かりに政治家の国籍が日本の一本だけにしぼられていたとしても、それをもってしていざというさいの(裏切りを防ぐ)安心材料とするのには、疑問をもたざるをえない

 いざというさいに、日本を見捨てて逃げ出すのではないか。政治家が、日本のほかに国籍をもっている疑いがあれば、そうしたおそれが払しょくできない。そこについては、忠義みたいなのがからんできてしまいそうだ。

 なにか大きな不測の事態がおきたとして、日本の国籍だけをもっている政治家が、必ずしも日本の国外へ逃げ出さないといった保証はあるのか。その保証はちょっといぶかしい。それにくわえて、そうした不測の事態がおきたさいに、ほんとうだったら国外へ逃げ出したいのはやまやまだが、しぶしぶとどまらざるをえない、なんていうこともありえる。

 国籍が日本の一つにきちんとしぼられているのだとしても、それをもってして、いざいといったさいに国民のことを最後まで守りぬこうとする、とはかぎられない。そこについては、確実なことは言えないのではないか。国籍が日本の一つにしぼられていようが、それともそうではなかろうが、いずれにせよ、いざとなったさいに国民のことを最後まで守りぬいてくれるのはちょっと期待できそうにはない。

 なぜ期待できそうにはないのかというと、過去の事例を持ち出すことができる。先の太平洋戦争では日本は敗戦をしたわけだけど、その敗戦の直後に、時の権力者たちは敗戦国の国民となった人たち(日本人)を見捨ててしまったそうである。これは思想家の吉本隆明氏が言っていたことなんだけど、その時の権力者たちは、国民のことは放ったらかしで、食べるものに困っている人たちが少なくなかったのにもかかわらず、とくになにか対策をとったわけではなかった。

 敗戦をきっかけにして、時の権力者たちは、国民の前から姿を消した。責任をもって、姿をあらわそうとはしなかった。それまでは、(あってはならないことだが)戦争の手段として国民がいたわけだから、食料の配給などもされていた。しかしもう戦争をやらないとなったら、食料の配給など(権力者の)頭の中からすっかり消えてなくなってしまったのだろう。

 ほんとうであれば、貴重な資料になるのであとあとまで残しておかなければならなかったにもかからわず、戦争のさいの資料についても、大部分を焼き捨ててしまった。えんえんと燃やしつづけたのだという。あとになって権力者の戦争責任を追求されるのを避けるためだった。何よりも、自分たちに不利になるようなものは残しておきたくなかったのだろう。こうしたふるまいに、国民のためを思ってといった配慮がうかがえるかといえば、それはひどくむずかしい。

 いざといった不測の事態がおこったさいに、政治家は最後まで国民のことをおもんばかり、守りぬかなければならない。こうしたことは、そうあるべきといったことにすぎない。じっさいには、そうではないおそれがきわめて高いのではないだろうか。そうしたわけで、たとえ政治家の国籍が日本の一本にしぼられているからといっても、それにたいして大きな期待をもたないほうがよいと言えそうだ。いざとなったら、なによりも可愛いのは、(残念ながら)他人である国民ではなく、自分自身であるだろう。これが偽らざるじっさいのありようなのではあるまいか。

当事者だけに説明の責任を負わせるだけで足りるのだろうか(制度の不備や対応不足なんかもありえる)

 国籍の疑惑について、説明の責任を果たしてほしい。こうしたことが言われているわけだけど、これについては、疑惑が投げかけられている当事者だけでなく、国にも説明の責任があるのではないか。国籍のとりあつかいについて、これまでにどういったあり方がとられてきて、そこにはどういった問題点があり、これからその問題点をどのように解消してゆくのか。そういった大まかな方向性を打ち出すことがあってもよさそうだ。

 もともと、国籍はそれほど重んじられていず、戸籍のほうが重んじられていたそうだ。戦前や戦中においては、内地の戸籍を有しない者には、選挙権が与えられなかった。これは血統主義によるあり方だとされる。こうしたあり方がいまだに残存してしまっているのはいなめない。

 グローバル化している今の世界のあり方をふまえれば、これまで日本でとられてきていた血統主義民族主義を、いっそ改めるようにしてもよさそうだ。今の世界のあり方にそぐわないところがあるからである。それにくわえて、血統主義民族主義(エスノクラシー)のありかたをとるのだと、それがもとになって戦争につながりかねない。じっさいに先の大戦ではそうした原因が(主要なものとして)あげられるわけであり、その大きな負の面が識者によってさし示されてもいる。

 国籍の疑惑について、説明の責任を果たすこともいるだろうが、それはともすると、強制による暴露につながりかねない。そうした強制による暴露をうながしてしまうようであれば、差別にもなりかねないし、よからぬものである。そうした危うさが少なからぬ人たちによって指摘されている。文学についてはあまり詳しくはないのだが、島崎藤村の『破戒』なんかがぼんやりと連想できてしまいそうだ。

