あるべきありかたとは別に、実在したありかたもあり、いずれにせよ不完全である

 日本は、第二次世界大戦で、敗戦をした。そのことを言ったさいに、いやそれは敗戦ではなくて終戦である、と反論する。これは、政治家である田中真紀子氏と、自由民主党安倍晋三首相とのあいだでかつて交わされたやりとりだという。第二次大戦のさい、日本はアジアを侵略したわけだが、そのことを田中氏が言うと、安倍首相はそれは侵略ではなく(植民地からの)アジアの解放をしたのだ、と反論したのだという。

 田中氏と安倍首相とのあいだで、おたがいの歴史像が明らかに異なっていることから、話がかみ合わないさまが見てとれそうだ。アジアへの侵略はとりあえず置いておくとしても、敗戦をしたことはれっきとした事実ではあるから、それを終戦であると言いくるめてしまうのはどうなのだろう。

 アジアへの侵略については、それを解放として見るさいに、演繹してしまうようだとちょっとまずいだろう。断言することはできづらい。解放として見られなくはないところがあるのだとしても、それによって強く基礎づけしてしまうと、そのように美化して仕立てあげて見てしまうことにつながる。そうではなく、そこからずれて行くようなありかたをとることもいるだろう。美化するのにそぐわない、非整合なものに焦点をあててゆくこともできる。

 たとえば従軍慰安婦の問題なんかでも、それを日本が正当化してしまうのはまずい、という意見もある。正当化というのは、よからぬことをしでかしてしまったさいに、それを中和化することである。このような、正当化とか中和することにやたら長けてしまってもしかたがない。そこには、非を認めたくないという情念がからんできてしまう。そうした情念はできるだけ相対化して、(快楽原理ではなく)なるべく現実性の原理に従うことができればよいのではないか。

 現実には、内外に多大なる被害を与えたことについての非があったことを認めざるをえないものだろう。過去にしでかした非をなかったことにしてしまい、解放であったとして是としてしまうのは正当化であり、ちょっとうなずきがたい。戦時中に、日本は大本営発表を国策でおこなった。敗北による退却を、ありのままに退却とせずに、転進(スピンアウト)と言いくるめた。侵略を進出とも言いくるめた。こうした、人の目をごまかしてあざむくようなことを、再びくり返してよいものだろうか。そうしたところから、アジアの解放とする歴史像も出てきてしまっているような気もする。

反省するのはよいことではあるけど、すごく強い悔恨の情なんかによるのでもないと、なかなか改めることができづらい(また同じ愚をくり返してしまうと自分を省みることができる)

 印象操作のような議論をふっかけられる。それについて、ついつい強い口調で反論をしてしまう。そこから、あまり生産的でない議論が国会で盛り上がっていったことはたしかだ。その点については反省をしている。自由民主党安倍晋三首相は、先の国会をふり返り、記者会見の場でこのような弁をもらした。

 この安倍首相の弁において、そもそも、印象操作のような議論とはいったいどのようなものをさしているのだろう。これは、印象操作のような議論であると、安倍首相が自分でそのような印象をもったということなのだろうか。そうした印象を自分が感じたというわけである。その印象の感じかたは、はたして正しいものなのかの点が定かではない。

 印象操作のような議論という印象を首相が抱いたとすると、その点については疑問をもつことができそうだ。たんに相手が事実を言ったのを、印象操作ではないかと感じたおそれもある。これは、何か言ったさいに、事実(コンスタティブ)と執行(パフォーマティブ)がはっきりとは分けがたいことに由来していそうだ。言語行為論ではそのような分けがたさが指摘されているそうである。なので、そこをあらかじめ踏まえておくことがいるだろう。

 もし印象操作のようなことを言われたとしても、それにたいして、強い口調ではなく、ふつうの口調で反論することができればよい。もっとも、つい感情的になってしまい、強い口調で反論してしまうのは、人情としては分からないでもない。人間だから、そういうことはあってもおかしくはないことである。もし方法論としてまたは言い訳としてそれをやっているのならいささか問題はありそうだけど。

 かりに議論が生産的なものにならなかったとしよう。それは結果なわけだけど、その原因について、相手が印象操作をしてきたからというのをあてはめるのはどうだろうか。それは原因になるのかといえば、やや疑問である。相手がもし印象操作のようなことを言ってきたのだとしても、それだからといって必ずしも非生産的な議論になるとは言いがたい。生産的な議論にもってゆくことは自分しだいでできるものなのではないか。自分から非生産的な議論にもっていってしまっている面も、原因としてあげられるところがあると勘ぐれる。

