人間からの排除(上方もしくは下方への排除)

 人間あつかいしてごめんなさい。こうした憎悪表現(ヘイトスピーチ)によるかけ声が投げかけられていたらしい。このかけ声をあらためて見ると、人間あつかいにするのがふさわしくないものとして、必ずしも人間以下(とされるもの)であるのばかりではない。人間より上(とされるもの)である神さまや仏さまなんかがいるわけだから、そうしたものである可能性もあげられる。無神論の人であれば、神さまや仏さまがいることを否定するかもしれないが、それ以外でも、超人なんかを持ち出せる。

 人間は万物の霊長であるとしても、人間の範ちゅうにはいろいろな人がいることもたしかである。それにくわえて、自分が人間に属するからといって、人間を優遇するのはおかしい、とする意見もある。人間中心主義になってしまうからである。自分が人間に属しているとしても、それだからといって人間を優遇するのは必ずしもふさわしくないのもあるから、反人間中心主義の視点に立つこともあってもよさそうだ。

国政をになう政治家は国民の代表者であり、その代表者が道義を少なからず損なうのはある種の必然であると見なさざるをえない(モラルハザードがあるがゆえに)

 道義国家を目ざすのを、とり戻す。そのようなことを、先ほど防衛大臣の辞任の意を示した、自由民主党稲田朋美氏は、国会のなかでいぜん述べていた。稲田氏にかぎられないわけだけど、道義を重んじるというよりは、むしろ逆にないがしろになってしまっているのではないか。その代わりといったかたちで、個人的な動機が重みをもってしまっている。

 道義よりも、どこに動機が置かれてしまっているかを見たほうがよさそうだ。たとえば、もっぱら自分が保身することへ動機が置かれてしまっているのであれば、それは広く見ればまずいことになりかねない。

 道義国家を目ざすのは決して悪いことではないかもしれないが、肝心の道義がいざとなったらどこへやらといったようにして、ふきとんでいってしまったり、ないがしろにされてしまったりするのであれば意味がない。そうであるよりかは、自分が何に動機づけをしてしまっているのかを見たほうがほんの少しくらいは有益だろう。そうして動機を相対化してみるのもありである。ほかに結果の重要さもあるし、帰結をふまえることも欠かせない。

 たんに打算による道具的なあり方なだけではなく、ある対象へ興味や関心を注ぐといったかたちの統合的な動機づけをはたらかせることもあればのぞましい。これは、道具的動機づけと統合的動機づけのちがいであるという。利害や打算による一つの切り口だけではなく、さまざまな角度からとらえられるようになれば、(自分がうとましいと見なす対象の)うとましさを減じることにつながることが見こめる。そんなにうまくゆくものではないだろうが、うまくすれば対象のとらえ方を変えることにつなげられる。

 ていねいな説明をする。こうしたことが言われているわけだけど、これをもし本当にできるのであればさいわいだ。ていねいな説明の反対には、色々あるだろうけど、一つには一方的な宣伝(プロパガンダ)がある。社会関係はできるだけ双方向で意見のやりとりがなされるのがのぞましいだろう。やりとりにピリオドを打ってしまうのではなく、引き続けていったほうが実相が明かされやすい。反論を封じてしまわないようにする。そして、文脈をぶつかり合わせるのではなく、できるだけすり合わせをおこなうことがいりそうである。解釈の複数性により、いたずらな単一さにおちいらないようにする。遠近法主義によるようであればよい。

けんか好きなボスの猫

 猫がたくさんいる島の動画があった。その島にはボスとなる猫がいるようである。ボスの猫は、しきりにほかの猫にけんかを売っていた。好戦的である。そうした一面のほかに、たとえば母子の猫にはあまり手を出さなかったり、子猫には教育的な指導でとどめたりしていた。また、そのボス猫は飼い猫でもあるようで、飼われている家の中ではふつうの飼い猫としてすごしていた。

 動画の中のボス猫について、そんなにしきりにほかの猫へけんかを売らなくてもよさそうなものだという気がした。そうしてけんかを売ってゆくことが自分の存在理由(レーゾン・デートル)だと思っているのだろうか。それはわからないが、見さかいなくどんな猫へも戦いを挑むのではないようである。そこは動物としての本能がはたらいているようだ。攻撃性において、解発(リリース)だけでなく抑止(コントロール)がきいている。それによって、たとえば母子の猫だったり子猫だったりにはあまり手を出すことがない。

