内容にくわえて、形式の面に託されているねらいもありそうだ

 けっして教育の場で教材として用いることを禁じはしない。自由民主党安倍晋三首相が率いる内閣は、教育勅語についてこのような指針を下した。その許可というのは、あくまでも憲法教育基本法には反しない範囲においてというただし書きがついている。

 教育勅語に書かれている内容について、必ずしも悪いことは言ってはいないとする意見もあげられている。今にも十分に通ずることを言っている。だから、頭ごなしに否定されることはない。よいことを言っている部分もあるのだから、そこを肯定的に評価することができるではないか。

 なかにはよいことが書いてあるにはあるわけだけど、しかし今から見ればそぐわないところもある。そのような指摘もされている。かつての時代はいまよりも男尊女卑がまかり通っていたのがあり、その精神が内容にしっかりと反映されてしまっている。たとえば夫婦の関係においても、たがいが対等であるのではなく、夫に妻がつき従うことをもってよしとしてしまっているそうだ。くわえて、いざというときには、当時の天皇(陛下)に国民が仕えることが暗に強いられてもいる。

 教育勅語を教育の場で使うことは、必ずしも禁じられはしない。この決定には、どのような意図が見いだせるのだろうか。ふつうに見たら、そこに記されている内容の是非が問題とされてくる。しかしそれにくわえて、形式の面もけっこう重要なのではないかという気がした。

 作家の井上ひさし氏によると、日本語には大きく漢文と和文の面があるという。この 2つが混ざり合い、現在の日本語はなりたっている。それでいうと、教育勅語はどちらかというと漢文からの影響が大きいものである。漢文はその昔、公家である男性貴族によって、公的なことを記すために用いられたものだという。したがって、漢文には公の色が強く出る。

 漢文とはちがい、和文は私的なことについて記すのに適しているそうだ。この当てはめからすると、教育勅語を教育の場で使うことを必ずしも禁じないのには、公の意識を植えつけようとする思わくが見てとれそうである。(戦前や戦中においてあった)領域としての国家の公は、あまりにも行きすぎた暴走をしてしまい、私をいちじるしく押しつぶしてしまったわけだ。その国家公の領域をふたたび広げようともくろむ反動的な動きもないとはいえない。

 国家による権威主義は、ちょっとした気のゆるみや弱みに巧みにつけこんでくるほど、油断がならないところがある。もともと気持ちのうえで不確実感があると、そこをねらって忍びこんでくる。そうした国家主義によるイデオロギーの力は、したたかであり、けっしてあなどることができそうにない。国家という大に事(つか)えるのではなく、できれば個人のほうにより重きをおいてほしいところだ。そのほうが、過去のあやまちをくり返すことを少しでも防げる。

 内容はひとまず置いておくとしても、形式から見ると、教育勅語は漢文によっているところが大きいので、公を重んじるありかたへとつながっていると見てとることができる。漢文というのは、何か大きな説をぶち上げるのに適しているものだという。これは政治家の人にとっては親和性がある。政治家の人もまた、しばしば大きな言葉を好む。そうした大きな言葉(声)による公的な大状況だけでなく、むしろ私的な小状況からの小さい声なんかもできるだけとり上げてすくいとってくれるようなことがあるとよい。小さい声も十分に尊重されればよいという気がする。理想にすぎないのはあるが。

読みまちがえと固有の世界(信念のもち方)

 云々はうんぬんと読むけど、これをでんでんと読む。自由民主党安倍晋三首相は、云々をうんぬんとは言わずにでんでんと言ってしまったことがあった。これは客観的にいうと読みまちがいにほかならない。人間は誰しもたまにはまちがってしまうことがあるし、何ごとも完全かつ正確に理解しているわけではないから、ついあやまってしまうこともある。致命的なまちがいでなければそこまでとがめられることはいらないだろう。

 客観的にいえば、正しくはうんぬんと読むわけだけど、もしまちがってでんでんと読んでいれば、それを指摘されるまでは気がつきづらい。それをうら返せば、指摘されるまではでんでんと読むことが正しいといった内的な認識がもちつづけられる。そして、それはそれとして、でんでんと読むことが正しいとする独自の体系みたいなものが形づくられる。やや大げさではあるだろうが、このようにも言うことができるようだ。

 安倍首相の過去に言いまちがったことを例としてとり上げたのは、もしかすると悪意からあげつらっているのではないかと疑られるかもしれない。支持者の人は気分を害するかもしれないが、その点はできれば大目に見てもらえればさいわいだ。そのうえで、言いまちがいというのをあらためて見てみると、そこで何がおきているのかなというのがちょっとだけ気になった。