 生産的な議論というのは、相手が印象操作のようなことを言ってくるかそれとも言ってこないかによらず、形式にのっとって行えばよい話なのではないかという気もする。相手が印象操作のようなことを言ってきている、とこちらが決めつけさえしなければ、生産的な議論は形式としてやりようがある。逆に、相手が印象操作のようなことを不当に言ってきている、と決めつけてしまうと、それが原因となって、生産的な議論がやりづらい。

 相手が印象操作のようなことをこちらに言ってきているとすれば、相手はそれを企てている。しかしそれをうら返せば、こちらもまた、相手が印象操作のようなことを言ってきているという見なしかたを企ててしまっている。もし、相手が本当は印象操作のようなことを言う意図をもっていないのだとすれば、こちらが一方的に、相手が印象操作のようなことを言ってきているとする誤った企てをもってしまう。こちらから一方的に相手への誤解をしに行ってしまっている。相手は、印象操作のようなことを言っていないことを証明はできづらい。なので、こちらが自分で相手への誤解を解くことがいる。

 与党と野党でいうと、首相にとって野党は客体である。そして、客体である野党が印象操作をしようとしているのかどうかは、主体である首相の意味づけしだいによっているところがはなはだ大きい。そしてその意味づけは、たぶんに主観的なものとなる。主体による客体への意味づけは、一つのもん切り型をもちいた慣習による実践をふくむ。印象操作というもん切り型の言葉づかいに、もん切り型であることが示されている。もん切り型はしばしば偶像(イドラ)であり、生産的とは言いがたい。そうした実践は構造からきているので、自分のよって立つ構造を自覚することで、非生産的な議論におちいることから脱するきっかけとできるかもしれない。あまり偉そうなことを言える立場にはないが、そのようなことが言えるだろう。

 もし印象操作のようなことを相手から言われたとすると、それを結果としてとらえられる。その結果が生じた原因として、たとえば自分の地位を不当に追い落とそうとする魂胆をもっているからだ、何ていうふうに見ることもできる。このように疑ってしまうと、相手の背後に意思をもつ実体を見てしまう。このように見てしまうと、思いこみである観念が肥大して止まらなくなる。なので、できればその思いこみである観念を解くことができればさいわいだ。そうすることで、相手の背後に意思をもつ実体を見ないようにすることができ、自分が不当に地位を追い落とされようとしている、と見なすことを避けられる。

 印象操作をしてくるやつとして、記号として相手を見てしまう。そうして、その記号が固定化してしまうようになる。われわれは社会の中で、記号を食べて消費している面が大きいのだという。自分にとってのぞましくない、負の記号として相手を見てしまうと、一つの負の象徴と化す。そのようにして還元して見てしまうと、ほかの肝心な細かい部分が捨て去られてしまう。神は細部に宿るともいう。その点に気をつけることができたらよいだろう。記号によって自他に差をつけるにしても、とても細かいわずかな差にすぎないかもしれず、大きなくくりでは自他は同じようなものであるかもしれない。そのような大らかな見地に立つことはじっさいにはできづらいものではあるだろうけど。

純粋な自主憲法はありえるのか

 日本国憲法の 3つの特徴がある。この 3つを無くすことが、自主憲法につながるのだという。平和主義と国民主権基本的人権の尊重が 3つの特徴にあたるわけだけど、これは他から押しつけられたものであり、これらを無くすことが自主憲法にいたる道だといった意見である。

 3つの特徴を無くせば、自主憲法になるのだというのは、必要条件なのか、それとも十分条件なのか。もし、3つの特徴をもたないものを自主憲法であるのだとすれば、そうした内容をもつ外延(集合)には、自主憲法ではないもの(他から押しつけられたもの)も入りこんできてしまうのではないかという気がする。3つの特徴を持っていさえしなければ自主憲法に当たると言えてしまいそうだからである。