 猫がたくさんいる島なので、密集している度合いが高いから、うっぷんがたまる。そうしたことがありえるので、そのうっぷんを晴らすために、けんかをしかける役みたいなのがいるのかもしれない。その役がいることによって、ガス抜きみたいなのが行なわれる。

 ひるがえって、人間の集団におけるボスには、猫の場合と同じように攻撃性をもっていることが認められる。精神分析学者の岸田秀氏の唯幻論をふまえてみると、人間は本能が壊れていると言われている。なので、攻撃性について抑止がかかりづらいところがある。解発ばかりが行きすぎてしまう。そうしたおそれがある。

 いくら好戦的であるとはいえ、ボス猫が他の猫をけしかけて、何か戦争みたいなことをするわけではない。武器や武力ももっていないだろう。しかし人間は、一つの(幻想の)集団を形づくり、それらがぶつかり合うような戦争を行ってしまうことがありえる。また、武器を製造して武力をもつことになる。より危険な武器を製造するほどに、それを使う理由もまたつくり上げてしまう。

 人間は思いこみである観念をもとにして、動いていってしまうところがある。これは表象(イメージ)であるので、必ずしも実体であるとはいえそうにない。イデオロギーによって動かされる。そうしたところがあるわけだが、一つの観念ができるだけ固定化されないようにして、柔軟さを保てればよさそうだ。そうしてずれてゆくことができればよい。そして、なるべく一つではなく複数の物語がふまえられることがあればのぞましい。複数性があることによって相対化できやすいからである。

落ちこんできてしまっている政権の支持率を、上げてゆくための手だてとして、日産自動車の例が持ち出せるかもしれない

 政権の支持率が、3割を割りこんできている。これは低めの数値の一つであり、もうちょっと高めの数値もあるにはある。日本経済新聞の調査では 、まだ 3割台であるようだ。いろいろある中で、低めの数値のをふまえてみると、そこで 3割を割りこんでしまっているとこれからの政権運営はかなり厳しいようである。

 もし支持をこれから回復させてゆこうとするのであれば、日産自動車なんかを参考にすることもできるかもしれない。いま政権は自由民主党安倍晋三首相がになっているわけだけど、その首相の上に、スーパーバイザーみたいなのを外から呼んでくるのである。日産でいうと、カルロス・ゴーン社長がそれに当たる。それで思い切って大なたを振るってもらう。溜まっている(であろう)政権内のうみを出し切ってしまうのである。そうすれば、V 字回復もまったくできないわけではない。リバイバル・プランの実現である。

 なにをリバイバルするのかといえば、いろいろあるだろうが、国民への約束ごとである法をしっかりと守るようにするのがある。そうして法にのっとるようにして、(最大限の)議会の尊重と権力分立とをしっかりととってゆく。そうではなくて、国家主義国粋主義に立ってしまうのだと、どうしても議会でのやりとりを軽んじてしまいやすい。うとましいのがあり、またあいまいでもあるからだ。なかなか煮え切らない。それだからといって軽んじてしまうようだと、権力のおごりにたやすくおちいらざるをえない。一部の国民の目にはそのように映るものだろう。

 首相は国のいちばん上に当たる役割なわけだから、そのさらに上にスーパーバイザーみたいなのを外からもってくるのは、冗談で言ってみただけであるのはたしかである。なので、現実味にとぼしいことを言ってしまったことはまちがいがない。そのうえで、それくらいの大胆なことをやらないようであれば、支持率の回復はこれから先にちょっと見こめそうにはない気がする。といっても、これから先のことはどうなるかはわからないから、不確実であることはたしかである。

攻撃誘発性があるのだとしても、それが(攻撃への)口実にされたり正当化されたりしてよいものではないだろう

 障害者の施設で、1年ほど前に事件がおきた。その施設はやまゆり園といい、19人の障害者の方が(何の落ち度もないにもかかわらず)おしくも亡くなってしまった。この 19人のそれぞれの方には、特有の個性があったんだなあと感じ入った。新聞社や NHK によって、人となりみたいなのが特集されていたのを見たことによる。

