、夏休みをとることにしたという。オバマ氏に投げかけた批判が、自分にはね返ってきてしまったかっこうだ。

 トランプ大統領は、夏休みをとるのにさすがに気がねがしたのか、ワーキング・バケーションであると言っていた。休暇をとりながらも働くのだという。日本語に訳すと、働きながらの休暇、といったところだろうか。これでは、働くのか休暇をとるのか、どっちなのかがよく分からない。車の運転でいえば、アクセルを踏みながらブレーキも踏む、みたいなあんばいだ。

 働くと一と口に言っても、形だけ働くとすることもありえる。いわば口実のようなものである。ワーキングは建て前であり、本音はバケーションのほうにおかれている。そうしたことがありえるだろう。休暇のほうが楽しいのは人情だから、労働とはいっても気もそぞろとなり、身が入らずにおざなりになってしまうことになりそうだ。

 なんの個人的な借りがないのだとしても、あえてトランプ大統領に忖度してみるのだとすれば、雑種(ハイブリッド)のようなふうにして、労働と休暇を同居させる試みであるかもしれない。あるいは、弁証法のようにして、労働であるテーゼと、休暇であるアンチ・テーゼを止揚(アウフヘーベン)させるようなもくろみであるかもしれない。

 ことわざでは、虻蜂とらずといわれる。二兎を追う者は一兎をも得ずともいわれる。こうしたことをふまえると、どちらか一つにしぼったほうがよいような気がする。けっきょくどちらも中途半端に終わってしまうようであれば不完全燃焼(不完全休養)みたいなことになりかねない。よけいなおせっかいではあるかも知れないが。

憲法を中学生に寄せるのもよいだろうけど、中学生を憲法に寄せるのであってもよいのでは

 中学生が読んで、自衛隊違憲となる憲法なのはおかしい。政治学者の三浦瑠麗氏は、そのように述べていた。中学生が読んでということであるが、小学生の場合はどうなのだろう。または、高校生や大学生だったらどうなのだろう。かならずしも中学生を想定する必要はないような気がする。

 いろんな立場があるわけだけど、かりに憲法をできるだけ尊重しようとする、護憲派の立場をふまえてみる。この立場においては、憲法を守ることが、もっとも優先されることになる。何が一番で何が二番で、といった優先順位をつけるものである、順序数的効用において、憲法が一番にくるわけだ。

 そうした護憲派の立場をふまえてみると、憲法をできるだけ守るのがよいのであるから、自衛隊はその次にならざるをえない。極論でいえば、憲法を改正するよりも、自衛隊を解散するべきだろう。しかしかならずしも解散することはいらない。個別的自衛権に限定するのであれば、憲法の解釈によって自衛隊は肯定される見かたが成り立つ。そうしたことが言えるそうである。

 憲法をできるだけ守ろうとする護憲派の立場が、そのほかの立場よりも正しいとはかぎられない。そうしたことは言えるわけだけど、だからといって、改憲派が正しくて護憲派がまちがっているとはかならずしも言えないだろう。そのちがいについては、それぞれの効用のあり方のちがいによってくるところがある。

 現実をいちばん効用の高いものとする。憲法はその次にくるのであり、効用は低いと見なさざるをえない。改憲派であればそのようになるだろう。ここで問題となってくるのは、現実と一と口にいっても、極論でいえば、それは玉虫色として受けとれるものである。どこから見るのかによってちがってくる。なので、現実を見るのについても、できるだけ遠近法的解釈として、解釈が複数あってよいとするのがのぞましそうだ。よっぽど整合性に欠けるのでないのであれば、いろいろな立場がありえるので、どれがとりわけ正しいのかは一概には言えそうにない。

もっとも短い伝記は、生まれて、苦しんで、死んだ、というものらしい

 人生には救いはない。作家の車谷長吉氏が、そのように述べていたのを見かけた。車谷氏は、生まれたころから遺伝性の副鼻腔炎(蓄膿症)を患っていたそうで、鼻から息を吸うことができなかったという。そうした辛い境遇をかかえていたこともあり、また生きてゆく中でのいろいろな人生の経験や観察もそこに重なり、救いがないとする結論にいたったのだろう。

 気持ちがふさいでしまっていて、ひどくゆううつなときには、たしかに人生に救いはないのかもしれないといった感じがする。救いがないことにたいして少なからぬ説得力を感じるのである。