 云々をでんでんと読むのが正しいと見なしていたとすると、云々をでんでんとして主体が意味づけしているともいえる。意味づけというよりは響きづけといったほうがよいかもしれない。この意味づけ(響きづけ)は、客観的にいえばまちがいなわけだ。それを他から指摘されて、自分でまちがいに気がついて、それを受け入れて修正する過程をふむことがいる。そのさい、他から指摘されて、自分でまちがいの可能性に気がつきはしたが、しかし受け入れないで修正もしない、というありかたもありえる。あくまでも自分のありかたのほうが正しいとして、その姿勢を固持する。補正されず、補強されるわけだ。

 云々をでんでんと読むくらいのことは、さして重要なことではないから、それをまちがっていたとして受け入れて修正するのはとくにむずかしいことではない。しかし、自分の思想信条にかかわるようなことであれば、ことはそう簡単には進みづらい。思想信条についてはどうしてもゆずりがたいところがある。なので、反証(反論)を受け入れることをせず、それから逃れようとすることが少なくない。

 かりに、云々をでんでんと読むようなまちがいが、思想においておきているとしても、客観的には正しいうんぬんの読みをすぐさま受け入れて修正するとはならなそうだ。よほど素直な人でないかぎりは、少なからず抵抗を示しそうである。でんでんの読みが正しい、という意識があって、その意識が崩れるのを嫌う。なぜ嫌うのかというと、その意識というのが主体から出発しているからである。揺るぎない主体というのがあり、そこから発している見なしかたであるため、それを揺るがすのは非合理であると判断される。そうはいっても、主体が抱いている理がもともとおかしいものであれば、そこから導かれる非合理であるとする判断もまちがってしまうことになるのはたしかである。

捨て石になることに失敗する

 自分が捨て石になってでも、議論が巻きおこればよい。こうした姿勢は、もしそれが本当にできるのであれば見上げたものだとは思うんだけど、じっさいにはむずかしそうだ。この姿勢のとおりにできれば、建設的な議論が活発化する。しかしうまくゆかなければたんなる口げんかになるだけだろう。悪くなれば、見下げはてたありさまにもなりかねない。

 自分が捨て石になってでもという手法は、自分が汚名をかぶるということにほかならない。汚名をかぶったとして、それを引き受けて耐えてゆくのにはかなりの器の大きさがいりそうだ。自分がもっている人としての器の容量をもし正しくとらえ損なってしまっていると、見こみちがいがおきる。(大きな器という)必要条件を満たせていないため、とうてい耐え切れるものではない不愉快な状況に置かれてしまうことになる。

 不当に自分が非難されるなどして、汚名をかぶってしまったとしよう。そこでその汚名を返上しようとしたり、名誉を挽回しようとするのは、とくに不自然なことではない。不快であるためだ。しかしそれをやってしまうと、自分が捨て石になったことにはならなくなる。だから、自分が捨て石になってでもという手法は、失敗してしまう。この失敗はなぜおきるのかというと、二重拘束(ダブル・バインド)に置かれてしまうせいがありそうだ。もともと無理な手法を使っていたわけである。

 人間というのは社会の関係において、その網の目の中にある。そのなかで、関係的な欲望をもつ。なので、何らかの汚名を受けてしまうと、欲望に火がついてしまう。この火を自分で消そうとするのはかなり困難なことである。いったん火が大きくなれば、それを小さくしようとしても焼け石に水となってしまう。進んで火の中に飛びこんでゆくようなまねは、できればやめたほうがよさそうだ。気がついたら、自分ではなく、他人を捨て石にさせようと仕向けることにもなりかねない。なるべく欲望は適度なところにとどめて、大きくならないようにして、それを抑えつつであったほうがのぞましい。易しいことではないかもしれないけど。

 議論を巻きおこすつもりが、ののしり合いに横すべりしてしまう。こうなってしまうとやっかいだ。嫌がらせの精神みたいなのが発動してくることになる。これを少しでも防ぐためには、できるだけ説明の経済性(省略性)をとらないようにしたほうがよい。たとえ不経済ではあっても、他者の目線みたいなのをとり入れて、まわり道を経たほうがよさそうだ。これがないと、対他的な甘えにおちいりやすくなる。そうしたことは指摘できるだろう。

辛さがききすぎることへの心配はぬぐいきれない

 ピリ辛党であることを宣言する。先行きが見えづらい今の世の中にあっては、甘口ではとうていこの国を守れはしない。具体的には、テロがおきてしまう前に、ピリ辛としてとりしまってしまう。そこは甘く見のがさない。こうした内容を記したパンフレットが、先ごろ与党である自由民主党によって配られたそうなのである。正直いって、なんとも直接なことを言うものだなあという気がした。