 いまの日本国憲法は、たしかに言われてみれば、純粋な自主憲法とは言いがたいものではありそうだ。しかしあらためてみると、そもそも純粋な自主憲法などといったものはありえるのだろうか。純粋な自主憲法の想定そのものが、極端にいえば架空の産物なのではあるまいか。これは現前中心主義と言ってさしつかえないものだろう。この直接な現前というのは、じっさいには純粋なものではありえず、必ず何か物的なものに媒介されざるをえない。

 自主憲法はのぞましくて、自主憲法でないものはのぞましくはない。そういうふうに言ってしまうことはできそうにない。まず、自主憲法というのをとり上げるにしても、それを範ちゅうと価値に分けることができる。自主憲法の範ちゅうの中にも、のぞましい価値をもったものもあり、またのぞましくない価値をもったものもある。そのように見てゆくことができる。これは、自主憲法ではないと見なされるものについてもまた当てはまるだろう。

 自主憲法かそうでないのかというのは、質によって分けてしまうこともできなくはないだろうが、それとは別に、量によって見なすこともできる。量によって見なすのは、程度の問題だとすることである。これによって相対化することができる。たとえわずかではあったとしても、自主憲法とされるものの中には、自主憲法ではないものが入りこむ。そうしたおそれをふまえると、厳密にいえば、自主憲法は自主憲法ではない、ということもできる。

結婚を宣言したことの是非

 結婚することを告げる。アイドルグループである AKB48 のグループの一員が、選抜総選挙の催しのなかで、そのような宣言をだしぬけに発したという。アイドルというのは恋愛が禁じられているそうで、その恋愛をもう一つ飛び越えて結婚をするということで、波紋を呼んでいる。宣言をした時と場所と機会もやや悪かったのかもしれない。

 結婚というのは一定の年齢を満たしていればその資格があるわけだから、それをする権利がある。権利は自由である。ただアイドルは一般人とは異なり、恋愛や結婚が禁じられているようである。これは、義務であり、一般人とはややちがう規範によって拘束されていることを意味しそうだ。そこで、内の規範と外の規範がぶつかり合い、葛藤が生じてくる。

 結婚すること自体はとくに悪いことではなく、むしろよいことだろう。しかし、アイドルにおいては、恋愛や結婚をしようとすることが非難される。非難されるから問題となる、といったことが言える。非難されなければとくに問題にはなりそうにない。

 アイドルは、恋愛や結婚が禁じられていて、その掟に縛られている。この掟があるのは、ほうっておくとアイドルは恋愛や結婚をしがちだからなのだろうか。だから掟で縛っておく。そうはいっても、何かが禁じられれば、そこに二重運動がおきてしまう。禁止と侵犯や、否定と回帰といったふうになる。アイドルにとって恋愛や結婚は、呪われた部分にあたる。呪われた部分においては、アイドルとしてそれまでに蓄えてきた過剰な活力が、蕩尽され消尽されることになる。

 恋愛や結婚を禁じる掟によって、(アイドルとファンのあいだの)社会状態が保たれる。しかしそうした状態は、片いっぽうが契約を破ることで崩れることがありえる。そうすると自然状態となる。この自然状態においては、片一方ともう一方とのあいだに意思疎通や交流が成り立ちづらい。アイドルとファンの間がらであれば意思疎通や交流は成り立ちやすいが、そうでなければ接点がもちづらくなる。そうしたことがありえそうだ。

 掟を背負っているのは、共同体主義からすると、負荷がかかっていると見なせそうである。自由主義からすれば、逆に負荷なき自己がありえる。そうしたことが言えそうだが、そもそも、恋愛や結婚を禁じる掟を破ったとして、はたしてそれがどれくらいの罪なのだろうか(または罪ではないのか)。そこはファンの人とそうでない人とでは思い入れが天と地ほどもちがうかもしれないから、はっきりとは言いがたい。

 一般論としていえば、ある集団の中においてはみんなが同じ方向を向くのではなく、別な方を向く人も出てくるだろう。みんなとはちがった方へ向く誘因がはたらく。そこは、建て前と本音だとか、義理と人情みたいなのがからんでくるところだろう。いずれにせよ、恋愛や結婚を禁じる掟というのは、基本としては他律によっているものだといえそうだ。

 仏教でいわれる空観をあてはめると、アイドルとは空だろう。とはいえ、そのように空とはっきりと言い切ってしまうと味気ないところがある。いちおうそういった役割はありえるから、仮観(または中観)をあてはめることもできる。そのさい、役割をもつ者として仕立てあげられるところがあるのはいなめない。その点については、同一さを保ちつづけるのがのぞましいとすることもできるが、そうではなくて揺らいでいってしまうのもまた人間性の一面である。