 疑惑があるのなら、戸籍を開示することでそれを晴らせ。そうした声が一部からあげられているわけだが、これについてはちょっとうなずきがたい。なぜ、疑惑があるからといって、特定の誰かの戸籍を開示しないとならないのか。それだったら、疑惑のいかんによらずに、すべての政治家の戸籍を開示するのでもよい。もしかしたら、隠れて、問題があるかもしれないのがある。これは、問題があるから開示できないにちがいない(問題がないなら開示できるはずだ)、といった理屈から導かれるものである。もっとも、こうしてしまうと、やりすぎであることは間違いがないが。

 血統とか民族を重んじるのではなく、どこに生まれたのかの、生まれを主とする。そうしたあり方がよしとされてもいる。これは出生地主義と呼ばれる。それにくわえて、言語至上主義として、言語による意思疎通がきちんとできるのをもってしてよしとするあり方もある。

 それぞれの親の出身国がちがうなどの、複雑な生い立ちの人は、心理的な負担が少なからずかかるものだろう。自意識の揺れみたいなのがおきてもとくに不自然ではない。そこで、自意識が揺れづらい、わりと単純な生い立ちの人とひき比べてしまうのは、公平とは言いがたい。

 いろいろな見かたがとれるだろうけど、一つの見かたとしていえるのは、負担の少ない人ではなく、負担の大きい人にとりわけ配慮できたらよいのがある。負担の少ない人を中心とするのではなく、負担の大きいであろう人に配慮するのがよい。そうしたほうが、少数者や弱者が助かるようになる。そこへ重点的に手がさしのべられればのぞましい。

 当事者による説明もいるだろうが、それとは別に、国としても、はっきりとした方向性を打ち出してもよさそうだ。大きな流れとしては、先の戦前や戦中における、外国人や他民族を極端に排斥するのをまちがったことであると見なす。そうした排斥のあり方ではなく、自由主義による市民権がとられるようにする。そうして門戸を開くようにするのも一つの手だろう。門戸を開くのはけしからんとする見かたもあるかもしれないが、開いてしまったほうが、今の日本国憲法の趣旨と整合するので、都合がよいのが一つにはある。

ゆがめられた行政を正すのはよいことではあるけど、ゆがめられた認知によっているおそれもなくはない(ゆがめられた認知による、ゆがめられた価値判断のおそれもある)

 ゆがめられた行政がある。それをゆがめられていない行政にもどす。たんにそれをしようとしているだけである。こうしたことも言われているわけだけど、そもそも、ゆがめられた行政とは何だろうか。そこがちょっと腑に落ちない点である。

 ゆがめられた行政を言うのであれば、事前に言っておくべきだったのではないだろうか。事前にもっと大々的にみなに告げ知らせておく。そのほうが、大衆を味方につけやすそうだ。そうではなく、あたかもとってつけたようにして、事後的に言っているのであれば、いぶかしいところがある。

 たんに、覇権のとり合いをしているにすぎない。こうして覇権をとり合うようにして争うのであれば、誰が覇王になるのかを競うことになる。これだと覇道になるわけだが、そうではなくて、王道とは何かをあらためて見てみることもできるだろう。

 ゆがめられた行政がのぞましくはないにしても、そうして一概に決めつけてしまうことはちょっとできそうにない。その点については、頭ごなしに決めつけてしまうのではなく、ここがまちがっているだとか、ここはおかしいだとかして、一つ一つを指し示してゆくようにする。それで議論をやり合うのがのぞましい。

 誰が覇権をにぎるのが本来のありかたなのか、といった点もあるが、それとは別に、どのような帰結がありえるのかをふまえるのがあるとよさそうだ。ゆがめられた行政の元凶とされる官僚組織において、何から何までまちがった提案が出されるとは見なしづらい。もし、何から何までまちがった提案が出されるのであれば、官僚組織を抜本的にあらためることがいる。すべてを刷新するための革命を全面的にやってゆくことがいるだろう。一部だけをあらためてもさしたる効果はのぞめないのではないか。

 覇道によるたんなる覇権の奪い合いに終わらずに、王道によってやってゆくのがあればよい。そのさい、性善説によって見るのよりも、性悪説によって見るのがいるだろう。でないと、覇権を握ることができた者が善、みたいにしてとらえられかねない。そうとは限らないのはたしかであり、覇権を握っている力ある者が、正しいことを必ずなすとは言えそうにない(むしろ逆なことが少なくない)。決定単位である有権者がいて、その意思をになうとされる代表者がいる。その代表者を頭から信頼してしまうと、専制主義になりかねない。

 ゆがめられた行政がよからぬものであり、けしからんものなのだとしても、それを改めるのが、建て前であるおそれがある。その建て前が、本当にゆがめられた行政の悪いところをあらためて、みなに益になるようにしようとするのであれば、それはよいことだろう。しかし、そうではなくて、建て前とは別に、ちがった本音をもっていることがありえる。これは性悪説による見かたなわけだけど、こうした見かたもあってよさそうだ。政治家の義があり、官僚組織の義があるとして、義は単一ではなく、複数あるのでもよい。単一になってしまうと、暴走するおそれがある。

 人間には合理性の限界があり、限定されている。どこから見ても非の打ちどころのないようなものを見いだしづらい。それがあるわけだから、できるだけ自己触発による独話におちいらないようにして、他者触発による対話がなされればのぞましいだろう。そうすることで、いたずらな分裂や敵対にいたらずに、相互の関わりが形づくれるようになることがのぞめる。一方向の押しつけではなく、双方向でやってゆく。そうして修正しつつものごとを進められればのぞましい。