 このピリ辛党の宣言は、カレーライスにかけられたものである。パンフレットが配られた会場では自民党にゆかりのあるカレーライスが無料で配られたそうだ。このカレーライスについてはちょっと試しに口にしてみたいところである。どうしてもというわけではないけど。

 カレーライスは置いておくとして、若干の驚きを禁じえないのは、テロをあらかじめとりしまってしまうという、ピリ辛党の宣言の内容だ。これはちょっといかがなものだろう。そこには、鎮圧や弾圧をしようとするもくろみが見てとれはしないか。そのように言ってしまうと、言い過ぎになるかもしれないが、しかし必ずしも的はずれではないだろう。ピリ辛が激辛にならない保証はない。

 少しでもテロがおきないようにするのだから、国民にとってもよいことだろう。これは、父権主義的(パターナリスティック)な発想である。あまりのぞましいものではない。そのうえ、一見すると国民のためを思ってということだが、じっさいにはそうではなく、国家にとって都合のよいものになってしまっている。なぜなら、国民を信用するのではなく、ほぼすべての国民をテロを実行するおそれのある者として疑うことになるからだ。

 テロというのは、それが国内でおきることをゼロにすることは原理的にできないものだろう。ある程度おきてしまうのはしかたがない。しかたがないと言ってしまうとちょっと不適当だが、これは国際社会の複雑化の流れを受けているものだから、それを完ぺきにせき止めることはできそうにない。頼もしいことを言うのはよいけど、それで国際社会からの影響が無効化されるわけではないのもたしかである。この時代はそういう時代であるとして、ある程度確率的にあきらめるしかない部分もありそうだ。なるべく物騒なことがおきないほうがのぞましいわけだけど。

 テロについての対策うんぬんもよいのだけど、それをするのであれば、予防主義的な見地に立ったほうがよい。そのように言うことができるのではないか。悪いものを未然にとりしまるというのではなく、老若男女のみんなが生きてゆきやすいようにする。とりわけ社会のなかの弱者にたくさんの手が差し伸べられるようになればよい。生きかたの幅を不当にせばめられている人に、(経済面をふくめて)もっとそれを広げられるようにする。

 みんなが少しでも生きてゆきやすくするための手助けという点でいえば、どうもそれがピリ辛党(もっといえば激辛かも)になってしまっているような気がしてならない。渋ちんというふうである。そうではなく、もっとふところを広く開いて、甘口であったほうがよいのではないだろうか。アメがなくてムチだけ振るわれてもちょっとかなわない。そこはできれば勘弁してほしいところである。そんなことで、もしかりにピリ辛党であるのを宣言するにしても、方向を国民へ向けるだけではなく、たまには自分にも向けたらよいのではないか。あまり他人のことは言えないわけだけど。

独裁主義や全体主義では、差別を手法として用いたのだろう

 ナチズムには差別が内に含まれているので、表現の自由には値しない。そうであるのなら、共産主義にもそれが言えるのではないか。こうした指摘があったんだけど、そもそも、差別が内に含まれているから表現の自由には値しない、とはいえないのではないかという気がした。表現の自由に値しないかどうかは、公共の福祉に反するかどうかによるとされる。なので、差別が内に含まれているかどうかはまた別な問題なのではないか。

 表現してはいけないというわけではなくて、公共の福祉に反しない形であればそれは可能だろう。なので、そのような形になるように工夫して語ればよいのではないか。たとえば憎悪表現みたいなふうになってしまうと支障があるが、そうではないようなものであれば、まちがいの経験から教訓を得ることもできる。

 差別だからだめだったというよりは、独裁主義とか全体主義だったからだめだったということもできる。そこがごっちゃになるのはどうなのだろう。少なくとも、差別というのに集約はできなさそうだ。差別から悲劇がおきたということもできるだろうけど、それと同時に、一国のなかで全体化がなされてしまったために、ただ一つの教義(ドグマ)だけしか許されないようなふうになったのだろう。

 共産主義といっても、キューバなんかは必ずしも失敗したとは言えないのではないか。医療なんかが充実していて、アメリカから病を抱えた人が訪ねてくるくらいだというのもあるそうだ。医療などの福祉に力が入れられていて、みんなの生活が保障されている。そこには、完ぺきなものではないにせよ、友愛と平等がなしとげられていた面がありそうだ(少なくとも資本主義よりは)。