 それぞれの人間には小さな物語といったものがある。そうした物語はかけがえがないものであり、とても貴重なものであると言えそうだ。かりに何かの障害を負っているのだとしても、それは当人の責任であるとは言えそうにない。一人の人間が手段として見なされるのではなく、目的として尊重されることがあればよい。そうした目的の国が築かれることが理想であるだろう。

 人間には一人ひとりに自己保存欲があり、それが満たされることがあるのがのぞましい。これが満たされないとなれば、社会といったものが成り立ちづらい。死の恐怖が乗りこえられて、すべての成員の生命欲や物欲(基本的必要)がかなえられることがいる。そうした点がないがしろにされてしまうのはまずい。もしないがしろになっているのであれば、抵抗して抗議する権利があるくらいである。こうした権利は、天賦人権であるから、属性で分けてしまうのは不適当だ。何かと引きかえにといったふうに見なくてもよいものだろう。

 気をつけることがいるのは、啓蒙の弁証法があげられそうだ。啓蒙が野蛮に転化してしまうといったものである。こうなってしまわないようにすることがいる。白か黒かの単純弁証法であったり、全体を同一にしてしまう肯定弁証法だったりするのでないのがのぞましい。そのようにできたほうが、一つの角度や切り口だけによって見ないですむ。

 何かを負の印づけ(スティグマ)として見なしたり、低い価値づけをしたりするのだと、優と劣のようにして、二分化してしまっている。これは純粋な見かたではないし、対象化してしまっている。仕立てによる代理表現である。そうではなく、仏教の禅でいう父母未生以前(の本来の面目)みたいにして、一でありながら多(多様性)であることもできなくはない。そうした、一即多のような見かたをたまには試みとしてとってみることもできそうだ。

立場のちがいが理であるとすると、それを乗り越えるのは気であると言えそうだ(理による区別は、差別につながりかねないところがある)

 エレベーターの中での気まずい沈黙がある。自由民主党安倍晋三首相と、たまたまエレベーターの中で二人きりになった人(議員)がいた。そのさい、その乗り合わせたのが首相と立場をまったく異にする人だったため、たがいに言葉を交わし合うことはなかった。

 このエレベーターの中での例は、一つの逸話にすぎないから、それをもってして一般化してしまうことはできそうにない。とはいえ、この話のほかの情報もあり、それをふくめて見ることができる。

 国会の中では、政治家どうしが激しくやり合う。しかしひとたびそこから外に出てしまえば、そこまで対立し合うことはない。過去の首相でいうと、福田康夫氏や、小泉純一郎氏なんかに、そうしたあり方がかいま見られたそうだ。立場を異にする者にも、少しくらいは声をかけてくれる。交感し合うわけである。

 あくまでも論戦の場でのぶつかり合いはそれとして、そうした場から一歩外に出れば、そこでぶつかり合った人にも、ほんの少しくらいの社交性はもつ。この社交性は、理性的であると言ってもよいだろう。じっくりと話し合うわけではないにせよ、表面的には、大人な態度を見せる。

 安倍首相においては、そうしたあり方をとらないところがありそうだ。そこに一貫性があるともいえ、また一方では硬直さやかたくなさがあるとも言えそうである。立場を同じくする人たちにはとても社交的であるが、立場を異にする人たちには非社交的なのである。その分け方がわりにはっきりとしている。

 このように、立場を同じくする人と、そうでない人とのあいだで、対応をはっきりと分けるのは、役割を実体視しているところから来ていそうだ。耳に快くはないような批判を投げかけるのは一つの立場にすぎないものとも言えるが、これを実体視することによって、固定化される。こうして固定化されてしまうと、ほんらい一つの役割であるにすぎないことが忘れ去られる。摩擦が大きくならざるをえない。

 自分のいだく理をよしとするのがあるわけだが、そこに確証を持ちすぎてしまうのはまずい。確証とは肯定であり、肯定だけをもってして意思決定をするのは誤りの危険がつきまとう。行きすぎた合理性につながる。それは効率さと言ってもよく、過度の効率さは一つの世界観の押しつけに行きつく危うさがおきざるをえない。質がないがしろにされがちになる。