帰属による同一性だけではなく、個性が発揮されるのがあってもよい(帰属があって個性がないよりかはよいかも)

 戸籍の公開を求める。二重国籍の疑いが完全に払しょくされていないとして、民進党蓮舫代表に、一部からの疑いの目が向けられている。蓮舫代表は、その求めに応じるかまえも見せている。

 蓮舫代表の説明によれば、自分で法務省に出向いて行って、そこでしかるべき手続きをすませてあるという。法務省は国の機関なわけだから、さすがにそこが関わることについて嘘をついているおそれは高くない。そのように見ることができるのではないか。自分ひとりでの内部の何かであれば、嘘をつくこともありえるわけだけど。

 国籍においては、国が関わっているものなわけだけど、国とは実在しているものなのか。実在していると見なすありかたもあるが、そうではなく、擬制(ロールプレイ)であるとも言える。国は法人であり、法人は擬制であるとする説があるそうである。そうしてみると、国籍とは何か手でさわれるような触知可能(タンジブル)なものとは言えそうにない。虚構のものである。

 共同幻想であり、虚構であると言い切ってしまうと、反感を買うおそれがある。そのおそれはあるが、かりにそうであるとして、国籍は帰属点(役割)であると見なすことができそうだ。それ自体に何か大きな意味があるとは言えそうにない。仏教でいえば、空であるともいえる。本質といったものはない。

 帰属のいかんにとくに焦点を当てることもできるわけだけど、ほかの別な何かにも当てることができる。たとえば文化だったり言葉だったりをしっかりと身につけているだとか、そうした内実である。内実があるのであれば、それでとりあえずはこと足れりとすることもできる。

 その国の政治家として、政治活動をやってゆく。そのように本人が言っているのであれば、いちおうそれを信じることができる(疑うこともできるわけだけど)。これはスポーツでいえば、味方チームの一員になるとするのに等しい。野球やサッカーなんかでも、ちがう国の人(または元ちがう国だった人)が味方チームの一員として活躍したり貢献したりすれば、それは味方チームの加点につながる。ちがう国の人が監督として、味方チームを導いてゆくこともありえる。

 たとえちがう国の国籍をもっていたからといって、それによってレッテルを貼ることは必ずしもいらないものだろう。そのようにレッテルを貼ってしまうと、公平になりづらい。選択的賞罰(セレクティブ・サンクション)を与えることにつながりかねないところがある。そこは選択的(恣意的)にではなく、ほかの人と同じようにして、よい活動をすれば認めればよいし、よくない活動をすれば批判をすればよい。その評価のしかたは、ほかの政治活動をしている人よりもとくに厳しくするのではなく、またとくに甘くするのでもない。そのようにできればよいのではないか。

 日本ならではみたいなのを強調することもできるわけだが、それとは別に、たんに人間であるといったので見ることもできる。日本ならではの立場に立ってしまうと、日本のためになるかそれともならないかだとか、日本にふさわしいかどうか、といったふうに見なすことになる。日本の国の枠組みも大事なものではあるが、そのいっぽうで、観念であり記号であるにすぎないものでもある。

 日本の今のありかたにどうもしっくりこなかったり、適していないと見なされてしまったりするような、不遇な境遇の人もありえる。そうした多数派でない、日の目を見づらい人たちへ目を向けるためには、(日本かくあるべしといったのではなく)たんに人間であるとする視点が少なからず役立つ。そうしたわけで、日本の国としての枠組みにこだわらないで、たまにはそれを外すことがあってもよさそうだ。人間はみな同じであり、それは個人の尊重の一側面となる。その一面が軽んじられないようであればさいわいだ。

政権をおとしめるべく企んでいると見なすだけなのであれば、迫害妄想におちいっているおそれもないではない(そこに目的があるのではないとして見ることもできる)

 みんなの利益につながらないことが行なわれている。一部の人たちに利益が誘導されてしまっている疑いがけっして低くない。そうではなく、ほんらいであれば、なるべくみなに利益が行きとどくようにしてゆくことがいる。そうした配慮にいちじるしく欠けてしまっているのがあるのだとすれば、そこを指摘することをせざるをえない。

 こうしたことから、疑惑をさし示す。このさい、そうして疑惑をさし示している人について、あるていど信頼をおくことがいるだろう。好意の原理で見るのである。そうすることによって、価値を共にすることができる。

 疑惑をさし示している人について、信頼をおけず、不信をもってしまう。好意の原理で見ることができず、悪意によって見てしまうことになる。こうなってしまうと、価値を共有することができないようになる。直情径行によって相手を断じてしまう。

 疑惑があったのだとしても、それをさし示すことをしない。このようであれば、権力にとって都合がよい。そうではなく、たとえ権力に煙たがられたりにらまれたりするとしても、それをいとわずに指をさす。そうして指をさすことが、毒をもつことになる。毒とは言っても、それは薬とうらはらだ。猟犬のようにして、残された痕跡をもとにして、指をさし(ポインター)、囲いこむ(セッター)。あるいは虻(あぶ)のようにしてつっつく。眠りこませないようにする。