 たとえ救いがないのだとしても、それでかえって肩の荷が下りることもありえる。これは逆説であることになる。しかし、そうして逆説がはたらくのは必ずしものぞめない。救いがないことをまともに受けとめてしまうといったふうに、通説みたいにしてしまうありようがある。こうした通説の受けとめ方になると、文字通り救いがないことになり、どこまでも浮かばれないかのようである。

 現にこうして救われていないように受けとめられる自分がいるのだとすると、それはけっこう強い例証となる。あまり例証にしたくはないのもたしかだけど、どうしてもそうなってしまうところがある。自分による足場に引っぱられてしまうようなあんばいだ。自分ばかりを気にするのはよくないこともあるわけだけど。

 救いがないのは、一面の真実であるような気がする。自分が落ちこんでいたり沈んでいたりするようなときには、とりわけ真相であるかのようにひしひしと感じられる。しかしそれと同時に、救いがないのを証明することもできづらい。たとえ空手形をつかまされることになるおそれが高いのだとしても、いつかはほんとうの約束手形をつかめるのではないか。決して賢くはないかもしれないが、そうした期待をもってしまうこともたしかである。

 哲学者のショーペンハウアーは、この世について厭世的な見かたをとっていたという。神さまではなく、悪魔がこの世を支配しているといった悲観主義によっていた。悪魔がこの世を支配して動かしているとする見かたは、必ずしも頭から捨て去ることができそうにはない。それなりの整合性をもっているのはたしかだろう。ある種のつじつまは合っていると言わざるをえない。ただ、あんまりこのような見かたによりすぎると、偏ってしまうところもあり、ことによると危ないようになりかねない。

 厭世観による悲観主義は、一つの見かたであるけど、それだけをもってしてこと足りるとはいえないものである。色々な見かたが成り立つのがあるから、一つの見かたにだけよるのではないようであるのがのぞましい。

 止まない雨はないとも言われる。それをふまえると、ずっと空に厚い雲がおきてばかりいるとはかぎられない。いつかは雲と雲のあいだに割れ目がおきて、光が差すことがのぞめる。積極的な態度であるとはいえないかもしれないが、それを待つのも悪くはないかもしれない。そうして他力によるばかりではなく、少しは自力でもやってゆかないとならないかもしれないのもある。

 時間とは変化のきっかけであるから、時間がたてばものごとは何らかの形で動いてゆく。ずっと静止しているわけではないだろう。それにくわえて、空間の面に目を向けてもよいかもしれない。もしかりに厭世や悲観による空間があるのだとしても、それとはまたちがった空間も別にありえる。なので、厭世や悲観とはまた別な空間に移行するみたいなこともないではない。それについては、空間の現実味や臨場感(リアリティ)がかかわってくることになりそうだ。または、文脈(コンテクスト)であるといってもよさそうであり、それを交換したり持ち替えられたりできるのだと、単一なだけであるよりかは融通がきく。場合によっては難しいかもしれないが。

 文脈とは意識による志向性をさす。その志向性によって意味づけがされる。主観による志向性で意味づけするのを、たまにはカッコに入れてみるのもよいのかもしれない。そのようにできれば、またちがった角度からものを見ることができるようになるのがのぞめる。それまでとはまたちがった意味付与ができることがありえる。そんなにうまくはゆかないものではあるだろうけど、うまくすれば陰と陽の転換みたいなこともできるかもしれないので、それができればさいわいである。

人間からの排除(上方もしくは下方への排除)

 人間あつかいしてごめんなさい。こうした憎悪表現(ヘイトスピーチ)によるかけ声が投げかけられていたらしい。このかけ声をあらためて見ると、人間あつかいにするのがふさわしくないものとして、必ずしも人間以下(とされるもの)であるのばかりではない。人間より上(とされるもの)である神さまや仏さまなんかがいるわけだから、そうしたものである可能性もあげられる。無神論の人であれば、神さまや仏さまがいることを否定するかもしれないが、それ以外でも、超人なんかを持ち出せる。

 人間は万物の霊長であるとしても、人間の範ちゅうにはいろいろな人がいることもたしかである。それにくわえて、自分が人間に属するからといって、人間を優遇するのはおかしい、とする意見もある。人間中心主義になってしまうからである。自分が人間に属しているとしても、それだからといって人間を優遇するのは必ずしもふさわしくないのもあるから、反人間中心主義の視点に立つこともあってもよさそうだ。

国政をになう政治家は国民の代表者であり、その代表者が道義を少なからず損なうのはある種の必然であると見なさざるをえない(モラルハザードがあるがゆえに)