 人間にはだれしも合理性に限界をもつのがある。なので、他から批判が投げ交わされることによって、合理性をずらしてゆかなければならない。そうしてずらしてゆくのはめんどうではあるが、それを拒んでしまうようであれば、他からの批判を頭ごなしに封殺することにつながる。自分がいだく確証によって肯定されるだけとなり、全体化に結びつく。そうした危うさがあるだろう。

 指導者や代表者は、たんなる役割の一つにすぎないから、それを実体視してしまうのだと神格化につながりかねない。これは権威によっているあり方である。権威をもった理想の父へ、自分の上位自我が投射されるのだという。父と子の上下関係となる。こうしたあり方では、必ずしも現実を見ることにはつながりそうにない。権威にすがることによって安心を得ようとするのには待ったをかけることがいる。できるだけ、指導者や代表者に、自分の上位自我を投射してしまわないようにすることができればよさそうだ。そうであれば、裏切られて大きく失望したり幻滅したりすることもおきづらい。

なにか具体的な、スパイ活動をじっさいに行っている状況証拠でもなければ、スパイであることを確実であると見なすのにはうなずきがたい(可能性はゼロではないだろうけど)

 スパイであるのにちがいない。そうではないのであれば、そうではないことを証すことがいる。これは悪魔の証明にあたる。スパイではないことを証すことはきわめて難しい。生産的であるとも言いがたい。

 スパイであるかどうかを疑うのであれば、なにか具体的なスパイ活動を行っている手がかりがあればそれをすればよい。そうした手がかりがとくに見あたらないのであれば、ちょっと突飛なところがあるのではないか。

 嘘をついていたから、スパイであるのにちがいない。そのように見なすのであれば、ちょっと論拠として弱いところがある。嘘とはいっても、説明が二転三転したくらいであれば、まちがいなく悪意があったとは見なしづらい。非があることはたしかであるが、一般論でいうと、人間は不完全なものである。記憶ちがいがあるとしてもとりたてておかしくはない。現に要職に就いているのでもないのであれば、国家の命運を即刻に左右することにはつながらないだろう。

 (話は変わって)元大阪市長であった橋下徹氏は、かつて自分の出自をとり沙汰された。そのとりあげられ方はまったくの不当なものであった。そうであるにもかかわらず、人権派の一部からはとくに擁護はなく、むしろそのとり沙汰に加担する人もいた。きつく言ってしまえば、人権派とはいっても、しょせんはそんなものであるにすぎない。人権派とひとくくりにして擬人化して見てしまうのはまずいが、この批判については受け入れることがいるかもしれない。

 橋下氏にはちょっと気の毒ではあるが、橋下氏のかつての出自のとりあげられ方を基準にして、それによってものを断じてしまうのはどうなのだろうか。個人によるかつての体験が不当なものであったのだとしても、そこを基準にしてしまうと、見かたがややずれてしまいかねない。ようは、泣き寝入りさせられるのではなくて、不当なとりあつかいであったことを発言してゆければよいのではないか。その発言は貴重なものである。それだけでなく、金銭などによる、具体的な権利の回復もなければならないだろうけど。

 不当なあつかいだったということは、本来はこうであるべきだったという正当なあり方があるはずだから、そのこうであるべきだったとする正当なあり方を基準にするのがのぞましい。そうではなく、(いくら本当のことであるとはいえ)じっさいにこうだったのを基準にしてしまうと、不当さを肯定することになりかねない。そこが危うそうだ。

首相をおろす

 政権の支持率が三割を割りこんできている。色んな調査があるから、低めのから高めのまであり、高めのだとまだ三割を割りこんではいない。しかしそれを割りこんでしまっているのもあり、危険水域に落ちこんでいるとも見られている。

 政権をになう安倍晋三首相が今いるわけだが、首相に代わるべく次を見すえる人たちがうごめきだしているという。それで、そうした人たちが次の首相の座を得んとして、少しずつ引きずり下ろしにかかっている。

 引きずり下ろしにかかっているのを、安倍降ろしとしている。この安倍おろしという言いかたが、大根おろしみたいだと感じた。大根おろしのおろしとは意味がちがうわけであり、大根のようにすりおろすわけではない。でも言いかたが同じだから、やや不謹慎ではあるが、ちょっとだけ連想をしてしまった。いっぽうは食であり、他方は職(役職)がかかっているのがある。