 共産主義ばかりではなく、資本主義においてもまた、差別による悲劇はおきているのではないかという気がする。それは現在進行形の形としてありそうだ。経済格差で貧しい側に立たされてしまうのには、本人がそう望むのでないかぎり、とくに正当な理由がない(いろいろな理由づけはできるにしても)。労働のなかで不当に搾取されてしまうこともある。くわえて、健康で文化的な生活を送るのに欠かせない基本的必要さえままならないような人も少なくはなさそうだ。こうした問題が放置されたままになってしまっているのが現状なのではないか。

 差別というのは、どのような社会であっても、その根底に存在しているものと見なせる。なので、それをできるだけなくしてゆくこともいるだろうし、満面開花させないように気をつけてゆくこともいりそうだ。共産主義は、歴史においてそれを満面開花させてしまったことがあるかもしれないが、資本主義もまたけっして人ごとではないだろう。

 いま資本主義がまがりなりにも成り立っているのは、社会主義による社会化がなされて、純粋な資本主義という形をとってはいないことにもよっている。社会化された資本主義となっている。これは社会主義の残した正の功績であると言ってもさしつかえないだろう。たんなる市場主義だけであれば、経済格差がとんでもないことになり、早々に立ちゆかなくなることは間違いなさそうだ。

 歴史的に悲劇をうんでしまったようなまちがった過去のできごとでも、それを語り継いでゆくことの意義というのはありえる。自由主義史観みたいにして、それを都合によって修正してはまずいことになりかねない。個人的なことであればまた別かもしれないが、集団のことであれば、過去のまちがいについてたえずくり返し反省する態度をとることにも意味はありそうだ。これは、差別に当たるかどうかとはまた別なことがらといえるだろう。

優先度として、どちらが上でどちらが下なのだろう

 自衛隊は、あきらかに軍隊である。そうした自衛隊のありかたがよくないからといって、それなくしてやって行けるとは、大かたの人が思いはしないだろう。自衛隊がなくてもやって行けるというのは、ちょっと現実味に欠けてくる。なので、自衛隊のありかたを認めながらも、憲法(の 9条)を守ろうというのは、おかしな態度である。筋が通っているとは言いがたい。

 この意見には、一理(以上)あるとは思うんだけど、でも腑に落ちないところがあるなという気がした。それというのも、なんで自衛隊憲法のうちで、自衛隊のほうを優先させてしまうのか、という点である。そうではなくて、憲法のほうを優先させるのでもよいではないか。そのように感じるのである。

 自衛隊すなわち軍隊であり、軍隊すなわち憲法違反である。憲法違反には、憲法を修正することで対応できる。たぶん、このようなとらえかたになっているのだろう。こうしたとらえ方もありだとは思うけど、この一つだけが正解であり、これしか見かたとして許されないというわけでもないのではないか。ほかの見かたもとることができそうである。そこは多論理(パラロジー)みたいなのがとれそうだ。

 憲法では、戦争の放棄や戦力の不保持をうたっているわけだけど、専守防衛までは否定していない、とする解釈もなりたつ。そのように言われているから、専守防衛の部隊として自衛隊を位置づけることができる。こうすれば、合憲のなかに自衛隊を置くことができる。

 いや、そんなこと言ったって、自衛隊はすでに軍隊ではないのか。その現実に目をつむるというのか、との批判もありえる。この批判にたいしては、もしかりにそうであるとしても、そこから一義的に憲法を修正するという流れは導かれづらいのではないか。手だての一つとして、自衛隊を軍隊でないようなありかたに変える、というのもありだろう。

 自衛隊の現にあるありかたを認めるために、憲法を修正するべきだ、というのは、一理(以上)あるわけだ。しかしそこには、ともすると憲法よりも(現にある形での)自衛隊をとってしまうという、とりちがえがおきていはしないか。憲法というのは、国の形を大づかみに定めたものでもあるのだから、そこに自衛隊が従属すると見たほうが、しっくりくるような気がする。これが逆に、自衛隊憲法が従属するとなると、ちょっと話がおかしいような気がしないでもない。

 けっして中立的な意見ではないことはたしかで、護憲派の立場に立っているのはあるのだけど、憲法が硬性化されているという点は、小さくはない要素だといえそうだ。硬性化されているということは、変えづらいわけである。とはいえ、どんなことがあっても変えてはならないだとか、どうがんばっても変えることができない、というわけではない。そのうえで、憲法自衛隊のあり方とを比べると、どちらが変えづらいのかといえば、憲法のほうがより変えづらい、という見かたもなりたつ。変えづらいものを無理に変えるというのも、どうなんだろうという気がする。半世紀以上も変わらずにこれまできたのもある。もっとも、それをうら返せば、今がちょうど変える潮目だ、という見かたもとれるのだろうけど。