目的合理性に難が見うけられるところがありそうだ

 怪文書のようなものだ。省庁から流出した文書について、官房長官はこのように述べていて、あとでその発言を(事実上)撤回することになった。この発言について官房長官は、怪文書というところがひとり歩きした、との感想を述べている。それでいうと、共謀罪についても、テロにたいする対策というのがひとり歩きしてしまったところがあるのではないかという気がした。

 テロへの対策ということでいえば、共謀罪の法案を新たに成立させなくとも、それまでの法律を用いることで手を打つことはできたのだと、憲法学者の木村草太氏は言う。これが正しいのだとすれば、それまでにある法律の範囲のなかで、打てる手をとってゆき、それでも足りないときにはじめて新たに共謀罪を議論して成立させればよかった。後の祭りのようではあるが、このように言うことができそうだ。

 テロへの対策とされた共謀罪が、じっさいにはたいしたテロの対策にはなりそうもない。このような部分があるとすると、なぜそうなってしまったのだろうか。ひとつには、動機と結果において、動機をもっぱら重んじてしまい、結果がどうなるのかがないがしろにされたのがありえる。当為(ゾルレン)と実在(ザイン)において、当為に重きがおかれて、実在のほうが軽んじられるところがあった。テロへの対策による義(正義)の単一性にこだわるいっぽうで、その義の複数性が反映されることが十分にあったとはいえそうにない。

 建て前としては、テロへの対策というのは言われてもよいことではあるけど、それは集団の観点からふまえられることである。それとは別に、本音の思わくはどうなんだみたいなのが色々なところから言われていたけど、それが十分に汲みとられたとはいえそうにない。政治家がしばしば好むものである、大きな言葉による建て前もあってよいものではあるけど、それが過剰となってしまうと、よからぬほうへ走っていってしまいかねないところがある。そこに気をつけることがいりそうである。

 目的をもつとしても、それにたいする手段がふさわしいものなのかどうかを、そのつど立ち止まって省みることがあればよかったのではないか。それがないのであれば、いっけんうわべでは合理的なようであっても、じっさいにはたんなる教条主義イデオロギーになるのを避けづらい。そうした集団的独断(アサンプション)による教義は盲信しないで、できるだけ相対化されることがいるものだろう。

 ひとつの世界像を打ち立てて、それにもとづいた現状認識をとる。そうしたさいに、その認識は自分たちの利害がからんでいることが少なくないだろうから、必ずしも客観的なものとは言いがたいところがある。ほかの少数派の人たちなどの別の利害もあるわけだから、そこをなるべく尊重するようにできればさいわいだ。自分なりの利害によって、それぞれが別の角度からの認識をもつ自由がある程度はあってもよいものだろう。何かひとつの世界像だけが正しい認識であるとして基礎づけられるのは、避けられたほうが無難だ。

 テロリズムは暴力によるわけだが、これは公の権力にもあてはまるところがないでもない。暴力は排除なわけだけど、権力もまた排除をこうむった外部性をもつ。権力はさん奪される。それが聖別化されて正当化されることで大半の人が認めて受け入れるものとなる。しかしその正当化が崩れてしまえば、権力は暴力による支配に転じる。そうしたおそれがあるから、自分からすすんで(下からの)信頼を失ってしまうようなことは避けられたほうがのぞましいだろう。信頼できない人に任せてもしかたがないわけだし。

これまで大丈夫だったのだから、これからもそうであるとは必ずしも言い切れそうにはない

 安保法案が成立した。それでも、一部の人が強く危ぶんだようなことはおきていず、いままで何もさしたる問題はおきていない。そうであるのだから、共謀罪が成立するのについても危ぶむことはいらず、とりたてて何も問題はおきない。こうした見かたをとることができる。

 たしかに、安保法案が成立して、いくばくか月日がたって、何かとりたてて大ごとが持ち上がっているわけではない。しかし、あえて言うことができるとするのなら、可能性としては、何か大ごとが持ち上がってしまうこともありえただろう。ただ、そうした可能性を持ち出しても、仮定法の話だから、とくに意味はないかもしれないが。