 なにか決定的な証拠があれば、それに越したことはない。そのように言えるわけだけど、だからといって、そうした決定的な証拠がなければ、それで白としてしまってもよいものだろうか。そこが疑問である。一かゼロかの問題ではないといったふうにも見ることができる。

 疑惑をさし示している人がいるとすれば、その人が証拠をさし出さなければならない。明らかな証拠を出せないのだとしたら、疑惑をさし示すべきではない。そうした意見もある。これについては、その疑惑をさし示す人が、自分の利益を主張しているのであればそれが当てはまる。しかし、自分の利益を主張しているのではなく、みんなの利益を言っているのであれば、当てはまりそうにはない。そこのちがいは小さくないだろう。

 立証責任や挙証責任については、疑惑をさし示す人がそれを負うとも言われる。しかしこれはかならずしもそうとは言えないのがある。立証や挙証の責任については、ふつうに見れば、だれか特定の一人に帰せられるものとはいえそうにない。だれか特定の一人に帰してしまうようであれば、無理難題をふっかけてしまっているようなものだし、前提がちょっとおかしいところがある。

 前提がおかしいというのは、(立証や挙証の責任を負う)特定の一人だけが、自分の私益を肥やそうとしている、と見ることになるからである。しかし、その特定の一人だけではなく、行政にかかわるあらゆる人が、自分の私益を肥やそうとする可能性をもつ。ゆえに、特定の一人だけが私益を肥やすべく悪だくみをしようとしている、と見なすのは納得しがたい。責任のすり替えであり、非をなすりつけることになる。

 行政にかかわる誰もがみな、私益を肥やすべく悪だくみをするおそれがある。ゆえに、そうして疑われることをあらかじめ見越しておいて、そうではないと明らかにできるように、記録をとっておく。いざとなったときにそうした客観の記録を出せないのであれば、(みなが負うものである)立証や挙証の責任を無視してしまっていることになるのではないか。

 立証や挙証の責任うんぬんを持ち出すのよりも、むしろ政権は、これこれこうであるから自分たちには非がない、というべきなのではないかという気がする。記録が出せないだとか、記憶が無いだとかいって、それで非がないとするのであれば、ちょっと虫がよいことにならざるをえない。そこについてはやはり、何らかの形のある根拠や理由を示して、それだから非がない、とするのがのぞましい。これによってはじめて、何かを言ったことになる。そうした面がありそうだ。

 非がとくに無いにもかかわらず、行政をいたずらにおとしめようとして、足を引っ張っているようなのであれば、それはいただけない。そのいっぽうで、行政を神として、行政にいちゃもんをつけてくる人を悪魔と見なしてしまうのがありえる(その逆もあるが)。そうしてどちらかを神としたり、どちらかを悪魔としたりしてしまうのだと、やりすぎになる。神のような悪魔だったり、悪魔のような神だったりすることがある。そこについては、決定不能性があるのが避けづらい。国家は暴力を独占するものであり、最大の暴力組織でもある。暴力とは、うとましいと見なす者の排除にほかならない。その点も無視できないものである。

 まちがった妄想におちいっている、といたずらに決めつけてはいけない。そうした面はあるが、誇大妄想はいずれその鼻をへし折られる、といったこともいえる。これは景気の波動のようなもので、極大と極小が循環することをあらわす。景気であれば、それが浮揚しつづけるといったことは成り立ちづらい。いったん浮揚したものは、そのごに沈む。季節でいえば、春(夏)と冬との交代である。

 誇大妄想とは何かといえば、それは過剰さである。過剰さをもつがために、誇大妄想がおきて、それによって存続の危機をまねく。そうした危機とは、根も葉もないところからおきてくるものではなく、過剰な活力を処理するための必要欠くべからざるものと見なせる。

 誇大な妄想におちいっているとする論拠は何か。それは確実なものとはいえないけど、一つには、相手の全否定がある。相手をもし頭ごなしに全否定しているのであれば、そこにおいて、妄想の兆候があらわれているおそれがある。そうではなくて、逆に肯定するのであれば、相手をあるていどは冷静に見られていることにつながる。いったん肯定しておいて、そのうえでここはちがうだとか、ここはおかしいだとか、そういった批判なら溜めがあるので無難である。

 いっけんすると消極的で否定的なものではあるが、あえて自分から非や不徳を認める。そうして認めるのは、すごくむずかしいところがある。そのむずかしさがあるわけだが、それを達成することによって、膨らみすぎた誇大妄想がしぼみ、等身大に近づく。そのようなことがのぞめる。過剰な活力がうまく処理されたわけである。そうして大いに活力が消費されることによって、肺から息を吐ききったときのように、新しい空気を吸うことができる。そうではなく、息を吐ききるのを拒んでしまえば、古い空気が肺にたまったままとなる。偉そうなことを言ってしまったが、そのようなことが言えそうだ。