日本国憲法は、時間割り引きの率の大小によって見ることができそうだ

 日本国憲法の改正は、党の決まりである。党是であるのだという。それにたいして、憲法の改正は必ずしも自由民主党の中心目標とはいえないとの声もある。何よりも優先してやらなければいけないことではなく、数ある目標のなかの一つである。それをあたかも党の存在理由(レーゾン・デートル)であるかのごとく、全面に打ち出しているのが、安倍晋三首相である。そこについては、(党の歴史についての)意図された事実の操作がありえる。

 憲法は、今の時代にそぐわなくなってきているとの声も一部からあがっている。そのさい、経済学でいわれる時間割り引きのとらえかたを当てはめることができそうだ。時間割り引きとは、将来の価値を現在の価値によって評価するものであるという。

 時間割り引きが大きいとは、現在の価値を大きく見て、未来の価値を小さく見ることである。それが大きいと、たとえば未来のためにお金を貯めておくことができづらい。今使ってしまう。現在の価値を大きく見なし、未来の価値を小さく見てしまうためである。

 時間割り引きには、その率が一定なのがあり、それを指数割り引きという。一定でないのを双曲割り引きというそうだ。一定でない双曲型は、人間や動物のありかたに当てはめられる。わかってはいるけどやめられない、といった、目先の誘惑に負けがちなのがあるが、それは双曲型であることによっている。

 人間や動物は双曲型である弱点をもつ。こうしたありかたは、時間非整合であるとされる。時間が経つうちに、はじめに立てた計画(プラン)がしだいに適さなくなってくる。この時間非整合の問題を解決するために持ち出されるのが、コミットメントである。

 はじめに立てた計画がしだいに適さなくなってくるとしても、だからといって変更するのがふさわしいのかといえば、必ずしもそうとは言い切れない。人間は双曲型であるから、たんに目先の誘惑にそそのかされていて、それに負けているだけなのがありえる。そうした弱点をあらかじめ見こしておいて、うまい手を打っておく。

 その手を打つのに当たるのが、コミットメントであり、これによって計画を維持することにつながる。計画を破ってしまうのがディタッチメントであるとすると、それをかんたんにはやらせないのである。

 コミットメントするのには利点がいくつかありそうだ。一つには、目先の誘惑に負けてしまいがちな、双曲型であるがゆえの人間の弱点に止めをかけられる。気持ちが変わったり移ろったりすることなどからくる、時間非整合の問題の解決につながる。

 ディタッチメントをすることについては、欠点があげられる。まず、ディタッチメントをするかしないかが分かれてしまう。そうすることがふさわしいのか、それともふさわしくないのかで、水かけ論になりかねない。こうした水かけ論をやり合う時間は、議論がかみ合わないとすると、あまり生産的とは言いがたい。

 計画(決まり)とはいっても、がちがちにしばられたものではなく、ある程度の融通がきくものであれば、それを撤回してしまうのは必ずしも喫緊の課題であるとはいえないだろう。それよりも、ほかの喫緊の課題にとり組んでいったほうが、より有益であることがありえる。

 決まりを絶対化せずに相対化するのは必ずしも否定されるものではない。しかしそのさい、そうとうにさまざまな角度からとらえてゆかなければならないのがある。たんに一つか二つの角度からだけ見るのでは足りないだろう。色んな知見をふまえて、総合的に見ることによって、帰結を導くのができればのぞましい。たんなる動機主義や結果主義は避けられなければならない。

 そうして色々な知見をふまえつつ、十分に時間をかけて帰結を見てゆく過程がとられること自体が、一つのコミットメントになるだろう。そうではなく、すぱっと斫断(しゃくだん)して捨象してしまうようであれば、それの放棄につながってしまう。

 自己保存はいっけんすると理にかなっているが、それは自己愛であり、欲動(リビドー)であり、力への意志である。そうしたものが肥大して増大してしまうことによって、かえって自己の破滅へと行きつく。そうした自己の破滅へと行きついてしまった過去の負の経験によって、それへといたらないような工夫をとる。その一つの工夫が、軍事権の放棄であり、外交努力の促進だといえそうだ。この工夫については、残念ながらじっさいには逆になっていて、外交努力の放棄と軍事権の復活が一部から強く叫ばれてしまっている。