 安保法案を強行に採決して成立させても、そのごにとくに問題はおきず、大丈夫だった。そうしたことを前提として、だから共謀罪が強行に採決されて成立しても問題はおきず、大丈夫だろう、と結論づけることは、いささか早計である。共謀罪が成立しても問題はおきず大丈夫だろうとする結論は、演繹による断定はできそうにないし、帰納によってそうであるだろうと見なすのにもやや飛躍がある。

 二元論で見るのであれば、問題があるかないかだとか、大丈夫であるかそうでないか、となる。しかしそうした二元論によるどちらかだけの見かたをとり外して見たほうが適当だろう。可能性がたとえわずかでもあるのであれば、それは未来においてはその可能性がおきることもあるし、おきないこともある。そのさい、危険なことになる可能性を確率のうえでほぼゼロとしてしまうようだと、二元論の片いっぽうを捨象してしまい、残ったいっぽうに一元的に還元してしまう。

 これからである未来を見るのであれば、確実さとして一元的に還元してしまうのではなく、不確実として二元的なことの両方を残しておいたほうがふさわしい。確実さとして一元的に還元してしまうと、全体化することにつながりかねないのがある。そうではなくて、否定弁証法といったようにして、否定的な契機をいたずらに隠ぺいしたり抹消したりしないように残しておく。

 政治におけることがらにおいては、政権をたやすく信頼してしまうのは専制(デスポティズム)に行きつく。そのようなおそれが低くないから、よいことをしているだろうとするだけでなく、悪いことをしているかもしれないとして見る二重の視点が欠かせない。へたに政権を聖別化しないようにしたほうがよいところがありそうだ。頭ごなしに叩いてしまうのもまずいかもしれないが。

排外的な言論を非難する言論もときにはやむをえないかもしれない(あまりにも行きすぎて目にあまるものであれば)

 言論の自由を守るようにする。そのさい、社会の中で、ある人と別の人がいるとすると、その人たちのあいだで利害が対立していないのであれば、規則が守られやすい。しかし、利害が対立しているようであれば、ゲーム理論でいわれる囚人のジレンマの状況に置かれそうだ。

 言論の自由を守るようにして、かつ誰か特定の少数者なんかをいちじるしく傷つけるようなことをできるだけ言わないようにもする。こうしたありかたに協力してくれるだけではなく、それへの裏切りもおきてくる。この裏切りは、それをしたときに手痛いしっぺ返しがあれば歯止めになる。しかししっぺ返しがなければ、裏切りが横行するようになってしまう。

 裏切りが横行するようになってしまうのは、経済学でいわれる外部効果がはたらくからだろう。外部効果というのは、市場の内において価値または反価値として評価づけられないものである。市場の内では、いちおう建て前のうえでは等価交換になっているわけだが、その外ではそうした原則すらはたらかない。他に迷惑をかけても、それで自分が何か悪い評価づけを受けるのでもなく、そのまま本音がたれ流し放題になってしまうようなあんばいだ。

 言論の自由を守るのはたしかに大事なことだけど、それとは別に、利害の対立がおきてしまっているのであれば、そこを認めることがいるのかもしれない。弱者への配慮などの決まりに協力してくれればよいが、そうではなく裏切ってしまうようにもなるので、そこを何とかすることがいりそうだ。裏切ったさいに、何らかの軽いしっぺ返しがあれば、多少の歯止めにはなるだろう。

 憎悪表現(ヘイトスピーチ)なんかだと、少数の人へ危害が加わるおそれが少なくない。そうした少数の人への憎悪の欲望というのは、とめどなく進んでいってしまうところがある。そうした欲望に抑えをきかせることはできづらい。なぜ抑えをきかせるのができづらいのかというと、人間は攻撃性の制御(コントロール)の仕組みが弱いとされているからである。しばしば人間は気が錯乱している(ホモ・デメンス)。

 他者への危害をなるべくおよぼさないようにするかぎりにおいて、言論の自由は守られるわけだから、憎悪表現なんかはできるだけ行われないようになるのがのぞましい。これはいちおう自由主義の観点から導くことができるものである。誰しもが、自分の属している集団や、民族や、または自分自身を愛することがあってよい。それと同時に、その愛好することが、他とぶつかり合うときに敵対的にならないようにすることがいる。敵対的にならないようにするためには、他の集団の人たちにたいする有用さをもつことができればよい。