少数派と多数派が固定されてしまうのではなく、関係が流動的であるのが、民主主義の安定の必要条件であるらしい

 日本の各地で、デモが催された。安倍晋三首相が率いる政権にたいして、退陣を求める声が少なくなかったという。

 デモなんかをやったとしたって、それにいったい何の意味があるというのか。そうした声も、デモに参加していない人の中の一部からはあげられているようだ。たしかにそれも一理あることはまちがいない。くわえて、何か具体的な対案なり、有効な案がないにもかかわらず、ただ政権の退陣だけを求めても、説得力に欠けるといった声もあげられている。

 あらためて見ると、自分たちがよしとしている主張を、じっさいの選挙の結果に反映させるのは、一つの文化目標である。そうした文化目標があるとして、それを達成するための手段がみなに公平に分け与えられているといえるのか。それについては、完全にイエスとはちょっといいがたい。効力感をもちづらく、無力感が生じるふしがある。

 選挙では一人一票がみなに分け与えられてはいるが、それの有効性をはたしてどれくらいの人が実感しているだろうか。けっこうおぼつかないところがありそうである。そのため選挙権の棄権も少なくない。棄権するのは推奨されるものではないにせよ、それはそれで一つの合理的な行動であるかもしれないが。

 国政での小選挙区制度では、死に票が多くなってしまう。そのような負の面が言われている。死に票が多いのであれば、民意が反映されづらいということもできる。そうした点をふまえると、その負の面である、民意の反映されづらさをあらかじめ組みこんで、できるかぎり丁寧でこまかく神経の行きとどいた政権の運営がなされることがいる。理想としてはそういったことが言えるだろう。しかし現実はどうかといえば、丁寧なのではなく、力づくで押し切ってしまうようなやり方がとられているふしがある。

 デモで反対の声をあげるのなら、何か具体的な対案なり、有効な案なりを出すのがいる。こうしたことも言えるわけだが、これは保守主義の原理によっている。そうではなくて、デモをやっている人たちは、革命(革新)の原理によっていると見なせる。おたがいの文脈がちがう。そのように見なすことができる。どちらの文脈によって立つかによって、何が正しいのかがちがってきてしまうところがある。正義の複数性である。

 選挙によって選ばれたのであれば、手続き的な非があるわけではないことはたしかである。そうした非はないわけだけど、それは合法的であるといったことであり、必ずしも正当性があるのとはイコールでは結ばれない。そうした点があげられるだろう。

 決まりとして定められた法があり、そうした法にのっとって選挙がおこなわれ、それによって代表者が選出されることになる。そのさいに用いられている決まりが、いまの現実からして、そこへぴったりとそぐうものであるとは言いがたい。ちょうど(just)からずれてしまっていることがある。そのずれを無いものとしてしまうようであれば、それをイデオロギーと言ってしまってもさしつかえがない。多かれ少なかれずれがあるわけだから、そこを批判することはあってもかまわない(あったほうがのぞましい)。そうしたことが言えるのではないか。

 契約の観点から見ることができるとすれば、まずいことがおこっているのであれば、その契約を破棄することもありえるだろう。いついかなるときも契約を破棄してはならないとはいえそうにない。契約することで社会が成り立つわけだが、それ以前の自然状態があるわけであり、そこへ立ち返ることが悪といえるのかどうかは、時と場合によってくるところがある(いつでも推奨されるわけではないだろうけど)。

 自然と制度の関わりが当てはめられそうだ。はたして、自然は不平等であり、制度によって平等となるのか。それとも、自然は平等であり、制度によって不平等となってしまうのか。そうしたちがいがありえるそうなのである。そこについては、こうであると一方的に決めつけることはできづらい。どのようにも見ることができてしまうところがある。極論ではあるだろうけど、無政府主義(アナーキズム)を持ち出してみるのも、必ずしも荒唐無稽ではない部分もありえる。

 政府とは代理であり、代理によって二分化(代理者と有権者)される。二分化とは間接によるのであり、そこにずれがおきる。どんなに気をつけていても、有権者とのあいだにずれがおきるのはありえるだろう(ましてや気をつけていなかったらなおさらである)。そうしたひずみがおきてしまうのがあるから、それにたいして、耳をふさいでしまうのは適した対処であるとは思いづらい。

長いつき合いがあるのであれば、情が移るのがあるから、信じたい気持ちがあるとしても不自然ではないだろうけど、距離が近いがゆえの批判性の欠落はありえる

 二人とは、長い間のつき合いである。二十年くらいになるという。それくらい長く見てきたことから、二人が何かよこしまなことをするはずがない。不当に行政をゆがめることもない。私利私欲に走ることはないというのである。

 これは、自由民主党山本一太議員が、菅義偉官房長官安倍晋三首相について述べていたことである。山本一太氏は、菅官房長官や安倍首相と個人的に長いつき合いがあるのだという。その長いつき合いから、この二人が何か裏で悪いことをしでかすようなことは考えられない。そのように断言していた。

 正直いって、ちょっと甘い見かたなのではないかという気がしてしまった。車の運転でいうと、だろう運転になってしまっていそうである。そうではなくて、かもしれない運転をしないとならないのではないか。人が飛び出してはこないだろう、とするのではなく、そういうことがおきるかもしれない、とするほうがふさわしい。