 ここは見かたが分かれてしまうところではあると思うのだけど、追加的な利害という観点をふまえることができる。この観点をふまえてみると、自衛隊を軍隊であるとして、憲法を修正するのには、追加的にかかる労力や費用がかなりあるのではないか。そうした労力や費用を大幅に上まわる利益があるのかといえば、一部の人にはとりわけあるかもしれないが、全体にとっては定かとは言いがたい。それにくわえて、かりに全体にとってたしかな利益があるとしても、それだけで終わる話ではなく、新たに加わってしまう害もおきてくる。この害をあたかも存在しないものとして見なしてしまうのは、賛同できないところである。

 新たに加わる害なんていっても、そんな抽象的な論を振りかざすのは机上の空論にすぎない、なんていう批判もあるかもしれない。具体的に何が害として新たに加わるのかをはっきりさせよ。このように言われると、いささか耳が痛いところである。そのうえで、たとえば、害として挙げられるものには、これまでの積み上げの破壊というのがあるだろう。戦後にこれまで大切に積み上げられてきたものを、そうたやすくぶち壊してしまってよいものなのだろうか。これは慣習や伝統といったものでもある。こうした戦後の慣習や伝統をすべてまちがっていると見なすこともできなくはないだろうが、そうした見かたが(極端にいえば)すなわち乱暴なぶち壊しにつながる。そのような動きへのおそれをつい抱いてしまう。つくるよりも壊すことのほうが簡単だ。

 いたずらな破壊はどうしても避けてほしいところである。すくなくとも、そう見なされるようなおそれのある要素を、できるかぎり払しょくしたうえでないと、疑いをもたれてしまってもしかたがないのではないか。これは二重拘束(ダブル・バインド)の状況にも通じてくる。けっして悪いようにはしないから、と言われたとしても、悪いようにする魂胆が透け透けであれば、そのどちらの信号(シグナル)を本当のものとして受けとるべきか迷ってしまう。認知に不協和がおきる。

 すべての破壊がだめだというのではない。両義的であるにせよ、破壊的な性格の者がすべからく悪であるとはいえないものだろう。そのうえで、破壊するのをめざすのであれば、それが乱暴や横暴なものではないことを身をもって証明することがいる。この自己証明の努めを怠っているような気がしてならない。たんに信用しろだとか、または力づくであるとか、数にものを言わせるというのでは、途中の段取りがすっとばされていて、あまりにも性急に映ってしまう。

対話における生起確率と不確実性(既知と未知)

 対話によって友好を築く。そうしたことをよしとするのであれば、じっさいに現地へおもむいて、こじれてしまった自他の関係を直してくるべきである。対話することで関係の悪化を解決してくるわけである。これができないようであれば、言っていることに説得力がないではないか。

 対話というのは、お互いに文脈を同じくするもの同士であればやりやすいが、それを異にするもの同士ではむずかしい。言葉もちがえば文化もちがう。そこには通約不可能性がある。まずはそれがあることに耐えないとならない。耐えられずに簡単に放棄してしまうようだと、なかなか話し合うということもできづらそうである。

 ひとつこれは言えるのではないかという点は、対話で友好を築くのをよしとするのは、そういった価値の意識の表明であることがいえる。この表明というのは、表現の自由として見なすことができるものであり、とくに公共の福祉に反するものであるとはいえそうにない。なので、そこはとくに問題があるわけではなさそうだ。

 対話に価値をおく意識を表明するのは、それ自体ではとくに悪いことでもないし、許されてしかるべきである。全面的に受け入れられるかはともかくとしても。そこからつなげて、じっさいに対話の力によって、こじれた関係を解決してくることがいるのだろうか。かりにもしそれをやってくるにせよ、それはあくまでも自発的なものであるのがよいのではないか。そうではなく、他発的なものであれば、他から動かされてしまっていることにほかならない。これはあまりのぞましいありかたではないだろう。

 他発的であるというのは、他の誰かから、それをやれというふうに命じられて、強いられてやることである。そういうありかたはできれば避けたいところである。そうはいっても、世の中におけるものごとが、何でもかんでも自分の意思から発して行われるものではないから、命じられたり強いられたとしても、しかたがないところもあるかもしれない。

 そうした他発的な部分については、気づかぬうちの、権力による自発的服従なんかがからんでくるところだろう。そうした部分をいきなりゼロにすることはできないわけだが、できるかぎり自発的(スポンティニアス)なふうにものごとが行なわれてゆくようにできたらのぞましい。対話というのは、そうしたことの延長線上にあるものとしてとらえることもできる。誰かから言われて、しぶしぶやらせられるのではなく、あくまでも自分がやりたいからやるといったようなあんばいだ。