 そうたやすくできることではないかもしれないが、それぞれの集団がもつ目的というのがあるので、それを頭から否定することがないようにできればさいわいだ。遠近法主義といったようにして、それぞれの集団がもつそれぞれの目的というのは、どこから見るかの視点によって、合理的であったり合理的でなかったりして見えるものだろう。合理的でないように見えたとしても、それは一つの視点にすぎないわけだし、ある集団がもつ目的を頭からないがしろにしてよいとは必ずしもいえそうにない。この点については、論理の複数性みたいなことで、多論理的(パラロジー)として見ることができそうであり、なにか特定の目的による合理性を中心化するだけでなく、脱中心化してしまうこともできるだろう。

非がまったくないという前提ではなく、それがあるという前提に立つのは、むずかしいところもある

 多少なりとも、自分に非があることを認める。そのような姿勢がとれればのぞましい。とくにどうでもよいような、とるに足りないことであれば、そうした姿勢はとりやすいだろう。しかし、ほんの少しでも自分の沽券にかかわるようなことであれば、認めることはできづらい。

 不徳のいたすところといったようなふうにして、自分に非があることを認めることは、一つの賭けのようなところがある。不徳さがあるとして、自分に非があることを認めるのは、いっけんすると否定的なことであるが、必ずしもそうであるとはいえそうにない。そのことによって、かえって自分の株が上がることもありえる。よくぞ認めた、何ていうふうに受けとられる。

 もめごとなんかでも、追求されている側は、自分の不徳のいたすところであるとして、その不徳さをもめごとの原因(の一つ)としてしまうことができれば、楽なのではないかなという気がする。たいていは、どこかしら自分に非があることが少なくないわけだから、その非を認めるということで、そこに不徳があったのだとするのである。そうしたほうが、不毛な言い争いになることを多少は防ぐことが見こめる。

 まったくいわれのないことがらで責め立てられても、いっさい言い逃れをしてはいけないのかというと、そういうことではない。そこは言い逃れなり反論なりをしてもかまわないところである。しかしそのうえで、自分に非がなかったのかとか、不徳さがなかったのかなどとして、内を省みることがあってもよいだろう。そうすることで、(自分に非があるかないかというのとは別に)たとえば置かれている環境が悪いだとか、状況に問題があるだとか、そういった他の要素なんかも少しは見えてくることがのぞめる。

 性悪説の見地に立てば、たいていはどこかしらに人間の性には悪の面がある。悪というのは不徳さと言い換えることもできるだろう。しかしながら、あらためて見ると、われわれをとりまくさまざまなことがらにおいて、自分の沽券にかかわるようなことはけっこう多く見られる。なので、本当に見るからにどうでもよいようなことでないかぎりは、自分に非があったり不徳さがあったりというのをなかなかすんなりとは認めづらい。そうした認めづらさは、人間の性における弱さでもあるだろうし、またそれ自体が一つのぬぐいがたい悪であり不徳さであるということもできるかもしれない。自己欺瞞的自尊心が発揮されてしまう。

 もしたやすく自分の非や不徳さを認められるのであれば、それは日ごろにおける有用性の回路から外れることをあらわす。日ごろにおける有用性の回路においては、自分の自尊心を少しでも蓄えて保ちつづけようとする。それが損なわれないように気を配っている。いわば、自尊心が再生産されているわけだ。そうしたありかたがどこかで反転して、自尊心が大きく消費されることがあってもよい。そうした大きな消費がなされないと、自己欺瞞からくる自尊心が肥大化していってしまうので、危険さがつきまとう。欲望の歯止めなさによっている。

 いっけんすると否定的なことだけど、自尊心を大きく消費してしまうことによって、楽になれるところもあるし、身の丈にあった姿にもどることができるのではないかという気がする。いっそ自分から自尊心を大きく消費して捨ててしまう手もありだろう。自分から、不徳さをもめごとの原因だとしてしまえば、主体性があるとも言えなくもない。背のびしつづけるのはつらいのもあるだろうし。

しつようさを持ってことにのぞみ、眠りこむのではなく、目ざめさせるようにする

 言われたことをそのままたれ流す。そのような人が大半なようなのだけど、そうではなくて、自分からきわどい質問を発して、政権の官房長官にたいして食い下がろうとする。東京新聞の記者である望月衣塑子氏は、それができるのが立派であるという気がする。