 二人とは長いつき合いであるという山本一太氏の事実は、まったく軽んじてよいものとは言えそうにない。とはいえ、それが確実な論拠といえるのかといえば、そうともいえそうにないところがある。性善説による惻隠(そくいん)心をはたらかせすぎなところはいなめない。

 安倍首相による政権が、経済をふくめて、きちんとした成果をこれまでに出してきたのかといえば、そこはちょっと微妙なのではないかという気がする。経済についても、国策によって国債金利が低く抑えられており、ほんとうの実力が大きくゆがめられているとも見られている。市場の調整によるのではないふうになってしまっているという。そうした点が心配である。

 政権が長期にわたって権力をにぎるのが、国の利益となる。そうした意見はまったく分からないものでもない。しかしその点もけっこう微妙なものだといえそうだ。はたして、報道の自由が少なからず抑圧されてしまうのと引き換えにしてまで、政権の長期化が国の利益となるのかはいささか疑問である。少なくとも、政権の長期化が、どこから見ても国の利益となると自信をもってはいえそうにない。

 タレントの北野武氏は、学校で用いられる道徳の教科書に、お笑いの視点から色々なツッコミを入れていた。そのなかで、色々な分野には、その分野における道徳があるとしている。上に上がってゆく者は、自然とそういった道徳を身につけるものである。そうでないと、上にはなかなか上がって行けない。

 ある分野のなかで上に立つ者が、はたして道徳を身につけているものなのか。そこはけっこう微妙な部分である。感心できるようなきちんとした道徳を身につけていればのぞましいが、現実にはそういったことは確実であるとは言いがたい。かりに道徳を公の益であるとすると、うわべではそれを重んじることがある。しかし裏では反道徳であるような私の益を追い求めていてもおかしくはない。残念ながら、そういった現実はありえるものだろう。

 まったく道徳を身につけていなければ、ある分野で上に行くことはむずかしい。そうした面はありそうだ。政治の分野については、素人から見たことにすぎないのはあるのだけど、いまの政権について、どうしても道徳とは別のことが見うけられてしまう。その別のこととは、言い逃れである。言い逃れの技術が(無駄に?)すごく長けているような気がするのである。これは自己正当化であり、中和化であると言ってさしつかえがない。そうした方向へ動機づけられてしまいすぎているのであれば、残念である(多少はしかたがないものではあるが)。

 山本一太氏からすれば、二十年もの長きにわたるつき合いがあるわけであり、そこからして、悪いようなことだったり、私利私欲を追い求めたりするようなことを、やるとは考えられない。菅官房長官や安倍首相について、そのように見なしているわけだろう。こうした見かたをとるのも分からないではないが、このように見てしまうと、悪いことをやらないのが必然だとしているに等しい。こうして、悪いことをしていないのが必然だと見なすのにはちょっと賛同できない。そこについては少なくとも、悪いことをやっていないかもしれないし、その逆にやっているかもしれないという、二つの見かたをとるのがいるのではないか。疑惑をさし示されてからの政権の対応をふまえると、悪いことを何らやってはいないとして、必然で見なすのにはどうしても無理があると言わざるをえない。

帰結主義(プラグマティズム)においては、とりあえずの事実であり、とりあえずの本質、と言えるかもしれない

 太陽は、地球のまわりを回る。これは天動説であるわけだが、そのような決まりをかりに定めたからといって、太陽が地球のまわりを回ってくれるわけではない。天動説はかつて信じられていたわけだが、いまでは誤りとして見なされ、地動説がとられている。近代では、地動説が事実であるのなら、それを主とするのでないとならない。事実でないものを優先させるのはのぞましくないのである。

 事実を重んじるのはたしかに大事だろう。しかしそのさい、事実を絶対化するのはどうだろうか。かつて天動説が信じられていて、いまではそれが誤りとなった。そしていまでは地動説がとられているわけだが、そうかといって、地動説は未来においてはくつがえされているかもしれない。何かほかの説が正しいものとして説かれていることがありえる。

 そうしたことをふまえると、いま現に事実と見なされていることであっても、それを絶対化させずに、相対化するのがふさわしいのではないか。一つの変わりうるパラダイムとしておく。事実を現状と言い換えられるとすれば、現状として見なすものが必ずしも客観的であるとは言い切れない。何らかの形でつくられたものであることが避けられず、置き換えられているところがある。観念化されているわけである。

 発話行為論では、事実(コンスタティブ)と遂行(パフォーマティブ)はきっぱりとは分けがたいものであるとされているようだ。事実を述べるにおいても、そこには遂行的なものが入りこむ。事実だけで純粋に成り立つのではなくて、そこには遂行が入りこむのであり、不純にならざるをえない。

 かりに、たがいに対立し合う、相互敵対による自然状態(戦争状態)の現状があるとできる。そうした現状があるとして、それにふさわしいように対応するのだと、自然主義的な誤びゅうにおちいるおそれがある。かくあるありようを、かくあるべしとしてしまいかねないのである。そうした誤びゅうにおちいるのだと、自滅することがありえる。