 現実ではなくてまるで夢みたいな、すごく都合のよい言い訳を言ってしまっているかもしれない。そのうえで、あまり確固とした目的を持ってというよりは、もうちょっとファジーというか、試みみたいなふうにしてやるのもありだろう。使命みたいなのを背負ってしまうと、腰が重くなってしまうから、それは避けたいところだ。企てを持ちはしても、それをあまり強調せずに、柔軟性をもてればさいわいだ。

 苦しみをもたらすものよりも、楽しみをもたらすようなふうにできたらよい。思想家のシャルル・フーリエは、社会主義をふまえるさいに、楽しい労働というありかたを説いたそうである。ここでいわれる楽しさとは、何かと何かを引きつけるような引力をさす。引きつけるはたらきだ。こうした引力がはたらくことで、身体感情が充実してくる。恋愛において、お互いがうまく溶け合うような、そういったありさまにも通ずる。こうした楽しさがあれば、対話もうまくゆくのではないか。

 じっさいの社会のなかでは、楽しい労働であるよりは、むしろ労苦であるほうがふさわしいことが多そうだ。なぜ労苦になってしまうのかといえば、それは一つには、生産があまりにも中心になりすぎているからだといえる。物を作るということの一元論に傾きすぎている。したがって、そのありかたを多少なりとも改めてゆくことがいる。そのさい、実体であるよりも関係を重んじてゆくこともできるだろう。関係を重んじることによって、自他のありかたが揺らいで傾いてゆく。主体どうしがおたがいにぶつかり合うのではなく、場所的な関わり合いができるようになるのではないか。うまくゆけばの話ではあるが。

 フーリエは、コンポートというのをとても愛好したようである。これは果物の砂糖煮のことであるという。むかしは砂糖が貴重品だったから、ふんだんにありふれていたわけではなく、今と比べると日常的に口にするわけにはゆかなかったのだろう。それにくわえて、果物と砂糖という 2つのものの組み合わせで、単体のときよりもよりよいものができあがるのもある。

 果物だけでも、また砂糖だけでも、それ単体としてのよさはあるわけだけど、2つが 1つになることで、そこには相互作用がはたらくことがのぞめる。これが分裂してしまうようだとよいほうには転がりそうにない。なので、分裂させてしまうのではなく、コンポート的にうまく 2つをかけ合わせることができればよいのだろう。そうそううまくゆくことではないかもしれないが。

 このコンポート的なありかたは、音楽でいうと、単音ではなくて、和音によるようなものだろう。あまり音楽にくわしくないので、的はずれになってしまうかもしれないが、和音というのは、ちがったものどうしが重なり合うことによる響きであるとされる。これは、正と反がおきることで合にいたるという、弁証法の流れにも近いかもしれない。そこでは、1つではなく 2つ(以上)であることと、それが異なるもの同士でありながら分裂していないというのが味噌なのだろう。うまく位相が合うといったらよいだろうか、そのようになる可能性はゼロではなさそうだ。

沈黙と服従

 自衛隊の隊員の人たちは、いざというさいに自分の命を捧げてまでも国を守る。そうであるのだから、自衛隊の存在をあいまいなままに放っておかずに、きちんとした位置づけのもとに置くべきである。そうしないと、やりきれないではないか。

 この意見において、まず、前提についてどうしても全面的には賛同ができづらいと感じてしまう。というのも、そもそもが、自衛隊の隊員の人が、できうるかぎり命を捧げずにすむような環境を、全力をかけてつくり上げるべきだという気がするからだ。まずそれがいちばん最初にきたほうがよいのではないか。

 自衛隊の隊員の人が、国のために命を捧げるという前提には、可能なかぎり立ちたくはないのである。いや、そうはいっても、そうした使命を負っているからこそ、隊員として活動しているではないか、との指摘もなりたつ。しかし、必ずしもそうとは言えないのではないか。隊員の人たちに、使命を一方的に押しつけてしまうことになりかねない。

 国を守るという使命をいっさい負ってはいないというふうにしてしまうと、それはそれで行きすぎなのかもしれない。とはいえ、では国を守る使命というのをどこまでも拡大できてしまうとなると、それは避けたほうがのぞましい。拡大していってしまうと、切りがないからである。

 あくまでも浅はかな想像の域を出ないかもしれないが、自衛隊の隊員の人たちは、多数いるわけだから、その人たちがみんな同じ考えかたをもっているとはいえそうにない。色々な考え方の人がいるはずだ。であるから、その色々な考えのありかたを尊重すべきである。これは憲法でも保障されていることではないだろうか。

 そういったなかで、たとえば中には、できるかぎり自分の命を犠牲にはしたくはないという人がいたとすれば、その人の考えを全体の基準にすることはありだという気がする。なにも、自分の命を犠牲にすることをまったくいとわないという人の考えを全体の基準にすることはない。