 政権の一員である官房長官からしてみれば、できるだけきわどいところを突いてこない記者のほうがのぞましい。そのように忖度するように仕向けているところがある。そして従順な人であれば、その意を自分からくむだろう。かんたんに引き下がることでよしとする。官房長官からすると、都合がよい環境が整えられることになる。

 望月氏は、そうして整えられた環境に、少しでも穴をうがとうと努めているところがありそうだ。批判というのは、このようにしてなされることがいるものだろう。整えられた環境に甘んじてしまっていてはできないことである。粘って、食い下がろうとすることではじめてとらえられてくるものがある。このようなしつようさを発揮する人が、望月氏にかぎらず、もっと何人もいるようであればのぞましい。

 辺境的な見地に立ち、中心をになう人からうとまれるくらいのしつようさがあることによって、環境が押し隠してしまっていることがあばかれるようになる。こうしてあばかれることになった矛盾や亀裂は、ものごとをとらえるさいの役に立つ。そうしたことがのぞめるだろう。ふさがれてしまっている仮止めの補てん物を、そのままにしてしまうのではなく、それをとっ払ってしまうことによって、穴が空いていることをさし示す。こうしたことはなかなかできることではないけど、柔軟な大衆的知性の一つの発揮ということができるだろう。

溝が深く開いていて、それを埋めるように努めるのではなく、ないもののごとくにしてしまう

 いろいろな疑問がつきつけられている。それにたいして、できるだけ向き合うことであればのぞましい。しかしまともに向き合うのではなく、つきつけられた疑問に答えずに、それを頭から退けてしまう。こうなってしまうと、自己循環論法におちいる。

 これは何が何でも、とにかく必要だから必要なんだ。あるいは、とにかくやっていないものはやっていない。ないと言っているものはないのだから、探すまでもない。こうした姿勢をとってしまう。この姿勢は、支持している人からすれば、とくに問題はないかもしれない。権威にあずかったものごとの進めかたと言えるだろう。

 自己循環による論法におちいってしまうのであれば、独話をしているにすぎないことになってしまうところがある。こうしたありかたでものごとを進めてゆくことになれば、危うい面があることはまちがいがない。投資家(有権者)が、権力者から何かうまい儲け話をもちかけられて、その話に客観的な裏づけがないにもかかわらず、頭からのっかってしまうようなことになる。

 権力者は、何かうまい儲け話をもちかけてもよいわけだけど、そのさいには、投資家(有権者)のみなにとって、これならまあ大丈夫かな、というような、客観的な裏づけを示さなければならない。きちんとした裏づけも示さないのに、これはまちがいなく儲かる話なのだ、と言われても、不信は払しょくされづらい。

 不信をもつのは、もつほうが悪いのだと言われてしまうかもしれないが、あとになって損をこうむるのは(権力者ではなく)投資家のほうなのだから、そこはシビアにならざるをえないところがある。そうしたわけで、自己循環による論法は、独話にすぎないのであり、対話による練り上げを拒んでいると見なさざるをえない。くわえて、自己循環による論法は、自分たちの無びゅうさや不可疑さ(妥当さ)を前提としているわけだが、この前提は疑ってしまうことができる。

 投資家と、うまい儲け話をもちかける権力者とのあいだには、隔たりがある。その隔たりを、できるだけ埋めようと努めることがないと、投資家のみなの気持ちを信用させるほうへもってゆくことはできづらい。この両者のあいだの隔たりというのは、その開きぐあいがどれだけあるのかの認知はさまざまだろう。しかし、まったく開いていないとするのは極端だ。開きぐあいは少ししかないという人もいるだろうけど、そうではなくて、かなり開いてしまっているという人もいるわけであり、そうした人への配慮があることがのぞましい。

 配慮を欠いてしまうことのみならず、投資家の一部の人のありかたを否定してしまうようではなおさらまずい。うまい儲け話をもちかける側である権力者は、一部の投資家から強い不信の目で見られるのを、受け入れることがいる。そうした不信の目というのは、権力チェックとして欠かせないところもある。これは投資家による精神活動の自由であり、この自由はできるかぎり認められるほうが、投資家にとっての利益や効用につながる。投資家には、色々な認めかたをする人があってよいわけだし、それがなるべく尊重されるようになればのぞましい。投資させられるようであっては、他律になってしまう。