 道義国家を目ざすのを、とり戻す。そのようなことを、先ほど防衛大臣の辞任の意を示した、自由民主党稲田朋美氏は、国会のなかでいぜん述べていた。稲田氏にかぎられないわけだけど、道義を重んじるというよりは、むしろ逆にないがしろになってしまっているのではないか。その代わりといったかたちで、個人的な動機が重みをもってしまっている。

 道義よりも、どこに動機が置かれてしまっているかを見たほうがよさそうだ。たとえば、もっぱら自分が保身することへ動機が置かれてしまっているのであれば、それは広く見ればまずいことになりかねない。

 道義国家を目ざすのは決して悪いことではないかもしれないが、肝心の道義がいざとなったらどこへやらといったようにして、ふきとんでいってしまったり、ないがしろにされてしまったりするのであれば意味がない。そうであるよりかは、自分が何に動機づけをしてしまっているのかを見たほうがほんの少しくらいは有益だろう。そうして動機を相対化してみるのもありである。ほかに結果の重要さもあるし、帰結をふまえることも欠かせない。

 たんに打算による道具的なあり方なだけではなく、ある対象へ興味や関心を注ぐといったかたちの統合的な動機づけをはたらかせることもあればのぞましい。これは、道具的動機づけと統合的動機づけのちがいであるという。利害や打算による一つの切り口だけではなく、さまざまな角度からとらえられるようになれば、(自分がうとましいと見なす対象の)うとましさを減じることにつながることが見こめる。そんなにうまくゆくものではないだろうが、うまくすれば対象のとらえ方を変えることにつなげられる。

 ていねいな説明をする。こうしたことが言われているわけだけど、これをもし本当にできるのであればさいわいだ。ていねいな説明の反対には、色々あるだろうけど、一つには一方的な宣伝(プロパガンダ)がある。社会関係はできるだけ双方向で意見のやりとりがなされるのがのぞましいだろう。やりとりにピリオドを打ってしまうのではなく、引き続けていったほうが実相が明かされやすい。反論を封じてしまわないようにする。そして、文脈をぶつかり合わせるのではなく、できるだけすり合わせをおこなうことがいりそうである。解釈の複数性により、いたずらな単一さにおちいらないようにする。遠近法主義によるようであればよい。

けんか好きなボスの猫

 猫がたくさんいる島の動画があった。その島にはボスとなる猫がいるようである。ボスの猫は、しきりにほかの猫にけんかを売っていた。好戦的である。そうした一面のほかに、たとえば母子の猫にはあまり手を出さなかったり、子猫には教育的な指導でとどめたりしていた。また、そのボス猫は飼い猫でもあるようで、飼われている家の中ではふつうの飼い猫としてすごしていた。

 動画の中のボス猫について、そんなにしきりにほかの猫へけんかを売らなくてもよさそうなものだという気がした。そうしてけんかを売ってゆくことが自分の存在理由(レーゾン・デートル)だと思っているのだろうか。それはわからないが、見さかいなくどんな猫へも戦いを挑むのではないようである。そこは動物としての本能がはたらいているようだ。攻撃性において、解発(リリース)だけでなく抑止(コントロール)がきいている。それによって、たとえば母子の猫だったり子猫だったりにはあまり手を出すことがない。

 猫がたくさんいる島なので、密集している度合いが高いから、うっぷんがたまる。そうしたことがありえるので、そのうっぷんを晴らすために、けんかをしかける役みたいなのがいるのかもしれない。その役がいることによって、ガス抜きみたいなのが行なわれる。

 ひるがえって、人間の集団におけるボスには、猫の場合と同じように攻撃性をもっていることが認められる。精神分析学者の岸田秀氏の唯幻論をふまえてみると、人間は本能が壊れていると言われている。なので、攻撃性について抑止がかかりづらいところがある。解発ばかりが行きすぎてしまう。そうしたおそれがある。

 いくら好戦的であるとはいえ、ボス猫が他の猫をけしかけて、何か戦争みたいなことをするわけではない。武器や武力ももっていないだろう。しかし人間は、一つの(幻想の)集団を形づくり、それらがぶつかり合うような戦争を行ってしまうことがありえる。また、武器を製造して武力をもつことになる。より危険な武器を製造するほどに、それを使う理由もまたつくり上げてしまう。

 人間は思いこみである観念をもとにして、動いていってしまうところがある。これは表象(イメージ)であるので、必ずしも実体であるとはいえそうにない。イデオロギーによって動かされる。そうしたところがあるわけだが、一つの観念ができるだけ固定化されないようにして、柔軟さを保てればよさそうだ。そうしてずれてゆくことができればよい。そして、なるべく一つではなく複数の物語がふまえられることがあればのぞましい。複数性があることによって相対化できやすいからである。