 アメリカと日本は安全保障で同盟を結んでいるわけだけど、アメリカは日本をいざというときには守るのに、日本は守らなくてもよいのか、との指摘もなされている。しかしその指摘の前に、アメリカはアメリカで、なるべく自国の兵士の人を犠牲にしないですむように、工夫をこらして立ちまわるべきである。そして日本は日本で、自分の国の隊員の人をできるかぎり犠牲にしないですむように、工夫をして立ちまわるべきである。こうすればよいのではないか。

 どうしても欺まんをまぬがれないとは思うのだけど、いくら自衛隊の隊員の人が、国を守る使命を負っているとはいえ、できるだけ国内における警察権の域を出ないようにしたほうが、失われる命が少なくなることが見こめる。殉職というのもできるだけゼロであるほうがよいわけだけど、それを越えてまで、何か政治的崇高によるロマン的なものを背負わされては、かなわないところがある。そういう崇高やロマン的なものがよいとするのなら、意思決定をになう政治家の人が、自分で直接に危険地帯にゆくべきだという気がする。それであれば自主的であり、他から動かされてはいないから、他が強いて止めるには当たらないかもしれない。

五輪の開催に合わせるのは、時機としては適していないのではないか

 2020年の東京五輪において、憲法の改正もそれに合わせてめざしてゆく。安倍晋三首相はそのように述べているのだという。2020年を、新しい憲法が施行される年にしたいそうだ。これについては、正直いって反対の気持ちである。

 なぜ、国際的なスポーツの催しである東京五輪に合わせて、憲法の改正をおこなおうとするのだろうか。そこが腑に落ちない点である。安倍首相のねらいというのは、なんとなく透けて見えてきてしまうところがあるのもたしかである。といっても、浅い見かたをしてしまっているかもしれないから、間違った勘ぐりであるかもしれないのだけど。

 2020年の東京五輪では、ほぼまちがいなく国民の気持ちは高揚する。気持ちが高揚しているというのは、冷静な判断をするような状況にはないことをしめす。いわば、気持ちが浮かれてしまっているのである。そういうところをねらって憲法の改正をはかろうとしているのではないか。五輪のもっている勢いを借りるようなかたちで、憲法の改正もやってのけようとするようなあんばいだ。

 五輪のもっている勢いを借りるようにしてやるのには、賛同できそうにない。逆にもっとしめやかな状況のなかでやるのがふさわしい。というのも、先の大戦において、内外でもたらしてしまった深刻な被害をふまえて、その負の経験が憲法には色濃く反映されているからだ。教訓が盛りこまれ、(一文字一文字に)血と汗と涙が刻みこまれている。決してあってはならないことだが、多くの無実の血が流されてしまった。同じあやまちを再びくり返すことがないように、これからの世代にたくしたその誓いと願いというのは、決して軽いものとはいえそうにない。そこからは、廃墟の大いなる痛ましさを読みとることができる。

 五輪は五輪として、商業的な催しでもあるから、そこで盛り上がるのはけっこうなことであり、とくに問題はない。しかし、それと憲法の改正をからめてしまうことにはどうしても納得できないし、できれば避けてほしいという気持ちがしてくる。それぞれを切り分けてやれるほど器用にできるとは言いがたく、いっしょくたの気分でやってしまいそうなありさまがつい頭に思い浮かぶ。

 五輪というのは、スポーツの競技をするわけだけど、それは国どうしの戦であるといったところもなくはない。なので、そうした催しと、憲法の改正をからめてしまうのは、ちょっと軽率な気がしてこないでもない。そこは、もうちょっと神経を使ってもよいところなのではないか。もっとも、これはいささか難癖をつけているように受けとられてしまうかもしれない。たんなる連想にすぎないともいえそうだけど、先の大戦では、必ずしも必要でなかった国どうしの戦によって、内外に多大なる被害をもたらしてしまったことは、(しつこいようだが)やはりどうしても意識しておきたいと個人的には感じている。

 先において、一文字一文字に血と汗と涙が刻まれているというふうに言ってしまったが、これだと、一文字も変えたり動かしてはならないみたいに受けとられてしまうかもしれない。そういうふうに受けとられるとすれば、それは自分の本心ではないことはたしかである。ただ、こめられた(歴史の流れによる)意味として、軽いものではないとしてみたかったのである。

 どうしても歴史のできごとというのは時間がたつことで風化してしまう面はいなめない。それはしかたがないところもあるが、その流れにのるようにして忘れ去ってしまってよいものではないだろう。忘却とは、より深い記憶のことでなければならない、と作家の安部公房氏は言っている。記憶というのは確固としたものとはいえないから、どうしても揺らいでしまうような面があるが、そのうえで、過去への追憶と哀悼ということがあったほうがのぞましい。