 自滅とは死の恐怖であり、人間はそうした負の経験を通じてはじめて反省することができる。それくらい愚かなところがある。愚かではあるだろうけど、負の経験から教訓を引き出すのであれば、少しはそこから脱することができる。脱することができるとはいえ、少し時が経つと、たやすく負の経験を忘れてしまいやすい。

 事実でないものを持ち出して、それによってむりやりに事実にしてしまうことはできないことはたしかである。そうではあるだろうけど、いっぽうで、事実のおかしさといったものもありえる。事実として秩序があるとしても、それがおかしなほうだったり変なほうへ行きかねなかったりするのであれば、公民的不服従をすることもありだろう。従わないことも時にはありだという気がする。これは個人による自然的権利によって裏づけることができる。

 事実でないものを持ち出すことで、事実にしてしまうことはできない。そうかといって、事実が法を超えてしまうとすると、それは少なからず危ないのがある。事実が法を超えてしまうのだとすれば、法はいらないことになる。集団が、法を超えることを正当化するためのイデオロギーとして事実を持ち出すのであれば、剣呑であるといわざるをえない。

 いかなるさいにも決まりを変えてはならないかといえば、そんなことはないのもある。手続きがしかるべきものであれば、決まりを変えるのは否定されるものではないこともたしかである。しかしそのさいにも、事実だけをもってして押し切ってしまうのであれば、ちょっといただけない。そこについても、立憲主義による決まりができるかぎり重んじられればさいわいである。少数者や弱者や、他者がなるべく重んじられたほうがよい。もっとも、そうしてしまうと、速度感が損なわれてしまうのは一種の欠点と言えるかもしれないが。

 法は英語で law だが、これは lay からきているという。lay は横たわっていることを意味するようだが、もともとあったものが発見された、との意味合いをもつ。そのように受けとれるそうである。法則なんかがそれにとくに当てはまるものだろう。それくらい重みを持つものとして見ることもできそうである。あまり重々しくとらえすぎなくてもよいだろうが、かといって軽々しくとらえすぎるのもちょっとどうだろうか。

 事実を本音であるとして、人間は本音だけで生きてゆけるかといえば、そうとは言えそうにない。嘘ではあるかもしれないが、何らかの建て前がないことには、立ち行かないところがある。嘘とはいっても、必ずしも悪いものとは言い切れないものである。結果として嘘をつくことになってしまう場合もある。そうした嘘はすべてが許されるものではなく、批判されてしかるべきものもあるのはまちがいない。そのいっぽうで、嘘をまったく無くして社会が成り立つかといったら、それをうんということが嘘になってしまう。社会から嘘をまったく無くすようにしようとすれば、ロマン主義的な虚偽にならざるをえない。矛盾ではあるが、そうした点も言えそうだ。

 批評家のルネ・ジラールは、ロマンティックの虚偽と、ロマネスク(小説的)の真実、と言っているそうである。くわしくは分からないから、まちがってとらえているかもしれないが、このさいのロマンティックの虚偽とは、直接主義をいましめるものだろう。直接さによる現前中心主義は、たとえば自民族中心主義(エスノセントリズム)なんかがあげられる。そうしたものは、何らかの物的なものに媒介されざるをえない。ゆえに間接的なものになってしまう。そうした点を隠ぺいした上で成り立つ。たとえ間接的であったとしても、虚構によって真実をうがつ、なんていうのもありえるそうである。

強引な統治のやりかたに強く不満をもっている人が、そのうっぷんを何らかの機会に吐き出すことはありえる(適切な機会とはいえないかもしれないが)

 首相に向かって、やめろというやじを投げかけた。選挙の演説中に、そうしたことがおきた。そのやじの主体を、プロの活動家であると見なす。そうしたフェイスブックの記事に、安倍昭恵首相夫人は、いいねのボタンを押した。朝日新聞がそれを報じていた。

 このフェイスブックの記事は、安倍昭恵夫人ではない、ほかの誰かが書いたものらしい。これと同じようなことを、作家の百田尚樹氏は、外国特派員協会で記者会見を開いたさいに述べていたようである。それで質疑応答のさいに、日本の一般の記者から、百田さんはじっさいに現場の秋葉原に足を運んでいたのか、との質問を受けていた。その質問にたいして、現場には足を運んでいない、と百田氏は答えていた。二次情報をもとにしていたわけだろう。

 はたして、秋葉原での選挙演説中に、首相に向かってやめろというやじを投げかけたのは、本当にプロの活動家だったのだろうか。その真相は明らかにはなっていないだろう。そうであるにもかかわらず、プロの活動家にちがいない、なんていうふうに見てしまうと、属性を当てはめることになる。属性をもとにして、そこから推しはかるようなあんばいだ。

 やじの行為の背後に何らかの人格を見いだしてしまうのは、汎霊論(アニミズム)によっているところがありそうだ。そうした属性や人格を実体であると見なしてしまうと、必ずしも現実を見ることにはならない。現実におこったのは、やじという表出であり、そこで立ち止まることもできる。そこで少し立ち止まることによって、属性や人格を当てはめてしまう前の、人間としてとらえることにつながるのがある。