落ちこんできてしまっている政権の支持率を、上げてゆくための手だてとして、日産自動車の例が持ち出せるかもしれない

 政権の支持率が、3割を割りこんできている。これは低めの数値の一つであり、もうちょっと高めの数値もあるにはある。日本経済新聞の調査では 、まだ 3割台であるようだ。いろいろある中で、低めの数値のをふまえてみると、そこで 3割を割りこんでしまっているとこれからの政権運営はかなり厳しいようである。

 もし支持をこれから回復させてゆこうとするのであれば、日産自動車なんかを参考にすることもできるかもしれない。いま政権は自由民主党安倍晋三首相がになっているわけだけど、その首相の上に、スーパーバイザーみたいなのを外から呼んでくるのである。日産でいうと、カルロス・ゴーン社長がそれに当たる。それで思い切って大なたを振るってもらう。溜まっている(であろう)政権内のうみを出し切ってしまうのである。そうすれば、V 字回復もまったくできないわけではない。リバイバル・プランの実現である。

 なにをリバイバルするのかといえば、いろいろあるだろうが、国民への約束ごとである法をしっかりと守るようにするのがある。そうして法にのっとるようにして、(最大限の)議会の尊重と権力分立とをしっかりととってゆく。そうではなくて、国家主義国粋主義に立ってしまうのだと、どうしても議会でのやりとりを軽んじてしまいやすい。うとましいのがあり、またあいまいでもあるからだ。なかなか煮え切らない。それだからといって軽んじてしまうようだと、権力のおごりにたやすくおちいらざるをえない。一部の国民の目にはそのように映るものだろう。

 首相は国のいちばん上に当たる役割なわけだから、そのさらに上にスーパーバイザーみたいなのを外からもってくるのは、冗談で言ってみただけであるのはたしかである。なので、現実味にとぼしいことを言ってしまったことはまちがいがない。そのうえで、それくらいの大胆なことをやらないようであれば、支持率の回復はこれから先にちょっと見こめそうにはない気がする。といっても、これから先のことはどうなるかはわからないから、不確実であることはたしかである。

攻撃誘発性があるのだとしても、それが(攻撃への)口実にされたり正当化されたりしてよいものではないだろう

 障害者の施設で、1年ほど前に事件がおきた。その施設はやまゆり園といい、19人の障害者の方が(何の落ち度もないにもかかわらず)おしくも亡くなってしまった。この 19人のそれぞれの方には、特有の個性があったんだなあと感じ入った。新聞社や NHK によって、人となりみたいなのが特集されていたのを見たことによる。

 それぞれの人間には小さな物語といったものがある。そうした物語はかけがえがないものであり、とても貴重なものであると言えそうだ。かりに何かの障害を負っているのだとしても、それは当人の責任であるとは言えそうにない。一人の人間が手段として見なされるのではなく、目的として尊重されることがあればよい。そうした目的の国が築かれることが理想であるだろう。

 人間には一人ひとりに自己保存欲があり、それが満たされることがあるのがのぞましい。これが満たされないとなれば、社会といったものが成り立ちづらい。死の恐怖が乗りこえられて、すべての成員の生命欲や物欲(基本的必要)がかなえられることがいる。そうした点がないがしろにされてしまうのはまずい。もしないがしろになっているのであれば、抵抗して抗議する権利があるくらいである。こうした権利は、天賦人権であるから、属性で分けてしまうのは不適当だ。何かと引きかえにといったふうに見なくてもよいものだろう。

 気をつけることがいるのは、啓蒙の弁証法があげられそうだ。啓蒙が野蛮に転化してしまうといったものである。こうなってしまわないようにすることがいる。白か黒かの単純弁証法であったり、全体を同一にしてしまう肯定弁証法だったりするのでないのがのぞましい。そのようにできたほうが、一つの角度や切り口だけによって見ないですむ。

 何かを負の印づけ(スティグマ)として見なしたり、低い価値づけをしたりするのだと、優と劣のようにして、二分化してしまっている。これは純粋な見かたではないし、対象化してしまっている。仕立てによる代理表現である。そうではなく、仏教の禅でいう父母未生以前(の本来の面目)みたいにして、一でありながら多(多様性)であることもできなくはない。そうした、一即多のような見かたをたまには試みとしてとってみることもできそうだ。