 軍事権の放棄といっても、国内の治安警察活動は行なわれているわけで、対外的な武力行使が禁じられているにすぎない。国内が丸腰であるわけではなく、外からの敵にたいしてまったく無防備でいるわけではないのがある。いまある備えだけでは足りず、それ以上に高めようとする声もあるだろう。しかしそれについては、ようはできるだけ安全に、平和的な生存ができればよいのであって、その目標を達するための手段はさまざまだ。たんに力を強めればよいといったものとは言えそうにない。むしろ力が抑えられて限定されているがゆえに正しいあり方だともいえる。

 国際的な流れでも、武力の行使ではなく、その不行使が是とされているのがあるそうだ(建て前にすぎないのはあるだろうが、少なくとも建て前の上ではそうなっている)。武力の行使の容認は、相互敵対状態の温存だ。いくらそれが自然であるといっても、いずれ暴力による破滅につながるおそれが高い。そうしたのもあるので、何らかの手によって克服されなければならないものだろう。

責任を持ち出すのであれば、信用しない側だけではなく、信用されない側にもそれがあることがありえる(信用しない側にすべての責任を帰することはできそうにない)

 何も関与していない。非があるようなことを自分はしていない。そのように本人が言っているのにたいして、受けとるほうが信用できないと見なすのは、無責任な評価になる。テレビ番組のなかで、八代英輝弁護士はそのように語っていたという。

 八代弁護士のこの発言については、素直にはうなずきがたい。とはいえ、まったく間違っているとも言えそうにはない。時と場合によって変わってきてしまうだろう。

 本人がどのように言っているのかだけではなくて、まわりの文脈や状況証拠なんかが関わってくる。とりまいているまわりの文脈や状況証拠が、本人が言ったことと明らかに食い違っているのであれば、どちらに重みをもって見るのがふさわしいかは定かとは言えそうにはない。

 かりに、本人が言っていることを単純であるとする。そこへ文脈や状況証拠が加わることで、複雑になってくる。複雑なものというのは、いろいろな判断をゆるす。真相を解明しづらい。そうであるために、複雑になっているのを、はっきりと単純なものとして割り切りってしまいたくなる。そこに危険さがあるのもいなめない。

 本人がどのように言っているのかを、情報の分子であるとする。それをとりまいているまわりの文脈や状況証拠は、情報の分母にあたりそうだ。この分子と分母のどちらに焦点をあわせるのかは、一概に決められそうにはない。どちらに重みを持たせることもできる。どちらについても、質だけで割り切ることはできづらく、量によって見ることもいるだろう。

 単純なのであれば、判断がしやすい。しかし複雑なのであれば、判断するのにもやっかいさが生じる。ことわざで言う、頭隠して尻隠さずみたいなふうになっているのであれば、尻が出ているのをツッコまざるをえない。そのツッコミが間違いなく正しいとは限られないわけだけど。それにくわえて、二重基準(ダブル・スタンダード)にならないようにすることもいる。そうではあるのだが、この点については、たとえば弱者や一般人には無罪推定の原則で見ることがいるが、いっぽう権力者は強制力をもつ強者なので、あるていど有罪推定の前提で見るのが妥当だろう(権力チェックである)。そうした色々な視点が関わってくるところがある。

 本人が言っているのについて、それを信用できないとするのは、無責任な評価にあたるのだろうか。それについては、一つには、懐疑的ないしは批判的受容を持ち出すことができる。誰かが何かを言っているのがあるとして、それについて、それって本当なの?、と疑うことは基本として有益である。つねに疑ってゆくことがいるくらいである。

 言っていることについて、それを受けとるほうが信用できないとするのには、必ずしも無責任な評価にはあたらない。そのようにも見なせる。信用とは、何らかの主要な価値を共有していることといえる。そうした価値を共有できていないのだとすれば、言っていることを信用できないとしてもおかしくはない。

 発言した本人と、それを受け止める聞き手との、どちらの方に信用が成り立たない原因があるのかといえば、どちらか一方だけにあるとは言いがたい。信用できない原因は、送り手と受け手のどちらの側にもありえる。受け手が送り手を信用できないと評価するのには、それなりの理があると見なせる。その理は、価値のずれによるのがあるので、その価値のずれを何らかの手を打つことですり合わせられるようになればよさそうだ。