 すでに追憶や哀悼は十分にやってきているではないか、との指摘もあるいはありえるかもしれない。たしかに、まったくやってきていないわけではないだろうが、それはきわめて不十分なものであるのではないだろうか。ごく表面的なものにとどまってしまっているということである。他人にばかりとやかく言って、自分はきちんとできているのかといえば、これもまた不十分であるのは否定できない。であるから、過去への追憶や哀悼というのはできるかぎり重点をおいてやってゆくのがのぞましい。未来を見すえるのは、それが十分になされてからでも遅くはないし、そのほうがよりよい形になりそうだ。

 今の時代の状況から見て、そぐわないようなしろものになってしまったから、それを変えないとならない。そういう見かたはありえるわけだけど、その見かたとはまた別に、われわれの側の理解のありかたが関わってもくる。時代とのずれがあるというのは、それをうら返せば、今の時代の状況への(よい意味での)批判があらわれているとも見なせる。その批判を軽んじて無視するのではなく、(たとえ耳に痛くても)しかるべく受け止めたほうがのぞましいのではないか。

 地と図でいえば、今の時代を図に当てはめられる。そうすると、古くなってしまったものは地に当たるわけだ。しかしこれを逆にすることもできるのである。今の時代を地にすることもできる。これは見るさいの焦点の当てかたのちがいによっておきることだ。したがって、現在の地点を一義的に重んじることはできづらい。そこに視点を固定化することは必ずしもできそうにない。相対化できるわけである。

 チャールズ・ダーウィンの進化論みたいにして、現在の地点にいるわれわれが、これまでのものと比べてもっとも優れているとはならないだろう。いわば進化の頂点にいるかのように、われわれ自身を当てはめてしまってはちょっとまずい。そういったわけで、たとえ古くなったしろものであったとしても、現在の状況とのずれにおいて、必ずしも現在の状況のほうを正しいものとすることはできそうにない。そこは、少なくとも検討の余地があるのではないか。現在の状況のほうこそがまちがっているかもしれないからである。

 過去と比べて、進化したり発展したところもあるだろうし、また逆に退化して愚かになったところもあるかもしれない。なので、総合して見るとどうだかわからないところがある。そういうところからすると、現在の状況を優位において、過去のしろものを劣位(下位)におくのには、疑問の余地が残る。そこは対等にすることもできるのではないだろうか。過去のしろものからの、現在への批判的なまなざしというのは、見すごしがたいものがあるような気がする。

不倫の字の成り立ち

 不倫は、浮気することでもある。それで、不倫というのはしばしば報道によってとり上げられて、世間をにぎわすものであるけど、この語の不と倫の字について着目することもできそうだ。なんでも、倫というのは人々のまとまりをあらわすらしい。そこからすると、倫が不になるわけだから、人々のまとまりである関係性が壊れたり崩れたりするようなことをさすといえそうだ。

 家族とか夫婦というのは、そんなに大きな関係性ではなくて、基本としては小さい人と人とのつながりだろう。その形態が壊れてしまうことは、あまり喜ばしいことだとはいえそうにない。しかし、永遠に何の変わりもなく続いてゆく関係性というのはありえないものだともできる。形あるものはすべて損なわれていってしまうものだし、乱雑さ(エントロピー)がおきてしまうのを避けられそうにはない。これは自然の無常のなり行きだ。

 あらためてみると、もしかりに即物的に見ることができるとすれば、不倫というのは一つの現象であると見なすことができる。それは決してよいものであるとはいえないだろうけど、まだ不倫という言葉が当てはめられる前の段階と言ったらよいだろうか。そこに、不倫という言葉が当てはめられると、相当に悪いことであるというような印象がなりたつ。

 こういったような印象をもたらすことをふまえると、不倫という漢字のもつ力はすごいなあという気がする。もともとは、ばらして見れば、倫と不という 2つの字から成り立っているものだけど、これが組み合わさることによって、否定の意味あいが強くあらわれてくる。これは、道というのを連想させるところからくるものかもしれない。

 何か一つのあるべき道というのがあって、その道から逸れてしまうことを、あってはならないことだというふうに見なす。こういう見かたがあって、不倫というのは道から逸れてしまうようなありかただというわけである。道から逸れてしまうことはあまりよいことだとはいえないかもしれない。そのうえで、そもそもの道である制度が、その設計自体が今の時代に合わなくなってしまっていたり、無理を強いてしまっていたりするかもしれないから、道のありかた自体を見直すこともいるような気がする。