 選挙妨害であるとすれば、法に触れてしまうところがあり、そうして法に触れるようなことをするのは、いかがわしいプロの活動家にちがいない。そのように見なすことがありえる。たしかにそのように見なすことができるが、法に触れるようなことをしない人は善で、触れるようなことをする人は悪だ、と決めつけてしまわないこともできる。決まりがあるのだとしても、そこから多少は逸脱してしまうのは、人間にはつきものだ。ようは、その逸脱にたいして、何らかのレッテルが貼られるかどうかが一つの分かれ目となる。

 逸脱にたいするレッテルを貼るさいに持ち出されるものの一つが、プロの活動家といったものだろう。そうしたレッテルを貼ってしまうこともできるわけだが、それが貼られる前の、表出として見ることもできる。そうした表出は人の口から発せられるものであり、自発性があるものであるから、何らかの考えの結果であるととらえられる。その考えをむげに切って捨ててしまうのはどうかなという気がする。そうした点で、(よほど頓珍漢なものでないかぎりは)表出されたものにも尊重される意義があると言えるのではないか。

会場に闖入してきた人をいなせたのは、寛容さが持てたからだろう(闖入してきた人よりも優越していたのによる)

 自分を支持するのではない人が、闖入してきた。そこでその闖入してきた人をじゃまであるとして非難するのでもおかしくはないが、逆にその人のことを認める対応をとった。たとえ場ちがいではあれ、自分とはちがう代表者を支持するその人にも、表現の自由はある。その自由を尊重しようではないか、と聴衆に呼びかけた。

 これは、2016年の 11月に、アメリカの会場で演説をしていたバラク・オバマ元大統領によるものである。オバマ氏のこの対応は、表現の自由をできるかぎり尊重するものとして、とっさに対応したものだといえる。場ちがいなところへ、自分を支持するのではない人が来た。その人がほかの代表者への支持を訴えたわけだけど、それについて、公共の福祉にはとくに反しないと見なした。

 ひるがえって日本では、さきの東京都議会議員選挙の選挙戦において、安倍晋三首相のやじへの対応がとりあげられている。やじを投げてくる人たちにたいして、こんな人たちには負けるわけにはゆかない、自分たちはそうした汚いやじをこれまでにまったくしたことがない、なんていう趣旨のことを首相が述べた。

 首相についてはひとまず置いておいて、オバマ氏について見てみると、長期的な利益をふまえているととらえることができる。表現の自由をできるだけ尊重するのは、長期的な利益にかなっているのだ。民主主義はまちがったほうへ暴走することがあるが、これは自由主義によって歯止めをかけられるのがよいとされる。そして、平等の点でいうと、たとえ元大統領とはいえ、それは一つの役割にすぎず、表現の主体としては他の人とも等価に近い。かけがえがないのではなく、どちらかと言うとかけがえがある。そうした、兄弟性による連帯のありようをとっていそうである(少なくともうわべにおいては)。

 安倍首相について見てみると、短期的な利益をとってしまっているところがありそうだ。それが見うけられるのは、たとえば憲法違反だとする声があるにもかかわらず、一部から問題視されている法案を力づくで通してしまうところに見うけられる。あとは、自分に近しい者を引き立ててしまう縁故主義も目だつ。自分に近しく、思想も共通している人を引き立ててしまうのは、短期的な利益をとっていると見なすことができる(ある程度はやむをえないものではあるが)。

 自分に近しく、思想も共通している人には、賞が与えられやすくして、罰が与えられにくくする。いっぽう、自分に遠くて、思想が共通していない人には、賞が与えられないようにして、罰が与えられやすくする。こうしたありかたがとられているとすれば、中立性がいちじるしくないがしろになっており、恣意的なふうになっている。選択的賞罰(セレクティブ・サンクション)によっているためだ。

 民主主義にはよっているかもしれないが、それがまちがったほうへ暴走してしまうさいの歯止めとしての自由主義については、ちょっと分が悪くなっているところがありえる。自由主義は日本には不要だ、なんていう題名の本も出版されていたのを見かけた。いまは流れとしては保守主義のほうがやや分がよさそうである。

 選挙戦において、安倍首相にやじを投げかけた一部の聴衆がいた。このやじを投げかけた人たちは、組織的活動家だなんて言われてもいる。いやそうではなく、ふつうの一般市民の声にほかならない、とも言われている。その真偽は置いておくとして、安倍首相の対応からひもといてみることができるとすると、やじを投げかけた一部の人たちをふくめて、首相と聴衆とは、いわば父と子のようになっていそうだ。一部の子が父に歯向かったからこそ、父(とその側近)はそれをよしとはしなかった。けしからんことだと見なした。これが一部ではなく子の全体にまで広がることを恐れた。そうしたことが言えるのではないか。

 ほんらい、民主主義においては、オバマ氏のありかたのような、兄弟性による連帯がとられているほうがのぞましいとされる。こうしたありかたが日本では現にとられているかといえば、残念ながらそうではないと言わざるをえない。そのようなふうに言えそうだ。そうした点をふまえると、民主主義とはいっても、そのありようが少なからず変質しているところがあるかもしれない。大衆迎合主義なんかもあるから、その点に多少は気をつけておくこともあればよさそうだ。